国殤(こくしょう)

松井暁彦

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四章 変革

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「遅くはなったが、今のわしには春申君の想いが理解できる」
 汗明と暫しの間、昔話に興じた。大幕舎の外から闇が漏れている。

「だから軍を去ったのでは」
 汗明は目尻に浮かべた涙を拭い言った。

「何かも馬鹿らしくなった。王は愚鈍で、宮中には阿諛迎合あゆげいごう瀰漫びまんし、佞臣共は膏血こうけつを絞る。何の為に戦っているのか分からなくなった。簒奪を企てた春申君を酷く嫌悪し、憎んだ時もあった。だが、今なら分かる。春申君はわしと違い、最期まで戦うことを選んだ。手段はどうあれな」

「春申君が死して尚、成し遂げることができなかったことを公子がやってのけた」

「ああ。当初は不承不承であったが、今はあの男に命を懸けてもいいと思っている。奴の苛烈な覚悟にでもあてられたかな」

「我が国は長きに亘り、混沌の中を彷徨っていた。しかし、公子が政事を。項燕殿が軍政を掌握したことで、混沌に一条の光が射したのです」

「ならばわしの役目は、射し込む一条の光を絶やさぬことだな」
 項燕が膝を叩いて立ち上がる。

「項燕殿。出陣を前にどうしてもあなたに受け取って頂きたいものが」
 汗明は腰を上げると、幕舎の外に向かって手を叩いた。
 

 すると、一人の従者が幕舎の中へ。従者は一振りの剣を恭しく肩より上に掲げている。
 
 項燕は剣から、汗明へと視線を転じた。

「この剣は?」

「ご笑納ください。項燕殿」

 項燕は掲げられた剣を見遣った。
 漆黒の鞘には、龍の装飾が黄金で施され、剣格には翡翠ひすいが填め込まれている。

「随分と値の張った剣ではないか」

「春申君が孝烈王より賜った剣なのです」
 汗明は細い笑みを刷く。

「何故、あなたがこれを?」

「李園は春申君を亡き者にするとその財産を掠めとり、李園が負芻を擁立した佞臣共に誅されると、春申君の財産は卑しい佞臣共の元へと流れて行ったのです。しかし、公子が奴等を誅殺したことによって」

「熊啓の元へと全てが移った」
 項燕は言葉を継いだ。
 総身が火照てる。

「左様。項燕殿、隻腕では以前のように鉄棍を遣うことは叶いますまい」
 汗明の言う通り、隻腕では悪金の棍を振るうことはできない。
 
 棍だけではなく、矛や戟といった長物を扱うことは難しいだろう。
 
 項燕は一拍の逡巡のあと、従者が掲げる剣把に触れた。
 
 突如、旋毛から足先にまで雷撃が走った。剣の息吹―。そうとしかいえないような不思議な力が己を襲った。


「長い時を経て、春申君の剣があなたの元へ渡った。そして、剣もあなたを選んだ」

「抜いても?」
 ええと汗明は相好を崩した。
 
 剣を抜き放った。銀色の刃が意志を持った生き物のように剣気を横溢させる。
 項燕の眼には、刃が勁風けいふうを纏っているように映った。李信との闘いで失ったのは利き腕だった。だが、剣を握る左手は、利き腕であった右手のように不自由なく動かせるという気がする。

 掌で軽く握り込み、柄を回してみる。剣そのものの重みを感じない。まるで風を掴んでいるようだった。

(わしはまだ戦える)
 腕と共に失った、戦人の一部を、この剣が補ってくれる。

飛廉ひれんだ」

「その剣の名ですな」
 汗明がおとがいまで伸びた髭を撫ぜながら、間延びした笑い声を上げる。

「風の神―。良い名です」
 項燕は刃を鞘におさめ、剣を腰に佩いた。
 
 黒き戎衣を纏い、黄竜の装飾が施された剣を佩いた老将軍。その佇まいだけで、味方を鼓舞し、敵を萎縮させるほどの老練された気配が放れている。

「我が国に黒き竜が舞い戻ってきましたな」
 
 汗明の心は、英雄の真の帰還に快哉を上げていた。
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