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立会川駅
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武と別れたあと、美咲は無意識のうちに足を駅へ向けていた。だが、気づけば大井町駅とは反対の方向に体が向いている。人の流れから外れ、少し静かな道へ。
――立会川駅。
名前を意識した瞬間、足が止まった。幼い頃、何度か来たことがある場所。記憶は曖昧だが、水の匂いと、空の広さだけが、なぜかはっきり残っている。
駅の近くを流れる川に近づき、欄干のそばに立つ。水面は穏やかで、陽を反射しながら、ゆっくりと流れていた。
「……小さい頃は、この川、大きく見えたな」
ぽつりと、独り言がこぼれる。
今見下ろせば、決して大河ではない。飛び越えることはできなくても、怖れるほどの幅でもない。けれど、幼い自分にとっては、向こう岸が遠く、簡単には渡れない場所だった。
――あの頃の自分は、ここを見て何を思っていたんだろう。
父に手を引かれて歩いた記憶。母の声。三人で並んだ背中。断片的な映像が、川の流れに混じって浮かんでは消える。
さきほどの武の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
『達也のお母さんになってくれないかな』
優しくて、不器用で、誠実な声だった。勢いでも、下心でもない。ただ、必死な人の言葉。
だからこそ、苦しい。
自分が誰なのかを、武は知らない。
知らないまま、最も大切な役割を差し出そうとしている。
美咲は欄干に両手を置き、川を見つめた。水は何も語らず、ただ流れていく。時間も同じだ。どんな選択をしても、止まることはない。
もし、頷いたら。
自分は、父の妻になる。
そして、幼い自分の「母親」になる。
世界が、根本から歪む。
けれど、断ったらこの親子はどなるなか?
タイムマシーンを使った時、法律や条件は説明された。性別、身分、名前。過去に干渉しすぎないこと。だが、「感情」まで制御できるとは、誰も言っていなかった。
父を、男や夫として見るつもりはなかった。
ただ、生き直すように、静かに過去を歩くだけのつもりだった。
「……簡単じゃ、ないな」
川面に向かって、そう呟く。
風が吹き、水面に細かな波紋が広がる。それはすぐに消え、何事もなかったように元の流れに戻る。
――自分の選択も、こうして消えていくのだろうか。
それとも、決して消えない痕として、未来を変えてしまうのか。
幼い頃、この川は「向こう側」が遠かった。今は、距離は分かる。深さも、流れも、だいたい想像がつく。
それでも、渡るかどうかは、別の問題だ。
美咲は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
答えは、まだ出ない。
出してはいけない気も、している。
夕方の光が、水面をオレンジ色に染め始める。立会川駅から、電車の音が聞こえた。
美咲は、もう一度だけ川を見つめ、それから踵を返した。
今日は、まだ答えを出さない。
それだけを、心に決めて。
――立会川駅。
名前を意識した瞬間、足が止まった。幼い頃、何度か来たことがある場所。記憶は曖昧だが、水の匂いと、空の広さだけが、なぜかはっきり残っている。
駅の近くを流れる川に近づき、欄干のそばに立つ。水面は穏やかで、陽を反射しながら、ゆっくりと流れていた。
「……小さい頃は、この川、大きく見えたな」
ぽつりと、独り言がこぼれる。
今見下ろせば、決して大河ではない。飛び越えることはできなくても、怖れるほどの幅でもない。けれど、幼い自分にとっては、向こう岸が遠く、簡単には渡れない場所だった。
――あの頃の自分は、ここを見て何を思っていたんだろう。
父に手を引かれて歩いた記憶。母の声。三人で並んだ背中。断片的な映像が、川の流れに混じって浮かんでは消える。
さきほどの武の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
『達也のお母さんになってくれないかな』
優しくて、不器用で、誠実な声だった。勢いでも、下心でもない。ただ、必死な人の言葉。
だからこそ、苦しい。
自分が誰なのかを、武は知らない。
知らないまま、最も大切な役割を差し出そうとしている。
美咲は欄干に両手を置き、川を見つめた。水は何も語らず、ただ流れていく。時間も同じだ。どんな選択をしても、止まることはない。
もし、頷いたら。
自分は、父の妻になる。
そして、幼い自分の「母親」になる。
世界が、根本から歪む。
けれど、断ったらこの親子はどなるなか?
タイムマシーンを使った時、法律や条件は説明された。性別、身分、名前。過去に干渉しすぎないこと。だが、「感情」まで制御できるとは、誰も言っていなかった。
父を、男や夫として見るつもりはなかった。
ただ、生き直すように、静かに過去を歩くだけのつもりだった。
「……簡単じゃ、ないな」
川面に向かって、そう呟く。
風が吹き、水面に細かな波紋が広がる。それはすぐに消え、何事もなかったように元の流れに戻る。
――自分の選択も、こうして消えていくのだろうか。
それとも、決して消えない痕として、未来を変えてしまうのか。
幼い頃、この川は「向こう側」が遠かった。今は、距離は分かる。深さも、流れも、だいたい想像がつく。
それでも、渡るかどうかは、別の問題だ。
美咲は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
答えは、まだ出ない。
出してはいけない気も、している。
夕方の光が、水面をオレンジ色に染め始める。立会川駅から、電車の音が聞こえた。
美咲は、もう一度だけ川を見つめ、それから踵を返した。
今日は、まだ答えを出さない。
それだけを、心に決めて。
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