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第7章
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しおりを挟むモニスは自身の唇の内側に歯を立てる。加減が上手く出来ずに深く食い込み、血の味が広がった。しかし、その痛みが自我を引き留める。
「…今にも、噛み付いてきそうな表情じゃの。天使族が、紛い物の魔族に心を砕くか」
緩く握る手を口元に添えてくふくふと笑う冰王の言葉は、挑発であり、事実である。自分は『天使族』で、天使族である自分が案じているのは『人間の魂を基にした魔族』だ。
「紛い物、ですか…。確かに、彼は生まれながらの魔族ではないけれど、人の身を捨て、人の魂を捨てて彼は冥幻魔界に生まれた紛う事の無き『魔族』だ。そして、私は彼に囚われた天使族です。彼が居なければ、魔皇の手により滅びるのみ。案じる事に何の不都合がおありか?」
彼の我侭に付き合わされて、生き延びているのが今だ。彼が飽きたと手放さぬ限り、己の命は彼が握っている。彼が無事である限り、命が続く。誇張では無く、事実。
モニス・マナ=ケルブの命は、魔皇とその伴侶が握っているのだ。
真っ直ぐに見据えて来る天使族に、冰王はその胸中で穏やかに笑う。童のように純真で、童女のように無垢な『思い』は、幾年振りか。
―皇がおられるが故に、わたくしは息が出来る。生きて逝けるのです。
頬を柔らかな桃色に染めて吐露した少女は、遠き記憶の果て。彼女は幾人目の『皇妃』であったか。氷雪の心が愛でた、ひとつの魂の欠片を呼び起こした。
ほう…と冰王の唇から零れ落ちた吐息に、モニスはひとつまばたきをした。
「…実に、『こころ』と言うのは厄介なものよの…智天使の君…」
ほろりまろび出た言葉は、一抹の哀しみを抱き締めて地面に落ちて行く。
「ええ…厄介でいて、愛おしく、狂おしいものでございます」
返せば、少しばかり色の違う笑みを返された。
「綺羅綺羅しい童は愛いものじゃ。良い良い。そのまま健やかたれ」
「童…ですか…」
童と称されるには年月を重ねているし、ひねくれている自覚もある。本物の童とは対極の位置に存在すると自負するが、冰王の中でそこに落ち着いたのならば無駄に足掻くつもりもない。言いたい事は口を噤んで、飲み込んでおく事にした。
「意地の悪い事を申した、許せ」
「お気になさいますな。私も少々意地を張りました。お赦しを」
「良い、両成敗じゃ」
「恩情有難く」
空気が和らぎ、室内も幾分温かくなったように感じた。
「しかし、『天眼』を無理に解除しても良い事は無い。先に申した通り、『天眼』は心の隙間に入り込む。対象の弱い箇所を曝け出すが故に、より深き傷となってしまうであろう。そうなってしまえば目覚めたとて…」
そう言って嘆息する冰王の視線を追うように、康泰へと目を向けた。
今回の事は自分の落ち度だ。言い訳のしようもない。
康泰が『天眼』に囚われている事は魔皇も気が付いているはずだ。それでも、自分に何も起きていないのは、己が渡した『対価』のお陰だろうと胸中息を吐く。
「妾たちには何も出来ぬ。『玉』の強さを信じるのみよ…」
「…はい」
***
気軽に友を売った青年は、懐かしい実家の縁側に腰を下ろしていた。隣には、小さな魔皇。そして、小さな魔皇の腕の中には、もっと小さな赤子。先ほどまでの大泣きが嘘のように気持ち良さそうに眠っている。
少年皇の背を追って自宅へと足を踏み入れた後、少年皇は迷う事無く赤子のもとに辿り着き、その腕の中に泣き虫を閉じ込めた。
「して、ツガイ殿は何を思うてこのような場所へ?」
柔らかな赤子の頬を堪能している指先が、ほんの一瞬だけ動きを止め、何もなかったかのように再び動き始めた。
「んー…まあ、『天眼』とか言うものの力で?」
視線を赤子から動かす事無く、康泰は答える。
「…囚われるような性質でもあるまいに」
ため息交じりに呟かれるが、口角をゆるりと持ち上げるだけで何か反論をする事も無い。
「メリディアの『誘惑』に屈さぬ者が『天眼』に囚われるものか」
『誘惑』の魔力自体はそれほど希少でも無ければ、強力なものでも無い。だが、その性質は魔力の大きさや種族に左右され易い。魔力が豊富で行使者の種族が強ければ『誘惑』も恐ろしい武器となる。
メリディアは魔族でも上位に位置する吸血鬼族であり、それに加えて一族を統べる女帝、『魔王』になるほどの強者だ。馮族の『天眼』よりは劣るものの、それに匹敵する『誘惑』を放つ。
しかし、当時不安定な魔力であったにも関わらず、康泰は僅かも服従しなかった。その時よりも魔力が安定した今、『天眼』による影響は幾許かあれども囚われる事は無い。
前屈みになって膝に頬杖をついた康泰は、庭先に揺れるツツジの群れを眺めながらそろりと息を吐き出した。
「んー…まあ、うん、ちょっと疲れたんだよ。多分、そこに入り込まれたと言うか、自己防衛の反応が遅れたと言うか…」
特別な何かがあった訳では無く、少しばかりの気疲れ。
人として死に、魔族として生まれ、駆け抜けて来た日々が悪かった訳ではない。寧ろ、楽しく愛すべき日々だ。ただ、少しだけ立ち止まりたかった。
ここからは独り言、と弱弱しい声が零れ落ちる。
「俺はさ、多分って言うか…魔皇さんの次に強い。誇張とか見栄とかじゃなくて、事実として、強い…」
手のひらを見つめて、握ったり開いたりと繰り返す。
「強いから、怖い。俺が魔力を制御出来ずに暴走させてしまった時、止められるのは魔皇さんだけだ。でもきっと、お互いに無傷で済むはずが無い」
自分が傷付くのは構わない。けれども。
瞼を伏せ、思い描くのは美しく誇り高い孤高の皇。
「彼の手を、俺の血で汚したくは無いんだ」
きっと、後悔する。自分も、彼も。
少年皇は、腕の中の赤子をあやしながら康泰の独り言を聞く。
「それを切っ掛けに世界が崩壊しようと、融解しようとどうでも良いんだ」
薄情な話だけれど、それが本心だ。
「でも、ロイウェン皇の心を毀してしまうのは嫌なんだ…」
全ての思いを飲み込んで、ひとりの伴侶の為に己を封じた器用だけれど不器用で、優しい、愛おしい男。
「『私』はとても愛されているのだな」
楽し気に声が揺れる。つられるように、康泰の唇から小さな笑みが零れ落ちた。
「うん、そうだな…愛してるんだ…」
過ぎ行く日常の中で忘れていた遠い記憶が蘇る。高校時代、授業中の短い睡夢。
吹雪の中、佇む自分に手を伸ばして来た無表情の男。男が向けて来た柔らかな声、慈しみの眼差し。誰からも向けられた事の無い、深い感情を優しく滲ませた声が、双眸が、全てが自分に向けられているのだと知って、死んでしまうのではないかと思う程に胸が締め付けられて呼吸の仕方を忘れてしまった。
「あの人が『俺』では無くて、『伴侶』を見ているのだとしても構わないくらいには、愛しているんだと思う…」
あれが初恋なのだと今なら言えるだろう。あの時ほどの息苦しさも、胸の痛みも人として生きている間に感じた事は無いのだから。
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