国殤(こくしょう)

松井暁彦

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六章 竜影

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 荒廃した大地に、野火が虹のように拡がっている。鎮火することのない炎の狭間では、無窮の戦乱に身を投じる男達の姿がある。
 
 彼等は一様に餓鬼のように醜い躰をし、敵味方の区別なく、互いに憎しみ合い殺し合っている。餓鬼の数は優に何百万を越え、鈍色の大地は炎と殺戮を繰り返す餓鬼で埋め尽くされている。
 
 項燕は一人小高い丘の上で、眼下に拡がる凄惨な様相を睥睨していた。今、此処から飛び降りれば、己も遠からずあの餓鬼と同等の存在になる。それは、抗いようのない運命のようなものだった。

 戦場で幾千の命を奪ってきた、血に穢れた魂に救済はない。ただこの地で、敵味方関係なく、永久に戦い続ける。それが人の命を奪った者達へ、天がくだす裁きである。生と死を幾度も、あの空間では繰り返される。己は生と死を何度繰り返せば、自我を失い、あののように変貌するのだろうか。

「思ったより遅かったな」

 すっと荒れ果てた世界に、一陣の風が吹き抜けた。

(この声は)

 今や動きを止めた、心の臓が鷲摑みにされたような衝撃が走った。
 導かれるように振り返る。

春申君しゅんしんくん―」
 
 師の姿がそこにはあった。それも初めて出会った頃の若い姿で。
 涙がこもごもと溢れ出す。

「俺はー」
 項燕の声は若い頃のものに戻っていた。失ったはずの右腕も蘇っている。

「あなたを一人で逝かせてしまったことをひたすらに悔いてきた」
 
 春申君は眼許に、優しい皺を刻んだ。

「何故、あの時話してくれなかったんだ!俺は話して欲しかったー。俺があなたの傍にいれば、李園りえんなんぞに殺されるずに済んだはずだった」
 項燕は声を涸らし、涙を飛ばして訴える。

「項燕。私は国のことを想い尽し続けてきた。だが、国は何一つ、私に報いることはなかった。あろうことか、忠勤虚しく、宮廷は腐敗の一途を辿り、私は一度の失態で放逐された。故に、天意に叛いてまで、子を王として立てることで、国をただそうとしたのだ」
 春申君の口調は、淡々としていて、くらいものは含んでいない。

「俺も力になれたはずだ。あなたが死んでから、国は更に乱れた」

「だが、今は違う」
 春申君は袖に手を入れ、ゆっくりと歩むと、項燕に並んで、無窮の戦場に視線をやった。

熊啓ゆうけいのことを言っているのか?」

「皮肉なことに、滅亡の危機に瀕している、今だからこそ、国は変革を求める男の手によって、強く生まれ変わろうとしている」

「熊啓は良くやっているよ。だが、楚は遠からず滅びる」

「何故?」
 春申君の雲英きらを抱いたような、曇りのない眼が、項燕を見つめた。

「俺のせいだ。王翦に敗れ、二十万の軍を壊滅させてしまった」

「私の知る、項燕はたった一度の敗北で、全てを投げ出すほど、諦めの良い男ではなかった気がするが」

「あんたに何が分かる!」
 項燕は歯を剥き出し、春申君の襟首を掴んだ。

「俺は苦しみ抜いた。あんたと共に死ねなかった、自分を何度も呪った。だが、俺はあんたが国を匡そうと足搔いていたのを知っている。だから、あんたが死んだ後も戦い続けたよ。だが、幾ら戦場で俺が命を懸けた所で国は変わらない。戦場で多くの麾下が死んで行った。しかし、上の連中は知らん顔で日夜、贅沢三昧さ。ある日。戦う意味が見出せなくなった。何を守る為に、戦っているのか分からなくなった。でもー。あんたが生きてさえいれば、楚は今ほど腐りきっていなかったはずだ。俺が戦う意味だってー」
 項燕は縋りつくように咽び泣いた。

「私に天祐はなかった。だからこそ、私は李園に討たれたのさ。たとえ李園と出逢うことなく、あのような過ちを犯していない世界線の私が存在したとしても、国を蝕む腐蝕の根を断つことは、私にはできなかったであろう」

 崩れていく項燕の髪を、春申君は愛おしそうに撫ぜる。

「だが、何一つ成し遂げることが叶わなかった、私にも果たせた役目がある」
 滂沱ぼうだの涙で濡れた顔を、項燕はあげる。

「項燕。お前を中華一の名将に育て上げたことさ」

「やめてくれ。俺は陰険な王翦に成す術もなく敗れ、二十万もの兵を無駄に死なせてしまった、愚かな男だ。だから、俺は今ここにいる」

 相好を崩した春申君は、小さく頭を振った。

「お前が此処に来るのは、まだ早い。無窮の戦乱に身を投じるのは、役目を果たしてからだ」

「俺の役目など、もう何も残されてはいない」

 春申君が両の腕を回し、崩れる項燕を立ち上がらせる。

「熊啓を救え。彼には危殆に瀕する、楚を救済できるだけの力がある。それはお前が一番に理解しているはずだ。だからこそ、お前は戦場へ戻る決意をした」

「無理だ。俺は生という力を遣い切った。もう俺に戦う力は残されていない」

「分かっているさ。だから、私はずっとお前を待っていたのだ」
 春申君の人差し指が額に触れる。するとどうだろう。光の粒子が、項燕の躰を包み込み、爪先から温かい血潮が全身に巡る。力が漲ってくる。

「私が与えてやれるのは、回数にして一度だけ。お前は死力を尽くすことができる」

 綺麗に生前の姿のまま保たれていた、春申君の姿が泥のように音を立てて溶け出していく。

「駄目だ。よせ!」
 春申君の行為が、何を意味しているのか、項燕には理解できた。春申君は無窮の戦乱に身を投じながらも、餓鬼に堕ちることなく、鋼の彊力きょうりょくで自我を保ち続けていた。
 今、春申君が己に託しているのは、残された魂魄の力だった。

「よせ!魂を失えば、あんたはこの世界から消えることになる」

 その先に待っているのは虚無である。彼岸の地に立った今、あの世の理がすっと躰に馴染んでいる。春申君を待ち受ける虚無が、どれほど恐ろしいものなのかもわかる。

「まだ希望は残されている。お前の最期の務めを果たせ。そして、熊啓の前に立ちはだかる艱難かんなんを斬り払う刃となれ」
 春申君の躰は泥となり、白皙の顔だけが原形を保っていた。

「やめろ!」
 
 春申君が穏やかに笑む。
 
 瞬間。彼岸から弾き飛ばされた。凄まじい引力で、現世に引き寄せられていく。
 項燕は独り残される、春申君を救おうと右腕を伸ばした。だが、臂から下は無くなっていた。

「頼んだぞ。項燕」
 
 その言葉を最後に、視界が白一色に支配された。
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