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四章 変革
五
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「遅くはなったが、今のわしには春申君の想いが理解できる」
汗明と暫しの間、昔話に興じた。大幕舎の外から闇が漏れている。
「だから軍を去ったのでは」
汗明は目尻に浮かべた涙を拭い言った。
「何かも馬鹿らしくなった。王は愚鈍で、宮中には阿諛迎合が瀰漫し、佞臣共は膏血を絞る。何の為に戦っているのか分からなくなった。簒奪を企てた春申君を酷く嫌悪し、憎んだ時もあった。だが、今なら分かる。春申君はわしと違い、最期まで戦うことを選んだ。手段はどうあれな」
「春申君が死して尚、成し遂げることができなかったことを公子がやってのけた」
「ああ。当初は不承不承であったが、今はあの男に命を懸けてもいいと思っている。奴の苛烈な覚悟にでもあてられたかな」
「我が国は長きに亘り、混沌の中を彷徨っていた。しかし、公子が政事を。項燕殿が軍政を掌握したことで、混沌に一条の光が射したのです」
「ならばわしの役目は、射し込む一条の光を絶やさぬことだな」
項燕が膝を叩いて立ち上がる。
「項燕殿。出陣を前にどうしてもあなたに受け取って頂きたいものが」
汗明は腰を上げると、幕舎の外に向かって手を叩いた。
すると、一人の従者が幕舎の中へ。従者は一振りの剣を恭しく肩より上に掲げている。
項燕は剣から、汗明へと視線を転じた。
「この剣は?」
「ご笑納ください。項燕殿」
項燕は掲げられた剣を見遣った。
漆黒の鞘には、龍の装飾が黄金で施され、剣格には翡翠が填め込まれている。
「随分と値の張った剣ではないか」
「春申君が孝烈王より賜った剣なのです」
汗明は細い笑みを刷く。
「何故、あなたがこれを?」
「李園は春申君を亡き者にするとその財産を掠めとり、李園が負芻を擁立した佞臣共に誅されると、春申君の財産は卑しい佞臣共の元へと流れて行ったのです。しかし、公子が奴等を誅殺したことによって」
「熊啓の元へと全てが移った」
項燕は言葉を継いだ。
総身が火照てる。
「左様。項燕殿、隻腕では以前のように鉄棍を遣うことは叶いますまい」
汗明の言う通り、隻腕では悪金の棍を振るうことはできない。
棍だけではなく、矛や戟といった長物を扱うことは難しいだろう。
項燕は一拍の逡巡のあと、従者が掲げる剣把に触れた。
突如、旋毛から足先にまで雷撃が走った。剣の息吹―。そうとしかいえないような不思議な力が己を襲った。
「長い時を経て、春申君の剣があなたの元へ渡った。そして、剣もあなたを選んだ」
「抜いても?」
ええと汗明は相好を崩した。
剣を抜き放った。銀色の刃が意志を持った生き物のように剣気を横溢させる。
項燕の眼には、刃が勁風を纏っているように映った。李信との闘いで失ったのは利き腕だった。だが、剣を握る左手は、利き腕であった右手のように不自由なく動かせるという気がする。
掌で軽く握り込み、柄を回してみる。剣そのものの重みを感じない。まるで風を掴んでいるようだった。
(わしはまだ戦える)
腕と共に失った、戦人の一部を、この剣が補ってくれる。
「飛廉だ」
「その剣の名ですな」
汗明が頤まで伸びた髭を撫ぜながら、間延びした笑い声を上げる。
「風の神―。良い名です」
項燕は刃を鞘におさめ、剣を腰に佩いた。
黒き戎衣を纏い、黄竜の装飾が施された剣を佩いた老将軍。その佇まいだけで、味方を鼓舞し、敵を萎縮させるほどの老練された気配が放れている。
「我が国に黒き竜が舞い戻ってきましたな」
汗明の心は、英雄の真の帰還に快哉を上げていた。
汗明と暫しの間、昔話に興じた。大幕舎の外から闇が漏れている。
「だから軍を去ったのでは」
汗明は目尻に浮かべた涙を拭い言った。
「何かも馬鹿らしくなった。王は愚鈍で、宮中には阿諛迎合が瀰漫し、佞臣共は膏血を絞る。何の為に戦っているのか分からなくなった。簒奪を企てた春申君を酷く嫌悪し、憎んだ時もあった。だが、今なら分かる。春申君はわしと違い、最期まで戦うことを選んだ。手段はどうあれな」
「春申君が死して尚、成し遂げることができなかったことを公子がやってのけた」
「ああ。当初は不承不承であったが、今はあの男に命を懸けてもいいと思っている。奴の苛烈な覚悟にでもあてられたかな」
「我が国は長きに亘り、混沌の中を彷徨っていた。しかし、公子が政事を。項燕殿が軍政を掌握したことで、混沌に一条の光が射したのです」
「ならばわしの役目は、射し込む一条の光を絶やさぬことだな」
項燕が膝を叩いて立ち上がる。
「項燕殿。出陣を前にどうしてもあなたに受け取って頂きたいものが」
汗明は腰を上げると、幕舎の外に向かって手を叩いた。
すると、一人の従者が幕舎の中へ。従者は一振りの剣を恭しく肩より上に掲げている。
項燕は剣から、汗明へと視線を転じた。
「この剣は?」
「ご笑納ください。項燕殿」
項燕は掲げられた剣を見遣った。
漆黒の鞘には、龍の装飾が黄金で施され、剣格には翡翠が填め込まれている。
「随分と値の張った剣ではないか」
「春申君が孝烈王より賜った剣なのです」
汗明は細い笑みを刷く。
「何故、あなたがこれを?」
「李園は春申君を亡き者にするとその財産を掠めとり、李園が負芻を擁立した佞臣共に誅されると、春申君の財産は卑しい佞臣共の元へと流れて行ったのです。しかし、公子が奴等を誅殺したことによって」
「熊啓の元へと全てが移った」
項燕は言葉を継いだ。
総身が火照てる。
「左様。項燕殿、隻腕では以前のように鉄棍を遣うことは叶いますまい」
汗明の言う通り、隻腕では悪金の棍を振るうことはできない。
棍だけではなく、矛や戟といった長物を扱うことは難しいだろう。
項燕は一拍の逡巡のあと、従者が掲げる剣把に触れた。
突如、旋毛から足先にまで雷撃が走った。剣の息吹―。そうとしかいえないような不思議な力が己を襲った。
「長い時を経て、春申君の剣があなたの元へ渡った。そして、剣もあなたを選んだ」
「抜いても?」
ええと汗明は相好を崩した。
剣を抜き放った。銀色の刃が意志を持った生き物のように剣気を横溢させる。
項燕の眼には、刃が勁風を纏っているように映った。李信との闘いで失ったのは利き腕だった。だが、剣を握る左手は、利き腕であった右手のように不自由なく動かせるという気がする。
掌で軽く握り込み、柄を回してみる。剣そのものの重みを感じない。まるで風を掴んでいるようだった。
(わしはまだ戦える)
腕と共に失った、戦人の一部を、この剣が補ってくれる。
「飛廉だ」
「その剣の名ですな」
汗明が頤まで伸びた髭を撫ぜながら、間延びした笑い声を上げる。
「風の神―。良い名です」
項燕は刃を鞘におさめ、剣を腰に佩いた。
黒き戎衣を纏い、黄竜の装飾が施された剣を佩いた老将軍。その佇まいだけで、味方を鼓舞し、敵を萎縮させるほどの老練された気配が放れている。
「我が国に黒き竜が舞い戻ってきましたな」
汗明の心は、英雄の真の帰還に快哉を上げていた。
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