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お猫様はどこに消えた!?
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ロゼインブルグ国首都、リュディアス――
ヴィクトールが、その西を流れるルドン川の近くに借りているアパルトマンに帰ったのは、まだ夜明け前だった。
サーカス団の女から情報を聞き出して夜中に安宿を出たはいいが、静まり返った深更に辻馬車が通っているはずもなく、仕方なく歩いて一時間半もかかる距離をとことこと徒歩で戻って来たのである。
音をたてないようにそーっと玄関の扉を開け、シルクハットを脱いで、ハムスターと鳩をそれぞれのケージに入れると、ヴィクトールは静かにベッドまで歩いていく。
ベッドの中には、あどけない顔で眠る一人の少女がいた。
少女と言っても、外見こそ二、三歳は若く見えるが、彼女は十九歳。もう女性と呼ぶにふさわしい体つきをしている。
さらさらとベッドに広がるのは、まっすぐな濃いブラウンの髪。
肌は白く、今は閉ざされている長いまつ毛に縁どられた目を開ければ、同じ色のくりっとした瞳があらわれる。
小柄で、ほっそりとした肢体を猫のように丸めて、彼女はすやすやと眠っていた。
「ただいま、スノウ」
彼女の本名はわからない。彼女自身も知らないから、ヴィクトールは彼女にスノウという名前をつけていた。
一年前――、とある事件を調べているときに出会い、そして、ひどく傷つけてしまった、天涯孤独の少女だった。
彼女は当時――今も充分そういう性格だが――、人を疑うことを知らないほどに純粋でまっすぐで、そして、心に深い傷を負っていた。
彼女は、その事件の被害者の一人で、同時に有力な情報源だった。
どうやって彼女から情報を聞き出そうかと考えていたところへ、ひょこひょこと彼女の方から近づいてきたのである。
そのとき、ヴィクトールは何か裏があるのだと警戒していた。
しかし彼女は、悪意のある人間に騙されて、ヴィクトールならば助けてくれると、優しくしてくれると信じて、自らやってきた。
彼女は、産まれたばかりの子猫さながらに、警戒心というものを持たず、ヴィクトールを自分を助けてくれる天使だと信じてやってきていた。
もちろん、人を疑うことしか知らないヴィクトールは、その純粋な様子はすべて演技だと決めつけて――、結果、彼女をずたずたに傷つけてしまったのだ。
彼女がどれほどつらい人生を送ってきて、それなのにどれほど純粋な性格であるのか――、そのことに気がついた時には遅かった。
彼女はヴィクトールに対してひどい恐怖を覚えており――、ヴィクトールは彼女に償いたいと思うとともに、強い庇護欲を覚えてしまった。
どこにも行く当てのない彼女をこのアパルトマンに一緒に住まわせて、身の回りの世話を焼いているうちに、もともと純粋な彼女は、次第にヴィクトールに心を開いてくれるようになった。
「んぅ……」
ヴィクトールがじっと見つめていたせいだろうか、スノウのまつ毛がピクリと揺れて、ゆっくりと瞼が持ち上がった。
「ヴィ―?」
目をこすりながら、寝起きの舌足らずな声をあげて、スノウが上体を起こす。
ヴィクトールのシャツを夜着がわりに来ている彼女の雰囲気は、だいぶ幼い。
「ごめんね、起こしたかな?」
「んー?」
ヴィクトールがスノウの頭を撫でれば、彼女はすりすりとすり寄ってきた。
ヴィクトールはひょいっと彼女を抱き上げて膝の上に横抱きに抱え込む。
半分まだ夢の中の様子でヴィクトールの鎖骨のあたりに頬ずりしていたスノウだったが、ふと何かに気がついたのか眉間に皺が寄った。
「む?」
「どうした?」
「んー……」
くんくん、と寝ぼけ眼のスノウの鼻が動く。
「……百合の香り……?」
ヴィクトールはぎくりとした。
サーカス団の女がつけていた香水の香りだろう。湯を浴びる暇がなかったからそのまま部屋を出たが、どうやら香りが移っていたらしい。
「ヴィ―、おしごと?」
幸い、スノウはまだ寝ぼけている。
ヴィクトールが外で何をしているのか、スノウはもちろん知っているが、できれば隠しておきたいことだってあるのだ。
ヴィクトールはスノウの問いには答えずに、彼女をベッドに寝かせると、髪を梳くように頭を数回撫でる。そうすると、スノウが再びうとうとしはじめたので、ヴィクトールはそのままバスルームに急いだ。
湯を沸かす暇も惜しいので、頭から水をかぶる。
「……さむっ」
春先の、しかも夜明け前に水をかぶれば、それは寒いに決まっている。
しかし、ヴィクトールは寒さに震えながら何度か水をかぶり、女の残り香をすべて洗い流してしまうと、ガウンを羽織ってスノウの隣にもぐりこんだ。
水で冷えた体に、スノウの体温は温かい。
「む」
だが、突然冷えた体を押しつけられたスノウにしてみれば、たまったものではなかった。
「つめたぃ……」
目を閉ざしたままむにゃむにゃと文句を言って腕から逃げ出そうとするスノウを、ヴィクトールはがんじがらめにしてぎゅーっと抱きしめる。
スノウはしばらく弱々しく抵抗していたが、やがてヴィクトールの体温が上がってくると、そのまま、何事もなかったかのように、くてっと眠ってしまった。
ヴィクトールはスノウのすべらかな頬に口づけを落として、日が昇るまでの短い時間、幸せな眠りについたのだった。
ヴィクトールが、その西を流れるルドン川の近くに借りているアパルトマンに帰ったのは、まだ夜明け前だった。
サーカス団の女から情報を聞き出して夜中に安宿を出たはいいが、静まり返った深更に辻馬車が通っているはずもなく、仕方なく歩いて一時間半もかかる距離をとことこと徒歩で戻って来たのである。
音をたてないようにそーっと玄関の扉を開け、シルクハットを脱いで、ハムスターと鳩をそれぞれのケージに入れると、ヴィクトールは静かにベッドまで歩いていく。
ベッドの中には、あどけない顔で眠る一人の少女がいた。
少女と言っても、外見こそ二、三歳は若く見えるが、彼女は十九歳。もう女性と呼ぶにふさわしい体つきをしている。
さらさらとベッドに広がるのは、まっすぐな濃いブラウンの髪。
肌は白く、今は閉ざされている長いまつ毛に縁どられた目を開ければ、同じ色のくりっとした瞳があらわれる。
小柄で、ほっそりとした肢体を猫のように丸めて、彼女はすやすやと眠っていた。
「ただいま、スノウ」
彼女の本名はわからない。彼女自身も知らないから、ヴィクトールは彼女にスノウという名前をつけていた。
一年前――、とある事件を調べているときに出会い、そして、ひどく傷つけてしまった、天涯孤独の少女だった。
彼女は当時――今も充分そういう性格だが――、人を疑うことを知らないほどに純粋でまっすぐで、そして、心に深い傷を負っていた。
彼女は、その事件の被害者の一人で、同時に有力な情報源だった。
どうやって彼女から情報を聞き出そうかと考えていたところへ、ひょこひょこと彼女の方から近づいてきたのである。
そのとき、ヴィクトールは何か裏があるのだと警戒していた。
しかし彼女は、悪意のある人間に騙されて、ヴィクトールならば助けてくれると、優しくしてくれると信じて、自らやってきた。
彼女は、産まれたばかりの子猫さながらに、警戒心というものを持たず、ヴィクトールを自分を助けてくれる天使だと信じてやってきていた。
もちろん、人を疑うことしか知らないヴィクトールは、その純粋な様子はすべて演技だと決めつけて――、結果、彼女をずたずたに傷つけてしまったのだ。
彼女がどれほどつらい人生を送ってきて、それなのにどれほど純粋な性格であるのか――、そのことに気がついた時には遅かった。
彼女はヴィクトールに対してひどい恐怖を覚えており――、ヴィクトールは彼女に償いたいと思うとともに、強い庇護欲を覚えてしまった。
どこにも行く当てのない彼女をこのアパルトマンに一緒に住まわせて、身の回りの世話を焼いているうちに、もともと純粋な彼女は、次第にヴィクトールに心を開いてくれるようになった。
「んぅ……」
ヴィクトールがじっと見つめていたせいだろうか、スノウのまつ毛がピクリと揺れて、ゆっくりと瞼が持ち上がった。
「ヴィ―?」
目をこすりながら、寝起きの舌足らずな声をあげて、スノウが上体を起こす。
ヴィクトールのシャツを夜着がわりに来ている彼女の雰囲気は、だいぶ幼い。
「ごめんね、起こしたかな?」
「んー?」
ヴィクトールがスノウの頭を撫でれば、彼女はすりすりとすり寄ってきた。
ヴィクトールはひょいっと彼女を抱き上げて膝の上に横抱きに抱え込む。
半分まだ夢の中の様子でヴィクトールの鎖骨のあたりに頬ずりしていたスノウだったが、ふと何かに気がついたのか眉間に皺が寄った。
「む?」
「どうした?」
「んー……」
くんくん、と寝ぼけ眼のスノウの鼻が動く。
「……百合の香り……?」
ヴィクトールはぎくりとした。
サーカス団の女がつけていた香水の香りだろう。湯を浴びる暇がなかったからそのまま部屋を出たが、どうやら香りが移っていたらしい。
「ヴィ―、おしごと?」
幸い、スノウはまだ寝ぼけている。
ヴィクトールが外で何をしているのか、スノウはもちろん知っているが、できれば隠しておきたいことだってあるのだ。
ヴィクトールはスノウの問いには答えずに、彼女をベッドに寝かせると、髪を梳くように頭を数回撫でる。そうすると、スノウが再びうとうとしはじめたので、ヴィクトールはそのままバスルームに急いだ。
湯を沸かす暇も惜しいので、頭から水をかぶる。
「……さむっ」
春先の、しかも夜明け前に水をかぶれば、それは寒いに決まっている。
しかし、ヴィクトールは寒さに震えながら何度か水をかぶり、女の残り香をすべて洗い流してしまうと、ガウンを羽織ってスノウの隣にもぐりこんだ。
水で冷えた体に、スノウの体温は温かい。
「む」
だが、突然冷えた体を押しつけられたスノウにしてみれば、たまったものではなかった。
「つめたぃ……」
目を閉ざしたままむにゃむにゃと文句を言って腕から逃げ出そうとするスノウを、ヴィクトールはがんじがらめにしてぎゅーっと抱きしめる。
スノウはしばらく弱々しく抵抗していたが、やがてヴィクトールの体温が上がってくると、そのまま、何事もなかったかのように、くてっと眠ってしまった。
ヴィクトールはスノウのすべらかな頬に口づけを落として、日が昇るまでの短い時間、幸せな眠りについたのだった。
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