性転換タイムトラベラー

廣瀬純七

文字の大きさ
5 / 35

若い頃の父親

しおりを挟む
 朝の空気は、まだ少し湿り気を帯びていた。田中美咲は白いエプロンを腰に結び、名札を胸につけて、スーパーのレジ台の前に立っていた。木造アパートから歩いて十分ほどの場所にある、小さな個人経営のスーパー。派手さはないが、近所の主婦や工場帰りの人々で一日中それなりに賑わう店だ。

「いらっしゃいませ」

 声に出してみると、思ったより自然だった。鏡の前で何度か練習した甲斐はある。昭和四十四年、若い女性が働くこと自体は珍しくないが、立ち居振る舞いを間違えればすぐに浮いてしまう。美咲は無意識のうちに、周囲の女性店員の動きを観察し、真似ていた。

 レジ打ちは単調な作業だった。缶詰、豆腐、魚肉ソーセージ。値段を確かめ、手動のレジを叩く。ガチャン、という音が、妙に心地いい。六十年間、頭を使う仕事ばかりしてきた達也にとって、身体のリズムで完結する作業は新鮮だった。

 午前中の混雑が一段落し、店内に穏やかな空気が流れ始めた頃だった。

 次のお客が、レジの前に立った。

 美咲は顔を上げ、いつものように声を出そうとして――止まった。

 そこにいたのは、背の高い男性だった。作業着姿で、日に焼けた顔。短く切りそろえられた髪。無造作にカゴを置く、その仕草。

 ――お父さん。

 心臓が、強く脈打った。

 記憶の中の父親は、もっと疲れた顔をしていた。無口で、背中ばかり見ていた存在。だが目の前の男は、まだ若く、表情に余裕すらある。三十過ぎの若い父だった。

「……いらっしゃいませ」

 声が、わずかに震えた。幸い、男は気づいた様子もなく、カゴの中の商品を無造作に置いていく。

「卵と……味噌、それから大根」

「はい」

 美咲は必死に手元に意識を集中させた。値段を確認し、レジを叩く。指先が、ほんの少しだけもつれそうになる。

 この人が、あの家の柱だった人。あの食卓の向こう側に座っていた人。厳しくも、どこか不器用だった父親。

 ふと、男が美咲の顔を見た。

「あんた、新人さん?」

 声まで、若い。記憶の中の低く重たい声とは違う。

「え、あ……はい。最近、入ったばかりで」

「そうか。大変だろ」

 それだけ言って、男は軽く笑った。その笑顔を見た瞬間、美咲の胸の奥が、きゅっと締め付けられた。こんなふうに笑う父親を、達也はほとんど知らなかった。

「合計、三百二十円になります」

 男はポケットから小銭を取り出し、無造作に差し出す。その指先は大きく、少し荒れている。あの手で、子どもの頃、自転車の後ろに乗せてもらった記憶が、不意に蘇った。

「はい、ちょうどですね。ありがとうございます」

 美咲は釣り銭を渡し、深く頭を下げた。

「またどうぞ」

 男は商品を受け取り、軽く会釈をして店を出ていった。背中が遠ざかるのを、レジ越しに見送りながら、美咲はしばらく動けずにいた。

 胸の鼓動が、なかなか収まらない。

 知らないふりをした。知らない人として、対応した。それが正解だと、頭では分かっている。それでも、心は追いついていなかった。

 父親は、まだ何も知らない家庭の重さも、沈黙の理由も、これから先に積み重なっていくものだ。その途中には色々な事があって、やがて距離ができる。

 ――この人も、必死だったんだ。

 そんな当たり前の事実を、六十歳になって、ようやく理解した気がした。

「美咲ちゃん、大丈夫?」

 隣のレジの店員が、小声で声をかけてきた。

「あ、はい。ちょっと、ぼーっとしちゃって」

 美咲は無理に笑い、次のお客に向き直った。

「いらっしゃいませ」

 もう過去には戻れない。だが、今なら分かることがある。若い父親の背中を見送ったその瞬間、美咲は確かに思っていた。

 ――この時代に来てよかった。

 レジのガチャン、という音が、静かに未来へと響いていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あべこべな世界

廣瀬純七
ファンタジー
男女の立場が入れ替わったあべこべな世界で想像を越える不思議な日常を体験した健太の話

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

リボーン&リライフ

廣瀬純七
SF
性別を変えて過去に戻って人生をやり直す男の話

秘密のキス

廣瀬純七
青春
キスで体が入れ替わる高校生の男女の話

ボディチェンジウォッチ

廣瀬純七
SF
体を交換できる腕時計で体を交換する男女の話

不思議な夏休み

廣瀬純七
青春
夏休みの初日に体が入れ替わった四人の高校生の男女が経験した不思議な話

OLサラリーマン

廣瀬純七
ファンタジー
女性社員と体が入れ替わるサラリーマンの話

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

処理中です...