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鵬程万里
七
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幕舎の中に、灯された燭台の炎が揺れる。
「大王様」
武霊王は眼前に、暗然と凝る闇を独り睨み付けていた。
「話せ」
「公子董が僅かな手勢と、東垣に入った模様です」
背で告げる彼は、中山に潜り込ませている間者の一人である。
「公子が?何故」
「婉曲に中山王は、公子董に死を賜ったようです」
「ほう。公子董はそれほどに不出来か」
武霊王は唸る。中山王の気持ちは理解できる。実際、太子章を疎んじている、自分がいることに気付いている。
現在、ひと際に寵愛している、呉孟姚という妃の存在が関係していた。
呉孟姚との間に、何という子がいる。まだ幼少であるが、天女のような母の美貌を受け継ぎ、それは愛くるしい顔をしている。対して太子章は醜男で、父を苛立たせるほどに頭も鈍い。
武霊王は戦場では無類の強さを発揮するが、寵愛する女には、情に絆されやすい傾向がある。
呉孟姚は褥を共にする度、何を太子に冊立してくれとせがむ。廃嫡はそう簡単に決断できるものではない。
物事には天から定められし、順序と道理がある。それを蔑ろにすれば、国が乱れるのは必定。だが、武霊王の気持ちは大きく公子何を靡いていた。孟姚の美貌を受け継いだ、何への愛が強まると同時に、章への想いが冷めていく。
「いえ。むしろ、公子董の評判は頗る良いのです」
「では何故、中山王は公子を煙たがる?」
「兄にあたる、太子尚の讒言によるものかと」
「なるほど。太子が公子の器量を懼れたか」
別段、珍しい話ではない。王宮では、日夜暗い政争が繰り広げられているのだ。
肉親同士が互いに、喰らい合うなど常である。
武霊王自身、骨肉相食む、政争の後に、年少で王に即位している。
だから、公子董が置かれている状況にも、感情の機微は薄い。
「東垣の兵力は?」
「公子の兵力と併せても、せいぜい一万程度かと」
話にならぬ。数日もあれば、容易く捻り潰せるだろう。
「牛剪に四万の兵を与え、東垣に向けるとしよう」
結論は出した。しかし、間者の気配は闇の中に残っている。
「まだ何かあるのか?」
武霊王は初めて間者に向き直った。
「趙与将軍に傷を負わせた者の素性を突き止めました」
「訊こう」
「楽宰相の嗣子楽毅です」
武霊王の両眼に、好奇の光が宿る。
「楽羊の後胤か」
武霊王は楽羊にまつわる逸話が好きだった。
魏の文候の時代、彼は魏に仕える武将であったが、息子を中山国に人質として送っていた。だが、息子が返還されないまま、文候が中山国との戦を始めた。楽羊は先陣を任され、私心を殺し、中山国を攻め込んだ。戦の最中、楽羊の息子は人質として凶刃に斃れた。
時の中山王は軍勢を差し向ける、楽羊に嚇怒し、彼の息子の屍を切り刻み、羹(肉や野菜が入った汁)の具材として、放り込んだ。
だが、楽羊は魏の将校が居並ぶ中で、中山から送られてきた、息子の肉が入った、羹を平然と飲み干した。
魏の将校としての決意を敵味方に、超然たる精神を以って見せつけたのである。
文候に対しての厚い忠義と、度を超した剛毅さがが窺える。
「なるほど。納得だな」
趙与の使者は、楽毅がまだ年端もいかない少年だと云っていた。
廻る血脈そのものが剛健であったか。
「歳は?」
「十五歳ほどかと」
悪くない。趙与への奇襲で、楽毅が内に秘める豪胆さは立証されている。
「ふむ。楽毅か。欲しいな」
天下を睥睨する上で、優秀な人材は幾らでも欲しい。
ましてや楽毅はまだ子供で、伸び代は無限である。
「楽毅率いる少年兵百名は、公子董の近習として召し抱えられ、共に東垣へと入りました」
公子董を此処まで追い込んでいるのならば、最早、彼には有力な味方はいまい。
誰かが公子を守らせる為に、藁にも縋る想いで、楽毅を傍に置いたか。
(少年ゆえの純朴さを利用したな)
「かつての宰相司馬熹が裏で糸を引いているようです」
胸の内を読んだように、間者が口走る。
「あの古狸め。まだ生きていたか」
司馬熹は三度も、宰相に任じられた賢臣である。
(ふむ。中山は手を下さずとも、内側から瓦解していくかもしれんな)
武霊王はほくそ笑んだ。
「廉頗をあててみるか」
面白くなりそうだと膝を叩いた。
「大王様」
武霊王は眼前に、暗然と凝る闇を独り睨み付けていた。
「話せ」
「公子董が僅かな手勢と、東垣に入った模様です」
背で告げる彼は、中山に潜り込ませている間者の一人である。
「公子が?何故」
「婉曲に中山王は、公子董に死を賜ったようです」
「ほう。公子董はそれほどに不出来か」
武霊王は唸る。中山王の気持ちは理解できる。実際、太子章を疎んじている、自分がいることに気付いている。
現在、ひと際に寵愛している、呉孟姚という妃の存在が関係していた。
呉孟姚との間に、何という子がいる。まだ幼少であるが、天女のような母の美貌を受け継ぎ、それは愛くるしい顔をしている。対して太子章は醜男で、父を苛立たせるほどに頭も鈍い。
武霊王は戦場では無類の強さを発揮するが、寵愛する女には、情に絆されやすい傾向がある。
呉孟姚は褥を共にする度、何を太子に冊立してくれとせがむ。廃嫡はそう簡単に決断できるものではない。
物事には天から定められし、順序と道理がある。それを蔑ろにすれば、国が乱れるのは必定。だが、武霊王の気持ちは大きく公子何を靡いていた。孟姚の美貌を受け継いだ、何への愛が強まると同時に、章への想いが冷めていく。
「いえ。むしろ、公子董の評判は頗る良いのです」
「では何故、中山王は公子を煙たがる?」
「兄にあたる、太子尚の讒言によるものかと」
「なるほど。太子が公子の器量を懼れたか」
別段、珍しい話ではない。王宮では、日夜暗い政争が繰り広げられているのだ。
肉親同士が互いに、喰らい合うなど常である。
武霊王自身、骨肉相食む、政争の後に、年少で王に即位している。
だから、公子董が置かれている状況にも、感情の機微は薄い。
「東垣の兵力は?」
「公子の兵力と併せても、せいぜい一万程度かと」
話にならぬ。数日もあれば、容易く捻り潰せるだろう。
「牛剪に四万の兵を与え、東垣に向けるとしよう」
結論は出した。しかし、間者の気配は闇の中に残っている。
「まだ何かあるのか?」
武霊王は初めて間者に向き直った。
「趙与将軍に傷を負わせた者の素性を突き止めました」
「訊こう」
「楽宰相の嗣子楽毅です」
武霊王の両眼に、好奇の光が宿る。
「楽羊の後胤か」
武霊王は楽羊にまつわる逸話が好きだった。
魏の文候の時代、彼は魏に仕える武将であったが、息子を中山国に人質として送っていた。だが、息子が返還されないまま、文候が中山国との戦を始めた。楽羊は先陣を任され、私心を殺し、中山国を攻め込んだ。戦の最中、楽羊の息子は人質として凶刃に斃れた。
時の中山王は軍勢を差し向ける、楽羊に嚇怒し、彼の息子の屍を切り刻み、羹(肉や野菜が入った汁)の具材として、放り込んだ。
だが、楽羊は魏の将校が居並ぶ中で、中山から送られてきた、息子の肉が入った、羹を平然と飲み干した。
魏の将校としての決意を敵味方に、超然たる精神を以って見せつけたのである。
文候に対しての厚い忠義と、度を超した剛毅さがが窺える。
「なるほど。納得だな」
趙与の使者は、楽毅がまだ年端もいかない少年だと云っていた。
廻る血脈そのものが剛健であったか。
「歳は?」
「十五歳ほどかと」
悪くない。趙与への奇襲で、楽毅が内に秘める豪胆さは立証されている。
「ふむ。楽毅か。欲しいな」
天下を睥睨する上で、優秀な人材は幾らでも欲しい。
ましてや楽毅はまだ子供で、伸び代は無限である。
「楽毅率いる少年兵百名は、公子董の近習として召し抱えられ、共に東垣へと入りました」
公子董を此処まで追い込んでいるのならば、最早、彼には有力な味方はいまい。
誰かが公子を守らせる為に、藁にも縋る想いで、楽毅を傍に置いたか。
(少年ゆえの純朴さを利用したな)
「かつての宰相司馬熹が裏で糸を引いているようです」
胸の内を読んだように、間者が口走る。
「あの古狸め。まだ生きていたか」
司馬熹は三度も、宰相に任じられた賢臣である。
(ふむ。中山は手を下さずとも、内側から瓦解していくかもしれんな)
武霊王はほくそ笑んだ。
「廉頗をあててみるか」
面白くなりそうだと膝を叩いた。
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