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競馬場デート
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休日の朝は、平日よりも少しだけ街の呼吸が遅い。美咲はその緩やかな空気の中を、ゆっくりと歩いていた。体調はすっかり戻ったとは言えないが、腹の重さもだいぶ薄れ、身体は素直に前へ進んでくれる。
商店街のシャッターは半分ほど閉まっていて、魚屋の前だけが早くも賑やかだった。氷の上に並ぶ魚の銀色を眺めながら通り過ぎ、川沿いの道へ出る。
「……散歩には、ちょうどいいな」
そう呟いた瞬間、少し先に見覚えのある背中があった。
背広姿ではなく、ラフなシャツにジャケット。歩き方に、癖がある。
「……武さん?」
声をかけると、男は振り返り、少し驚いたように目を見開いた。
「おお、美咲ちゃん。奇遇だな」
若い頃の父、武。何度か会っているはずなのに、こうして偶然出会うたびに、胸の奥が小さく跳ねる。
「散歩?」
「はい。武さんは?」
「俺もそんなとこ。休みの日は、じっとしてられなくてな」
そう言って、照れたように頭を掻く仕草まで、記憶の中と同じだった。
「このあと、予定ある?」
一瞬の間。
「……特には」
「じゃあさ」
武は、川の向こうを指差した。
「大井競馬場、行ってみないか」
意外な誘いに、美咲は目を瞬かせた。
「競馬……ですか」
「たまに行くんだ。今日は天気もいいし」
父が競馬を好きだったことを、美咲は知っている。家計に響かない程度に、少額で楽しむ人だった。目の前の武は、その「若い頃」の顔をしている。
「……行ってみたいです」
そう答えた自分の声が、少し弾んでいることに、美咲は気づいた。
競馬場は、思っていたよりも開放的だった。広い空、芝の匂い、人のざわめき。馬の蹄の音が、地面を通して腹の奥に響く。
「初めて?」
「はい」
「じゃあ、今日は勉強だな」
武は新聞を広げ、簡単に見方を教えてくれた。難しい理屈は省いて、直感で選べばいい、と笑う。
「これなんか、調子良さそうだぞ」
指差された馬の名前を、美咲は静かに覚えた。馬券を握る指先に、少し緊張が走る。
レースが始まる。
スタートの合図と同時に、観客の声が一斉に上がる。馬たちが風を切り、コーナーを回る。その迫力に、美咲は息を呑んだ。
「行け……!」
気づけば、声が出ていた。
結果は――当たり。
「やったな!」
武が、子どものように笑う。
「すごい……」
「運がいいな、美咲ちゃん」
換金した額は、決して大金ではない。けれど、武は満足そうに財布をしまいながら言った。
「よし。これで、昼は寿司にしよう」
「え?」
「奢りだ。勝った日の決まり」
競馬場の近くの寿司屋は、気取らないが評判の店だった。カウンターに並んで座り、目の前で握られる寿司を眺める。
「うまいな」
「……はい」
口に入れた瞬間、酢飯と魚の旨みが広がる。味だけでなく、この時間そのものが、胸に沁みた。
未来では、もう失われている父との、何でもない休日。
「美咲ちゃん」
「はい」
「こういうの、嫌じゃなかったか?」
不意に、真面目な声。
「いえ。楽しいです」
嘘ではなかった。
娘であり、他人であり、今はただの“美咲”として、父と並んで寿司を食べている。その奇妙さと温かさが、同時に胸に満ちていた。
「また、どこか行こうな」
「……はい」
そう答えながら、美咲は湯呑みを持つ手に、そっと力を込めた。
この時間が、長くは続かないことを知っているからこそ、今はただ、噛みしめるように寿司を味わっていた。
商店街のシャッターは半分ほど閉まっていて、魚屋の前だけが早くも賑やかだった。氷の上に並ぶ魚の銀色を眺めながら通り過ぎ、川沿いの道へ出る。
「……散歩には、ちょうどいいな」
そう呟いた瞬間、少し先に見覚えのある背中があった。
背広姿ではなく、ラフなシャツにジャケット。歩き方に、癖がある。
「……武さん?」
声をかけると、男は振り返り、少し驚いたように目を見開いた。
「おお、美咲ちゃん。奇遇だな」
若い頃の父、武。何度か会っているはずなのに、こうして偶然出会うたびに、胸の奥が小さく跳ねる。
「散歩?」
「はい。武さんは?」
「俺もそんなとこ。休みの日は、じっとしてられなくてな」
そう言って、照れたように頭を掻く仕草まで、記憶の中と同じだった。
「このあと、予定ある?」
一瞬の間。
「……特には」
「じゃあさ」
武は、川の向こうを指差した。
「大井競馬場、行ってみないか」
意外な誘いに、美咲は目を瞬かせた。
「競馬……ですか」
「たまに行くんだ。今日は天気もいいし」
父が競馬を好きだったことを、美咲は知っている。家計に響かない程度に、少額で楽しむ人だった。目の前の武は、その「若い頃」の顔をしている。
「……行ってみたいです」
そう答えた自分の声が、少し弾んでいることに、美咲は気づいた。
競馬場は、思っていたよりも開放的だった。広い空、芝の匂い、人のざわめき。馬の蹄の音が、地面を通して腹の奥に響く。
「初めて?」
「はい」
「じゃあ、今日は勉強だな」
武は新聞を広げ、簡単に見方を教えてくれた。難しい理屈は省いて、直感で選べばいい、と笑う。
「これなんか、調子良さそうだぞ」
指差された馬の名前を、美咲は静かに覚えた。馬券を握る指先に、少し緊張が走る。
レースが始まる。
スタートの合図と同時に、観客の声が一斉に上がる。馬たちが風を切り、コーナーを回る。その迫力に、美咲は息を呑んだ。
「行け……!」
気づけば、声が出ていた。
結果は――当たり。
「やったな!」
武が、子どものように笑う。
「すごい……」
「運がいいな、美咲ちゃん」
換金した額は、決して大金ではない。けれど、武は満足そうに財布をしまいながら言った。
「よし。これで、昼は寿司にしよう」
「え?」
「奢りだ。勝った日の決まり」
競馬場の近くの寿司屋は、気取らないが評判の店だった。カウンターに並んで座り、目の前で握られる寿司を眺める。
「うまいな」
「……はい」
口に入れた瞬間、酢飯と魚の旨みが広がる。味だけでなく、この時間そのものが、胸に沁みた。
未来では、もう失われている父との、何でもない休日。
「美咲ちゃん」
「はい」
「こういうの、嫌じゃなかったか?」
不意に、真面目な声。
「いえ。楽しいです」
嘘ではなかった。
娘であり、他人であり、今はただの“美咲”として、父と並んで寿司を食べている。その奇妙さと温かさが、同時に胸に満ちていた。
「また、どこか行こうな」
「……はい」
そう答えながら、美咲は湯呑みを持つ手に、そっと力を込めた。
この時間が、長くは続かないことを知っているからこそ、今はただ、噛みしめるように寿司を味わっていた。
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