性転換タイムトラベラー

廣瀬純七

文字の大きさ
4 / 35

ボディーチェック

しおりを挟む
 銭湯からの帰り道、夜の昭和の東京は昼間よりも輪郭が柔らいで見えた。街灯の下に集まる虫の羽音、遠くを走る都電の軋む音。田中美咲――その名前を名乗ることにも、少しずつだが慣れ始めていた――は、借りたばかりの木造アパートの二階へと静かに階段を上った。

 六畳一間。畳は新しくはないが、掃除は行き届いている。小さな流し台、丸いちゃぶ台、押し入れ。窓を開けると、どこかの家の夕飯の匂いが流れ込んできた。ここが、昭和四十四年の「自分の居場所」なのだと、美咲は改めて実感する。

 戸を閉め、鍵をかける。外界とのつながりが断たれたその瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。

 美咲は鏡の前に立った。銭湯の脱衣所では、意識的に自分を見ないようにしていた。見てしまえば、感情が追いつかなくなると分かっていたからだ。だが、ここでは逃げられない。確認しなければならない。自分が、何者になったのかを。

 鏡に映るのは、見知らぬはずなのに、確かに「自分」である身体だった。肩のライン、首の細さ、全体の重心。六十年生きてきた男の身体とは、まったく違うはずなのに、動かしてみると不思議なほど自然だった。

 腕を上げ、下ろす。呼吸をする。指を握り、開く。
 どれも、違和感はない。ただ、長年慣れ親しんできた感覚が、静かに更新されているだけだ。

 美咲は、ゆっくりと視線を下げた。そこにあるはずだったものはなく、代わりに、これまで想像でしかなかった身体の構造が、現実として存在している。戸惑いはあった。否定できない驚きも。だが、嫌悪や恐怖は不思議と湧いてこなかった。

「……そうか」

 思わず、声が漏れた。

 これは罰でも、罰ゲームでもない。過去へ行くための条件として与えられた「代償」だと思っていたはずなのに、今はそれ以上の意味を持っているように感じられた。

 木村達也として生きてきた六十年。その間、身体はずっと「道具」だった。働くための、我慢するための、役割を果たすための器。良いも悪いもなく、ただ使い続けてきた。

 だが今、美咲の身体は、やけに繊細に世界とつながっている気がした。空気の温度、畳の感触、心臓の鼓動。それらが、少し近く、少し大きく感じられる。

 鏡に手を伸ばし、そっと自分の頬に触れる。皮膚の感触が、はっきりと指先に返ってくる。

「私は……田中美咲なんだな」

 言葉にしてみると、不思議と落ち着いた。達也という名前が消えたわけではない。ただ、奥の方で静かに眠っているだけだ。今、この時間を生きるために、表に出ているのが美咲なのだ。

 畳に座り込み、背中を壁に預ける。今日一日で、あまりにも多くの「再会」をしてしまった。公園で出会い銭湯でも隣に座った母と幼い頃の自分。そして今、こうして向き合っている、新しい自分自身。

 過去に来た目的は、まだはっきりしていない。何かを変えるのか、ただ見届けるのか。それすら決められていない。

 それでも一つだけ、確かなことがある。

 この身体で、この名前で、この時代を歩く限り、もう「傍観者」ではいられないということだ。

 美咲は膝を抱え、静かに目を閉じた。昭和四十四年の夜は、思ったよりも優しく、更けていっていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あべこべな世界

廣瀬純七
ファンタジー
男女の立場が入れ替わったあべこべな世界で想像を越える不思議な日常を体験した健太の話

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

リボーン&リライフ

廣瀬純七
SF
性別を変えて過去に戻って人生をやり直す男の話

秘密のキス

廣瀬純七
青春
キスで体が入れ替わる高校生の男女の話

ボディチェンジウォッチ

廣瀬純七
SF
体を交換できる腕時計で体を交換する男女の話

不思議な夏休み

廣瀬純七
青春
夏休みの初日に体が入れ替わった四人の高校生の男女が経験した不思議な話

OLサラリーマン

廣瀬純七
ファンタジー
女性社員と体が入れ替わるサラリーマンの話

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

処理中です...