国殤(こくしょう)

松井暁彦

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四章 変革

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 楚の都である寿春じゅしゅんの宮中は酸鼻を極めていた。
 
楚王負芻ふすうが蒼白い顔をして見守る中、縄で打たれた高官達の首が次々に刎ねられていく。数は数百を越え、その大分が幾星霜と続く名家や公室に所縁のあるものであり、大した功績もなく、利を貪り続けていた佞臣である。

「刎ねよ」
 熊啓ゆうけいが斬るように腕を振り下ろすと、合わせて処刑人の大刀が煌めく。

 懺悔の声がきざはしを駆け上がり、宮殿前に座する負芻にまで轟く。だが、彼等の耳をろうするほどの悲鳴は、一息の間で虚空に霧散する。
 
 棘門きょくもんの門前で処刑は行われており、項燕こうえんは峻厳な表情で、宮廷を聾断し、腐敗へと導いた張本人達の首が舞う様を眺めていた。

「熊啓はわしの想像より遥かに苛烈な男であったな」
 項燕は隣に並ぶ、腰の曲がった翁に言った。

「公子は鋼の覚悟で、楚を再興しようとしておられる。その為には、まず膿を出しきらなくてはなりませんからな。内憂を抱えたままでは、とても秦には敵いますまい。幾ら公子や項燕殿が振臂一呼しんぴいっこし、秦と決戦に挑もうとも、佞臣共の余計な横槍が入れば、全てが烏有うゆうに帰すのです。禍根は断つに限ります」
 汗明かんめいは茫洋とした気配を漂わせ、次々に咲いては散る血の華を眺めている。
 
 熊啓は見事な手際で宮中を掌握してみせた。
 秦軍二十万を覆滅させ、項燕を軍に呼び戻すと、秦の丞相を務めていた公子熊啓は、堂々と寿春に凱旋した。熊啓は負芻にとって甥にあたり、佞臣達の傀儡となっている負芻は、智勇兼備の甥御の帰還を言祝どいだ。
 
 負芻は早々に熊啓を令尹れいいんに任じ、最高爵位である執圭しつけいを下賜した。加えて項燕を軍政の極官である大司馬へだいしばに任じた。
 
 この頃、秦は王翦おうせんを軍に呼び戻し、兵をほうぼうから搔き集めている段階にあり、楚の宮中は秦の対応に大童であった。
 
 これまで傀儡の王を操り、甘い汁を啜り続けてきた、公族や屈氏、景氏、昭氏の三閭と呼ばれる有力貴族達は、売国奴と呼ばれるに等しい熊啓が強い権力を有することに懸念を抱いていた。しかし、秦への対応に迫られる今、熊啓以外には対秦の総指揮を執りたがる者はおらず、円滑に熊啓は令尹の座におさまることができた。

 秦への対応を誤り、家名を穢すようなことになれば、貪官汚吏どんかんおり共は束になり、ここぞとばかりに糾弾し、失脚へと追い込む。熊啓以外の臣は保身を選び、静観の構えに入った。未曾有の国難に瀕して尚、誰一人として熊啓と共に戦おうという者はいない。古き陋習ろうしゅう蠱毒こどくに等しく、宮廷は荒療治なしでは再起不可能までに腐りきっていた。
 
 熊啓は宮廷に入ると、即座に宮廷内の穢れの一掃に動いた。自身の館で宴を開き、主だった官吏達を手当たり次第に招くと、全員に相当額のまいないを握らせた。全てが熊啓の欺瞞であった。後日、賂を受け取った者のみ強制的に捕縛し、今の処刑に至る。
 
 熊啓は宴の場で、佞臣と忠臣をふるいにかけたのだ。賂を受け取らなかった忠臣の数は二割に満たなかったが、それでも熊啓は彼等を厚く遇することで力強い味方へと変えてみせた。
 
 楚王朝がこれで大きく変わる。公族や貴族が力を持つ封建制の時代から、賢と能を重んじる能力主義の時代へと移り変わっていくだろう。秦は孝公こうこうの代から封建制撤廃の体制を整えていたから、遅れること百年余りであるが、それでも熊啓が行った大規模な粛清は、陋習に囚われた楚を大きく変えることになる。

「大した男だな、熊啓という男は。屈原くつげん春申君しゅんしんくんが果たせなかったことを瞬く間に成し遂げてみせた」
 屈原は暗愚の君として大いに楚を衰退させた懐王かいおうの時代の臣である。

 秦の縦横家張儀ちょうぎに翻弄され続ける、懐王を何度も諫めたが聞き入れず、疎まれ遠ざけられた後に、楚の未来を嘆き入水自殺している。
 
 屈原は春申君と違い、屈氏という名家の出でありながら、清廉であり続け、楚の旧き国体の改革に邁進した。祖国を心の底から愛していたが故に、悩み苦しみ抜いた屈原が遺した「離騒りそう」という詩はあまりにも有名である。
 
 屈原は死を以って、楚の変革を成そうとし、春申君は自らが王の外戚となることで国体を改めようとした。二人の死は鮮烈に民衆の記憶に焼き付き、同情の念を誘ったが、国体は改まることはなく、むしろ忠臣を亡くしたことで、社稷の腐敗は加速の一途を辿ることとなった。

「屈原殿や春申君には天命がなかったのかもしれませぬ。公子は時の運を掴んでおられる。我が国を滅ぼさんとする秦の大軍勢が迫っている、今だからこそ、公子は令尹となり権勢を得、宮中に犇めく佞臣共を一掃することができるのです」
 汗明は抜けるような蒼い空を遠い眼で見つめている。

「楚は存亡の危機にあるが、危殆きたいに瀕しているからこそ国は強くなるか。皮肉な話だな」

「項燕殿。興国以来、楚は最も強い国になりましょう」

「まずは秦を討ち払わなくては」

「討ち払えますとも。戦場に黒き竜が舞い戻ってきたのです」
 汗明は目許に幾つもの皺を走らせ、太く笑った。

「黒き竜とは。懐かしい渾名あだなを覚えておられるものだ」
 失くした右腕を見遣って、項燕は微苦笑を浮かべる。

「若造に腕を奪われ、老いさらばえた躰では、竜のように飛翔することは叶うまい」

「私には分かりますぞ。項燕殿の猛りが。公子の迸るような苛烈さと宿敵の再戦に滾っておられるのではないですかな」

「滾っておるのか。わしは」
 握り込んだ拳は、火焔を纏ったように火照っている。

「闘志が失われた訳ではなかったのです。国への諦念が、あなたの闘志を挫き、心の奥に押しとどめていた。私は知っている。あなたは戦場を追い求め続ける、生来からの戦人であると」

「生来からの戦人か」
 胸がすくような言葉に、鼓動が高鳴る。

「項燕殿。春申君が愛したこの国を守り抜いてくだされ」
 言った汗明の声は震え、頬には一筋の涙が伝っていた。

 彼は潤んだ眼で棘門を見つめていた。
 
 この地で春申君は、簒奪者李園りえんの刺客に殺された。

 項燕は自身の肩ほどの上背しかない、翁の細い肩に手を優しく置いた。

「死力を尽くそう」
 亡き主君に思慕の念を抱く汗明に倣って、項燕もかつての師の死地を見遣った。
 
 虚空に轟き続ける佞臣達の断末魔は、天上の春申君への鎮魂歌のようであった。
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