国殤(こくしょう)

松井暁彦

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二章 楚の公子

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 熊啓ゆうけいは霊験あらたかな会稽山かいけいざんに、弁士汗明かんめいと共に入った。
なるほど。霊験あらたかなとは良く言ったものだ。木々は天を衝くほど高く、また生える緑の葉には、生命力が漲っている。
 
 眼前には、背の低い草木が茂る、九十九折つづらおりの山道。それを抜けると、巨大な岩石が繹く。左右には峨々たる岩壁。羽化登仙うかとうせんを果たした、仙人が住まう領域だと言われても、納得してしまうほどに、一帯は神性に満ちていた。
 
 会稽山には夏王朝を興した、が死去した地と伝えられていて、実際に彼を祀る禹王廟が建立されている。会稽には「あつはかる」という意味がある。禹が死去した際に、数百余りの諸侯達は会稽山に一同に会し、それぞれの功績などを計ったことから、会稽という名が付けられた。
 
 熊啓は土を踏みしめるたびに、総身に緊張が迸るのを感じていた。神聖なる土地というものは、何処か人間を拒絶しているような空気を孕んでいるものだ。
 
 滴る汗を拭う。振り返ると、齢七十を超える、汗明は矍鑠かくしゃくとした足取りでついてきている。岩石群を抜けると、また視界は緑に支配された。喉の乾きを覚えた頃、湧き水を視界の端に捉えた。

「休憩にしよう」
 熊啓が言うと、汗明は「ええ」と嬉しそうに笑った。
 
 清冽な湧水であった。腰にぶら下げた瓢に二人して、新鮮な水を汲み入れる。

「本当に項燕こうえん殿は、このような所に身を隠しておられるのか?」
 熊啓は人の気配を微塵も感じさせない大自然を見遣り、汗明に訊いた。

「確かでございます。私の手の者は、誤った情報を寄越しは致しませぬ」

「しかしなぁ」
(何故、項燕殿は、あの戦以来、身を隠しておられるのか)
 
 李信りしん蒙恬もうてんの両将の首は奪れなかったまでも、精強な秦軍を壊滅寸前にまで追い込んだ、功績は項燕にある。しかし、彼は恩賞を受け取ることもせず、戦の終結と共に、その消息を晦ませた。李信と蒙恬を討ち払ったことで、喫緊の窮地から免れることはできたが、現状、楚が危殆に瀕していることには変わりはない。
 
 秦はしんから別れた、韓・趙・魏の三晋を滅ぼし、東へと大きく版図を伸ばしている。その領土は、かつて包囲五千里を有するとうたわれた、隆盛期の楚に匹敵するもので、動員できる精鋭は百万を超えるだろう。あの若き両将を挫いたとて、人材が豊富な秦には、代わりが幾らでもいる。
 
 現に秦王せいは、両将の敗戦に憤り、六十万の兵を搔き集めるように、臣下達に檄を送っているようだ。
六十万といえば、先の戦の三倍にも及ぶ兵力となる。当然の如く、落魄らくはくの楚には、六十万の大軍と渡り合えるだけの兵力もなく、優秀な将校もいない。だが、一縷の望みがある。その希望こそが、百戦錬磨の将、項燕なのである。

(項燕殿を見つけ出すことができなければ、楚は滅ぶ)
 熊啓は立ち上がり、眼に見えない希望を手繰り寄せようと、それから何刻も山中を跋渉ばっしょうした。

 だが、どれだけ歩いても、項燕はおろか、人の気配すらないではないか。苛立ちと諦念が精神を挫き、足が止まる。

「公子よ」
 顔を覗いた、汗明の表情は未だ溌剌としていた。

「やはり、情報は誤りではないのか?このような地で生活を営むなど、まるで野人のようではないか」

「口を慎まれよ、公子。この地は禹王を祀り、越王勾践えつおうこうせん呉王夫差ごおうふさに敗れた後、臥薪嘗胆がしんしょうたんの日々を過ごされた、故事来歴こじらいれきに通じる地ですぞ」
 古を尊ぶ生き字引の汗明が、白眉を吊り上げて鼻白む。

「ああ。分かっているさ。しかし」
 その時である。眼の前の茂みが揺らいだ。

「さがっていろ」
 熊啓は佩剣の剣把を握る。
 
 飛び出して来たのは、野兎だった。安堵したのも、束の間、兎を追うようにして、五歳ほどの男の子が茂みから飛び出してきた。兎は逃げ去り、少年は熊啓達を、不思議そうに立ち尽して眺めている。纏う短衣は泥に塗れているものの、少年の容貌は、緊張する心を弛緩させるほどに、愛らしいものだった。陶器のような白い肌に、桃色の唇。くっきりとした二重瞼。ふっくらとした頬には朱が差している。艶やかな髪は腰辺りまで伸びていて、見ようによって少女にも見える。

「なんと」
 突然、汗明が驚愕の声を上げた。

「何だ?」

「この童、貴人の相をしておる」

「貴人の相?」
 熊啓は鸚鵡返おうむかえす。
 呆然と指を咥え、此方を眺めている、無防備な少年に、汗明はゆっくりと歩み寄っていく。

「この子の瞳を見てくだされ。重瞳じゅうどうじゃ」
 言われるがまま、少年の瞳を注視した。

「これは凄い」
 少年の黒目が、二つ重なっている。之を古代から、重瞳と呼び、この瞳を持つ者は、何れ大成すると伝わっている。古くは伝説の帝である、黄帝を史官として支えた、漢字の創造主である、蒼桔そうけつが重瞳であったとされる。

「おお、童よ。神々しい、その瞳をもそっと近くで見せてはくれんか」
 汗明は七十を超えても、好奇心は壮年期の熱量を保っている。

「よせ、汗明。それどころではない。少年に項燕殿を存じておらぬか、訊いてみるのが先だ」
 楚土には、数多の民族がある。
 
 かつては、楚、越、呉という三つの国が長江以北から以南にかけて統治していたが、越、呉が楚に滅ぼされると、広大な領土は楚一国が統治するようになった。しかし、包囲五千里を超える大地には、様々な風俗を持つ先住民が存在しており、土地が長大なゆえに、中央の支配が及ばない所も大分である。
 
 そして、中央の支配から逃れた彼等は戸籍を持たず、中原から齎された文化に触れる機会もない為に、文字も持たず、独自の言葉を介する。会稽山に土着する野人の如き、先住民の存在があっても、別段不思議ではない。少年もその一人と考えられる。今、憂慮すべきは、少年に言葉が通じるかである。

「頼む。ちと見せておくれ」
 汗明は好奇心に憑りつかれ、少年に細い手を伸ばす。
 
 瞬間、少年は背を向け長い髪を振り乱して、茂みへと突っ込み駆け去っていく。

「阿呆が。驚いて逃げてしまったではないか」
 項燕の消息を知る上で、あの少年は重要な手がかりになるかもしれない。

「逃がす訳にはいかない」
 もうあてどなく、山の中を歩きまわるのは、まっぴらごめんだった。

「お前は其処にいろ」
 潮垂れる汗明に命じ、熊啓は少年の後を追った。足跡は泥濘に、しっかりと残っている。
 
 少年の背を捉えた。少年は蛇のように走る木の根を、軽々と飛び越え、速度を上げていく。

「まるで山猿だな」
 感心しながらも、熊啓も軽やかな身のこなしで、木の根を越えていく。だが、所詮は子供。大人の足の速さには敵わない。徐々に距離を詰め、手を伸ばせば、届く距離に、少年の背があった。

(捉えたぞ)
 手を伸ばす。刹那、木の影から若い男が現れた。何か黒い物を振りかぶった。躱しきれない。鈍い痛みが額に広がる。

「この人、どうするの?」
 幼い声が意識に反響する。

「さぁな。父上にお伺いをたててみる」
 野太い声が答える。

「怪しい奴なら?」

「斬るまでさ」

「そっか」
 二人はまだ何かを話していた。声が間遠になっていく。狭窄きょうさくする視界は、闇に覆われた
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