楽毅 大鵬伝

松井暁彦

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相剋

 一

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  田単でんたんに斬られた、左目はもう使いものにならなかった。唇の先まで、深い斬痕が残り、
落馬の衝撃で、肋骨の何本かは折れていた。
 
 それでも休んでいる間などなかった。連合軍の総帥として、臨淄攻めを指揮する務めがある。
 臨淄に残った城兵は僅か二万程度であったが、斉の指揮官田達でんたつは優秀な将校であった。
 臨淄攻めに加わった燕軍二十万を中心とした、連合運四十万を相手に、三ヶ月も抗戦してみせた。
 
 斉軍は壊滅したが、指揮官の田達の首は上がってきていない。その間、田単は一万の麾下と安平あんへいに入り、東の玄関口の守りを固めている。
 
 一方、斉王は山東の東端のきょに逃げ入った。莒はかつて一つの王国として形を成していたが、楚に滅ぼされた後に、現在は斉の領地の一部となっている。莒には宮殿もあり、斉東の要衝として、備蓄も相当にある。
 
 再起を図るには、適した城邑といえるだろう。楽毅がくきは暗澹たる心地で、制圧した臨淄の様子を眺めていた。
 二万の城兵の大分が殉死し、城郭内に点在する広場には、彼等の屍が堆く積まれている。
 
 楽毅自身、陣頭指揮を執り、連合軍の狼藉を抑えるように努めたが、やはり完全には防ぎきれなかった。多くの民が、戦火から逃れる為に、東へ向かったが、それでも四万の民が、臨淄に残っていた。
 
 彼等は血を浴びて、昂奮の極みにある、兵士達の格好の餌食となった。彼等が住まう家屋に押し入り、財を奪い、女がいれば犯す。そうなることは事前に予期はしていたので、楽毅は麾下に命じて、斉の民等をできる限り守らせた。
 
 それでも、眼を覆いたくなる惨状は、巨大な都の至る所で起きた。何より太刀が悪いのは、略奪を厳しく律しているのは、燕と趙だけで、他の国の指揮官は、略奪を推奨している風まであった。
 
 臨淄は様変わりしてしまった。数多の家屋は焼け、此方が幾ら手を回しても、無力な民の悲鳴はやむことはない。
 連合軍の恐ろしさが骨身に沁みた。国の数だけ思潮があり、更に辿れば人の数だけ思潮もある。たった一人の人間が、血の臭気漂う戦場で、無数の人間の思潮を縛り付けることなど叶わないのだ。
 
 呆然と王宮から、財宝が運び出されていく様を眺めた。包帯に巻かれた、左目の傷が酷く傷むが、その痛みさえも、何処か遠いものに感じる。

「よくもまぁ、こんなに財宝を蓄えたもんだよな」
 傍らの司馬炎しばえんが、腕を組みながら、呆れ口調で言った。
 
 金やぎょく、色彩豊かな絹を載せた、荷台の列は途切れることなく続いている。
 荷台から少し離れて、列を作っているのは、絢爛な衣装を纏った、窈窕ようちょうなる美女達。
 
 斉王がせっせと後宮に蓄えた、美女達である。彼女達は、一様に深い不安を抱きながら、粛々と歩を進める。財宝も女達の殆どを、燕へ送る手筈になっている。もとより、燕がさきがけとなっての連合である。燕にはその権利がある。女達の不揃いな足音は哀歌のように響き渡っているが、燕王のことだ。彼女達を粗末に扱うことはしないだろう。

「あまり自分を責めるなよ」
 何も語らず静かに佇む楽毅を、司馬炎は肘で付いた。

「ああ。ありがとう」
 苦笑を浮かべるも、胸の内を占めているものは虚しさであった。

「犠牲のない戦はない。それに今回は難しい戦だった。それでも、お前は最低限の犠牲で、臨淄までの道を切り拓いた」

「どうだろうな。まだ戦に勝った訳ではない。斉に再起の時を与えてしまったことで、俺は敵、味方と更なる犠牲を生むことになる」

魏竜ぎりゅうはお前を責めてはいないぞ」
 病床にある、友の姿が瞼の裏に浮かび上がる。

「あそこで田単を討っておくべきだった。俺には躊躇いがあったのだ」

「田単は窮鼠きゅうそのようだった。追い込まれ、一つの道しか見出せなかったからこそ、覚悟を決め、真価を発揮した」

「ああ。俺はまだ田単と手を携えることができると、胸の奥で思っていたのかもしれん」

「だが、あいつが魏竜とお前を斬ったことで、理解したはずだ」
 司馬炎が組んでいた、腕を解き、嘆息を放つ。

「俺達は敵同士なのだと」
 寂寞せきばくの想いが、心のうろにひっそりと横たわっている。
 
 楽毅は指の腹で、瞼を強くおさえる。

「燕には俺がいて、斉には田単がいる。之も天が定めし、因果なのかもしれないな」
 たとえ千里の翼を持ち、自由に蒼空を遊弋する大鵬であっても、命を与えたのは天なのだ。天に使役される生命である以上、天の綱紀こうきから逃れることはできないのだろう。
 
 空は澄んでいる。白き翼を持つ、鳥が一斉に羽搏いた。
 不思議なことに、蒼に染まる空は、いつもより窮屈なものに感じた。

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