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序章 戦士達の風
一
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項燕は黄塵に塗れた無数の灰色の鎧が放つ、鈍い輝きに眼を眇めた。
「なるほど。秦の小僧共も莫迦ではないようだ」
都邑城父から二里離れた丘の頂に、楚の名将項燕率いる五百騎は潜んでいた。華東一帯は、乾燥地帯である黄河流域の気候と打って変わり、夏の今頃には、肌に纏わりつく嫌な暑さが続く。
項燕が麾下と潜む名もなき丘には、裾野から頂きにかけて青々とした緑が根を生やしている。楚土は丘陵が多く草叢が勾配を覆っている為、兵を埋伏するのに適している。楚に攻め込む敵方は、常に埋伏の警戒が必要となる。
平輿を制圧した秦の将軍李信、寝丘制圧した将軍蒙恬は、合流地点である城父一帯に、先行して絶えず斥候を放っている。しかし、項燕率いる五百騎を捕捉できていないでいた。
「父上。李信と蒙恬は平輿、寝丘、城父を制圧し、都へ向けての橋頭保とするつもりなのでしょうか?」険しい表情で言ったのは、息子の項梁であった。
まだ十九歳と若いが、なかなかに良い戦略眼を持っている。親の欲目なしで、あと十年も戦場で経験を積めば、良い将校になるだろう。
「その通りだ。平輿、寝丘、城父、この三つの都邑はいずれも二百里程度と距離もさほど遠くはない。更にこの三点を結べば、東西南北に対応できるだけの橋頭保を造り上げることができる」
「なるほど。両将とも若年ながら、なかなかの出来物ですね」
言ったのは、項梁より二歳年長の項伯である。
項燕は白いものが混じった髭に埋もれる、唇を歪ませる。
「確かに両将とも勇猛果敢な軍人だ。だが、李信は個の武に恃み過ぎているし、蒙恬は才気に走り過ぎている。現にたった三里離れた地に潜む、わしらを捕捉できないでいるのも、蒙恬の自惚れからであろう。あの王翦ならば、このようなへまはしない。奴なら、包囲五十里に至るまで埋伏を警戒し、鼠一匹すら見逃さないまでの厳戒態勢をつくり上げるだろうさ」
現に項燕は絶妙な距離を保って、李信、蒙恬の動きを探り続けてきた。二人には若さゆえの苛烈さと、兵を鼓舞できる良い青さがある。しかし、全てにおいて、秦の名将王翦には遠く及ばない。
奴の恐ろしさは、二度の合従軍戦で、刃を交えた、己が知っている。何故、虎狼の国の秦王政は、百戦錬磨である王翦を総大将に任じなかったのか。王翦は己と違い、王に従順であった男のはずだ。王翦も己も六十五歳になる。まさか、秦王政に耄碌を原因に、遠ざけられているのか。
(まさか。あの異常なまでの完璧主義者である、王翦が耄碌とは)
ありえないと、内心で笑い飛ばす。
だが、重ねた齢で王に遠ざけられているのだとしたら、奴も報われないと思う。
一方、項燕は五百騎の兵を抱えていながらも、軍の総司令である大司馬の印綬は二年前に幽王が薨去して、負芻が践祚した時に王の足許に印綬を叩き返している。今の項燕は楚の軍人でもなく、処士に過ぎない。なさがら軍閥のような立ち位置を貫いている。
「父上。李信と蒙恬を叩くのですか?」
項梁は稚さが残る眼を、爛々と輝かせて訊いた。
「まさか」
息子の期待に満ちた視線を薙ぎ、鼻で嗤い飛ばす。
「わしらは五百騎に過ぎん。幾ら小僧共の将器が、王翦に劣るから言って、あの大軍を前には五百騎では、数刻の足止めが関の山じゃ」
「しかし、城父には常備軍がいます」
項梁は嘆息し、項伯が代わって息巻く。
「伯よ。城父の兵数を把握しておるか?」
「はい、父上。凡そ二万かと。近くの郷里から搔き集めたとしても、せいぜい三万が限界ですね」
項伯は情報収集など、細かな仕事を与えると、手腕を発揮した。生来より、神経質な子である。戦場より後方支援を担当する方が、項伯の性分には合っている。
「三万五百だぞ、梁。二十万の大軍にどう相対する」
「それはー」
項梁は唇を尖らす。豪放磊落な子で、己に似て、胸に滾るものを常に秘めている。戦がしたくてたまらないのだ。
「父上。城父の民が」
項伯が口を挟んだ。
「わしの知る所ではない」
城父が秦に制圧されれば、一帯は秦の領土に組み込まれることになるだろう。反抗する民は処刑されるか、奴隷となる。秦の支配を受け入れたとして、彼等の先に待っているのは、法という絶対的な力で管理される窮屈な暮らしが待っている。
法治国家を唱える、秦の礎となるものを築き上げたのは、秦の孝公に仕えた、商鞅である。商鞅は、魏の政治家であった李悝が生涯をかけて編纂した、『法経』を元に秦法を編纂し、西戎と侮られていた、新興の秦を統制のとれた国へと変えた。商鞅は統治方法として、主流であった封建制を批判した。中央(都)から官吏を派遣し、官吏によって土地を管理させる、郡県制の重要性を説き推し進めた。
商鞅亡き後も、郡県制を主体とした、中央管理体制は受け継がれている。秦に併呑された土地には、統治者として秦の高官が送り込まれてくる。本来、楚の人民は、不羈奔放な気質である。自由を愛する民にとって繫文縟礼なだけの法による支配など桎梏でしかない。
秦に支配された人々は、法という得体の知れない魔力によって教化され、世代を重ねていくことで、楚人としての記憶がー。いや、誇りさえも失われていくのだ。己の知ったことではないと息子には告げたが、項燕には明瞭に、楚が秦に統治された未来が見えている。
それでもなお、心は冷えていた。どれほど、己が魂を燃やし、命を懸けた所で、宮廷に踏ん反り返っている連中は、ちっとも危機感を募らせていない。
今、楚を支えている国の中核を担っている輩は、利を貪るだけの佞臣ばかりだ。簒奪によって、王位に立った負芻は意志薄弱の傀儡の王に過ぎない。これまでも楚という国は公室の力が強く、纏まりにかけていたが、今ほどに腐ってはいなかった。
年老い、宮廷を見限った、今の己にならー。亡き師の想いが、少しは理解できる。
項燕は眼下の喧噪から、精神を解き放ち、亡き師―。春申君に思慕の念を抱いた。
「父上。あれを!」
項伯が指を指す。
解き放った精神を、己の内に押しとどめると、再び喧噪へと視線をやった。蒙恬と李信の軍が合流を果たし、二十万の軍が城父を取り囲むように陣を布いた。
突然、鼓鐸が鳴り響き、城父の門前に、縄をうたれた二万人あまりの捕虜が並べられた。膝を付いた捕虜の後ろに、剣把を握る兵士達が控える。
指揮官らしき男が、指揮刀を振るった。瞬間。幾万もの白刃が走った。煌めきの後を追うように、血の華が咲き乱れる。
息子達は怒りで拳を震わせる。
一方、項燕は吐息を火焔に変え、静かに手挟む漆黒の鉄棍を握りしめる。
「父上‼秦の奴等、城父が降伏するまで、ああやって眼の前で捕虜の首を刎ね続けるつもりですよ」
言った項梁は、涙を浮かべた、赤い眼で訴えかける。
次の捕虜二万が並んだ。鼓鐸に合わせて、また首が舞った。
噛み締めた唇から、血が口腔内に拡がる。
「行くぞ」
項燕は視線を切った。
「父上‼」
己が行動を起こした所で、何一つ現実は変わらない。今はただ、布衣の身に落ちた己についてきてくれた、麾下や息子を無駄に死なせないことだ。
「帰るぞ」
馬が馬首を巡らせる。その時、斥候に放っていた麾下が滑り込むようにして、戻ってきた。兵士の表情は、強張っている。
「敵に補足されたのか?」
「殿。これを」
兵士は拱手し、恭しく懐から、束ねた木簡を取り出し、差し出した。
「誰からだ?」
兵士は何も答えない。怪訝に思いながら、しっかりと封泥が成された木簡を開く。
項燕は眦を裂けんばかりに見開いた。
「汗明だと」
項燕は呆然自失した。
(汗明殿、生きておられたのか)
この書簡の内容を信じるとするならば、楚は危殆に瀕した今、皮肉なことに革命の時を迎えるかもしれない。
心機を整え、勇を鼓す。その様子を二人の息子、五百の麾下は固唾を飲んで見守っている。
「戦場に戻る」
その一言で、全員の顔つきが変わった。既に闘志を横溢させている。
「これっきりだ」
誰に言うでもなく、項燕は吐き捨て、二十万の秦軍を睨んだ。
「なるほど。秦の小僧共も莫迦ではないようだ」
都邑城父から二里離れた丘の頂に、楚の名将項燕率いる五百騎は潜んでいた。華東一帯は、乾燥地帯である黄河流域の気候と打って変わり、夏の今頃には、肌に纏わりつく嫌な暑さが続く。
項燕が麾下と潜む名もなき丘には、裾野から頂きにかけて青々とした緑が根を生やしている。楚土は丘陵が多く草叢が勾配を覆っている為、兵を埋伏するのに適している。楚に攻め込む敵方は、常に埋伏の警戒が必要となる。
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「父上。李信と蒙恬は平輿、寝丘、城父を制圧し、都へ向けての橋頭保とするつもりなのでしょうか?」険しい表情で言ったのは、息子の項梁であった。
まだ十九歳と若いが、なかなかに良い戦略眼を持っている。親の欲目なしで、あと十年も戦場で経験を積めば、良い将校になるだろう。
「その通りだ。平輿、寝丘、城父、この三つの都邑はいずれも二百里程度と距離もさほど遠くはない。更にこの三点を結べば、東西南北に対応できるだけの橋頭保を造り上げることができる」
「なるほど。両将とも若年ながら、なかなかの出来物ですね」
言ったのは、項梁より二歳年長の項伯である。
項燕は白いものが混じった髭に埋もれる、唇を歪ませる。
「確かに両将とも勇猛果敢な軍人だ。だが、李信は個の武に恃み過ぎているし、蒙恬は才気に走り過ぎている。現にたった三里離れた地に潜む、わしらを捕捉できないでいるのも、蒙恬の自惚れからであろう。あの王翦ならば、このようなへまはしない。奴なら、包囲五十里に至るまで埋伏を警戒し、鼠一匹すら見逃さないまでの厳戒態勢をつくり上げるだろうさ」
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奴の恐ろしさは、二度の合従軍戦で、刃を交えた、己が知っている。何故、虎狼の国の秦王政は、百戦錬磨である王翦を総大将に任じなかったのか。王翦は己と違い、王に従順であった男のはずだ。王翦も己も六十五歳になる。まさか、秦王政に耄碌を原因に、遠ざけられているのか。
(まさか。あの異常なまでの完璧主義者である、王翦が耄碌とは)
ありえないと、内心で笑い飛ばす。
だが、重ねた齢で王に遠ざけられているのだとしたら、奴も報われないと思う。
一方、項燕は五百騎の兵を抱えていながらも、軍の総司令である大司馬の印綬は二年前に幽王が薨去して、負芻が践祚した時に王の足許に印綬を叩き返している。今の項燕は楚の軍人でもなく、処士に過ぎない。なさがら軍閥のような立ち位置を貫いている。
「父上。李信と蒙恬を叩くのですか?」
項梁は稚さが残る眼を、爛々と輝かせて訊いた。
「まさか」
息子の期待に満ちた視線を薙ぎ、鼻で嗤い飛ばす。
「わしらは五百騎に過ぎん。幾ら小僧共の将器が、王翦に劣るから言って、あの大軍を前には五百騎では、数刻の足止めが関の山じゃ」
「しかし、城父には常備軍がいます」
項梁は嘆息し、項伯が代わって息巻く。
「伯よ。城父の兵数を把握しておるか?」
「はい、父上。凡そ二万かと。近くの郷里から搔き集めたとしても、せいぜい三万が限界ですね」
項伯は情報収集など、細かな仕事を与えると、手腕を発揮した。生来より、神経質な子である。戦場より後方支援を担当する方が、項伯の性分には合っている。
「三万五百だぞ、梁。二十万の大軍にどう相対する」
「それはー」
項梁は唇を尖らす。豪放磊落な子で、己に似て、胸に滾るものを常に秘めている。戦がしたくてたまらないのだ。
「父上。城父の民が」
項伯が口を挟んだ。
「わしの知る所ではない」
城父が秦に制圧されれば、一帯は秦の領土に組み込まれることになるだろう。反抗する民は処刑されるか、奴隷となる。秦の支配を受け入れたとして、彼等の先に待っているのは、法という絶対的な力で管理される窮屈な暮らしが待っている。
法治国家を唱える、秦の礎となるものを築き上げたのは、秦の孝公に仕えた、商鞅である。商鞅は、魏の政治家であった李悝が生涯をかけて編纂した、『法経』を元に秦法を編纂し、西戎と侮られていた、新興の秦を統制のとれた国へと変えた。商鞅は統治方法として、主流であった封建制を批判した。中央(都)から官吏を派遣し、官吏によって土地を管理させる、郡県制の重要性を説き推し進めた。
商鞅亡き後も、郡県制を主体とした、中央管理体制は受け継がれている。秦に併呑された土地には、統治者として秦の高官が送り込まれてくる。本来、楚の人民は、不羈奔放な気質である。自由を愛する民にとって繫文縟礼なだけの法による支配など桎梏でしかない。
秦に支配された人々は、法という得体の知れない魔力によって教化され、世代を重ねていくことで、楚人としての記憶がー。いや、誇りさえも失われていくのだ。己の知ったことではないと息子には告げたが、項燕には明瞭に、楚が秦に統治された未来が見えている。
それでもなお、心は冷えていた。どれほど、己が魂を燃やし、命を懸けた所で、宮廷に踏ん反り返っている連中は、ちっとも危機感を募らせていない。
今、楚を支えている国の中核を担っている輩は、利を貪るだけの佞臣ばかりだ。簒奪によって、王位に立った負芻は意志薄弱の傀儡の王に過ぎない。これまでも楚という国は公室の力が強く、纏まりにかけていたが、今ほどに腐ってはいなかった。
年老い、宮廷を見限った、今の己にならー。亡き師の想いが、少しは理解できる。
項燕は眼下の喧噪から、精神を解き放ち、亡き師―。春申君に思慕の念を抱いた。
「父上。あれを!」
項伯が指を指す。
解き放った精神を、己の内に押しとどめると、再び喧噪へと視線をやった。蒙恬と李信の軍が合流を果たし、二十万の軍が城父を取り囲むように陣を布いた。
突然、鼓鐸が鳴り響き、城父の門前に、縄をうたれた二万人あまりの捕虜が並べられた。膝を付いた捕虜の後ろに、剣把を握る兵士達が控える。
指揮官らしき男が、指揮刀を振るった。瞬間。幾万もの白刃が走った。煌めきの後を追うように、血の華が咲き乱れる。
息子達は怒りで拳を震わせる。
一方、項燕は吐息を火焔に変え、静かに手挟む漆黒の鉄棍を握りしめる。
「父上‼秦の奴等、城父が降伏するまで、ああやって眼の前で捕虜の首を刎ね続けるつもりですよ」
言った項梁は、涙を浮かべた、赤い眼で訴えかける。
次の捕虜二万が並んだ。鼓鐸に合わせて、また首が舞った。
噛み締めた唇から、血が口腔内に拡がる。
「行くぞ」
項燕は視線を切った。
「父上‼」
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「帰るぞ」
馬が馬首を巡らせる。その時、斥候に放っていた麾下が滑り込むようにして、戻ってきた。兵士の表情は、強張っている。
「敵に補足されたのか?」
「殿。これを」
兵士は拱手し、恭しく懐から、束ねた木簡を取り出し、差し出した。
「誰からだ?」
兵士は何も答えない。怪訝に思いながら、しっかりと封泥が成された木簡を開く。
項燕は眦を裂けんばかりに見開いた。
「汗明だと」
項燕は呆然自失した。
(汗明殿、生きておられたのか)
この書簡の内容を信じるとするならば、楚は危殆に瀕した今、皮肉なことに革命の時を迎えるかもしれない。
心機を整え、勇を鼓す。その様子を二人の息子、五百の麾下は固唾を飲んで見守っている。
「戦場に戻る」
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