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木村達也
しおりを挟む時間とは、誰にとっても等しく流れているようでいて、実のところは各人の後悔や選択の重さによって歪んでいるのではないか。木村達也は六十歳の定年退職の日、会社から支給された簡素な花束を抱えながら、そんなことを考えていた。
高度経済成長の残り香も、終身雇用という幻想も、すでに博物館の展示物のような存在になって久しい。それでも達也は、三十八年間、同じ会社で同じような資料を作り、同じような会議に出席し、同じような妥協を積み重ねてきた。悪くはない人生だった、と言えなくもない。だが「よくもなかった」という感覚が、退職証書を受け取った瞬間、はっきりと輪郭を持って胸に浮かび上がった。
家に帰っても、祝ってくれる家族はいない。妻とは十年前に別れ、娘とは必要最低限の連絡しか取っていない。静まり返ったリビングでテレビをつけると、ニュースキャスターが淡々と、ある法案の成立を伝えていた。
――時間遡行特別管理法、施行。
達也は思わず画面に近づいた。その法律は、近年実用化された「限定的タイムマシーン」の利用を合法化する代わりに、極めて奇妙な条件を課していた。過去の自分と接触する可能性がある者は、遺伝的・社会的連続性を断つため、法的に性別を変更しなければならない、というのだ。
理由は建前として理解できた。パラドックス回避、歴史改変の最小化、心理的同一性の分断。専門家の言葉はどれももっともらしかったが、世間の反応は賛否両論だった。「なぜ性転換なのか」という問いに、明確な答えはなかった。ただ、それが唯一、過去と現在を同時に存在させるための“安全装置”だとされていた。
達也は笑ってしまった。六十歳、無職、独り身。その上で性転換をしてまで過去に行きたい人間が、どれほどいるというのか。そう思ったはずなのに、胸の奥では別の感情が静かに蠢いていた。
もし、あのとき別の選択をしていたら。
もし、あの言葉を飲み込まなければ。
もし、誰かの手を離さなければ。
タイムマシーンの利用条件には年齢制限があった。上限は六十五歳。つまり、残された猶予は五年しかない。達也はテレビを消し、暗くなった画面に映る自分の顔を見つめた。白髪、深い皺、疲れ切った目。その顔の奥に、かつて二十代だった頃の自分の面影を、確かに見た気がした。
過去に会いに行くためには、現在の自分を壊さなければならない。名前も、性別も、社会的立場も変え、法的には「別人」になる。それは逃避なのか、それとも再出発なのか。
木村達也はその夜、人生で初めて、未来ではなく過去のために眠れなくなった。タイムマシーンは、時間を移動する装置ではないのかもしれない。それは、人が自分自身をどこまで変えられるのかを試す、冷酷な鏡なのだ。
そして彼はまだ知らなかった。その選択が、自分が思っていた以上に深く、存在そのものを書き換える旅になるということを。
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