性転換タイムトラベラー

廣瀬純七

文字の大きさ
2 / 35

美咲になった達也

しおりを挟む
 田中美咲という名前に、まだ心が完全には追いついていなかった。戸籍も身分証も、法的には何一つ問題はない。それでも、胸の奥で長年使い続けてきた「木村達也」という名前が、時折、鈍い痛みのように自己主張をする。
 タイムマシーンの扉が閉じ、再び開いたとき、鼻をつくような鉄と埃の匂いが美咲を包んだ。

 昭和四十四年、東京。

 舗装がまだらな道路を都電が軋みながら走り、背の低い建物の隙間から洗濯物が風に揺れている。空は今よりも低く、雑多で、どこか騒がしい。それなのに、不思議と懐かしさが胸を満たした。記憶にあるはずのない風景なのに、身体の奥が「知っている」と囁いている。

 美咲は公園の前で足を止めた。小さなブランコと、錆びた滑り台。フェンスの向こうでは、子どもたちが砂埃を立てて走り回っている。その中に――いた。

 小さな男の子。半ズボンに白いシャツ。転んで膝を擦りむいたのか、絆創膏が斜めに貼られている。三歳。間違いない。写真で何度も見た顔。記憶の底に沈んでいた、自分自身。

 胸が締め付けられ、息が一瞬止まった。あれが、自分。まだ何も知らず、何も失っていない頃の自分。

 美咲は無意識のうちに公園の中へ足を踏み入れていた。砂を踏む感触が、やけに生々しい。男の子はふと顔を上げ、美咲をじっと見つめた。好奇心と警戒心が半分ずつ混じった、子ども特有のまなざし。

 数秒の沈黙のあと、男の子は首を傾げて言った。

「おねえちゃん、どこから来たの?」

 その一言で、世界が静止したように感じられた。過去と現在が、確かに同じ場所で重なった瞬間だった。喉が震え、用意していたはずの言葉が消えかける。だが、美咲はゆっくりと膝を折り、男の子と同じ目線まで身を低くした。

「……すごく遠くから、来たの」

 それは嘘ではなかった。距離では測れないほど、時間的にも、人生的にも、途方もなく遠い場所から。

 男の子は目を丸くしたあと、すぐに笑った。

「ふーん。でんしゃ?」

「ううん。もっと、すごいやつ」

「ひこうき?」

「それより、もっと」

 男の子はしばらく考え込み、やがてよく分からないまま「へえ!」と声を上げた。その無邪気さに、美咲の胸の奥がじんわりと熱くなる。もしこの子が、これから経験する失敗や後悔や孤独をすべて知ったら、同じように笑えるだろうか。

 ――守ってやりたい。
 ――教えてやりたい。

 だが、それは許されない。彼は彼の時間を生きなければならない。美咲は、ただの通りすがりの「お姉ちゃん」でいるしかない。

 男の子は砂を掴んで差し出してきた。

「これ、あげる」

「ありがとう」

 その小さな手に触れそうになって、美咲は寸前で指を引っ込めた。触れてはいけない。触れた瞬間、何かが壊れてしまう気がした。

 遠くから、母親の声が聞こえる。男の子は振り返り、「じゃあね!」と手を振った。

 美咲も同じように手を振り返しながら、心の中でそっと言った。

 ――気をつけて生きて。
 ――君は、思っているよりずっと長い旅をする。

 男の子の背中が人混みに紛れて見えなくなったとき、美咲は初めて涙を流した。それは後悔の涙ではなく、過去と再会できた者だけが流せる、静かな始まりの涙だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あべこべな世界

廣瀬純七
ファンタジー
男女の立場が入れ替わったあべこべな世界で想像を越える不思議な日常を体験した健太の話

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

リボーン&リライフ

廣瀬純七
SF
性別を変えて過去に戻って人生をやり直す男の話

秘密のキス

廣瀬純七
青春
キスで体が入れ替わる高校生の男女の話

ボディチェンジウォッチ

廣瀬純七
SF
体を交換できる腕時計で体を交換する男女の話

不思議な夏休み

廣瀬純七
青春
夏休みの初日に体が入れ替わった四人の高校生の男女が経験した不思議な話

OLサラリーマン

廣瀬純七
ファンタジー
女性社員と体が入れ替わるサラリーマンの話

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

処理中です...