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美咲になった達也
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田中美咲という名前に、まだ心が完全には追いついていなかった。戸籍も身分証も、法的には何一つ問題はない。それでも、胸の奥で長年使い続けてきた「木村達也」という名前が、時折、鈍い痛みのように自己主張をする。
タイムマシーンの扉が閉じ、再び開いたとき、鼻をつくような鉄と埃の匂いが美咲を包んだ。
昭和四十四年、東京。
舗装がまだらな道路を都電が軋みながら走り、背の低い建物の隙間から洗濯物が風に揺れている。空は今よりも低く、雑多で、どこか騒がしい。それなのに、不思議と懐かしさが胸を満たした。記憶にあるはずのない風景なのに、身体の奥が「知っている」と囁いている。
美咲は公園の前で足を止めた。小さなブランコと、錆びた滑り台。フェンスの向こうでは、子どもたちが砂埃を立てて走り回っている。その中に――いた。
小さな男の子。半ズボンに白いシャツ。転んで膝を擦りむいたのか、絆創膏が斜めに貼られている。三歳。間違いない。写真で何度も見た顔。記憶の底に沈んでいた、自分自身。
胸が締め付けられ、息が一瞬止まった。あれが、自分。まだ何も知らず、何も失っていない頃の自分。
美咲は無意識のうちに公園の中へ足を踏み入れていた。砂を踏む感触が、やけに生々しい。男の子はふと顔を上げ、美咲をじっと見つめた。好奇心と警戒心が半分ずつ混じった、子ども特有のまなざし。
数秒の沈黙のあと、男の子は首を傾げて言った。
「おねえちゃん、どこから来たの?」
その一言で、世界が静止したように感じられた。過去と現在が、確かに同じ場所で重なった瞬間だった。喉が震え、用意していたはずの言葉が消えかける。だが、美咲はゆっくりと膝を折り、男の子と同じ目線まで身を低くした。
「……すごく遠くから、来たの」
それは嘘ではなかった。距離では測れないほど、時間的にも、人生的にも、途方もなく遠い場所から。
男の子は目を丸くしたあと、すぐに笑った。
「ふーん。でんしゃ?」
「ううん。もっと、すごいやつ」
「ひこうき?」
「それより、もっと」
男の子はしばらく考え込み、やがてよく分からないまま「へえ!」と声を上げた。その無邪気さに、美咲の胸の奥がじんわりと熱くなる。もしこの子が、これから経験する失敗や後悔や孤独をすべて知ったら、同じように笑えるだろうか。
――守ってやりたい。
――教えてやりたい。
だが、それは許されない。彼は彼の時間を生きなければならない。美咲は、ただの通りすがりの「お姉ちゃん」でいるしかない。
男の子は砂を掴んで差し出してきた。
「これ、あげる」
「ありがとう」
その小さな手に触れそうになって、美咲は寸前で指を引っ込めた。触れてはいけない。触れた瞬間、何かが壊れてしまう気がした。
遠くから、母親の声が聞こえる。男の子は振り返り、「じゃあね!」と手を振った。
美咲も同じように手を振り返しながら、心の中でそっと言った。
――気をつけて生きて。
――君は、思っているよりずっと長い旅をする。
男の子の背中が人混みに紛れて見えなくなったとき、美咲は初めて涙を流した。それは後悔の涙ではなく、過去と再会できた者だけが流せる、静かな始まりの涙だった。
タイムマシーンの扉が閉じ、再び開いたとき、鼻をつくような鉄と埃の匂いが美咲を包んだ。
昭和四十四年、東京。
舗装がまだらな道路を都電が軋みながら走り、背の低い建物の隙間から洗濯物が風に揺れている。空は今よりも低く、雑多で、どこか騒がしい。それなのに、不思議と懐かしさが胸を満たした。記憶にあるはずのない風景なのに、身体の奥が「知っている」と囁いている。
美咲は公園の前で足を止めた。小さなブランコと、錆びた滑り台。フェンスの向こうでは、子どもたちが砂埃を立てて走り回っている。その中に――いた。
小さな男の子。半ズボンに白いシャツ。転んで膝を擦りむいたのか、絆創膏が斜めに貼られている。三歳。間違いない。写真で何度も見た顔。記憶の底に沈んでいた、自分自身。
胸が締め付けられ、息が一瞬止まった。あれが、自分。まだ何も知らず、何も失っていない頃の自分。
美咲は無意識のうちに公園の中へ足を踏み入れていた。砂を踏む感触が、やけに生々しい。男の子はふと顔を上げ、美咲をじっと見つめた。好奇心と警戒心が半分ずつ混じった、子ども特有のまなざし。
数秒の沈黙のあと、男の子は首を傾げて言った。
「おねえちゃん、どこから来たの?」
その一言で、世界が静止したように感じられた。過去と現在が、確かに同じ場所で重なった瞬間だった。喉が震え、用意していたはずの言葉が消えかける。だが、美咲はゆっくりと膝を折り、男の子と同じ目線まで身を低くした。
「……すごく遠くから、来たの」
それは嘘ではなかった。距離では測れないほど、時間的にも、人生的にも、途方もなく遠い場所から。
男の子は目を丸くしたあと、すぐに笑った。
「ふーん。でんしゃ?」
「ううん。もっと、すごいやつ」
「ひこうき?」
「それより、もっと」
男の子はしばらく考え込み、やがてよく分からないまま「へえ!」と声を上げた。その無邪気さに、美咲の胸の奥がじんわりと熱くなる。もしこの子が、これから経験する失敗や後悔や孤独をすべて知ったら、同じように笑えるだろうか。
――守ってやりたい。
――教えてやりたい。
だが、それは許されない。彼は彼の時間を生きなければならない。美咲は、ただの通りすがりの「お姉ちゃん」でいるしかない。
男の子は砂を掴んで差し出してきた。
「これ、あげる」
「ありがとう」
その小さな手に触れそうになって、美咲は寸前で指を引っ込めた。触れてはいけない。触れた瞬間、何かが壊れてしまう気がした。
遠くから、母親の声が聞こえる。男の子は振り返り、「じゃあね!」と手を振った。
美咲も同じように手を振り返しながら、心の中でそっと言った。
――気をつけて生きて。
――君は、思っているよりずっと長い旅をする。
男の子の背中が人混みに紛れて見えなくなったとき、美咲は初めて涙を流した。それは後悔の涙ではなく、過去と再会できた者だけが流せる、静かな始まりの涙だった。
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