楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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鵬程万里

 六

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 中山が抱える内憂は、楽毅が想像していたより遥かに底暗いものであった。董の居室に招かれた、楽毅は懼れ多くも、床几を挟んで対面する形で座している。

「父は私を亡き者にしたいのだ」

「まさか」
 思わず声が上擦る。董は目許に自嘲じちょうの皺を刻む。

太子尚たいししょうは存じているか?」

「はい」
 
 太子尚は、董の異腹の兄にあたる。朝廷内の事情に疎い、楽毅でさえも、太子尚の噂はよく耳にする。厚顔無恥こうがんむちかつ餓狼之口がろうのくち。とても太子として、冊立されるような器ではないが、中山王は、殊更に太子尚を寵愛していた。

 中山王と太子尚の気質は酷似している。だからこそ、中山王は彼を愛するのだろう。

「兄は私が密かに王位を簒奪さんだつしようと画策していると、父王に讒言ざんげんした」
 董の眼に、茫洋としたくらい光が蟠っている。

「無論、私に斯様な意志はない。父と兄に思う所がないといえば嘘になる。私は兄の嫌がらせで、ずっと冷遇され続けてきたのだから」
 得心した。太子董は、董の器量を懼れ、何年間も中山王の関心が、董に向かないように、つまらない讒言を王の耳に入れ続けてきたのだ。
 
 そして、いよいよ中山王が老い始めた今、太子尚は自身にとって、災禍の種となりうる、弟の董を始末する為、動き始めた。
 器量は董の方が遥かに勝る。仮に董自身に、意志はなくとも、慧眼けいがんの臣は、董を正統なる王位継承者として担ぎ上げるかもしれない。

東宮とうぐうがこの国を治めることになれば、先に待つのは滅びのみじゃ」
 司馬熹から怒気が滲み出ている。朝廷内で起こる、政争というものは、どの時代。どの国でも陰険としたものだ。
 
 事は犬牙相臨けんがあいのぞみ、同じ血胤けついん同士で肉を喰らい合う。どうやら、中山王が董を亡き者にしようと企んでいるのは、本当のようだ。だが、理解できない。何故、己が董に引き合わされたのか。

 楽毅の心中を察したように、司馬熹が杖を鳴らして語る。

「楽毅よ。今、殿下は多くの敵を抱えておられる。公子派であった官吏達は、悉く懐柔され、趨勢すうせいを見極めようとしていた、二心を抱く佞臣ねいしんは、皆太子側についた」

「では、宮廷に殿下の御味方は」

「わし一人じゃ」
 司馬熹の険しい表情から、羞悪しゅうおの心が渦巻いているのが読み取れる。

「父王は私に東垣とうえんの地を守備にあたるようにと仰せつかった。その意味が分かるか?」
 
 東垣といえば、趙王率いる本軍は宿陣する、封竜に近い。
 戦の経験のない董の指揮で、戦巧者せんこうしゃたる趙王の軍勢から東垣を守るなど不可能に近い。
 楽毅は唾を呑み、心機を整える。

「王は殿下に死を下賜されたのですね」

「ああ」物悲しい声が響く。

 沈黙の中で総身が忿怒ふんぬで震えていた。董に一切の比はない。王器を具えていただけに、兄から疎まれ、讒言によって、誅されようとしている。

 不意に哀切を浮かべ、空を見上げる、董の横顔が脳裏に蘇る。

「鳥はいいな。何処へでも自由に飛んでいくことができる」
 頭で董の言葉が反響する。彼は鳥籠に囚われた小鳥だ。翼を捥がれ、死を待つだけの。
 
 楽毅は絶望した。これほどの中山という国には膿が溜まっていたのかと。
 どいつもこいつも己の保身のことばかり。
 王を含めて、誰もこの国の未来を案じてはいない。

「腐っている」
 烈火の如き怒りが言葉として漏れる。

「面目ない限りだ」
 董は慚色きしょくを面に湛えた。少なくとも公子董は、王室の頽廃たいはいに向き合おうとしている。

「父はどうなのです?」
 ならば、宰相の父はどうなのか。楽毅にとって反りが合わない父であるが、狡吏共のように、心根は腐っていないと信じたい。だが、二人は顔を見合わせ口ごもる。

「良くも悪くも父君は保守派である。王の意に背くようなことは望むまい」
 司馬熹の言葉に、血潮が凍るのを感じた。

(何だ。それは)
 保守派とは聞こえはいいが、時勢を見極め、甘い汁を啜ろうとする、佞臣共と変わはないではないか。
 情けさの余りに、瞳に涙が浮かんだ。

「楽毅。先も申したが、殿下に心からの忠誠を誓っているのは、この老い耄れ、ただ独りじゃ。殿下に会って、おぬしも感じたであろう。腐敗した、この国を立て直すには、殿下の存在が必要不可欠なのだ。王の死後、何としても、殿下に王として即位してもらわなければならぬ。実の所、王は長年に亘る美酒淫楽で、病を患っておる。先はそう長くないとの話だ。仮に王が薨去こうきょし、東宮が践祚せんそするようなことにならば、国は更に乱れる。東宮は王より、人格陋劣じんかくろうれつなのだ」

「太子が王とならば、趙の本格的侵攻を待たずして、国は自壊する。そういうことですね」

「その通りだ。この国を守り抜く為にも、殿下の御命を守り通さなくてはならん。しかしー。情けのないことであるが、欲を知った大人達に殿下の警護を頼むことはできないのだ。炎からおぬしの話は、以前から聞いていた。そして、井陘での鮮やかな奇襲。わしは確信したのだ。殿下の御身を御守りすることができるのは、楽少年しかいないと」
 握りしめた拳に、司馬熹の細く潤いを欠いて手が重ねられる。

「父と兄は憎い。だが、私は中山の民を愛している。国を失いたくはない。国が乱れれば、狡猾な趙王は機を逃さないだろう。私がたおれれば、中山は終わる」
 董は深々と頭を下げ、どうか私に力を貸してくれと涙を浮かべ告げた。
 
 二人の熱意が楽毅の心に炎を灯す。そして直感する。董が死ねば、言の通り中山は終わる。
 内側から脆く崩れ、外から趙の野狼共に食い潰されていく。

「私はー」
 今、心の底から薄弱はくじゃくの公子の力になりたいと願う、己がいる。
 
 公子董は、清き志を抱いた勇者のもとに、大鵬は顕現すると語った。
 ならば、言の通り、己が滅亡の危機にある、中山を救う勇者になれば良いのではないか。
 たとえ、夢寐の中に見る、大鵬であっても、その姿は神々しく、とても幻のものとは思えなかった。
 
 董が王となり、俺の武で、中山を救えば、あの幻鳥は、きっと己の前に現れる。
 つよい衝動が血潮を搔き乱す。そして思う。
 真の眼であの霊験あらたかな幻鳥を、眼にしたいと。
 その為に、すべきことはー。
 楽毅のいとけなさを残した眼に、勇気の炎が灯った。

「ご聊頼りょうらいに応じ、不肖楽毅。命を燃やして、公子董を御守り致します。」
 楽毅は司馬熹と董の震える手を強く握った。







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