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疑問の答え
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品出しの作業を終え、バックヤードから売り場へ戻る途中でも、節子の言葉は美咲の頭から離れなかった。
――私はちょっと、子供が苦手なんだよね。
あの俯いた横顔。無理に明るく振る舞おうともしない、正直な声。
その一言が、長い間、胸の奥で曖昧だった記憶の輪郭を、静かに浮かび上がらせていた。
休憩時間、給湯室で紙コップの麦茶を手にしながら、美咲はぼんやりと壁を見つめた。周囲では同僚たちの雑談が続いているが、言葉はほとんど耳に入ってこない。
――そうか。
胸の内で、何かがゆっくりと腑に落ちていく。
遠い過去。
まだ幼かった頃の自分。
父が再婚し、家にやって来た「新しい母」。
節子。
記憶の中の彼女は、決して意地悪な人ではなかった。怒鳴ることも、手を上げることもない。ただ、どこか距離があった。優しくしようとしているのは分かるのに、触れ方が分からない人の、不器用な間合い。
一緒に並んで食卓を囲んでいても、会話は父を介して行われることが多かった。二人きりになると、沈黙が流れ、その沈黙をどう扱えばいいのか、幼い自分には理解できなかった。
――嫌われているのかな。
――邪魔なのかな。
そう思った夜も、一度や二度ではない。
だが今なら分かる。
あれは、拒絶ではなかった。
不慣れだったのだ。
子供という存在に、どう向き合えばいいのか分からず、正解が見えないまま、立ち尽くしていたのだ。
節子自身が、そうだったのだ。
「……納得、しちゃったな」
美咲は、誰にも聞こえない声で呟いた。
子供が苦手。
それを認めることは、簡単ではない。特に、この時代ではなおさらだ。女性なら、母性があって当然。子供が好きで、世話ができて、自然に「お母さん」になれるものだと、誰もが思い込んでいる。
そんな中で、節子はずっと一人で悩んでいたのだろう。
好きになろうとして、できなかった自分。
期待される役割に、うまく馴染めなかった自分。
幼い達也――自分自身に向けられていた、あのぎこちない距離感。その理由が、今ようやく言葉を持った。
美咲は、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。同時に、微かな痛みもあった。
――あの頃、もし分かってあげられていたら。
――もし、大人の目で見られていたら。
だが、それは不可能だった。幼い自分には、幼い自分なりの精一杯があったのだから。
節子は、決して冷たい継母ではなかった。
ただ、「子供が苦手なまま、母親になろうとした人」だった。
その事実を知った今、過去の記憶は少しだけ色を変える。傷だったと思っていたものが、誤解だったと気づいたときの、複雑な感情。
――だから、あんなに静かな家だったんだな。
父は無口で、節子は遠慮がちで、自分は気を使う子供だった。誰も悪くなかった。ただ、噛み合わなかっただけだ。
休憩時間の終わりを告げるベルが鳴る。美咲は、紙コップを捨て、ゆっくりと立ち上がった。
売り場へ戻る途中、遠くで節子の姿が見える。棚の前で、丁寧に商品を並べている。背中は、少しだけ小さく見えた。
――この人は、この人なりに、必死だったんだ。
そう思うと、胸の奥で何かが静かにほどけていく。
過去は変えられない。
けれど、意味は変わる。
美咲は、静かに息を吸い、仕事に戻った。
節子の告白は、過去と現在をつなぎ、長い間分からなかった「違和感」に、ようやく名前を与えてくれたのだった。
――私はちょっと、子供が苦手なんだよね。
あの俯いた横顔。無理に明るく振る舞おうともしない、正直な声。
その一言が、長い間、胸の奥で曖昧だった記憶の輪郭を、静かに浮かび上がらせていた。
休憩時間、給湯室で紙コップの麦茶を手にしながら、美咲はぼんやりと壁を見つめた。周囲では同僚たちの雑談が続いているが、言葉はほとんど耳に入ってこない。
――そうか。
胸の内で、何かがゆっくりと腑に落ちていく。
遠い過去。
まだ幼かった頃の自分。
父が再婚し、家にやって来た「新しい母」。
節子。
記憶の中の彼女は、決して意地悪な人ではなかった。怒鳴ることも、手を上げることもない。ただ、どこか距離があった。優しくしようとしているのは分かるのに、触れ方が分からない人の、不器用な間合い。
一緒に並んで食卓を囲んでいても、会話は父を介して行われることが多かった。二人きりになると、沈黙が流れ、その沈黙をどう扱えばいいのか、幼い自分には理解できなかった。
――嫌われているのかな。
――邪魔なのかな。
そう思った夜も、一度や二度ではない。
だが今なら分かる。
あれは、拒絶ではなかった。
不慣れだったのだ。
子供という存在に、どう向き合えばいいのか分からず、正解が見えないまま、立ち尽くしていたのだ。
節子自身が、そうだったのだ。
「……納得、しちゃったな」
美咲は、誰にも聞こえない声で呟いた。
子供が苦手。
それを認めることは、簡単ではない。特に、この時代ではなおさらだ。女性なら、母性があって当然。子供が好きで、世話ができて、自然に「お母さん」になれるものだと、誰もが思い込んでいる。
そんな中で、節子はずっと一人で悩んでいたのだろう。
好きになろうとして、できなかった自分。
期待される役割に、うまく馴染めなかった自分。
幼い達也――自分自身に向けられていた、あのぎこちない距離感。その理由が、今ようやく言葉を持った。
美咲は、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。同時に、微かな痛みもあった。
――あの頃、もし分かってあげられていたら。
――もし、大人の目で見られていたら。
だが、それは不可能だった。幼い自分には、幼い自分なりの精一杯があったのだから。
節子は、決して冷たい継母ではなかった。
ただ、「子供が苦手なまま、母親になろうとした人」だった。
その事実を知った今、過去の記憶は少しだけ色を変える。傷だったと思っていたものが、誤解だったと気づいたときの、複雑な感情。
――だから、あんなに静かな家だったんだな。
父は無口で、節子は遠慮がちで、自分は気を使う子供だった。誰も悪くなかった。ただ、噛み合わなかっただけだ。
休憩時間の終わりを告げるベルが鳴る。美咲は、紙コップを捨て、ゆっくりと立ち上がった。
売り場へ戻る途中、遠くで節子の姿が見える。棚の前で、丁寧に商品を並べている。背中は、少しだけ小さく見えた。
――この人は、この人なりに、必死だったんだ。
そう思うと、胸の奥で何かが静かにほどけていく。
過去は変えられない。
けれど、意味は変わる。
美咲は、静かに息を吸い、仕事に戻った。
節子の告白は、過去と現在をつなぎ、長い間分からなかった「違和感」に、ようやく名前を与えてくれたのだった。
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