性転換タイムトラベラー

廣瀬純七

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デートの誘い

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 それは、何の変哲もない午後の終わりだった。

 夕方前のスーパーは、主婦と仕事帰りの客が入り混じる、少し慌ただしい時間帯になる。田中美咲はいつものようにレジ台に立ち、機械的になりつつも丁寧に商品を受け取り、値段を打ち込んでいた。ガチャン、ガチャンという音が、思考を余計な方向へ行かせないための、ささやかな防波堤になっていた。

 次のお客が前に立つ。

 顔を上げた瞬間、胸が一度だけ強く鳴った。

 若い父親だった。

 数日前に来たときと同じ作業着。同じ少し無精な髪。だが今日は、どこか余裕のある表情をしている。籠の中には、酒と惣菜が少しだけ入っていた。

「いらっしゃいませ」

 美咲は、もう声を震わせなかった。何度か会ううちに、彼を「客」として認識する訓練はできてきている。そうでなければ、ここには立てない。

「今日は静かだね」

 不意に、父親がそんなことを言った。

「え……あ、そうですね。少し落ち着いてます」

 会話らしい会話は、これまでほとんどなかった。だから、その一言に、心の準備が追いつかない。

「最近、よく見る気がしてさ」

 父親は、商品を台に置きながら続ける。

「この辺に越してきたの?」

「はい……少し前に」

 嘘ではない。だが、真実でもない。

「そうか。ここ、住みやすいだろ」

 その言葉に、美咲は一瞬、返事に詰まった。住みやすいかどうかを決めるには、あまりにも特別な理由でここにいる。

「……そうですね」

 レジを打ち終え、合計金額を告げる。父親は財布を取り出し、支払いを済ませると、少しだけ間を置いた。

「あのさ」

 その声の調子が変わったことに、美咲はすぐ気づいた。

「仕事終わるの、今日は何時?」

 胸の奥で、何かが静かに崩れた。

「え……」

「いや、変な意味じゃなくてさ」

 父親は慌てたように笑った。

「この近くに、安くてうまい飯屋があるんだ。よかったら、一緒にどうかなって」

 デートに誘われている。

 頭では即座に理解できたのに、感情が追いつかない。目の前の男は、自分の父親だ。だが同時に、この時代では、ただの若い男性でもある。

 世界が、二重に見える。

「……すみません」

 美咲は、ほんの少し間を置いてから言った。

「今日は、ちょっと用事があって」

「そっか」

 父親は、残念そうではあったが、深追いはしなかった。

「急に変なこと言って悪かったな」

「いえ……」

「また、機会があったら」

 そう言って、軽く手を上げ、店を出ていく。その背中を見送りながら、美咲はレジ台に手を置いたまま、しばらく動けなかった。

 ――もし、誘いを受けていたら。

 考えるだけで、背筋が冷たくなる。

 仕事が終わり、エプロンを外し、夕暮れの道を歩く。空は茜色に染まり、遠くから子どもの声が聞こえてくる。日常の音が、いつもより遠く感じられた。

 父親は、何も知らない。
 自分が誰であるかも、どんな未来を生きるのかも。

 そして自分は、知りすぎている。

 彼がやがて疲れた背中を見せるようになること。無口になり、距離ができ、それでも不器用なまま父であろうとすること。

 そのすべてを知った上で、どう接すればいいのか。

 美咲は歩きながら、何度も問い直した。過去に来た理由は何だったのか。何かを変えるためか。理解するためか。それとも、ただ確認するためだったのか。

 アパートの前に着き、立ち止まる。古い木の扉を見上げ、深く息を吸った。

 今日の誘いは、偶然だ。必然ではない。だからこそ、重かった。

 鍵を開け、部屋に入る。六畳一間の静けさが、ようやく美咲を現実に引き戻した。

 誰かの人生と、自分の人生が、ほんの少し交差しただけ。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 そう言い聞かせながら、美咲は鞄を置き、ゆっくりと畳に座り込んだ。その日の夜は、何もなかったかのように、静かに更けていった。
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