国殤(こくしょう)

松井暁彦

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四章 変革

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 春申君は私財を投げ打って、幾つもの私塾を開き、貴賤問わず、優秀な子供達を楚全土から集めた。その中の一人に、若き項燕も含まれていた。項燕の家系は、代々名将を輩出してきた名家であり、父祖が項というむらに封ぜられたので、項氏を名乗るようになった。

 項燕が十六歳になるころには、地元一の悪童になっていた。楚人は黄河流域の民族と違って、背が低くずんぐりとした体形が特徴であったが、項燕は魁偉の偉丈夫であった。日夜、喧嘩に明け暮れ、項燕の悪名は瞬く間に、周囲の邑々へと伝わって行った。
 
 項燕の父は息子を持て余し、春申君が運営する陳の私塾へ、彼の更生を願い、送ることを決めた。春申君の開いた私塾の一つでは、性悪説を説き、後に名を馳せる若き頃の荀況が教壇に立っていた。項燕が入塾してから数十年後のことになるが、秦王政に仕える重臣法家の李斯―。韓の高名な思想家韓非かんぴなども塾生である。二人とは毛色も違い、歳も幾分か離れていたこともあり、項燕自身は彼等と面識はない。それでも、同じ塾の生徒であった三名が後に遺した功績を鑑みれば、錚々そうそうたる顔ぶれといっていい。
 
 荀況は獣の如く粗暴な項燕を更生させようと、儒学の基礎を授け、礼節を具えさせようと苦心惨憺くしんささんたんとした。 
 
 後に荀況は春申君の元を一度離れて、斉に行き、三度列大夫の長官に任じられる。斉の稷下しょくかの学者達から尊敬を集める高名な学者となるが、讒言を受けて斉を出奔し、再び楚に戻ることになる。李斯や韓非の二人が、荀況の薫陶を受けたのは、彼が斉を出奔して楚に戻って来てからの話になる。

 当時の荀況は春申君が抱える食客の一人に過ぎず、無名な学者であり、八つばかり年長なだけで、若さ故なのか異常なほどに頭が固かった。項燕は楚人の特長そのものをかたちとして体現したような男であり、不羈奔放で激情家。短気ではあるが、情に脆く、仲間を想いやる純朴な心を持ち合わせている。

 元々、荀況は文化の淵叢えんそうに触れた、趙の人である。育った環境が違えば思潮も異なる。まして、楚人の象徴ともいえる項燕の気風など、荀況には理解できるはずもなかった。
 
 私塾で教壇に立った荀況は、礼節こそ人が生来から生まれ持った性悪を抑するものと考えていた。小難しく面白味のない理論をぐだぐだと並べる荀況の教えと直情径行の項燕が相容れるはずもなく、荀況の教室に送られて数週間で
、項燕は学ぶことを放棄した。塾での日々は、まるで己の楚人としての気風を正面から否定されているようだった。

「窮屈だな」
 衝動的に塾に併設された、宿舎を飛び出したいと思った。

 荷物を纏め、項燕は黎明と共に、宿舎を出た。

 払暁の光線に眼を眇めている。故郷に戻ろうかと思ったが、塾を無断で飛び出したとあれば、父は烈火の如く怒るに違いない。父は己に嗣子ししとしての自覚と教養を具えることを求めている。

(皆が犬を手懐けるように、俺を飼い馴らそうとしやがる。今のままの俺で何が悪い)
 項燕は地に転がる石を蹴り上げる。

 無軌道に転がる石の後を追い、影が伸びる方向に歩みを進めることを決めた。
 
 故郷に戻っても塾に送り返されるか、荀況のような石頭の傅役を付けられ、父の跡を継ぐまで退屈な日々を過ごすことになるのが関の山である。

 自由に邑に繰り出して、これまでのように喧嘩に明け暮れるような日々を送ることはできないだろう。

「あてのない旅に出るのもいい」
 軍人になるのが嫌なのではない。家畜のように父に馴服し、親に決められた路を行くのが嫌なのだ。
 
 佩剣の剣把を叩く。俺にはこいつさえあればいい。
 
 時は争乱の気配が、澎湃ほうはいとわきあがる戦国の世である。

 新興の秦が白起はくきを用いてからからというもの、昇竜の勢いで諸侯を脅かしている。特に国境を接する、魏・韓・楚は悉く領土を奪われている。魏・韓に至っては、秦の脅威に脅え、東藩と化している。秦との戦で疲弊した国々は、優秀な人材が困窮している。たとえ賢がなくとも、武を求める国もある。

(剣で成り上がってみるか)
 己の容を否定せず、自由に羽搏ける国ならば何処でもいい。

 項燕は地平線から射し込む、鬱金色の光線を全身で浴びた。

 三里ほど平野を歩いた。小高い丘があり、項燕は呼吸を弾ませ、丘を登った。

 陳の城郭を一望できた。四方に巡る陳の城壁は赤く、朝陽が重なると、紅蓮の焔が揺らめいているように見えた。

 突如、人の気配がした。丘を登ってくる二つの馬影。

「おや。先客がいたようだ」
 鞍上で軽快に告げたのは、華やぎのある絹の装束を纏った美男であった。

 装いで高貴な者であることは分かる。もう一人の男は、学者然とした小男で好奇の眼を項燕に向けている。

「よっと」
 美男は下馬すると、馴れ馴れしく項燕に並んで立った。

「良い景色だと思わないか」
 まるで知己に語りかけるように、美男が訊く。

「まぁ」
 憮然と告げる。項燕は公卿というものが嫌いだった。

 項氏も名家であるが故に、父はよく館で公卿共をもてなし饗応を開いた。一様に公卿共は、白皙の顔をして弱弱しく、父祖から受け継がれた封地から上がる利を貪って生きている。そのくせ自分達がまるで世界を回しているような傲岸不遜な態度をとる。奴等は一様に、父に対する態度も尊大であった。項氏は武門の名家であるが、血の歴史も浅い。連綿と血胤を繋いできた公卿共から見れば、項氏など成り上がりの公卿かぶれに過ぎない。父は宮廷の立場を保持する為に、必要以上に遜り、賂を贈った。

 父祖が戦場で命を懸けて蓄えてきた銭を、汚い手で平然と受け取る卑しい公卿共にも嫌気が差したが、一番は軍人としての誇りを捨て、公卿共に阿る父の媚態びたいに嫌気が差した。己も何れ、父の跡を継ぎ、あのようになるのだと思うと失望しかなかった。

「貴族が嫌いか、少年?」
 美男は眼許に浅い皺を刻み、陳の城郭を見つめたまま尋ねた。

「ああ。嫌いだね」
 斟酌なく答える。

「奇遇だな。私も貴族は嫌いだ。この国に腐敗を齎しているのは、能がないくせに権勢を振るい続けている貴族や公族共だからな」
 綺麗な顔に似合わず吐く言葉は辛辣である。

「あんたもその一人ではないのか」
 美男が視線を薙ぎ、項燕に向き直った。

 項燕は息を呑んだ。微笑を浮かべる美男からは、茫洋とした気配が拡がっている。気配に終わりはなく、無限に外へ拡がり続けている。まるで宇宙のような深さがある。

「私は貴族ではないよ」
 美男が息を漏らす度に、馥郁とした香草に似た香りが鼻腔を撫ぜる。

「従者を連れているではないか」
 項燕は好奇の眼を、己に向ける男を顎で指した。

 美男はくつくつと笑った。

「彼は従者ではないよ。私の友達さ」

「変な野郎だな」
 強がってみせるが、何処かこの男が放つ得体の知れない気魄に気圧されている。少なくとも、これまでの十六年間の人生で相対したことのない類の男であった。

「項燕」
 美男ははきとした声で告げた。

「何故、俺の名を」
 項燕は敵愾心を露わに、剣把に指先を送った。

「申し遅れたね。私の名は黄歇こうあつ。君が学ぶ塾の塾長を務めている。いや、学んでいたー。の間違いかな」
「あんたが」

 唖然とする項燕の様子を見て愉しむように、彼は優雅に微笑んでいる。

 当時、春申君こと黄歇は歴史の檜舞台に躍り出て間もなく、春申君を呼称していなかった。後に数千を超える食客も百人程度で、名も中華全土に轟くほどには至っていない。しかし、国内では庶民の出でありながら、十代半ばの頃に諸方に遊学し、見聞を広め、生来からの英明さを武器に、仕官を果たしている。出自は高貴ではないが、今では巧みな弁舌が傾襄王の眼に止まり重用されている。
 
 彼は佞臣犇めく宮中において、己の才覚のみで確立した地位を手に入れた。地位を得た黄歇は、手始めに楚全土から優秀な子供達を招聘。自身の私財で私塾を創成し、後進の育成に血道を上げている。

 項燕自身、塾に送られる前に、父の口から耳がたこができるほどに、黄歇という男の経歴を聞かされ続けた。己の眼の前に、楚王の寵愛を受ける、若き賢臣がいることの驚きよりも、別の驚きが総身に走っていた。黄歇は想像より遥かに若かった。髭もまだ生え揃っておらず、せいぜい二十代前半くらい見える。

「想像と違ったかな」
 流石に項燕は閉口した。粗暴な項燕も、楚王に通じる若き賢臣に憎まれ口を叩くような浅はかさはない。

「荀況は私が趙に遊学していた頃の友人でね。努力家で聡明な学者だよ。まぁ、頭が固いのが欠点だが。私は何れ、中華全土に名を馳せるほどの学者になると思っている」
 
 虎肩を細め気まずそうに視線を逸らす項燕。
 
 黄歇は微笑を湛えたまま、言葉を継ぐ。

「私は優秀な人材を欲している。だからこそ、私財を投げ打って、陳に塾を拓き、楚全土から貴賤問わず、子供達を招聘している」

 「あなたが求めているのは、俺のような荒くれ者ではなく、学のある餓鬼だろう」

「そうだね。確かに教養は必要だ。教育という部分では、楚は斉や秦という強国から数十年―。いや数百年単位で遅れをとっている」

「なら、やはり俺は必要ない。生憎、俺に学はなく、身に付けようとも思わない。俺は武で立身できる国を探すことにする。俺にとって、あんたの塾は窮屈な檻の中に居るのも同然だった」

「武に自信があるのか?」

「ある。故郷で俺より強い男はいなかった」
 ぷっと小男が噴き出した。凄味のある眼で睨んでやったが、男は全く意に返さない。

「よせ、汗明。彼はまだ世間を知らぬだけだ」

 黄歇の弁明も、項燕の誇りに傷をつけた。

「何だと」
 頭に血が昇る。一度、肚が立つと、相手が重臣であっても食ってかかる。このあたり、項燕は自身を自制できない子供である。

「世界は私達が想像するより遥かに広いよ、項燕。君が武での立身を望んでいるが、世はそれほど甘くはない。事実、今の君程度の実力では有象無象の一人に過ぎない」
 声音こそ柔らかいものであったが、黄歇の斟酌のない言葉は、深く項燕の胸を抉った。
 
 項燕にとって、自身の武は数少ない拠り所であった。
 
 怒髪天を衝き、怒りで視界が朱に染まる。そして、考えるより先に躰が動いていた。
 
 拳を振り下ろした時、眼前から黄歇は消えていた。
 
 瞬間。肚の辺りに凄まじい衝撃を受けた。躰が九の字に曲がる。
 
 懐に刹那の間で潜り込んだ黄歇が突き出した拳は、的確に項燕の丹田を捉えていた。

「この」
 華奢な躰を掴んでやろうと、腕を伸ばす。

 風のような動きで黄歇は、腕をすり抜け、項燕の腰にある剣を鞘から抜き放った。ひやりとした感覚が頸動脈に添う。今、躰を動かせば、刃が首筋に触れ、鮮血が飛ぶ。

「私は一介の武辺者にあらず。言ったはずだよ。君程度の実力では有象無象の一人に過ぎないと。この程度では、武での立身は果たせない」
 黄歇は剣で空を斬り、冷ややかに告げた。

(敗けた。この俺がー。こんな優男に)
 少年ながら胸に抱いていた誇りが完膚なきまでに砕かれた。
 
 有象無象の一人に過ぎない。黄歇の言葉が脳裏に何度も反響する。胸に暗渠が拡がり、気が付くと項燕は大粒の涙を流して泣いていた。

「悔しいかい、項燕。ありのままの君を受け入れてくれない現実が」
 項燕は咽び泣き、地を涙で濡らした。
 
 最早、何が悲しいのか分からないほどに、感情は渦となり暴れ回っていた。大人から少年へと移り変わる時期だからこそ、心の洞に蟠り続けていた、葛藤が決河のように溢れ出た。

「私は数日後に、使者として秦へ行く。強くなりたいのなら、私と共に来なさい。きっと長い逗留になる。秦は敵ではあるが、同時に強勢であるからこそ、今の君が学ぶことは多い」
 項燕は充血した眼で、黄歇を見上げた。
 
 黄歇は五つばかり項燕より年長に過ぎなかったが、彼には複雑な葛藤を抱える青少年に寄り添い、理解してやれるだけの器量があった。

「秦に行って何をしろと言うんだ」

「逗留している間、私が兵法を教えてやろう。そして、君は秦から必要なものを掠めとれ。今の秦軍は精強だ。千軍万馬の将が百を越え、軍神白起がいる。兵法を身に付け、一人前の武人となれば、誰も君をただの荒くれ者とは侮らず、ありのままの君を否定したりはしない」
 黄歇は剣を地に突き刺すと、雪のように白く透き通った手を差し伸べた。

「俺はあなたが求めているような、優秀な餓鬼ではない」
 差しのべられた手を、項燕は涙で濡れた眼で見つめ言った。

「何も勉学で秀でているものだけを求めている訳ではない。私は君のような熱く勇敢な心を持った少年もまた求めているのだよ」
 花が咲いたように、黄歇は笑った。

「来るかい、少年」

「あなたについていけば、俺は強くなれるのか?親父や荀先生を認めさせるほどに」

「努力を怠らず、ひたすらに研鑽を重ねれば、君は人として強くなれる」
 涙で濡れた土を掴んだ。面を上げる。

 鋼の双眼が見据えるは、遥か西―。万里と続く雲烟の先にある秦。
 
 心は決まった。本能が黄歇と共に秦へ行けと強く訴えかけてくる。その先に、己の進むべき路の答えがあるという気がする。
 
 項燕は砂に塗れた手で、黄歇の手を握り返した。
 
 その後、秦への使者として赴く黄歇、汗明と共に、項燕は楚を旅立った。秦での逗留は数年間に及び、その間、項燕は黄歇から兵法を学んだ。また、信賞必罰で厳格に律される、秦軍の軍容を目の当りにした。時には黄歇の手蔓で、秦軍の調練に参加し、軍の本質を学んだ。秦は昭襄王の御代であり、軍政は常勝将軍白起が掌握していた。七雄一、秦の軍は精強であった。

 白起の謦咳に接した訳ではないが、後世に軍神と畏怖される白起が鍛え上げた無敵の軍容が、感受性豊かな少年項燕に齎したものは大きい。
 
 楚の傾襄王が薨じ、孝烈王が践祚すると、黄歇の権勢はいよいよ高まった。黄歇が令尹に任じられると、声望は斉の孟嘗君と並んだ。食客は優に三千を越え、細々と運営していた私塾の数は百に達した。この頃には、淮北の十二県を楚王より賜り、春申君を名乗るようになっている。
 
 項燕はというと秦から帰還した後、軍に入った。

 黄歇自ら督戦した魯との戦に出陣し、万兵を斬獲ざんかくし、魯王を虜にしている。魯は黄歇と項燕の功績により、前二十四九年に滅亡した。
 
 黄歇は生涯で一万を越える食客を抱えたが、項燕ほど彼と太い絆で結ばれていた者はいない。将軍として立身した後も、項燕は黄歇に兄事し続けた。項燕が師と兄として慕い続けた、黄歇は誰よりも国に忠実で清廉であった。だからこそ、李園のようなつまらぬ男に誑かされ、簒奪を企てたのか理解できなかった。失望と共に、己に何も語らず、逝った黄歇を激しく憎悪した。

 もし簒奪の企てを聞かされていたら、当時の己ならどうしただろうか。きっと強く諫めたことだろう。だが、歳を食った今なら、彼の気持ちも少し理解できる気がする。彼は幾ら力を尽くしても変わることのない国体を嘆き、絶望した。己の息子を王に立て、強引に改革を行おうとした。清廉であり続けた黄歇が、心を闇に委ねければならないほどに国は腐敗していたのだ。
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