【完結】月と羊 〜その声に恋をしていた〜

西宮裕華

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第10章

自分の気持ちを知った夜

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 ぼんやりと、靴音だけが耳に響く。

 いつのまにか駅からの道を歩ききって、自宅マンションの前まで帰ってきていたらしい。どうやって帰ってきたのか、覚えていない。


「誰が君の心にいた?」


 齊藤さんの、あの穏やかな声が、まるで何度もリフレインするかのように頭の中で繰り返されていた。


 誰が——。

 黒髪で、黒縁メガネ。少し無愛想だけど、動物の話になるとふわっと表情が柔らかくなる人。落ち着いた低めの声で、感情の波を見せないようでいて、ふとした瞬間に人の何倍も優しい目をする人。

…そんなの、もう、答えは決まってる。

 でも、自分の中でそれを言葉にしてしまったら、後戻りできない気がして、胸の奥がじんと苦しくなった。


 そんなときだった。

「えっ…?」

 マンションのエントランスに人だかりができていた。何事かと近づくと、掲示板に貼り紙があった。


『〇〇号室 漏水のため、緊急工事を行います。本日より最長一週間、上下階の一部住戸に立ち入り・断水の可能性があります』


——うそ。うちの上の階で漏水…。

 
 慌てて管理人に確認すると、「申し訳ないねぇ…安全のため、今夜から入れないことになっちゃって」と申し訳なさそうに頭を下げられた。

(もう、なんなのよ今日…)


 気落ちしながらも、最低限の着替えと必要な道具だけをまとめて職場に向かった。仕事もあるし、急に実家に帰るわけにも行かない。まさか自分の住まいにすら戻れないとは思わなかった。


 師長に事情を話すと、あっさりと「いいわよ。仮眠室、今ちょうど空いてるし」と言ってもらえた。
 さすがに仮眠室で数日寝泊まりするのは気が引けたけれど、家が使えない以上、他に選択肢はなかった。

「家にいてもモヤモヤするだけだし、働こう!働いていれば、考えなくて済むもんね……」

 自分にそう言い聞かせるように呟いて、寝泊まりする仮眠室に向かった。


 スマホを取り出して、ふと、羊さんのチャンネルを開いた。

 彼の落ち着いた語り口が、今の自分には、少しだけ薬になる気がした。

 羊さんの優しい声や、ちょっと毒を含んだ様な言い回しが静かな仮眠室に響く。何となく、画面の向こうの彼に会いたくなってしまった。
 
 でも会ってどうするの?ステージの上の彼と、下の自分。その距離感に怯えて、この前も彼を前にしたとき、何も言えなかったじゃない。今もLINEすら送れない。そんな自分が情けない。

「ほんと、バカみたい…」

 つぶやいた声が、誰に聞かれるわけでもなく吸い込まれていく。

 
 日辻さんに、会いたかった。彼と何気ない話をして、笑い合いたかった。名前を、呼んでほしかった。

——でも、それを望んでいい場所に、私はまだ、立っていない。


 そう自覚した瞬間、胸がきゅうっと締めつけられて、涙がこぼれた。
 胸が、痛くて苦しい。

 
 明日はきっと忙しい。朝から手術の準備をしなきゃならないし、病棟ミーティングもある。新人のサポートにも入る予定だ。

 泣いてる暇なんか、ない。考えている余裕なんて、ない。

 そうして、きつく目を閉じた。


 でも、どんなに目を閉じても、彼の顔が浮かんでしまう。

——あの公開実況の夜。私を守ろうと優しい声で「月平さん」って呼んでくれた、彼のことばかり。
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