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呼吸法より深いため息
しおりを挟む午後1時。産婦人科の一室にて。
壁には「母親教室へようこそ♡」と書かれた手書きポスター。かわいいイラストで油断させといて、ここが**戦場**だということを俺はまだ知らなかった。
「えーそれでは本日、妊娠後期の母親教室を始めます。出産に向けての呼吸法と、夫婦でのパートナーワークを中心に行います♪」
助産師さんの声が妙に明るいのが逆に怖い。俺(美奈)は、お腹の大きさを気にしながらクッションに座った。
隣では美奈(健一)が、「なんで私が旦那役なの当たり前だけど気まずっ!」って顔で縮こまってる。
周りを見れば、明らかに“ママモード”な妊婦さんたちと、“ビビり気味 or ドヤ顔”のパパたち。
俺たちだけ、中身が逆なんだよ……地味にめちゃくちゃやりづらいんだよ……!
***
「ではまず、妊婦さんたちはあぐらをかいて、背筋を伸ばして、リラックスしてくださ~い」
(いや無理、背筋伸ばしたら腹圧で別の世界行きそう)
「ゆっくり鼻から息を吸って、口からふぅ~っと吐きましょう」
(ふぅ~……じゃない!酸素足りん!誰かボンベ持ってこい!!)
助産師さん:「パートナーの方は、奥さまの背中をさすってあげてくださいね~」
美奈(健一)はぎこちなく俺の背中をポンポン。
「もっと優しくして!俺、いや私、繊細なんだよ今!」
「ごめんごめん!力加減わからんのよ!お腹の圧が気になってこっちも変な汗出てきたわ!」
後ろのカップルがほほ笑ましく見つめ合ってるのに対して、うちだけ完全に**アクションシーン**。
***
続いて始まったのが、**出産の呼吸法と声かけ練習**。
助産師さん:「パパの声かけ、すごく大事です。たとえば“一緒にがんばろうね”とか、“もう少しだよ”とか、励ましの言葉をかけてあげましょう」
「よし、じゃあ健一さんやってみて♪」と、指名される奈美。
え?俺?美奈の中身が俺なんだが??
周囲の視線が刺さる。いけない、ここで戸惑うわけにはいかない。俺は女。俺は妊婦。俺は田中美奈!!(※元男)
「い、いっしょにがんばろうね……っ……ふぅっ……!」
「……あの、吐くのはこっち(妊婦)です」
「あっ、そっか!」
隣で美奈が小声で「なに逆に呼吸してんのよ!」とツッコんでくる。
そのあと、演技で“陣痛が来た妊婦”をやる流れになった時なんて、俺、もう完全にアカデミー賞を狙いに行った。
「う、うぅ……い、痛い……健一ぃぃぃ……!助けてぇぇぇ!!(健一)」
「お、おぉ!?お、落ち着いて!大丈夫、大丈夫俺が……いや、君が俺で、俺が君だから、ああもうわけわからん!!」
他の夫婦がほっこりした雰囲気の中、俺たちだけサスペンス映画。
***
教室が終わったあと、助産師さんがにこやかに近づいてきた。
「田中さんご夫妻、仲良しですね~。なんだか、心が通じ合ってるって感じがします♡」
「は、はぁ……(ある意味でな……)」
「初産って不安だと思いますけど、旦那さんがすごく優しくて頼もしいですね♪」
「……ふふふ……(この人、さっきまで“足の毛が気持ち悪い”とか言ってたんですけどね)」
***
病院を出た帰り道、二人で缶コーヒー片手に歩きながら、美奈がポツリと言った。
「……健一、今日ちょっと、すごかったわよ。あの演技」
「だろ?なんか腹から声出てたもん。ちょっと出産できる気してきたもん」
「もうやだ、そのセリフだけで混乱すんのよ!……でも、ありがとね」
その“ありがとう”は、ちょっと照れたようで、ちょっとあたたかかった。
こうして俺たち田中夫婦は、ますます迷走する「出産への道」を、なぜか**中身逆で**進んでいくのであった――。
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