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二章 楚の公子
二
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黒い竜が眼の前にあった。暈を纏った視界が徐々に明瞭になってくると、黒い竜は人の背に彫られた文身であることが分かった。
「売国奴のお目覚めか」
痛烈な悪罵だが、男の口調はからりとしていて、不思議と嫌味はない。
「まだ呆けているようだ。籍よ。水をくれてやれ」
白いものが混ざった艶のある黒髪を短く刈り込んでいる男は、短衣を纏う。黒い竜が隠れた。
「うん」
溌剌とした声が響き、柄杓に注いだ水を、少年が雑に熊啓の顔にかける。
「どうだ?意識がはっきりしてきたか」
男が眼の前に立つ。身の丈八尺(1m80cm)を越える、魁偉の偉丈夫である。盛り上がった胸板。開いた短衣の隙間から、腹の辺りにかけてまで伸びる、竜の尾が見える。そして、丸太のように太い腕。しかし、男の右腕は肘から下がなかった。
「あなたは?」
「ほう。まだ呆けているのか。おぬしはわしを探しに此処まで来たのではないのか」
瞬間、一陣の風が頭の中を吹き抜け、思考に纏わりつく暈を払った。
「項燕殿―」
熊啓は驚愕に眦を見開き、そこで初めて自分が縄を打たれていることに気が付いた。
「これは一体どういう訳でしょうか」
「信用できん。だから拘束している」
にべもなく項燕が言い、少年を抱きかかえた。
「信用できないとは、随分と冷めたもの言いをされる」
縄で打たれながらも、熊啓は怖じることなく、眼前の大男を睨み付ける。
「私とあなたは手を取り、共に李信と蒙恬の軍を撃ち破った」
「ああ。確かにそうだな。だが、おぬしは楚の孝烈王の子でありながら、秦に仕え、かつて政事を聾断した呂不韋の右腕として辣腕を振るった。後に呂不韋が失脚した後は、秦王政の扶翼として、丞相まで昇りつめた男。経歴から鑑みても、信用しろという方が難しいと思うがの」
確かに項燕の言の通り、経歴だけを遡れば、未だ秦王政の忠実な臣下であると疑われても仕方はない。
だが、熊啓ことー。昌平君は、先に質子として秦に入っていた、傾襄王の子熊顛(昌文君)と共に、秦に叛旗を翻した。
両名ともに秦の極官にまで昇りつめ、官位としては栄耀栄華を極めたと言っても過言ではない。事実、天下統一を目前にしての謀反は、秦に激震が走った。熊顛に至っては、十三歳で秦王政が即位した頃より、支え続けてきた忠臣であった。二人の望郷の想いは薄れ、たとえ祖国である楚が滅亡に瀕しても、秦の臣下として、秦王政を輔弼し続けるはずだった。
「未だ釈然とせんのだ。何故、秦を裏切る必要があったのか。おぬしは猜疑心の強い秦王に信用されておった。秦王はおぬしの長年の忠勤に報いる為、楚の旧都である陳を与えた」
「私は陳より挙兵し、あなたと共に秦を伐った。私と共に挙兵した、昌文君は戦死し、尚も私は楚を救う為、あなたを探しここまで来た。これでも私を信用してもらえませんか」
項燕は嘆息し、唸る。
「頭の良いおぬしにしては、幼稚な返しじゃのう。わしはおぬしの本心を知りたい。さもなくば」
項燕が顎で指した方角には、縄に打たれている、汗明の姿があった。
「公子よ。申し訳ない」
悄然と項垂れる汗明。見た所、乱暴された形跡はない。しかし、彼の両脇には風貌立派な青年二人が、剣把を握った格好で立っている。
「二人ともわしの息子じゃ」
項燕が得意の鼻をうごめかせると、二人の息子は剣を抜き放ち、汗明の首元へと刃を向けた。
「上っ面だけの方便はいらん。赤心を披瀝せよ、熊啓。何故、天下を見据えることができた今、秦を裏切ったのか」
熊啓は瞼を閉じた。一拍の間であったが、秦で過ごした、数十年の記憶と思いが去来する。追憶の扉を開く。開いた網膜に映ったのは、狂気に染まった、秦王政の顔であった。
「天下は一人の天下に非ずして、天下の天下なり」
言の葉が風に舞う。己の声であって、己の声でないような感覚に陥る。まるで、秦王政が描く未来図に抗い、戦い、死んで行った、名も無き者達のー。幾万もの想いが重なっているように、声は山峡の地に、強く深く反響した。
「どういう意味?じいじ」
項燕の逞しい左腕に抱かれる、項籍が指を咥えたまま、祖父を見上げた。
「天下は天のものであり、誰のものでもないということだ」
「分かんないよ」
項燕は好々爺然とした、笑顔を浮かべた。
「当然じゃ。分からなくてよい。だが、この男が放った言葉を、胸に刻みつけておきなさい。言葉の意味が、いつか分かる時が来るかもしれん」
項籍が真円の眼を、更に丸くする。
「さぁ、向こうに行っていなさい」
腕から放たれた、項籍は熊啓を一瞥し、何処かへ消えた。
再び嘆息した、項燕は剣を抜き、熊啓の縄を斬った。
息子二人が汗明を解放する。
「来い、若造。少し話をしよう」
「売国奴のお目覚めか」
痛烈な悪罵だが、男の口調はからりとしていて、不思議と嫌味はない。
「まだ呆けているようだ。籍よ。水をくれてやれ」
白いものが混ざった艶のある黒髪を短く刈り込んでいる男は、短衣を纏う。黒い竜が隠れた。
「うん」
溌剌とした声が響き、柄杓に注いだ水を、少年が雑に熊啓の顔にかける。
「どうだ?意識がはっきりしてきたか」
男が眼の前に立つ。身の丈八尺(1m80cm)を越える、魁偉の偉丈夫である。盛り上がった胸板。開いた短衣の隙間から、腹の辺りにかけてまで伸びる、竜の尾が見える。そして、丸太のように太い腕。しかし、男の右腕は肘から下がなかった。
「あなたは?」
「ほう。まだ呆けているのか。おぬしはわしを探しに此処まで来たのではないのか」
瞬間、一陣の風が頭の中を吹き抜け、思考に纏わりつく暈を払った。
「項燕殿―」
熊啓は驚愕に眦を見開き、そこで初めて自分が縄を打たれていることに気が付いた。
「これは一体どういう訳でしょうか」
「信用できん。だから拘束している」
にべもなく項燕が言い、少年を抱きかかえた。
「信用できないとは、随分と冷めたもの言いをされる」
縄で打たれながらも、熊啓は怖じることなく、眼前の大男を睨み付ける。
「私とあなたは手を取り、共に李信と蒙恬の軍を撃ち破った」
「ああ。確かにそうだな。だが、おぬしは楚の孝烈王の子でありながら、秦に仕え、かつて政事を聾断した呂不韋の右腕として辣腕を振るった。後に呂不韋が失脚した後は、秦王政の扶翼として、丞相まで昇りつめた男。経歴から鑑みても、信用しろという方が難しいと思うがの」
確かに項燕の言の通り、経歴だけを遡れば、未だ秦王政の忠実な臣下であると疑われても仕方はない。
だが、熊啓ことー。昌平君は、先に質子として秦に入っていた、傾襄王の子熊顛(昌文君)と共に、秦に叛旗を翻した。
両名ともに秦の極官にまで昇りつめ、官位としては栄耀栄華を極めたと言っても過言ではない。事実、天下統一を目前にしての謀反は、秦に激震が走った。熊顛に至っては、十三歳で秦王政が即位した頃より、支え続けてきた忠臣であった。二人の望郷の想いは薄れ、たとえ祖国である楚が滅亡に瀕しても、秦の臣下として、秦王政を輔弼し続けるはずだった。
「未だ釈然とせんのだ。何故、秦を裏切る必要があったのか。おぬしは猜疑心の強い秦王に信用されておった。秦王はおぬしの長年の忠勤に報いる為、楚の旧都である陳を与えた」
「私は陳より挙兵し、あなたと共に秦を伐った。私と共に挙兵した、昌文君は戦死し、尚も私は楚を救う為、あなたを探しここまで来た。これでも私を信用してもらえませんか」
項燕は嘆息し、唸る。
「頭の良いおぬしにしては、幼稚な返しじゃのう。わしはおぬしの本心を知りたい。さもなくば」
項燕が顎で指した方角には、縄に打たれている、汗明の姿があった。
「公子よ。申し訳ない」
悄然と項垂れる汗明。見た所、乱暴された形跡はない。しかし、彼の両脇には風貌立派な青年二人が、剣把を握った格好で立っている。
「二人ともわしの息子じゃ」
項燕が得意の鼻をうごめかせると、二人の息子は剣を抜き放ち、汗明の首元へと刃を向けた。
「上っ面だけの方便はいらん。赤心を披瀝せよ、熊啓。何故、天下を見据えることができた今、秦を裏切ったのか」
熊啓は瞼を閉じた。一拍の間であったが、秦で過ごした、数十年の記憶と思いが去来する。追憶の扉を開く。開いた網膜に映ったのは、狂気に染まった、秦王政の顔であった。
「天下は一人の天下に非ずして、天下の天下なり」
言の葉が風に舞う。己の声であって、己の声でないような感覚に陥る。まるで、秦王政が描く未来図に抗い、戦い、死んで行った、名も無き者達のー。幾万もの想いが重なっているように、声は山峡の地に、強く深く反響した。
「どういう意味?じいじ」
項燕の逞しい左腕に抱かれる、項籍が指を咥えたまま、祖父を見上げた。
「天下は天のものであり、誰のものでもないということだ」
「分かんないよ」
項燕は好々爺然とした、笑顔を浮かべた。
「当然じゃ。分からなくてよい。だが、この男が放った言葉を、胸に刻みつけておきなさい。言葉の意味が、いつか分かる時が来るかもしれん」
項籍が真円の眼を、更に丸くする。
「さぁ、向こうに行っていなさい」
腕から放たれた、項籍は熊啓を一瞥し、何処かへ消えた。
再び嘆息した、項燕は剣を抜き、熊啓の縄を斬った。
息子二人が汗明を解放する。
「来い、若造。少し話をしよう」
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