【完結】月と羊 〜その声に恋をしていた〜

西宮裕華

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第20章

この手をずっと離さない

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「また、水族館行ってもいいですか?」

 それは、結ばれた朝のこと。
 まだ布団の中で、眠気と幸福の余韻に包まれていた俺を、菜緒さんの声がそっと撫でた。

 柔らかくて、甘くて、でもどこか子どもみたいに遠慮がちで。
 俺は、そんな声を胸に抱きしめるようにして答えた。

「もちろん」

 あの日の水族館は、ふたりにとって最初の、そして最後の“ただの友人”としての思い出だった。
 もう一度行くなら、今度は“恋人”として、彼女の手を握って——そう願っていたから。


 そして今日。
 約束通り、俺たちは再び水族館にやってきた。繋いだ手のぬくもりが、確かに“今”を教えてくれる。

 ふわふわと風に揺れる白いワンピース。細い足首に優しく馴染むサンダル。小ぶりのバッグにいつものペンギンのキーホルダー。
 なんで俺の彼女は、こんなにも可愛いんだろう。

 横を歩く彼女を見てると、ついそんなことばかり考えてしまう。
 真面目に考えれば考えるほど、馬鹿みたいに顔が緩む。

「ひつじさん」

 不意に呼びかけられて、立ち止まる。

 ……それ、どっちの俺?

「さぁ、どっちでしょー?」


 少しイタズラっぽく笑う菜緒さんに、苦笑いで返しながら、つい口を尖らせる。

「ってかさ、四宮のことは“セイくん”呼びだよね……」

「だって、セイくん以外の呼び方、知らないし——」

 拗ねたフリをしてみせたけど、そんな俺を見て笑う彼女が、たまらなく愛しい。
 そんな俺の腕をそっと取って、ぎゅっと絡めてきた彼女が言った。

「早く行こ! ペンギンショー、見たいな。……智士くん」

 ……名前を呼ばれただけで、こんなに心が跳ねるなんて。
 やっぱり、俺はこの人に、もう抗えない。

 菜緒さんが笑って、俺の隣にいてくれる——
 それだけで、世界が満たされていく気がする。



 帰りの電車は、あの時と同じく満員だった。
 だけど、まるで違う。今度は俺の隣に、彼女がいる。

 自然に彼女の背中に手を添え、人混みから守るように立っていた。
 たぶん無意識だったけど、それができる“立場”になったことが、ただ嬉しかった。

 すると、俺の手元でそっと動きがあった。

 菜緒さんが、ふわっと笑って、小さく背伸びした。俺の耳元に口を寄せる。

「……ありがとう」

 ——ああ。

 その顔。

 忘れられるわけがない。
 ずっと、心に焼きついてる。

 あの日、名前も知らなかった彼女。
 一目で俺の胸を鷲掴みにして、虜にしてしまったあの微笑みとまったく同じだった。

 手をつなぐことも、肩を寄せ合うことも、何もかもが自然になった今。

 それでも、菜緒さんのその笑顔は、俺の心をまた確かに震わせる。

(……こんな日が、ずっと続けばいい)

 そう、心の中で願いながら——
 俺は、彼女の手を、もう一度ぎゅっと握り直した。

 世界で一番、大切な人の手を。
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