性転換タイムトラベラー

廣瀬純七

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結婚の話

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 朝の光が、いつもより柔らかく感じられた。腹の奥の重さは、まだ完全には消えていない。それでも、昨日までの鋭さは影を潜め、立ち上がって身支度をするくらいの余裕は戻ってきていた。

「……大丈夫。今日は行ける」

 美咲は自分にそう言い聞かせ、ゆっくりとアパートを出た。無理をしている自覚はある。だが、三日続けて休むことへの気後れも、確かにあった。ほんの少し、身体を前に押し出す。その程度の無理だと、自分に言い訳をした。

 スーパーに着くと、いつもの匂いと音が迎えてくれた。床を拭く水の気配、ラジオの声、冷蔵ケースの低い唸り。エプロンを身につけ、名札を留めると、ようやく日常の輪郭が戻ってくる。

「美咲さん、もう大丈夫なの?」

 声をかけてきたのは、若林節子だった。心配そうに眉を寄せている。

「うん、少しね。まだ本調子じゃないけど」

「無理しちゃだめよ。ほんとに」

 その言い方が、妙に自然で、年上でも年下でもない距離感で胸に残った。

「ありがとう、節子さん」

 二人は並んでレジに立ち、午前中の静かな時間をやり過ごした。身体はまだ重いが、仕事に集中していると、痛みは少し遠のく。ガチャン、ガチャンとレジを打つ音が、意識を現在につなぎ止めてくれる。

 昼前、客足が途切れたころ、節子がふと話し始めた。

「ねえ、美咲さん」

「なに?」

「実はさ……最近、結婚の話が出てて」

 その一言に、美咲の指が一瞬止まった。

「おめでとう」

 反射的にそう言いながら、胸の奥がざわつく。

「ありがとう。でもね、相手、ちょっと複雑なの」

 節子は苦笑いを浮かべ、声を落とした。

「バツイチで、子どもがいる人なの」

 その言葉が、ゆっくりと、美咲の中に沈んでいく。

「……そうなんだ」

「うん。だから、いろいろ考えちゃって」

 節子はレジ台に肘をつき、遠くを見るような目をした。

「でも、誠実な人でね。名前は、武さんって言うんだけど」

 その瞬間、美咲の中で、何かがはっきりと音を立てた。

 ――武。

 父親の名前。

 偶然だ、と最初は思った。ありふれた名前ではないが、珍しくもない。だが、胸の鼓動が、明らかに早くなっている。

「……どんな方なの?」

 声が震えないよう、細心の注意を払う。

「工場勤めで、無口だけど、優しい人。前の奥さんとは……うまくいかなかったみたい」

 節子の言葉一つひとつが、記憶と重なっていく。工場。無口。優しい。離婚。

 美咲の背中に、冷たい汗が滲んだ。

 若い頃の父親――武。
 数年後、母と別れ、再婚する。
 そして、その相手の名前は――。

 思い出そうとしていなかった記憶が、無遠慮に形を結び始める。

「……節子さん」

「なに?」

「その方、お子さんは……男の子?」

 節子は少し驚いたように目を瞬かせ、それから頷いた。

「そう。まだ小さいって。三つか、四つくらい」

 世界が、静かに傾いた。

 点と点が、つながってしまった。

 若林節子。
 自分と同年代。
 優しくて、地に足がついていて。
 そして――父の再婚相手。
 自分にとっての、継母。

 息をするのを忘れそうになりながら、美咲は必死に平静を装った。

「……そうなんだ」

 それ以上、何も言えなかった。

 節子は、美咲の内側で起きている崩壊に気づくはずもなく、少し照れたように笑った。

「変だよね。こんな話、職場でするなんて」

「ううん……大丈夫」

 大丈夫なはずがない。だが、それを口にすることはできない。

 休憩時間が終わり、客が戻ってくる。美咲はレジに向き直り、機械的に手を動かした。数字を打ち、金を受け取り、釣り銭を渡す。その一連の動作だけが、自分を保ってくれていた。

 ――あのとき、節子と仲良くなったのは、偶然じゃなかったのか。

 そんな考えが、頭をよぎる。

 過去に来てから、美咲は何度も「再会」をしてきた。幼い自分。若い父。母の声。そして今、未来の継母。

 時間は、思っていた以上に、狭い。

 仕事を終え、夕方の道を歩きながら、美咲は空を見上げた。少しだけ体調は戻っている。だが、心は追いついていなかった。

 節子は、まだ何も知らない。
 父も、知らない。
 そして自分だけが、知っている。

 知ってしまった以上、この先、節子とどう接すればいいのか。友人として? 同僚として? それとも、未来を知る者として距離を取るべきなのか。

 アパートの前に立ち、深く息を吸う。

 少し無理をして出勤した、その代償は、思っていたよりも大きかった。

 美咲は静かに鍵を開け、部屋に入った。畳の匂いが、わずかに安心を与えてくれる。

 ――時間は、優しくも残酷だ。

 そう思いながら、彼女はゆっくりと鞄を置いた。
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