国殤(こくしょう)

松井暁彦

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四章 変革

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 相府しょうふ(令尹の役所)にある軍議室に、土気色のかおをした熊啓が遅れて入ってきた。彼は従者に脇を支えられ、覚束ない足取りで最上席に腰を下ろした。
 
 軍議室に集う主だった臣下達の視線が、熊啓に集中する。

「血の臭気にあてられたか」
 熊啓は心機を整え、項燕に力のない笑みを返した。

「刎ねた佞臣共の数は千を越えます。相手が腐敗の元凶であっても気持ちの良いものではありませんね」

「わしに任せれば良かったものを」
 熊啓は乱れた髪をそのままに頭を振った。

「私がやらなくては意味がないのです。彼等の死と向き合うだけの覚悟が無ければ、この国を変えることなどできません」
「自ら双肩に業を背負うか」

「業は桎梏となるが、時に人を強くするのです」

「ふん。生意気なことを。ならば、せいぜい自ら背負い込んだ業にのまれないように努めることじゃ」
  項燕は笑い飛ばすように言ったが、内心は熊啓の覚悟の持ち様に感心していた。
 
 国を生かし進化させる為に、彼は自ら血を浴び、逝った佞臣共の怨讐を抱え込んだ。現今の楚に、彼ほど強い志を持った者はいないだろう。当初は、祖国を裏切った売国奴と罵ったが、今の項燕には彼、彼を蔑む気持ちはない。彼から漲る覚悟が、己の魂を震わせている。

「では、本題に移りましょう」
 熊啓は呼吸を落ち着かせると、銘々の顔を順に見遣った。
 
 軍政の頂点である大司馬の項燕。左尹さいんに汗明。右尹ういんの宋辰。左尹と右尹は共に、令尹の佐弐さじにあたる。

 宋辰は名家宋氏の出であり、家系より令尹を多く輩出してきた家柄であるが、宋辰自身は他の名家の者と違い、驕りのない男であった。熊啓が佞臣を見極める為に催した饗応きょうおうで、宋辰は毅然とした態度で賂を固辞した。佞臣の坩堝と化した宮中では、稀有の存在となってしまった忠臣の一人である。
 
 次に大司馬を補佐役にある、左司馬として朱方しゅほう。右司馬として熊烈ゆうれつが席を埋めている。朱方は汗明が連れてきた男で、かつて春申君の食客であった朱英しゅえいの息子だという。中々に威風堂々とした青年で、風貌に冴えがある。
 
 熊烈は熊啓の長子で、父と共に、秦に身を置いてた頃は、功績を積み上げ将軍職にまで登りつめたという。李信や蒙恬のような派手さはないものの、父親譲りの刃のような鋭い眼からは、確立された聡明さが窺える。
 
 席次に項梁こうりょう項伯こうはくの姿がないのは、彼等に孫の項籍こうせきを預けているからだ。

 項籍の両親は早世し、祖父の項燕が親代わりを務めてきた。しかし、秦との大戦を前に、幼い孫を従軍させる訳にはいかない。項梁、項伯に項籍を委ね、三人は今も会稽かいけいに残っている。項梁は不承不承であったが、「もしも秦に楚が滅ぼされた時、お前がわしに代わって籍を守れ」と告げると、項梁の顔つきが父親のものに変わり、戦場に戻ることを決意した父親の背を見送った。
 
 熊啓が手を叩き、乾いた音が室内に響いた。そこで会稽に残した息子と孫の面影に伸びていた意識が、現実に引き戻された。
 
 従者が車座の中央に置かれた床几の上に、きぬの地図を広げた。

「現在、王翦率いる秦軍二十万は函谷関かんこくかんに留まっております。秦は全軍で六十万との報告が上がってきていますが、楚へ進軍を進める中で順次、虎符こふを用いて地方から徴集した兵士を合流させる手筈となっているようです」
 熊啓が指示を送ると、秦軍を模した黒い駒を函谷関から進めさせ、楚との国境沿いで止めさせた。

「して、我が国が動員可能な兵力は?」
 項燕が訊く。

「多く見積もって二十万ほどかと」
 その答えに銘々が唸った。

「世知辛いですな。かつて楚の西には広大な黔中けんちゅう巫郡ふぐん、北には堅牢な汾陘ふんけいの塞と郇陽しゅんようがあり、東西南北包囲五千里を超えると云われておった。精兵は百万、戦車は千、騎馬は一万、兵糧は十年を持ち越すほどの力を有していた大国が今や、秦に北西の領土を悉く奪われ、せいぜい二十万の兵しか搔き集めることしかできないとは」
 汗明が嘆息交じりに告げると、室内には重苦しい空気が漂う。

「過去の栄光に縋り、現状を嘆いていても仕方ありません。我々は今ある兵力で、秦と戦わねばならないのですから」
 わだかる鬱々とした空気を振り払わんと、声高に主張したのは朱方だった。

「朱方の言に一理はある。しかし、無茶ではある。相手はあの常勝将軍王翦じゃぞ。王翦相手に半分に満たない兵力で戦えというのは、あまりに無謀じゃのう」
 楚の英雄が自身の言を肯定してくれたことに、喜色を浮かべた朱方であったが、継がれた言葉に落胆を示した。

「しかし、項燕将軍は二度も王翦に勝利を収めておられるではないですか」
 朱方は挫けた心を、奮い起こして再び口を開いた。

「勝負に勝ち、戦に敗けたのだ。二度の合従戦で、多くの損害を被ったのは合従軍の方じゃ。言っておくが、わしと王翦は相性が悪い。奴は智謀で戦をし、わしは本能で戦をする。老いて感覚が鈍った今、わしは奴に勝てる気がせん」
 項燕は自嘲気味に口吻を歪め言った。

「王翦も項燕殿と同様に軍を退いていました」
 秦の内情に詳しい、熊啓が告げる。

「わしと同様に奴の頭の中も耄碌していると?」
 愛嬌のある笑顔を浮かべ、熊啓をからかう。

「耄碌などとは」
 慌てて否定する、熊啓を横目で見ながら、迫る宿敵に想いを馳せた。

「奴は耄碌などしておらんよ。むしろ、軍を退いてからは、何万回とわしとの戦を反芻し、無限の軍略に磨きをかけていたであろうよ」

「王翦は項燕殿が戦場に戻られるのを予期していたということですか?」

「いいや、そうではない。王翦はひたすらに己の経歴に瑕をつけたわしを怨み続けておる。奴はいわば変態よ。その執着心は野狼の如く強い。奴は何万回もわしとの戦を記憶の中で反芻することで、わしの命を何万通りもの殺し方で奪ってきた」
 皆が項燕の口から語られる、王翦の狂気じみた人間性に絶句している。

「王翦は手強いぞ、熊啓。奴と違いわしは魂までも戦場から一度離れておる。戦場を捨てた老い耄れと、戦場を捨てても尚、軍略を磨き続けた老い耄れとどちらに軍神は微笑むかのう」
 銘々が一斉に唾を呑み込む。

「ですがー。今の楚に項燕殿以外に王翦と渡り合える者はいないのです」
 熊啓は険しい表情で、言葉を絞り出した。縋るような真っ直ぐな眼を見返し、項燕は苦笑を浮かべた。

「分かっておる。今の楚を創ったのは、わしのような老い耄れ共だ。息子達や孫に明るい未来を遺す。それこそがわしの最期の務めだと思い定めておる。熊啓よ、不俱戴天の敵はわしが斃す。だから、おぬしは楚を一から創り変えよ。それがこの死に損ないの老骨を戦場に呼び戻した、おぬしがわしに払うべき対価じゃ」
 熊啓は膝行で、項燕ににじり寄り、双眼に狼星の如し勁い光を湛え拱手する。

「必ずや不肖熊啓。項燕殿の御期待に添う働き御覧に入れましょう」
 項燕は分厚い手で、彼の拱手した手を包み込んだ。
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