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銭湯の入り口で
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アパートの鍵を閉めると、外はすっかり夜の気配を帯びていた。夕方から夜へ移る、この時間帯の空気は、美咲にとってどこか落ち着く。胸の奥に残る今日一日の余韻を、ゆっくりと沈めてくれるようだった。
着替えと小さな籠を持って、近くの銭湯へ向かう。暖簾の見える角を曲がると、いつものように白い湯気が入り口の向こうに揺れていた。
銭湯の暖簾をくぐって美咲が銭湯の入り口に入りかけた、その時だった。
聞き慣れすぎた声が、耳に飛び込んできた。
「たつや、ちゃんと手、離すなよ」
心臓が、一拍遅れて強く打つ。
入り口の前に立っていたのは、若い頃の父――武だった。その隣で、小さな手をしっかりと握られている三歳の男の子。丸い頬、少し大きめの目。間違えようもない、幼い頃の自分自身。
「……」
美咲は一瞬、息をするのを忘れた。
その時、達也がこちらに気づき、ぱっと顔を明るくした。
「あっ、おねえちゃんだ」
無邪気な声が、胸に突き刺さる。
達也は父の手を引きながら、美咲を見上げた。
「おねえちゃんは、こっちじゃないの?」
男湯の暖簾を指差しながら、首をかしげる。
その問いかけに、美咲は一瞬言葉を失った。喉の奥が、きゅっと締め付けられる。
けれど、すぐに膝を少し曲げ、達也の目線に合わせて微笑んだ。
「ごめんね」
できるだけ、優しく。
「おねえちゃんは……こっちなの」
そう言って、女湯の暖簾を指した。
達也は不思議そうな顔をしたが、すぐに納得したように頷いた。
「ふーん」
武は笑顔で美咲に軽く会釈をして、達也を連れて男湯の方へ入っていく。
暖簾が揺れ、二人の姿が見えなくなるまで、美咲はその場に立ち尽くしていた。
やがて、小さく息を吐き、女湯の暖簾をくぐる。
脱衣所の木の床、籠の並び、壁に貼られた注意書き。すべてが、懐かしく、そして今は少しだけ違って見える。
服を脱ぎ、鏡の前に立つ。そこに映るのは、確かに女性の美咲の身体だ。だが、その奥に、達也として生きてきた長い時間が、重なっている。
浴場に入ると、湯気がふわりと肌を包んだ。桶に湯を汲み、静かに体を洗う。石鹸の匂いが、思考を少しずつ緩めていく。
湯船に身を沈めると、思わず小さなため息が漏れた。
「……はあ」
湯の温かさが、今日一日の出来事を、ゆっくりと溶かしていく。
秀一とのデート。駅での別れ際の会話。穏やかな時間。
そして――武の言葉。
『達也のお母さんになってくれないかな?』
湯の中で、膝を抱える。
もし、あのプロポーズを受け入れたら。
自分は、美咲として、達也の母親になる。
たった今、男湯へ消えていった、あの小さな背中の。
時間が、歪む。立場が、入れ替わる。
「……不思議だな」
小さく呟く。
達也は、何も知らずに父と銭湯に来ている。ただ、それだけの夜。それなのに、自分の胸の中では、過去と未来が複雑に絡み合っている。
湯船の向こうから、男湯の方の声が微かに聞こえた気がして、美咲はそっと目を閉じた。
答えは、まだ出ない。
けれど、こうして同じ銭湯の、男湯と女湯の違う湯船の中にいる事実が、選択の重さを、静かに物語っている気がした。
美咲は、もう一度深く息を吸い、ゆっくりと湯から立ち上がった。
着替えと小さな籠を持って、近くの銭湯へ向かう。暖簾の見える角を曲がると、いつものように白い湯気が入り口の向こうに揺れていた。
銭湯の暖簾をくぐって美咲が銭湯の入り口に入りかけた、その時だった。
聞き慣れすぎた声が、耳に飛び込んできた。
「たつや、ちゃんと手、離すなよ」
心臓が、一拍遅れて強く打つ。
入り口の前に立っていたのは、若い頃の父――武だった。その隣で、小さな手をしっかりと握られている三歳の男の子。丸い頬、少し大きめの目。間違えようもない、幼い頃の自分自身。
「……」
美咲は一瞬、息をするのを忘れた。
その時、達也がこちらに気づき、ぱっと顔を明るくした。
「あっ、おねえちゃんだ」
無邪気な声が、胸に突き刺さる。
達也は父の手を引きながら、美咲を見上げた。
「おねえちゃんは、こっちじゃないの?」
男湯の暖簾を指差しながら、首をかしげる。
その問いかけに、美咲は一瞬言葉を失った。喉の奥が、きゅっと締め付けられる。
けれど、すぐに膝を少し曲げ、達也の目線に合わせて微笑んだ。
「ごめんね」
できるだけ、優しく。
「おねえちゃんは……こっちなの」
そう言って、女湯の暖簾を指した。
達也は不思議そうな顔をしたが、すぐに納得したように頷いた。
「ふーん」
武は笑顔で美咲に軽く会釈をして、達也を連れて男湯の方へ入っていく。
暖簾が揺れ、二人の姿が見えなくなるまで、美咲はその場に立ち尽くしていた。
やがて、小さく息を吐き、女湯の暖簾をくぐる。
脱衣所の木の床、籠の並び、壁に貼られた注意書き。すべてが、懐かしく、そして今は少しだけ違って見える。
服を脱ぎ、鏡の前に立つ。そこに映るのは、確かに女性の美咲の身体だ。だが、その奥に、達也として生きてきた長い時間が、重なっている。
浴場に入ると、湯気がふわりと肌を包んだ。桶に湯を汲み、静かに体を洗う。石鹸の匂いが、思考を少しずつ緩めていく。
湯船に身を沈めると、思わず小さなため息が漏れた。
「……はあ」
湯の温かさが、今日一日の出来事を、ゆっくりと溶かしていく。
秀一とのデート。駅での別れ際の会話。穏やかな時間。
そして――武の言葉。
『達也のお母さんになってくれないかな?』
湯の中で、膝を抱える。
もし、あのプロポーズを受け入れたら。
自分は、美咲として、達也の母親になる。
たった今、男湯へ消えていった、あの小さな背中の。
時間が、歪む。立場が、入れ替わる。
「……不思議だな」
小さく呟く。
達也は、何も知らずに父と銭湯に来ている。ただ、それだけの夜。それなのに、自分の胸の中では、過去と未来が複雑に絡み合っている。
湯船の向こうから、男湯の方の声が微かに聞こえた気がして、美咲はそっと目を閉じた。
答えは、まだ出ない。
けれど、こうして同じ銭湯の、男湯と女湯の違う湯船の中にいる事実が、選択の重さを、静かに物語っている気がした。
美咲は、もう一度深く息を吸い、ゆっくりと湯から立ち上がった。
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