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旦那様は魔王様≪最終話≫

違和感 4

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 沙良は何度目かのため息をついた。

 ここ数日、気がつけばため息をついている気がする。

 どうしてか、心の中がもやもやするのだ。違和感、と言うのかもしれない。「何か」が変だと、心が訴える。

「沙良ちゃん、どうかした?」

 セリウスが心配そうな顔をして言う。

 ここのところずっと沙良に張りついていたミリアムが、用事があると言ってそばを離れた僅かな隙に、セリウスによって誘い出されて中庭を歩いていた。

 二人きりになることなんて、珍しくないはずなのに、どうしてか彼と二人きりでいることが落ち着かない。

 手をつないで、何をするでもなくゆっくりと歩く。

 他愛ない話をしながら、ゆっくりと。

 セリウスと一緒にいるのはとても楽しく、幸せなはずなのに、油断していると彼以外のことを考えている自分がいた。

「今度、旅行にでも行こうか」

「え?」

 またぼーっとしかけていた沙良は、セリウスの言葉に顔をあげた。

「旅行だよ」

「旅行、ですか?」

「うん。いや?」

 少し考えて、沙良はゆっくりと首を横に振った。嫌ではない、と思う。

 セリウスと結婚して数か月たつが、旅行には行ったことがない。きっと楽しいだろう。新婚旅行みたいで――、そう考えながら、沙良はふと思い出せないことがあることに気がついた。

(セリウス様と結婚したの、いつだっけ?)

 思い出せない。

 足を止めて考え込むと、セリウスが不思議そうな顔をする。

「沙良ちゃん?」

 呼ばれて、沙良は不安そうな表情で顔をあげた。

「セリウス様……、なんか変なんです。セリウス様と結婚したの、いつだったか思い出せない……」

 そんなに昔のことではないはずなのにと、泣きそうな顔をする沙良に、セリウスはハッと目を見開いた。

「ごめんなさい……。最近、頭がぼーっとするんです。そのせいかもしれないけど……、どうしても思い出せない」

 大事なことなのに。

 どうしてこんなに大切なことが思い出せないのか。

 思い出そうとすると頭が痛くて、どうしていいのかわからずに沙良は唇をかんだ。

「沙良ちゃん、大丈夫だから……」

 セリウスが、沙良をそっと抱きしめる。

 抱きしめられると柑橘系の香りがして、沙良はそっと目を閉じる。セリウスの好きな香水の香りだ。よく知っているはず――、なのに、やはり違和感がして、沙良はセリウスの腕の中で、香りについて考える。

 沙良がよく知っている香りは、石鹸のような、さわやかな香りで――。どうしてそう思うのかわからないけれど、彼の香水とは違う何かの香りだった気がして、やはりもやもやしてしまうのだ。

 セリウスはしばらく沙良を抱きしめていたが、ややして腕の力を緩めると、そっと沙良の肩に手をおいた。

「沙良ちゃん」

「え?」

 沙良が顔をあげると、真剣な目をしたセリウスの顔がそこにある。

「沙良ちゃん、俺は君が好きだよ」

 吸い込まれそうなほど深い青い瞳が、じっと沙良を見つめていた。

 その目が、細められながら徐々に近づいてきて、沙良は逆に目を見開く。

「まっ……」

 顔が近づき、唇に吐息がかかった瞬間、沙良の心が悲鳴を上げた。

(いや……!)

 セリウスの唇が重なる前に、沙良は反射的に彼を突き飛ばすと、何も考えず踵を返して走り出す。

(嫌、いや、いやっ)

 何が「嫌」なのかわからない。頭の中がぐるぐるで、「沙良ちゃん!」というセリウスの声を背中に受けながら、沙良は無我夢中で走った。

 中庭を駆け抜け、城の廊下を走る。途中足をもつらせながら、息を切らせながら廊下を走り抜けると、角を曲がろうとしたところで誰かにぶつかってしまった。

「きゃっ……」

「沙良!?」

 ぶつかって後ろに倒れそうになったところを、力強い腕が引き寄せる。

 顔をあげると、目を丸くしたシヴァがそこにいた。

 反射的に、沙良は恐怖で悲鳴をあげそうになるが、必死に悲鳴を飲み込むと、シヴァに腰を支えられたまま彼の顔を見上げる。

 緊張と恐怖で、喉がからからに渇いていく。

 助けてくれたんだからお礼を言わないと、と必死に自分に言い聞かせるのに、言葉が出てこない。

 そんな沙良を、シヴァが支えながら立たせてくれるが、右足を床につけた途端に鈍い痛みが走った。

「っ……」

 顔をしかめた沙良を見て、シヴァがすぐに気づく。

「ひねったのか」

 おそらく、シヴァとぶつかってよろめいたときだろう。沙良は右足に体重をかけないようにして立つと、シヴァに小さく頭を下げる。

「ぶ、ぶつかって、ごめんなさい……」

 消え入りそうなほど小さな声で言って、そのまま、ひょこひょこと右足をかばいながらシヴァの横を通りすぎようとしたときだった。

「待て」

 呼び止められたかと思ったときには、足が宙に浮いていた。

 目を丸くする沙良を見下ろすのは、二つの漆黒の瞳。氷のように冷たいはずのその瞳が、心配そうな光を宿して沙良を見つめている。

 沙良が、シヴァに抱きかかえられていると気づいたのは、シヴァが沙良を抱えたまま歩きはじめてからだった。

「え、え?」

 恐怖よりも驚愕で、沙良の頭が真っ白になる。

「部屋まで運ぶ。おとなしくしていろ」

 シヴァはぶっきらぼうにも聞こえる口調で言うが、その声はどこか優しい。

 沙良はシヴァの腕の中で体を小さくして硬直したが、どうしてかこの腕から逃げ出したいとは思わなかった。

 沙良はちらりとシヴァの横顔を見上げる。

 シャープな顎のライン。気難しそうだが綺麗なカーブを描く眉。睫毛は羨ましくなるほど長くて、目の下に影を落としていた。すっと高い鼻に、薄い唇。男の人にしては白い肌はすごくきめ細やかで、やっぱりそれも羨ましくて、ずるいと思う。

 これほど近くでシヴァの顔を見るのははじめてのはずなのに、沙良はこの角度からシヴァの顔を見るのは、はじめてではない気がしていた。

 そっとシヴァの胸に体重を預けるように寄りかかってみると、微かに心臓の音が聞こえてくる。

(変なの……、怖いのに、安心する)

 そして、何故だか少し泣きたくなる。

「足、痛むか?」

 セリウスの砂糖菓子のように甘い声とは違い、少しだけ神経質な響きのある声。

「大丈夫、です」

 右足は熱を持ってズキズキと痛むけれど、顔の方が熱い気がした。

「部屋についたら、リザに冷やしてもらえ」

「……はい」

 微かに香る、石鹸のようなさわやかな香り。

(わたし、変……)

 シヴァは怖いのに――、懐かしくて、優しくて、そして少し切ない気持ちになるのはどうして?

 沙良の部屋に到着したシヴァは、沙良をソファに下ろすと、窓際にピンクの薔薇を生けていたリザに右足の捻挫ねんざの手当てをするように告げる。

 去り際、遠慮がちにぽんっと頭におかれたシヴァの手を、沙良は反射的につかみたい衝動にかられた――。
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