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父親とのランチ
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休日の昼前、空は高く、雲の流れがゆっくりとしていた。美咲は特に行き先を決めないまま、アパートから続く商店街を歩いていた。平日の仕事のリズムが身体に残っているせいか、何もしない時間に少しだけ居心地の悪さを感じている。
八百屋の前を通り過ぎ、魚屋の氷を打つ音を聞き、惣菜屋から漂ってくる揚げ物の匂いに足を緩めた、そのときだった。
「……あれ?」
聞き覚えのある声に、反射的に立ち止まる。
振り返ると、そこに若い父親が立っていた。作業着ではなく、少し色褪せた私服姿。手には煙草。仕事のない日の、どこか気の抜けた表情だった。
「あ、やっぱり。スーパーの……」
「こんにちは」
美咲は、ぎこちなく頭を下げた。休日に、職場以外で会うのは初めてだ。しかも、こちらは私服。距離感が、一気に曖昧になる。
「散歩?」
「ええ、まあ……」
「奇遇だな。俺も、昼飯どうしようかと思って歩いてたとこでさ」
父親はそう言って、気軽に笑った。その笑顔は、レジ越しで見るものよりも、ずっと無防備だった。
一瞬、沈黙が落ちる。
逃げるなら、今だ。そう思う一方で、足は動かなかった。
「この前言ってた飯屋、覚えてる?」
父親が、思い出したように言う。
「安くて、うまいんだ。もし時間あるなら、一緒にどう?」
胸が、静かにざわつく。
――また、だ。
けれど今回は、仕事中ではない。断る理由を、即座に見つけられなかった。
「……少しなら」
気づいたときには、そう答えていた。
父親は嬉しそうに頷き、「よし」と短く言った。
連れて行かれたのは、商店街の裏手にある小さな定食屋だった。年季の入った暖簾。昼時には少し早い時間で、店内はまだ空いている。カウンターに並んで腰を下ろすと、鉄板と味噌の匂いが鼻をくすぐった。
「ここ、いいだろ」
「……落ち着きますね」
「だろ?」
注文を済ませ、しばらく沈黙が続く。カウンター越しに聞こえる調理の音が、妙に大きく感じられた。
父親は、煙草を一本取り出しかけて、思い直したようにしまった。
「なあ」
低い声で、切り出される。
「この前のこと、ちょっと気になっててさ」
美咲は、箸袋を指でいじりながら、黙って続きを待った。
「誤解されたくないから、先に言っとく」
父親は、真面目な顔をして言った。
「俺、結婚してるんだ。子どももいる」
その言葉は、知っているはずなのに、胸に直接落ちてきた。
「だからさ、これは……ほんと、ただのデートみたいなもんだ」
言い直すように、少し照れた笑いを浮かべる。
「浮気とか、そういうんじゃない。昼飯一緒に食うだけ」
美咲は、思わず目を伏せた。
――デート。
その言葉が、皮肉のように胸に刺さる。自分が、その「子ども」だという事実を、目の前の男は知らない。
「……そうなんですね」
それだけ言うのが、精一杯だった。
「変だよな、こういうの」
父親は、少しだけ困ったように笑った。
「でも、あんたと話してると、なんか落ち着くんだよ。不思議と」
料理が運ばれてくる。湯気の立つ定食。味噌汁の匂いが、場の空気を現実へ引き戻す。
「いただきます」
二人で声を揃える。その些細な一致に、美咲の胸がきゅっと縮んだ。
箸を動かしながら、美咲は思う。
この人は、まだ何も失っていない。家庭も、未来も、重さとしては背負っていない。ただ、その入り口に立っているだけだ。
そして自分は、そのずっと先から、ここに来ている。
「……美味しいですね」
「だろ。安いし」
父親は満足そうに頷いた。
この時間が、長く続かないことは分かっている。続いてはいけないことも。
それでも、美咲は否定しなかった。
ただの昼飯。
ただの会話。
ただの、あり得なかった並行線。
食べ終わり、店を出ると、昼の光が一層強くなっていた。
「今日は、ありがとな」
「こちらこそ」
「また……まあ、会ったら、よろしく」
父親はそう言って手を挙げ、反対方向へ歩いていく。その背中を見送りながら、美咲はしばらくその場に立ち尽くしていた。
ただのデート。
ただの嘘のない言葉。
それが、これほどまでに重いとは思わなかった。
美咲はゆっくりと歩き出す。午後の街は、何事もなかったかのように、穏やかに流れていた。
八百屋の前を通り過ぎ、魚屋の氷を打つ音を聞き、惣菜屋から漂ってくる揚げ物の匂いに足を緩めた、そのときだった。
「……あれ?」
聞き覚えのある声に、反射的に立ち止まる。
振り返ると、そこに若い父親が立っていた。作業着ではなく、少し色褪せた私服姿。手には煙草。仕事のない日の、どこか気の抜けた表情だった。
「あ、やっぱり。スーパーの……」
「こんにちは」
美咲は、ぎこちなく頭を下げた。休日に、職場以外で会うのは初めてだ。しかも、こちらは私服。距離感が、一気に曖昧になる。
「散歩?」
「ええ、まあ……」
「奇遇だな。俺も、昼飯どうしようかと思って歩いてたとこでさ」
父親はそう言って、気軽に笑った。その笑顔は、レジ越しで見るものよりも、ずっと無防備だった。
一瞬、沈黙が落ちる。
逃げるなら、今だ。そう思う一方で、足は動かなかった。
「この前言ってた飯屋、覚えてる?」
父親が、思い出したように言う。
「安くて、うまいんだ。もし時間あるなら、一緒にどう?」
胸が、静かにざわつく。
――また、だ。
けれど今回は、仕事中ではない。断る理由を、即座に見つけられなかった。
「……少しなら」
気づいたときには、そう答えていた。
父親は嬉しそうに頷き、「よし」と短く言った。
連れて行かれたのは、商店街の裏手にある小さな定食屋だった。年季の入った暖簾。昼時には少し早い時間で、店内はまだ空いている。カウンターに並んで腰を下ろすと、鉄板と味噌の匂いが鼻をくすぐった。
「ここ、いいだろ」
「……落ち着きますね」
「だろ?」
注文を済ませ、しばらく沈黙が続く。カウンター越しに聞こえる調理の音が、妙に大きく感じられた。
父親は、煙草を一本取り出しかけて、思い直したようにしまった。
「なあ」
低い声で、切り出される。
「この前のこと、ちょっと気になっててさ」
美咲は、箸袋を指でいじりながら、黙って続きを待った。
「誤解されたくないから、先に言っとく」
父親は、真面目な顔をして言った。
「俺、結婚してるんだ。子どももいる」
その言葉は、知っているはずなのに、胸に直接落ちてきた。
「だからさ、これは……ほんと、ただのデートみたいなもんだ」
言い直すように、少し照れた笑いを浮かべる。
「浮気とか、そういうんじゃない。昼飯一緒に食うだけ」
美咲は、思わず目を伏せた。
――デート。
その言葉が、皮肉のように胸に刺さる。自分が、その「子ども」だという事実を、目の前の男は知らない。
「……そうなんですね」
それだけ言うのが、精一杯だった。
「変だよな、こういうの」
父親は、少しだけ困ったように笑った。
「でも、あんたと話してると、なんか落ち着くんだよ。不思議と」
料理が運ばれてくる。湯気の立つ定食。味噌汁の匂いが、場の空気を現実へ引き戻す。
「いただきます」
二人で声を揃える。その些細な一致に、美咲の胸がきゅっと縮んだ。
箸を動かしながら、美咲は思う。
この人は、まだ何も失っていない。家庭も、未来も、重さとしては背負っていない。ただ、その入り口に立っているだけだ。
そして自分は、そのずっと先から、ここに来ている。
「……美味しいですね」
「だろ。安いし」
父親は満足そうに頷いた。
この時間が、長く続かないことは分かっている。続いてはいけないことも。
それでも、美咲は否定しなかった。
ただの昼飯。
ただの会話。
ただの、あり得なかった並行線。
食べ終わり、店を出ると、昼の光が一層強くなっていた。
「今日は、ありがとな」
「こちらこそ」
「また……まあ、会ったら、よろしく」
父親はそう言って手を挙げ、反対方向へ歩いていく。その背中を見送りながら、美咲はしばらくその場に立ち尽くしていた。
ただのデート。
ただの嘘のない言葉。
それが、これほどまでに重いとは思わなかった。
美咲はゆっくりと歩き出す。午後の街は、何事もなかったかのように、穏やかに流れていた。
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