紅蓮の獣

仁蕾

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紅蓮の章

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 ―おとぉさーん…おかぁさーん…

 荒れ狂う炎に包まれた中で、子供が父と母を呼んで泣き続ける。しかし、返事はない。
 当たり前だろう。この業火とも言える炎の中、生きている事自体がおかしいのだ。
 子供の目の前には煤けた人体。灼熱の炎が、その肉すらも焼き払い始めている。
 不意に泣き喚く子供の頭の中に、声が響いた。
 それは重く響き、幼子の恐怖を煽る。それでも何処か愛しさと優しさを滲ませた声。
 声は囁く。吐息のように小さく、小さく。

 ―我ガ…花嫁……


  ***


 声に導かれるようにして、ハッと目が覚めた。
 青年の目の前にあるのは、凶悪な炎ではなく見慣れた自室の天井。安堵に深い息を吐き、全身が汗で濡れている事に気が付いた。
(気持ち悪い…)
 青年、更紗龍馬さらさりょうまはゆっくりと身を起こし、片膝を立ててそこに額を押し付けると深く息を吐き出した。
心臓が嫌な鼓動を打つ。目を閉じれば、鮮明に甦る先程の悪夢。否、あの悪夢は彼が巻き込まれた大惨事であり、正に地獄絵図とも言える光景現実だった。
 燃え盛る炎。人の焼ける臭い。崩れる家屋。自分は、そんな大火事のたった一人の生存者。
 彼は、常々思う。
 ―何故、自分だけが助かった…?
 ―何故、自分だけが生き延びた…?
 ―何故、自分だけが無傷だった……?
 考えても埒が明かない事は、彼自身、重々心得ているのだがそう思うのも致し方のない事だった。 周囲の同情と恐れの眼差しを受けるくらいなら、いっそ死んだ方がよかったと思う。
 生き残るはずのない火災の中で、生き残った自分。友人はこの事を知ると恐れ、離れていった。親類でさえも、忌み子として遠ざける始末。
 高校生が一人暮らしをするには、あまりに広すぎるマンションの一室が、親戚から龍馬に与えられた住居だ。
「世話はしないが、金はやる」
 そう言ったのは、誰だったか。体のいい厄介払いと言ったところだ。
 中途半端に関わるなと不愉快に思いながらも、龍馬は抗う事無く世話になっていた。何せ、自分は学生の身。稼げる金なんてたかが知れている。
 バイトで食い繋ぎ、与えられる多額の小遣いはあまり使用する事無く、口座にそのまま貯め続けていた。
 そして、いつもの憂鬱な朝が始まる。
 学校に遅刻しない様に部屋を出て、バイクに跨る。自宅から学校までバイクでおよそ五分。
 ギリギリで門を潜るのが、龍馬の日常だ。わざわざ自分を好奇の目に晒す必要もない。職員室に行き、担任に登校の旨を伝え、さっさと屋上へ向かう。
 気味が悪い輩とは同じ教室に居たくないと、担任伝いにクラスメイトから苦情を言われ、「兎に角、登校すれば授業は受けなくていい」とは校長直々の申し出。
「教師がそれでいいのかよ…」
 呟いた所で誰も答える訳ではなく、風に流されて青空に消えるだけ。
 好きで生き残ったわけではないのに。胸を締め付けるこの痛みは、一体何から来るというのか。慣れたくなかった孤独が、今や唯一の安らぎとは何とも皮肉なことだ。
 龍馬は考えても仕方が無いと息を付き、屋上で何をするでもなく、フェンスを背にぼんやりと座り込んでいた。すると、扉の向こう側から何やら軽快な音がして来た。
 ―タシタシタシタシタシ
 階段を駆け上がって来る音だ。
(…何?)
 人ではないのは確かで、その音は微かに聞こえる程度の小ささだ。何の足音かと考えていると、扉がガチャッと音を立てて開いた。
「………ドー…ベル、マン?」
 隙間から体を捻じ込んで姿を現したのは、黒く艶めく毛並みの持ち主。凛々しい顔つきのドーベルマンだった。因みに雄である。
 あまりに唐突な登場だった為、どうやって扉を開けたのかなど思考の外。犬は迷う事無く、龍馬に近付いて来た。
「えー…俺…咬まれるのは勘弁…」
 龍馬が僅かに青くなりながら立ち上がれば、犬の声がクゥッと上がった。次の瞬間。
《誰が咬むか、馬鹿者が》
 聞き慣れない男の声に、龍馬の動きが止まる。
(しゃ、しゃべ?)
 フリーズする龍馬。その間に龍馬の足元まで来た犬は、鼻を鳴らして龍馬のにおいを嗅ぎ始めた。
「な、なに?」
《ふむ…微かに『真血』の甘い匂い…》
「しん、けつ…?」
 微かに震える声で問えば、犬はひとつ頷いて見せた。
《真の血筋と言うことだ。汝、名は?》
「さ、更紗龍馬」
《では、リョーマ。我が名はアグニ。時が来れば我が名を呼べ》
 不遜な態度の犬はそれだけを言い残し、唖然としている龍馬を置いて軽く駆け始め、龍馬が止める間も無く、屋上の高いフェンスを軽々と飛び越えた。
「ぉ、おい!」
 飛び降りれば確実に助からない高さだ。慌てて下方を覗き込むが、そこには無人のグラウンド。犬の影はカケラもない。
「…何だったんだ…今の…」
 龍馬の呟きは、虚しく風に流された。 
それから早二週間。犬と会話をした屋上での出来事が嘘のように、日常は何ら変わりなく過ぎていた。
 買い物帰りにいつも通る少し大きな公園。公園の中央には小さな噴水があり、そこを覗き込めば沢山の蓮の花が浮かんでいる。
「あ?」
 噴水の横を通り過ぎようと歩いていると、不意に何か違和感を感じ取り、首を傾げながら噴水を覗き込んで見る。そこにあった違和感。
「赤?」
 他の薄紫の蓮と色の違う、小さな蕾があった。その蕾は、炎のように赤い。
 不思議に思いつつも「ま、いっか…」の一言で済ませ、再び自宅に向かって歩き出した。

 ―ジャッジャッ
 軽快に鍋を振る音が部屋に響く。今夜の龍馬夕食、炒飯だ。
「ぅし…っと」
 お玉を駆使してキレイに皿に盛り付けた、その時。
《ふむ、美味そうな匂いだな》
「……ぁ?」
 自分しか居ない筈の室内から聞こえた声。
カウンターからリビングを覗き込んでみれば、何時ぞやの「喋る犬」がソファーに伏せっていた。
 突然の事に硬直してしまうが、すぐに現実に戻って来ると躊躇う事無く近くにあった玉葱を掴み、犬に向かって勢い良く投げ付ける。犬ことアグニは、慌ててその場から逃げて間一髪で避けた。
《怪我をしたらどうする!》
「知るか。不法侵入の犬が」
 叫ぶアグニに対し龍馬が軽く鼻で笑えば、アグニは地を這うのではないかと思えるほど深い溜息を 吐き出した。
《不法侵入とは失敬な…》
「いや、事実だろ…で?今度は何の用だよ」
 睨んだところで、アグニは何処吹く風。ゆったりとした動作で体を起こした。
 深紅の瞳が龍馬の目を見据えた。
《…全ては『赤き蓮』より始まる》
 ぼそりと呟いた次の瞬間には、アグニの姿は空気に溶けるように消え去った。
《再びまみえよう…ほのおに守られし者よ…―》
 その言葉だけ残して。
「訳…わかんねー…」
 溜息と共に吐き出された言葉は、掠れていて自分自身すら聞き取りにくいものだった。
 ―焔に守られし者…
 耳に残る言葉に寒気がした。
 それからというもの、龍馬の機嫌は底辺を突き抜けていた。学校に行き、登校を伝えてそのまま下校。端的に言えばサボリである。
 最近は、散々な目に会っていた。料理をしていれば突如火力が大きくなったり、近所の年寄りが火を焚いていれば、その火が跳ねて襲って来たり。
兎に角、自分の不幸には〝火〟が関わっている。
 同時に、しばらく見る事のなかった〝あの日の悪夢〟を毎晩見るようになった。毎夜毎夜、激しく魘されては跳ね起きて、汗だくの体を拭くという繰り返し。
 そして、目覚める瞬間にいつも聞く声。
「我が…花嫁…―?」
 低い、耳に残る心地よいとも言える声。本当に愛しそうに紡がれるその言葉に、何故か逸る心臓。
「あぁー、クソ…頭イテー…」
 考えても、考えても。答えに行き着くはずの無い考えは、深く根強く龍馬の心を苛んで行く。
 一時間もせずに帰宅した龍馬は、ソファーに仰向けに転がってボンヤリと天井を見上げていたのだが、うとうとと睡魔に襲われ始め、いつの間にか寝息を立てていた。

   ***

 気が付けばそこは、深い赤を更に黒で塗り潰した漆黒の闇の中。異常な状況に、夢だと直ぐに理解した。深淵の闇は、ただ静かに其処に在る。
不意にひとつの明りが灯った。蓮の花の形をした深紅の焔。
「…火………?」
 龍馬は息を呑んだ。
通常の火ならば、問題はない。しかし目の前に姿を見せた火は、彼の心を揺さ振るのに充分だった。
灯った火の色が、あの灼熱の地獄を連想させる。泣いても、叫んでも、喚いても。助けは来ず。目の前で、大好きな両親の命を奪い取ったあの業火の色。
 嫌な汗が滲みだし、呼吸が荒くなる。心臓が激しく暴れ、血がざわめく。
 しかし、嫌悪にではない。寧ろ、〝歓喜〟にと言った方が相応しいだろう。
 頭では拒むのに、体は求めるように手を伸ばしていた。
 ―……‥見付ケタ…愛シイ人…
 あの声が闇に響いた時、龍馬の意識は闇に溶けた。 

   ***

 龍馬は目を見開いたまま、茫然自失の状態で見慣れた天井を見上げていた。瞼に焼き付いている焔の色が、脳裏に浮かんでは消えを繰り返して龍馬を苦しめる。
 ―パサ…
 床に何か軽いものが落下し、のろのろとした動作で音がした方に視線を移せば。
「さっきの…花…?」
 深紅に染まった蓮が一輪。綺麗な形のまま、床に伏していた。
 龍馬は花の紅い色に何も考えられなくなり、無意識の内に花に手を伸ばした。
《―時は来た…》
 男の声が頭の中に響いたと思った次の瞬間、目の前が真っ暗になった。
窓を開けていない部屋に風が駆け抜ける。風が止む頃、そこに龍馬の姿はなかった。 

  ―全ては〝赤き蓮〟より始まる―

  ***

 重力は全く感じない。浮遊感に身を任せる。
 重い瞼を無理矢理開き、ゆっくりと瞬きをして辺りを見渡しても、何も存在しない。
在るのは闇、闇、闇。
 ―タシタシタシ… 
 何時だったか、屋上で聞いた事のある軽快な足音。音がする方に顔を向ければ、ドーベルマンがこっちに向かって歩いている姿が見えた。
《生きているか?》
「…なに、ここ…」
 アグニの問いに対し、龍馬は更に質問をかぶせた。声が酷く掠れていた。喉が張り付いたかのように痛みを訴え、ケホッと軽く噎せる。
《簡潔に言えば、お前の『故郷』か》
「は…?」
 アグニの答えに眉を寄せれば、不意にアグニのピンと立った耳が小さな反応を見せた。
《しばらく、私は姿が現せん。だが『奴』は信用出来る》
「やつ…?」
 聞き返しても、返事はなかった。アグニの姿は既に消えていた。言い逃げかよ、と内心でツッコミつつ意識を飛ばした。

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