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二章 楚の公子
三
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一際、濃い緑が茂る森の奥地に、突如として開けた地が現れた。小川のせせらぎが近くから聞こえ、ひっそりと茅葺き屋根の庵が佇んでいる。
項燕は二人を、庵へと招じ入れた。古色蒼然としている庵だが、中は思ったより広く、生活に必要な必需品が揃っている。四人で暮らしていく上では不自由は無さそうだ。
「おい。客人にもてなしを」
項燕が声高に告げると、戸の前で控える項伯が、表にある焚火の方へと駆けて行った。
炎が盛る焚火の上には、鋗が置かれ、ぐつぐつと煮立っている様子がある。すぐに項伯が椀を二つ持って現れた。
「どうぞ」
と彼は恭しく、熊啓と汗明に椀を差し出す。
「有難う」
受け取る。魚介の良い香りが鼻をくすぐる。椀には魚の身をほぐしたものと蛤に米を混ぜたものが入っていた。
「ほう。この山奥で魚と蛤とは」
汗明が驚きの声を上げる。
「山を下れば、海はそれほど遠くない。三日に一度、梁に山を下らせる。そうさな、せいぜい六十里ってとこか。馬があれば、一日で往復できるから、魚や貝は腐らん。それに米は、近くの集落に散らばっている、麾下達が届けてくれる」
腹の虫がけたたましく鳴り響く。米は有難い。熊啓が人生の大半を過ごした、黄河流域での主食は麦を基にした粉食であり、米を主食としない。
一方、淮水、揚子江流域では火耕水耨農業が盛んで、米を主食としている。火耕水耨農業というのは、原野に火を放った後に、稲を植え、雑草が生えると、田畑に水を注ぎ入れて除去するという農法である。広大な土地を有する南部であるが故に、広まった原始的農法ともいえる。
熊啓は暴れ狂う腹の虫を抑えることができず、椀に入った粥をかき込んだ。
「しかし、久しいな。汗明殿」
項燕が久闊を叙するように、砕けた口調で言った。
「ええ。春申君が死去されて以来ですな」
熊啓は思わず、眼許に穏やかな皺を刻む、汗明を二度見した。
「待ってくれ。あなた方は顔見知りだったのか」
半ば責難するように、熊啓は言った。
「おや。伝えていませんでしたかな」
けむに巻くように、汗明が笑う。
熊啓は丸い溜息とともに、椀を置く。
「秦に身を置かれていたのか?」
項燕が言う。
「最終的には。春申君があの簒奪者李園に暗殺されてから、諸国を渡り歩きました」
老いによって、白濁した汗明の眼に怨懣が宿った。同じく項燕の顔にも、濃い影が差す。
(なるほど。そういうことか)
熊啓は沈黙を続ける、二人を見遣って、得心した。
汗明がかつて、楚の孝烈王を令尹(宰相)として扶翼した、春申君の食客であることは知っていた。
春申君は戦国時代に活躍した、戦国四君の一人である。戦国四君とは、斉の孟嘗君、魏の信陵君、趙の平原君、楚の春申君の四人のことを総称する。
春申君以外の三名は、公族出身者であり、その隆盛時の権勢は、当時の王を凌ぐほどであった。孟嘗君に至っては、斉の閔王が嫉むほどの権勢と、民の人気を集め、それがきっかけの一つとなり、魏へと出奔を余儀なくされている。
四人は時には政治家、時に侠人の頭として、民を束ね、食客は三千人を超えるほどであったと伝わっている。
閑話休題。話を春申君に戻すと、春申君こと黄歇は、公族ではなく、生来からの利発さと、熊啓の父である孝烈王の信頼によって、令尹まで登りつめた。
項燕の口ぶりから察するに、彼もまた青き頃、春申君に師事し、薫陶を受けたのだろうと、熊啓は推察する。
秦が用いた縦横家張儀に散々手玉にとられ、秦の地で客死した懐王の代以前から、楚は纏まりに欠けている国であった。
秦は楚との友誼を深める理由で、縁談を持ちかけた。秦から差し出されたのは、絶世の美女であった。懐王は色狂いであり、臣下達の諫止を聞かず、美女を迎え入れる為に秦へと向かった。しかし、全てが秦の大猷であった。秦は長大な領土を有する、楚の国力を削ぐ為に、懐王を監禁したのである。
懐王は秦に抑留されたまま、子である傾襄王が践祚した。秦で客死を遂げた、懐王は暗君の代表的な存在として語り継がれていくことになる。
しかし、懐王の孫である、孝烈王の御代には、国は良く治まった。それも、春申君が影で、孝烈王を真摯に支え続けたからであろう。春申君は生来から、恬淡で清廉潔白な男だった。職務に邁進し、宮廷に蔓延していた、涜職を一掃した。
だが、秦に対する合従軍の盟主となり、散々に敗れると、敗戦の責は、全て春申君一人になすりつけられた。之が原因となり、唇歯輔車の関係であった、孝烈王と春申君の間に隙間風が吹くことなり、春申君は疎まれることになる。孝烈王の冷えた態度が、狼心なく王を支え続けてきた、春申君に闇を覗かせ、やがて悲劇を引き金となる。
李園という趙の男が、呉に引き篭もり、執政を続ける春申君に、食客になりたいと申し出た。李園は自身の妹である、李嬌を春申君に引き合わせた。春申君は、李嬌の美貌に惹かれた。食客も手持無沙汰でなれるものではない。
弁が立ったり、腕っ節が強かったりと、特殊な技能なくしては、客として養ってもらえるわけではないのだ。当時の春申君は、窈窕なる妹を差し出し、兄妹もろとも囲ってもらうつもりなのだろうと、李園の黒い胸算用を見抜いていたころだろう。
春申君は李園の魂胆を見抜きながらも、李嬌を愛した。李園を客として迎い入れ、暫くすると春申君の寵愛をうけた、李嬌は子を孕んだ。
妹が身籠ると、李園は動きだした。この頃、高齢な孝烈王に子はなく、臣下達は一様に焦っていた。李園は妹の子を利用しようと考えた。李園は身籠った妹を、孝烈王に献上するように、春申君に耳打ちした。
つまり、子が男児ならば、実質、子の親は春申君であり、王亡き後は、王の父として権勢を保ち続けることができるのである。無論、孝烈王に対しても秘事であるが、たった一度の失敗で冷や飯を食わされ続けてきた、春申君にとっては魅力的な提案であったに違いない。
何より宮中には、春申君を疎んでいる佞臣も少なくはない。侘しくも孝烈王との絆が保たれているからこそ、令尹の地位に甘んじていることができているが、仮に春申君を疎んでいる佞臣が、王の遠縁の者を立てれば、春申君は間違いなく現職を追われる。この時、真摯に連枝として国を支え続けてきた、春申君に初めて邪心が目覚めたのかも
しれない。
春申君は李兄妹と結託し、李嬌を後宮へと入れた。孝烈王が李嬌を見初めるまで、そう時はかからなかった。やがて、李嬌は毎晩同衾し、身籠ったことを王に告げた。歓びも束の間、孝烈王は我が子が生まれて、数年で篤い病に罹り病死する。
子は男児であった。名は悍。孝烈王が薨じて秋毫もおかず、熊悍は正統なる王位継承者として践祚した。
いわずもがな幼児である、熊悍に執政する力はない。傀儡の王を囲むように、後見人である春申君と、王の母である李嬌。そして、王の叔父となった李園が、政を聾断するであろうことは明らかであった。
しかし、事件は起きた。李兄妹が結託し、令尹として君臨する、春申君の暗殺に動いた。李園は一件の露見を懼れたのか。それとも、春申君を暗殺し、自ら令尹を務めることによって、栄達欲を満たそうとしたのか。元より、狡猾かつ利己的な男である。要因は重なっていたかもしれない。
結果、春申君は息子の熊悍が践祚した、その年に、李園の刺客によって暗殺された。その雷名を中華全土に轟かせた黄歇の首は刺客の手によって、城外に捨てられ、一族の者は悉く誅殺された。
李園は令尹となった。太后となった妹と共に、朝政を牛耳ったが、熊悍が即位して十年の年、熊悍は幼くして病死した。だが、狡猾な李園は、最悪の場合を見越して保険をかけていた。孝烈王が薨じる前に、
李嬌に胤の強い男を密かに与え、孕ませておいたのである。運の良いことに、生まれた子はまたも男児であった。熊悍の同母弟である、彼の名は郝といい、兄の熊悍こと幽王が薨じると、幼くして王に担ぎ上げられた。
百官達はこれ以上、李兄妹の専横を許すまいと結託し、叛旗を翻した。孝烈王の弟である負芻を擁立し、百官達は新王熊郝、李氏一族を悉く捕え簒奪者として処刑した。
李兄妹は熊悍が春申君の子であることをひた隠しにしていたが、秘事はいつしか漏れ、宮中に広く広まっていたのである。
酷似した例で言うと、熊啓の主君ともいえる、文信候呂不韋が記憶に新しい。陽翟の豪商であった呂不韋は、趙に質子として入れられていた公子異人を、手練手管を用いて、秦へ帰還させ、太子にまで担ぎ上げた。呂不韋は自らが寵愛していた、趙の有力者の娘を、異人に与えた。この娘は既に呂不韋の子を孕んでいて、異人との子として、生まれたのが、秦王政であった。
やがて、異人は子楚と名を改め、即位すると、僅か在位三年で薨じた。そして、呂不韋が後見人となり、政が十三歳の若さで即位する。当時の秦王政は、王とは名ばかりであった。楚の幽王と諡された熊悍と、同様に傀儡の王に等しく、李園の如く、呂不韋は朝政を聾断した。だが、天は天意なき為政者に天譴をくだす。
秦王政は、呂不韋よる遥かに、開明的思考を持ち合わせ、時流を読む力に長けていた。歳を重ねるごとに、王としての威風を漂わせ、次々に呂不韋派の官吏達を取り込んでいった。呂不韋は秦王政の母である太后と、その情夫嫪毒が引き起こした叛乱に通じていたとして人臣の最高職にあたる相邦を罷免された。
呂不韋は蜀の地に流刑となり、後に毒をあおり自死している。
天網恢恢疎にして漏らさずー。という言葉がある。天は欺瞞により、天意を偽ろうとした、春申君、李園、呂不韋に漏らすことなく、天譴をくだしたということになる。そして今、複雑な表情で顔を突き合わす三人は、いずれも天に裁かれた男達と深く関わり合いを持っている。複雑に絡み合った因果だ。この天への謀叛人の薫陶を受けた、男達に、楚の命運はかかっている。
「野垂れ死にそうになっている所を、公子に救われたのです」
と汗明は自嘲気味に嗤った。
長い思惟で箸が止まっていた、熊啓は汗明の渇いた笑い声で、我に返った。
「そうでしたか。しかし、汗明殿も随分と老いられた」
「当然でしょう。春申君に手を焼かせ続けた、腕白坊主の髪に白い物が混ざっているのですから」
「違いない」
項燕は屈託のない笑貌を見せる。だが、眼は遠くを見つめていた。
その理由が熊啓には何となく分かった気がした。
「さて、昔話はここまでにして、何故、わしを探しに参られた」
先ほどまで穏やかな気配を纏っていた、項燕が凄味を放った。
だが、熊啓は箸を置き、決然と歴戦の勇者に向かい合った。
「承知しておられるはずです」
「国を救う為か」
「ええ」
「この国は、お前が想像する以上に病んでいるぞ。師を屠り、宮中を支配した李氏一族はもう亡い。しかし、王として負芻が立った今でも、現状はなんら変わらん。負芻は意志薄弱な男で政に関心はなく、淫佚に溺れ、王の周囲には佞臣が犇めいておる」
「だから、軍を去ったのですか」
項燕の眼の奥に、赤い憤怒が揺らめいた。
「秦が手を下さずとも、この国は滅びる。わしはあの愚鈍な王や卑しい佞臣共を助ける為に、命を懸けるつもりはない」
「確かに宮廷は腐敗しています。しかし、楚には何百万という民がいる」
「ふっ。笑わせるな、若造。秦王の懐刀として、我が国の領土を犯したお前が、民の命の尊さを語るか。ならば、訊こう。何故今更、楚に手を差し伸べた?呂不韋の仇討ちとは言うまいな」
項燕は口吻を歪めながら、試すような眼差しで、熊啓を見据えた。
「私は真理を申し上げたはず。天下は一人の天下に非ずして、天下の天下なりと」
「お前は売国奴の李斯と共に、秦王を唯一無二の存在として戴き、鉄の法律による支配を推し進めた。今更、過ちであったというのか」
同じく呂不韋のもとで、辣腕を振るった、刑名家李斯の名を、項燕は吐き捨てるように言った。
重臣の一人として、秦王を輔弼する李斯は、楚の生まれだった。咸陽にいた頃、李斯本人の口から、春申君が塾長を務める私塾で勉学に励んでいたと聞いたことがある。春申君の私塾の教官には、性悪説を唱えた儒家の荀況も招かれていたという。
春申君の謦咳に接している、李斯を嫌っているあたり、項燕自身も年代こそ違うが、私塾の生徒だったのかもしれない。
「法による支配が悪ではない。法律は導を失った人民を導き、悪性を秘めた人民を正しく教化するものなのです。だが、何もかも性急過ぎたのです。法も畢竟―。思潮や宗教と同じく、何十年という時を経て、徐々に人の暮らしや魂に沁みわたっていくもの。たとえ、秦が勢いのまま天下を統べ、鉄の法律で万民を縛り付けても、今のままでは、法は人民に馴染まない。秦王は一代で全てを成そうとされておられる」
「なるほど。既に秦王は死を懼れ、故に畢生の事績の象徴ともいえる、中華全土の法治国家の顕現を急いているのか」
熊啓は固く頷いた。
そして、回顧する。宮廷に出入りする、胡乱な方士達の姿を。奴等は長広舌で、秦王に不老不死の術を説き、ありもしない夢の世界へと誘惑し導いた。それからだ。英邁な君主であった、秦王が不老不死の夢に憑りつかれ、人が変わり始めたのは。
秦王は怪力乱神を語る方士共を盲信し、誰よりも死を懼れている。だからこそ、方士共を重用し、不老不死に至る道を探らせながらも、完全なる中華全土の支配を急いている。
「今の秦王のやり方では、万世の安寧を築くことはできない」
呂不韋を死に追いやったことに対して、秦王に含むものがないとは言い切れない。
それでも、若き秦王の燃え滾るような双眸の彼方に、安寧の世の姿が視えたからこそ、秦王を支え続けてきた。だが、かつて烈火を宿していた、秦王の双眸は邪なものに憑りつかれ、黒い邪悪な炎が宿っている。
「死への恐怖が、秦王を凶人へと変えたか」
項燕は熊啓から視線を転じて、深い森の奥を見遣った。
項籍の戯れる声が、鳥のさえずりに混ざって聞こえてくる。
「何故、人とは形のないものに脅え、また焦がれるのだろうな」
亡き師を偲んでの言葉だと、熊啓は思った。春申君もまた、息子を王に立てることで、天意を得ようとした。
「幻に憑りつかれた王に、徳による政治を排し、厳正な法による支配など叶いましょうか」
「無理だろうな。よしんば、勢いのまま統一が叶ったとして、おぬしの言う通り、矛盾を抱えたままでは、王と万民の心は翕然とはならない。きっと早い段階で、統一後の国は崩壊を始める」
「秦王のもとで、天下に歩みを進めるにつれて、理解したことがあります。この長大な中華を独りの為政者が束ねるなど、土台不可能な話であったのだと。たとえ、稀代の名君と賞賛を浴びた者でも、権力を得、時代の流れに呑まれれば、人格は変わっていく」
熊啓は頬に熱いものが伝うのを感じた。赤心を披瀝するのに、抵抗がなかった訳ではない。今も胸の底には、秦王への忠義が残っている。
だが、涙を流し、隻腕の翁に胸の内を曝け出すのは、滔天の勢いで、領土を拡げていく、強秦を止めることができるのは、この男しかいないと確信しているからである。
いつの間にか、熊啓は洟水をこもごもと流し、嗚咽を漏らして泣いていた。項燕は肩を揺らして泣きじゃくる、彼の肩に厚い手を乗せる。
「秦王の零落を誰よりも嘆いているのはおぬしのようだな。綺麗事を並べられるより、その方が胸に響く」
赤い眼で熊啓は、項燕の顔を見上げた。優しい眼差しが返ってくる。
「力を貸して頂きたい。秦の攻勢を阻み、祖国を救えるのは、項燕殿の他に誰もいないのです」
項燕は細い息を漏らすと、頭を振った。
「残念だが、今のわしに戦う力は残されておらん。見よ。この腕を」
彼は切断された右腕の断面を見せた。切断された骨に、薄い皮膚が纏わりついている。傷口は快癒しておらず、血が滲んだ糸が、皮膚の中に埋もれている。
「城父の戦いで、李信に断たれた。確かに奴は強かった。それでも、わしが十歳若ければ、一振りで奴の自信に満ちた、生意気な面を粉砕できたであろう。あの若造に奪われたのは、利き腕じゃ。もう自慢の棍を遣うこともできん。それにー」
項燕が口を噤んだ。それ以上、語ることを躊躇っているように、一拍の間があった。
「戦場に立つ、意味を見出せなくなっている。青二才の頃は、戦場に意味など求めず、ただ強者と肌がひりつくような戦ができるだけで満ち足りた。しかしのぅ、歳を重ねると、いちいち余計な事を考えてしまう。これは誰の為の戦なのだとか、わしは一体、何の為に命を懸けているか。そして、行きつく答えは国の為になる。だが、おぬしも周知の通り、楚の宮中は佞臣の坩堝じゃ」
「だから退役されたのですな」
汗明が言う。彼もまた楚の零落を嘆く一人である。
「ですが、あなたは私の訴えに答えて下さった」
熊啓は李信と蒙恬を挟撃する為に、退役した項燕に密書を送った。熊啓の裏切りと楚の名将項燕の介入により、二十万を超える秦軍を覆滅させた。
「最後の気紛れというやつだ。だが、もうお終いだ。李信に利き腕を奪われた時、わしの肚の底に、僅かに残されていた闘志を奴に、利き腕と共に持っていかれた」
項燕は口許に薄い笑みを刷いた。彼は膝を叩いて、立ち上がる。
「わざわざ、このような老い耄れをあてにして、足を運んでくれたことには感謝する。だが、今のわしに、戦場に向かう気概も闘志も残されておらん」
項燕は踵を返し、「息子達に麓までは案内させる」と告げた。
二人の息子が駆け寄り、熊啓と汗明に立つように促した。だが、熊啓は立ち上がらなかった。まだ最後の切り札が残されている。
「項燕殿」
項燕の足が止まった。熊啓の声音に、気力が漲っているのを感じ取ったのだろう。
「秦王は隠棲した王翦を、再び将軍職に任じました」
「何だと」
背を向けていた、項燕が振り返る。眦は裂けんばかりに見開かれ、此方を射貫くほどの迫力がある。
「先の戦の敗退を取り返す為に、秦王は王翦を復職させたのです。そして、王翦が率いるのは六十万もの大軍勢です」
「六十万!?」
驚愕の声を上げたのは、項燕の二人の息子であった。二人は戦慄し、茫然自失としている。
「たとえ人里離れた会稽の山奥に鳴りを潜めていたとしても、我執に囚われた王翦はあなたを必ず探し出しますよ。そして、その暁には」
熊啓は昏い眼で、立ち尽す項伯と項梁に視線を注ぐ。
「二人の御令息―」
遠くの方で野を駆け回る、項籍の喜声が谺する。
「御令孫にまで、凶気の刃は迫ることになる」
項燕は短い髪を逆立て、熊啓を睨んだ。
「わしを脅しているのか?」
「脅しではありませんよ。事実、王翦のあなたに対する執着心は異常だ。なんせ王翦は二度、あなたと戦って敗けている。赫赫たる王翦の戦歴を遡っても、彼に苦杯を舐めさせたのは、あなただけだ」
項燕は暫しの間、瞼を閉じた。
左拳が強く握り込まれている。彼とて一族は、会稽の山奥にまで連れてきた三人だけではないだろう。
楚は貞操観念に関しては、鷹揚な国である。項燕には彼等以外にも、何十人という落とし胤がいるに違いにない。そして、あの王翦ならば、落とし胤に至るまで徹底的に調べ上げ、自身に恥辱を齎した、項氏一族を族滅にまで追い込むだろう。
思惟を振り払うように、項燕は瞼を開いた。
「熊啓よ。流石、秦で丞相にまで登りつめた男だ。策士だな」
項燕が吹っ切れた明るい笑貌を見せた。
「いいだろう。その話のってやる」
熊啓と汗明は歓びのあまり、顔を見合わせる。
「だか、これで最後だ。あの男と決着をつけたら、もう二度と戦場には立たん」
いいなと念を押すように、項燕は白眉を上げた。
「御意」
熊啓は立ち上がり、最大限の感謝の意を込めた拱手をした。
項燕は二人を、庵へと招じ入れた。古色蒼然としている庵だが、中は思ったより広く、生活に必要な必需品が揃っている。四人で暮らしていく上では不自由は無さそうだ。
「おい。客人にもてなしを」
項燕が声高に告げると、戸の前で控える項伯が、表にある焚火の方へと駆けて行った。
炎が盛る焚火の上には、鋗が置かれ、ぐつぐつと煮立っている様子がある。すぐに項伯が椀を二つ持って現れた。
「どうぞ」
と彼は恭しく、熊啓と汗明に椀を差し出す。
「有難う」
受け取る。魚介の良い香りが鼻をくすぐる。椀には魚の身をほぐしたものと蛤に米を混ぜたものが入っていた。
「ほう。この山奥で魚と蛤とは」
汗明が驚きの声を上げる。
「山を下れば、海はそれほど遠くない。三日に一度、梁に山を下らせる。そうさな、せいぜい六十里ってとこか。馬があれば、一日で往復できるから、魚や貝は腐らん。それに米は、近くの集落に散らばっている、麾下達が届けてくれる」
腹の虫がけたたましく鳴り響く。米は有難い。熊啓が人生の大半を過ごした、黄河流域での主食は麦を基にした粉食であり、米を主食としない。
一方、淮水、揚子江流域では火耕水耨農業が盛んで、米を主食としている。火耕水耨農業というのは、原野に火を放った後に、稲を植え、雑草が生えると、田畑に水を注ぎ入れて除去するという農法である。広大な土地を有する南部であるが故に、広まった原始的農法ともいえる。
熊啓は暴れ狂う腹の虫を抑えることができず、椀に入った粥をかき込んだ。
「しかし、久しいな。汗明殿」
項燕が久闊を叙するように、砕けた口調で言った。
「ええ。春申君が死去されて以来ですな」
熊啓は思わず、眼許に穏やかな皺を刻む、汗明を二度見した。
「待ってくれ。あなた方は顔見知りだったのか」
半ば責難するように、熊啓は言った。
「おや。伝えていませんでしたかな」
けむに巻くように、汗明が笑う。
熊啓は丸い溜息とともに、椀を置く。
「秦に身を置かれていたのか?」
項燕が言う。
「最終的には。春申君があの簒奪者李園に暗殺されてから、諸国を渡り歩きました」
老いによって、白濁した汗明の眼に怨懣が宿った。同じく項燕の顔にも、濃い影が差す。
(なるほど。そういうことか)
熊啓は沈黙を続ける、二人を見遣って、得心した。
汗明がかつて、楚の孝烈王を令尹(宰相)として扶翼した、春申君の食客であることは知っていた。
春申君は戦国時代に活躍した、戦国四君の一人である。戦国四君とは、斉の孟嘗君、魏の信陵君、趙の平原君、楚の春申君の四人のことを総称する。
春申君以外の三名は、公族出身者であり、その隆盛時の権勢は、当時の王を凌ぐほどであった。孟嘗君に至っては、斉の閔王が嫉むほどの権勢と、民の人気を集め、それがきっかけの一つとなり、魏へと出奔を余儀なくされている。
四人は時には政治家、時に侠人の頭として、民を束ね、食客は三千人を超えるほどであったと伝わっている。
閑話休題。話を春申君に戻すと、春申君こと黄歇は、公族ではなく、生来からの利発さと、熊啓の父である孝烈王の信頼によって、令尹まで登りつめた。
項燕の口ぶりから察するに、彼もまた青き頃、春申君に師事し、薫陶を受けたのだろうと、熊啓は推察する。
秦が用いた縦横家張儀に散々手玉にとられ、秦の地で客死した懐王の代以前から、楚は纏まりに欠けている国であった。
秦は楚との友誼を深める理由で、縁談を持ちかけた。秦から差し出されたのは、絶世の美女であった。懐王は色狂いであり、臣下達の諫止を聞かず、美女を迎え入れる為に秦へと向かった。しかし、全てが秦の大猷であった。秦は長大な領土を有する、楚の国力を削ぐ為に、懐王を監禁したのである。
懐王は秦に抑留されたまま、子である傾襄王が践祚した。秦で客死を遂げた、懐王は暗君の代表的な存在として語り継がれていくことになる。
しかし、懐王の孫である、孝烈王の御代には、国は良く治まった。それも、春申君が影で、孝烈王を真摯に支え続けたからであろう。春申君は生来から、恬淡で清廉潔白な男だった。職務に邁進し、宮廷に蔓延していた、涜職を一掃した。
だが、秦に対する合従軍の盟主となり、散々に敗れると、敗戦の責は、全て春申君一人になすりつけられた。之が原因となり、唇歯輔車の関係であった、孝烈王と春申君の間に隙間風が吹くことなり、春申君は疎まれることになる。孝烈王の冷えた態度が、狼心なく王を支え続けてきた、春申君に闇を覗かせ、やがて悲劇を引き金となる。
李園という趙の男が、呉に引き篭もり、執政を続ける春申君に、食客になりたいと申し出た。李園は自身の妹である、李嬌を春申君に引き合わせた。春申君は、李嬌の美貌に惹かれた。食客も手持無沙汰でなれるものではない。
弁が立ったり、腕っ節が強かったりと、特殊な技能なくしては、客として養ってもらえるわけではないのだ。当時の春申君は、窈窕なる妹を差し出し、兄妹もろとも囲ってもらうつもりなのだろうと、李園の黒い胸算用を見抜いていたころだろう。
春申君は李園の魂胆を見抜きながらも、李嬌を愛した。李園を客として迎い入れ、暫くすると春申君の寵愛をうけた、李嬌は子を孕んだ。
妹が身籠ると、李園は動きだした。この頃、高齢な孝烈王に子はなく、臣下達は一様に焦っていた。李園は妹の子を利用しようと考えた。李園は身籠った妹を、孝烈王に献上するように、春申君に耳打ちした。
つまり、子が男児ならば、実質、子の親は春申君であり、王亡き後は、王の父として権勢を保ち続けることができるのである。無論、孝烈王に対しても秘事であるが、たった一度の失敗で冷や飯を食わされ続けてきた、春申君にとっては魅力的な提案であったに違いない。
何より宮中には、春申君を疎んでいる佞臣も少なくはない。侘しくも孝烈王との絆が保たれているからこそ、令尹の地位に甘んじていることができているが、仮に春申君を疎んでいる佞臣が、王の遠縁の者を立てれば、春申君は間違いなく現職を追われる。この時、真摯に連枝として国を支え続けてきた、春申君に初めて邪心が目覚めたのかも
しれない。
春申君は李兄妹と結託し、李嬌を後宮へと入れた。孝烈王が李嬌を見初めるまで、そう時はかからなかった。やがて、李嬌は毎晩同衾し、身籠ったことを王に告げた。歓びも束の間、孝烈王は我が子が生まれて、数年で篤い病に罹り病死する。
子は男児であった。名は悍。孝烈王が薨じて秋毫もおかず、熊悍は正統なる王位継承者として践祚した。
いわずもがな幼児である、熊悍に執政する力はない。傀儡の王を囲むように、後見人である春申君と、王の母である李嬌。そして、王の叔父となった李園が、政を聾断するであろうことは明らかであった。
しかし、事件は起きた。李兄妹が結託し、令尹として君臨する、春申君の暗殺に動いた。李園は一件の露見を懼れたのか。それとも、春申君を暗殺し、自ら令尹を務めることによって、栄達欲を満たそうとしたのか。元より、狡猾かつ利己的な男である。要因は重なっていたかもしれない。
結果、春申君は息子の熊悍が践祚した、その年に、李園の刺客によって暗殺された。その雷名を中華全土に轟かせた黄歇の首は刺客の手によって、城外に捨てられ、一族の者は悉く誅殺された。
李園は令尹となった。太后となった妹と共に、朝政を牛耳ったが、熊悍が即位して十年の年、熊悍は幼くして病死した。だが、狡猾な李園は、最悪の場合を見越して保険をかけていた。孝烈王が薨じる前に、
李嬌に胤の強い男を密かに与え、孕ませておいたのである。運の良いことに、生まれた子はまたも男児であった。熊悍の同母弟である、彼の名は郝といい、兄の熊悍こと幽王が薨じると、幼くして王に担ぎ上げられた。
百官達はこれ以上、李兄妹の専横を許すまいと結託し、叛旗を翻した。孝烈王の弟である負芻を擁立し、百官達は新王熊郝、李氏一族を悉く捕え簒奪者として処刑した。
李兄妹は熊悍が春申君の子であることをひた隠しにしていたが、秘事はいつしか漏れ、宮中に広く広まっていたのである。
酷似した例で言うと、熊啓の主君ともいえる、文信候呂不韋が記憶に新しい。陽翟の豪商であった呂不韋は、趙に質子として入れられていた公子異人を、手練手管を用いて、秦へ帰還させ、太子にまで担ぎ上げた。呂不韋は自らが寵愛していた、趙の有力者の娘を、異人に与えた。この娘は既に呂不韋の子を孕んでいて、異人との子として、生まれたのが、秦王政であった。
やがて、異人は子楚と名を改め、即位すると、僅か在位三年で薨じた。そして、呂不韋が後見人となり、政が十三歳の若さで即位する。当時の秦王政は、王とは名ばかりであった。楚の幽王と諡された熊悍と、同様に傀儡の王に等しく、李園の如く、呂不韋は朝政を聾断した。だが、天は天意なき為政者に天譴をくだす。
秦王政は、呂不韋よる遥かに、開明的思考を持ち合わせ、時流を読む力に長けていた。歳を重ねるごとに、王としての威風を漂わせ、次々に呂不韋派の官吏達を取り込んでいった。呂不韋は秦王政の母である太后と、その情夫嫪毒が引き起こした叛乱に通じていたとして人臣の最高職にあたる相邦を罷免された。
呂不韋は蜀の地に流刑となり、後に毒をあおり自死している。
天網恢恢疎にして漏らさずー。という言葉がある。天は欺瞞により、天意を偽ろうとした、春申君、李園、呂不韋に漏らすことなく、天譴をくだしたということになる。そして今、複雑な表情で顔を突き合わす三人は、いずれも天に裁かれた男達と深く関わり合いを持っている。複雑に絡み合った因果だ。この天への謀叛人の薫陶を受けた、男達に、楚の命運はかかっている。
「野垂れ死にそうになっている所を、公子に救われたのです」
と汗明は自嘲気味に嗤った。
長い思惟で箸が止まっていた、熊啓は汗明の渇いた笑い声で、我に返った。
「そうでしたか。しかし、汗明殿も随分と老いられた」
「当然でしょう。春申君に手を焼かせ続けた、腕白坊主の髪に白い物が混ざっているのですから」
「違いない」
項燕は屈託のない笑貌を見せる。だが、眼は遠くを見つめていた。
その理由が熊啓には何となく分かった気がした。
「さて、昔話はここまでにして、何故、わしを探しに参られた」
先ほどまで穏やかな気配を纏っていた、項燕が凄味を放った。
だが、熊啓は箸を置き、決然と歴戦の勇者に向かい合った。
「承知しておられるはずです」
「国を救う為か」
「ええ」
「この国は、お前が想像する以上に病んでいるぞ。師を屠り、宮中を支配した李氏一族はもう亡い。しかし、王として負芻が立った今でも、現状はなんら変わらん。負芻は意志薄弱な男で政に関心はなく、淫佚に溺れ、王の周囲には佞臣が犇めいておる」
「だから、軍を去ったのですか」
項燕の眼の奥に、赤い憤怒が揺らめいた。
「秦が手を下さずとも、この国は滅びる。わしはあの愚鈍な王や卑しい佞臣共を助ける為に、命を懸けるつもりはない」
「確かに宮廷は腐敗しています。しかし、楚には何百万という民がいる」
「ふっ。笑わせるな、若造。秦王の懐刀として、我が国の領土を犯したお前が、民の命の尊さを語るか。ならば、訊こう。何故今更、楚に手を差し伸べた?呂不韋の仇討ちとは言うまいな」
項燕は口吻を歪めながら、試すような眼差しで、熊啓を見据えた。
「私は真理を申し上げたはず。天下は一人の天下に非ずして、天下の天下なりと」
「お前は売国奴の李斯と共に、秦王を唯一無二の存在として戴き、鉄の法律による支配を推し進めた。今更、過ちであったというのか」
同じく呂不韋のもとで、辣腕を振るった、刑名家李斯の名を、項燕は吐き捨てるように言った。
重臣の一人として、秦王を輔弼する李斯は、楚の生まれだった。咸陽にいた頃、李斯本人の口から、春申君が塾長を務める私塾で勉学に励んでいたと聞いたことがある。春申君の私塾の教官には、性悪説を唱えた儒家の荀況も招かれていたという。
春申君の謦咳に接している、李斯を嫌っているあたり、項燕自身も年代こそ違うが、私塾の生徒だったのかもしれない。
「法による支配が悪ではない。法律は導を失った人民を導き、悪性を秘めた人民を正しく教化するものなのです。だが、何もかも性急過ぎたのです。法も畢竟―。思潮や宗教と同じく、何十年という時を経て、徐々に人の暮らしや魂に沁みわたっていくもの。たとえ、秦が勢いのまま天下を統べ、鉄の法律で万民を縛り付けても、今のままでは、法は人民に馴染まない。秦王は一代で全てを成そうとされておられる」
「なるほど。既に秦王は死を懼れ、故に畢生の事績の象徴ともいえる、中華全土の法治国家の顕現を急いているのか」
熊啓は固く頷いた。
そして、回顧する。宮廷に出入りする、胡乱な方士達の姿を。奴等は長広舌で、秦王に不老不死の術を説き、ありもしない夢の世界へと誘惑し導いた。それからだ。英邁な君主であった、秦王が不老不死の夢に憑りつかれ、人が変わり始めたのは。
秦王は怪力乱神を語る方士共を盲信し、誰よりも死を懼れている。だからこそ、方士共を重用し、不老不死に至る道を探らせながらも、完全なる中華全土の支配を急いている。
「今の秦王のやり方では、万世の安寧を築くことはできない」
呂不韋を死に追いやったことに対して、秦王に含むものがないとは言い切れない。
それでも、若き秦王の燃え滾るような双眸の彼方に、安寧の世の姿が視えたからこそ、秦王を支え続けてきた。だが、かつて烈火を宿していた、秦王の双眸は邪なものに憑りつかれ、黒い邪悪な炎が宿っている。
「死への恐怖が、秦王を凶人へと変えたか」
項燕は熊啓から視線を転じて、深い森の奥を見遣った。
項籍の戯れる声が、鳥のさえずりに混ざって聞こえてくる。
「何故、人とは形のないものに脅え、また焦がれるのだろうな」
亡き師を偲んでの言葉だと、熊啓は思った。春申君もまた、息子を王に立てることで、天意を得ようとした。
「幻に憑りつかれた王に、徳による政治を排し、厳正な法による支配など叶いましょうか」
「無理だろうな。よしんば、勢いのまま統一が叶ったとして、おぬしの言う通り、矛盾を抱えたままでは、王と万民の心は翕然とはならない。きっと早い段階で、統一後の国は崩壊を始める」
「秦王のもとで、天下に歩みを進めるにつれて、理解したことがあります。この長大な中華を独りの為政者が束ねるなど、土台不可能な話であったのだと。たとえ、稀代の名君と賞賛を浴びた者でも、権力を得、時代の流れに呑まれれば、人格は変わっていく」
熊啓は頬に熱いものが伝うのを感じた。赤心を披瀝するのに、抵抗がなかった訳ではない。今も胸の底には、秦王への忠義が残っている。
だが、涙を流し、隻腕の翁に胸の内を曝け出すのは、滔天の勢いで、領土を拡げていく、強秦を止めることができるのは、この男しかいないと確信しているからである。
いつの間にか、熊啓は洟水をこもごもと流し、嗚咽を漏らして泣いていた。項燕は肩を揺らして泣きじゃくる、彼の肩に厚い手を乗せる。
「秦王の零落を誰よりも嘆いているのはおぬしのようだな。綺麗事を並べられるより、その方が胸に響く」
赤い眼で熊啓は、項燕の顔を見上げた。優しい眼差しが返ってくる。
「力を貸して頂きたい。秦の攻勢を阻み、祖国を救えるのは、項燕殿の他に誰もいないのです」
項燕は細い息を漏らすと、頭を振った。
「残念だが、今のわしに戦う力は残されておらん。見よ。この腕を」
彼は切断された右腕の断面を見せた。切断された骨に、薄い皮膚が纏わりついている。傷口は快癒しておらず、血が滲んだ糸が、皮膚の中に埋もれている。
「城父の戦いで、李信に断たれた。確かに奴は強かった。それでも、わしが十歳若ければ、一振りで奴の自信に満ちた、生意気な面を粉砕できたであろう。あの若造に奪われたのは、利き腕じゃ。もう自慢の棍を遣うこともできん。それにー」
項燕が口を噤んだ。それ以上、語ることを躊躇っているように、一拍の間があった。
「戦場に立つ、意味を見出せなくなっている。青二才の頃は、戦場に意味など求めず、ただ強者と肌がひりつくような戦ができるだけで満ち足りた。しかしのぅ、歳を重ねると、いちいち余計な事を考えてしまう。これは誰の為の戦なのだとか、わしは一体、何の為に命を懸けているか。そして、行きつく答えは国の為になる。だが、おぬしも周知の通り、楚の宮中は佞臣の坩堝じゃ」
「だから退役されたのですな」
汗明が言う。彼もまた楚の零落を嘆く一人である。
「ですが、あなたは私の訴えに答えて下さった」
熊啓は李信と蒙恬を挟撃する為に、退役した項燕に密書を送った。熊啓の裏切りと楚の名将項燕の介入により、二十万を超える秦軍を覆滅させた。
「最後の気紛れというやつだ。だが、もうお終いだ。李信に利き腕を奪われた時、わしの肚の底に、僅かに残されていた闘志を奴に、利き腕と共に持っていかれた」
項燕は口許に薄い笑みを刷いた。彼は膝を叩いて、立ち上がる。
「わざわざ、このような老い耄れをあてにして、足を運んでくれたことには感謝する。だが、今のわしに、戦場に向かう気概も闘志も残されておらん」
項燕は踵を返し、「息子達に麓までは案内させる」と告げた。
二人の息子が駆け寄り、熊啓と汗明に立つように促した。だが、熊啓は立ち上がらなかった。まだ最後の切り札が残されている。
「項燕殿」
項燕の足が止まった。熊啓の声音に、気力が漲っているのを感じ取ったのだろう。
「秦王は隠棲した王翦を、再び将軍職に任じました」
「何だと」
背を向けていた、項燕が振り返る。眦は裂けんばかりに見開かれ、此方を射貫くほどの迫力がある。
「先の戦の敗退を取り返す為に、秦王は王翦を復職させたのです。そして、王翦が率いるのは六十万もの大軍勢です」
「六十万!?」
驚愕の声を上げたのは、項燕の二人の息子であった。二人は戦慄し、茫然自失としている。
「たとえ人里離れた会稽の山奥に鳴りを潜めていたとしても、我執に囚われた王翦はあなたを必ず探し出しますよ。そして、その暁には」
熊啓は昏い眼で、立ち尽す項伯と項梁に視線を注ぐ。
「二人の御令息―」
遠くの方で野を駆け回る、項籍の喜声が谺する。
「御令孫にまで、凶気の刃は迫ることになる」
項燕は短い髪を逆立て、熊啓を睨んだ。
「わしを脅しているのか?」
「脅しではありませんよ。事実、王翦のあなたに対する執着心は異常だ。なんせ王翦は二度、あなたと戦って敗けている。赫赫たる王翦の戦歴を遡っても、彼に苦杯を舐めさせたのは、あなただけだ」
項燕は暫しの間、瞼を閉じた。
左拳が強く握り込まれている。彼とて一族は、会稽の山奥にまで連れてきた三人だけではないだろう。
楚は貞操観念に関しては、鷹揚な国である。項燕には彼等以外にも、何十人という落とし胤がいるに違いにない。そして、あの王翦ならば、落とし胤に至るまで徹底的に調べ上げ、自身に恥辱を齎した、項氏一族を族滅にまで追い込むだろう。
思惟を振り払うように、項燕は瞼を開いた。
「熊啓よ。流石、秦で丞相にまで登りつめた男だ。策士だな」
項燕が吹っ切れた明るい笑貌を見せた。
「いいだろう。その話のってやる」
熊啓と汗明は歓びのあまり、顔を見合わせる。
「だか、これで最後だ。あの男と決着をつけたら、もう二度と戦場には立たん」
いいなと念を押すように、項燕は白眉を上げた。
「御意」
熊啓は立ち上がり、最大限の感謝の意を込めた拱手をした。
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