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黒檀の章
6
しおりを挟むアイリーンは望に近付き、親指をきつく噛んで皮膚を小さく裂いた。ぷくりと赤い液体が溢れる。
「竜の血は全ての災いを退ける強固な壁。竜の血よ、印持ちし者を護り給え…」
血で小さな陣を描きながら、ソニアに聞こえないように小さく呟いた。描き終えると、その陣は望の額に吸い込まれるように静かに消えた。
「さーて、始めましょうかね」
兄の言葉に、ソニアは頷いた。
床に描かれた小さな陣が二つと、それに挟まれるように描かれた少し大きな陣。兄妹は小さな人の中に立ち、望を真ん中の陣に移動させて向かい合う。
「時よ。我らの介入を許し給え」
二つの声が重なった瞬間、激しい耳鳴りが望を襲うが、怯む事無く、真っ直ぐに龍馬だけを見つめる。
「我らが狭間に在る気高き魂を受け入れよ。迎え入れよ。我らの『命の色』による呼び掛けに応え給え」
詠唱が進むにつれ、望の目が虚ろに揺れ始める。
三人の足元の陣が淡い紫の光を放ち始める。共鳴するように望の体も淡く輝き出し、足が陣から僅かに浮かび上がった。
「彼の者の魂を導け。時空神『アイオーン』」
強い光が部屋中に広がり、言葉無く事の成り行きを見つめていたクリオスの視界を奪う。
数秒後、ドサリと人が倒れる音二つ。同時に光は消え去った。望とソニアが柔らかな絨毯に伏している。
「ふう…どうにか成功、か?」
腰に手を当てて息を吐き出したアイリーンを見て、クリオスが叫んだ。
《何と言う事…!人が時の流れ…神の領域に介入するなんて…!》
なんと恐れ多い事を。
尚言い募ろうとするクリオスに向かい、アイリーンは声を上げて笑った。それがどうした、と言わんばかりに。
「人、ね。クリオス、お前さんは俺とソニアの『人ならざる色』を見ても、俺らを『人』として見てくれてんの?」
紫紺の髪は罪の色。紫紺の瞳は禁忌の証。人と竜の混血児である証だ。
途端、クリオスの表情が曇る。
「時への介入は、竜の血がしただけだよ。人の血の介入はしていない。ってか、人の血がそんな事したら化け物になるわ」
ふふ、と笑いながら、倒れるソニアを抱え上げ、ソファーに寝かせた。 次いで望を抱き上げようと近付いた瞬間。
―バチンッ!
水晶が過剰反応を示し、近付いたアイリーンへと攻撃を仕掛けた。が、その威力はアイリーンに届く事無く、彼の得物である流星錘『朧雪』が行く手を塞いでいた。
「ったく…地神族の王様も怖い事したもんだ」
ため息交じりに望を抱き上げると、龍馬のベッドへと横たえた。その枕元に腰掛け、サイドテーブルにいるクリオスと対面する。クリオスの視線は、アイリーンの得物に釘付けになっている。
《その錘は…》
「実のところ、俺もよくわかんねーんだよな。親父が竜だったんだけど…ちっちぇー頃にくれたんだよ」
ふわりふわりと浮く流星錘。重力に従わないそれは、クリオスの記憶の中の何かを掠めた。
《…お父様のお名前は…?》
「あー…っと、確か…ごうこう…?うん、敖広って言ってた」
その名にクリオスは瞠目した。
かつて気高き『紅蓮の花嫁』に寄り添う、歴代最強の契約竜が居た。五本の爪を有する黒鱗金眼の龍王。名を倶梨伽羅。
そして、『花嫁』には信頼に足る四人の友が居た。しかし、四人とも人に非ず。
南方を統べる南海紅竜王・敖欽。
西方を統べる西海白竜王・敖閏。
北方を統べる北海黒竜王・敖順。
そして、東方を統べる東海蒼竜王・敖広。
彼等は兄弟。敖広を長兄とし、敖欽、敖閏、敖順と続く。四天王と謳われ、畏怖の対象でもあった敖兄弟。
『花嫁』崩御とほぼ同時に姿を消した彼等。どれだけ捜そうとも、未だ消息は掴めていない。
―しかし、今、目の前に…
「え、ちょ、クリオスさん!?」
アイリーンは、焦った。クリオスの赤い眼から溢れ出た炎の涙が、はらはらと頬を伝い落ちては宙に消えて行く。
「何か解んないけどゴメンナサイ!」
少女の涙に慌てふためき、土下座をしそうな勢いで謝り出すが、クリオスは首を横に振り「違いますわ…」と小さく呟いた。
《申し訳ありません…アイリーン様が悪い訳では御座いませんわ》
嗚咽に震える声は、儚く消えてしまいそうな程に小さい。
《そちらの武具に見覚えがありましたの。遙か昔、ワタクシが生まれたばかりの頃、当時の精霊王を始め王后様、龍王様、そして四名の家臣の方々に可愛がって頂きましたの。…アイリーン様のお父様が、その内のお一方だと確信して、嬉しくてつい…》
クリオスの脳裏に浮かぶのは、流星錘を華麗に操り、見事な舞を見せる東海蒼竜王の姿。
普段は鉄面皮で表情が無く、必要最低限しか口を開かない。しかし、不意に見せる穏やかな表情や天然なところは、周りの者をいつも和ませていた。
あの頃は、いつまでも穏やかで、平和な日々が続くのだと思っていた。しかし、森羅万象、全てのものはいずれ終わりが来るのが世の理。
精霊王と『花嫁』は、手に手をとるように仲睦まじく揃って崩御。四人の家臣も、城を去った。
皆が皆、別れ際に同じ事を言っていた。
『今、時代の終焉が訪れた。お前を残して去る事は心苦しいが、これもお前に託された役目。見つめなさい。この世界がどのような道を辿り、どのような歴史を築くのかを…』
あれから幾年月が流れたか。泣き明かした夜はほんの少し。泣かなくなって幾百年。
幾つの時代の始まりと終わりを見て来たか。
何度となく過去を懐かしんだ。
亡き帝王、『花嫁』、龍王。行方不明の四天王。
穏やかに歌い、舞い、笑いあった日々。
思い出す度に、胸は熱くなり、戻らぬ日々に苦しんだ。いつしか、四天王の存在は「伝説上の存在」として、この世に居た事すら忘れられてしまった。
あの時代を知る精霊すら少ない。フェニーチェや螢など、地位の高い精霊ぐらいだ。
《それで、お父様は…?》
「んー…死んだ、のかな?」
濁した言い方に、クリオスは眉間に皺を寄せた。
《と、申されますと…?》
「俺もよくわかんねーんだよ。俺らが育ったところで、でっけー戦争が起きちまって、それ以来。クリオスと話して、久々に思い出したぜ…親父の事…」
細められた目。懐かしさ、寂しさ、怒り。様々な感情が入り乱れている。
憂いを帯びた目は、彼の竜王、敖広の面影を残していた。
《…王の間に行かれなくて宜しいんですの?》
「俺が行っても、何も出来ねーさね。あの馬鹿ぐらいしか止めらんねーよ」
視線を投げたのは水晶に眠る龍馬。
彼が目覚めれば…二人はそう思いながら、只静かに時を過ごした。
***
「降り注ぐは神の怒り。燃え盛るは地獄の業火」
「大地鳴動、シェレス・ギディア爪牙飛蓮!」
互いに繰り出すのは上級の精霊術。
抑えきれない感情に二人とも戸惑い、それでも攻撃を止める事は出来なかった。
―なんと無駄な争いか…
頭の隅では解っていた。しかし、退けない。
訳の解らない感情が全てを支配する。王である以上、私情で争うなど許されない。一時の感情で誰かを傷付けるなど。
お互いに手の内は知っている。力量も知っている。
終わりが見えない。誰かに止めて欲しい。
だが、誰に?
己等にとって隊長格すら赤子にも等しいのに?
ヒガディアルの脳裏には、ひとりの人物が浮かび上がる。その人は、今は居ない。魂の存在を傍らに感じない。
ひゅっと喉が鳴った気がした。
「何を泣く。優しき精霊王、ヒガディアル」
術を繰り出しながら、ハーティリアが声を掛ける。
「泣く?私がか?」
ヒガディアルは答える。
「自覚がないか」
「泣いてはおらぬ」
「では、その頬を流れる雫を何とする」
ハーティリアの声音は、厳しくも優しいものだ。ヒガディアルはそっと己の頬に触れた。
「…辛いか?」
不意にハーティリアの攻撃が止み、ヒガディアルも手を止めた。二人とも床に足を付け、向かい合う。
逡巡の後。
「………解らぬ…」
目を伏せ、ヒガディアルが呟く。いつに無い弱々しい声にハーティリアの表情が曇る。
「解らぬ、と?」
解せぬ、と今にも怒鳴ってしまいそうな雰囲気だが、どうにか堪えているようにも見える。
「お前との手合わせなど、今までも何度もあった。だが、このように胸の内がざわめく事は、一度たりとてなかった…」
ヒガディアルの右手が、心臓の真上を握り締めた。上質の衣服に皺が寄るのも構わず、力の限り。
その姿が、痛々しい。
ハーティリアは、今更ながら己の軽率な行動を悔いていた。
まさか、この目の前の男が『花嫁』にあの話をしていたとは思わなかったのだ。だが、それは単なる言い訳に過ぎない。自分が水晶達にあのような事を言わなければ、事はもっとスムーズに運んでいただろう。
居心地が悪く、ガリガリと後頭部を掻いた。
「それは、お前が集中出来ておらぬからだ、坊や」
どす、とその場に胡坐を掻いて座り込む。
辺りは瓦礫で埋もれており、やり過ぎたと息を吐いて部屋の隅に陣取っているトラスティル達を手招いた。
「お前達も出て来い。もう争わん」
緩んだ空気に、まず康平が立ち上がり、トラスティル達も後に続いた。
「この惨状、どーすんだよ、おっさん」
苛立たし気に康平が口を開けば、ティウが驚愕に目を見開き、口がアワアワと開閉を繰り返している。その表情に、殊更楽しそうにリタが声を上げている。
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