婚約破棄され追放された令嬢の私、異世界の辺境で無口な騎士団長に拾われ花畑を作るうちに愛されすぎて困ってます――ざまぁは風に流してスローライフ

さら

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第4話 春風と手作りのパン

 春が本格的にやってきた。山から下りてくる風が少しずつ柔らかくなり、村を包む空気が甘い香りを帯びていく。朝、目を覚ますたびに鳥の声が増え、陽射しの色が深くなる。花畑の端では、リリアの白い花弁がようやく開きはじめていた。

 私はその花を見つめながら、胸の奥で小さく息を吐いた。あの時、土に埋めた種が、いま確かにここに咲いている。指で花弁をそっとなぞると、薄い紙のようにやわらかい。その触感が、心の奥に灯りをともしたようにあたたかかった。

「セリーナ、風が強い」

 振り向くと、ライナルトが外套の裾を押さえながら歩いてきた。いつも通り無口で、いつも通りまっすぐ。けれど最近、その灰色の瞳がほんの少しだけやわらかくなった気がする。

「おはようございます。今日も畑、きれいですね」
「ああ。花がよく育っている」

 彼は花をひとつ手に取り、陽に透かした。光が花弁の裏を淡く染める。その指先があまりに丁寧で、見ているこちらまで胸が熱くなる。

「今日は休みだ」
「え?」
「村で祭りがある。春を祝う日だ」
「お祭り……!」

 王都にいた頃、私は何度も華やかな祭りを見た。けれど、どれも作り物のように冷たかった。今度の祭りはきっと違うのだろう。

「マルタがパンを焼いている。手伝え」
「はい!」

 思わず笑みがこぼれた。

 ◇

 小屋の台所は、朝からいい香りに満ちていた。焼きたてのパンの香ばしさと、バターの甘い香りが混ざり合って、空気がふわりと膨らむ。マルタが木の台の上で生地をこねていて、腕に粉がついていた。

「おはよう、セリーナ。助っ人、来てくれたのね」
「はい。今日は私も焼いてみたいんです」
「うれしいこと言ってくれるわ」

 マルタが笑い、私にエプロンを手渡す。粉の感触が指先に移る。柔らかく、しっとりしていて、生きているようだ。

「王都のご令嬢がこねるパン、見ものね」
「そんな昔の話です」
「ふふ、そう言えるようになっただけでも大進歩だわ」

 私は照れながら笑い、両手で生地を押した。弾力が返ってくる。マルタが手本を見せてくれるたびに、パンが形を変えていく。

「こうしてね、丸くまとめるの。優しく扱うのよ」
「こう……ですか?」
「うん、上手。ほら、隊長にも食べさせてあげたいでしょ?」

 その言葉に、思わず動きが止まった。マルタがくすくす笑う。
「図星ね」
「そ、そんなつもりじゃ……!」
「いいのよ。あの人、誰かに作ってもらうなんてほとんどなかったんだから」

 マルタの声が少しだけ柔らかくなる。
「戦のあと、みんな彼のもとを離れていったの。でも、あなたが来てから、少しずつあの人、顔つきが変わったのよ」

 私は手を止めたまま、胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。
「……私なんかが、そんなこと」
「あなたじゃなきゃ、できなかったんじゃないかしら」

 マルタの言葉に何も返せず、ただこねる手を動かし続けた。

 やがてパンを並べ終えると、窯の中から甘い香りが広がっていく。小麦と蜂蜜が焦げる匂いは、心を穏やかにする魔法みたいだった。

「よし、焼けた!」

 マルタが歓声を上げる。私は火ばさみでひとつ取り出し、そっと息を吹きかけた。表面はこんがり、でも中はふわふわ。ほんのり甘くて、焼き立ての香りに思わず笑みがこぼれる。

「いい匂い……!」
「さあ、ライナルトのところに持っていってあげなさい」
「え、でも――」
「ほら、冷めちゃう。勇気出しなさいな」

 私は籠に焼きたてのパンを入れ、外に出た。外はすっかり春の光に満ちている。畑の向こうで、ライナルトが木の杭を直していた。

「ライナルト!」

 彼が顔を上げる。陽光を背に立つ姿は、相変わらず凛としている。私は籠を両手で差し出した。

「パンを焼いたんです。マルタさんに教わって」
「お前が?」
「はい。……食べてみてください」

 彼は少し驚いたように瞬きをし、それから無言でパンを取った。手のひらの上でそれを割り、ゆっくり口に運ぶ。

 しばらく沈黙。私は緊張して息を呑む。

「……うまい」

 たったそれだけ。でも、その一言にすべてが詰まっていた。

「ほ、本当ですか?」
「嘘は言わない」

 その言葉に、頬が熱くなる。ライナルトは淡々ともう一口食べ、視線を空に上げた。

「花の香りと、よく合う」
「え?」
「パンの匂いが、風に乗って花と混ざる。悪くない」

 私は笑った。風が吹いて、リリアの花が揺れる。その白い花弁がひらひらと舞い、私の肩に落ちた。

「ねえ、ライナルト」
「ん」
「あなたは、いつも誰かのために何かをしてる気がします」
「そうか?」
「はい。花も、村の人も……私も」

 彼は一瞬だけ動きを止め、静かに息を吐いた。
「俺は、ただ土を耕しているだけだ」
「それができる人は、少ないですよ」

 そう言うと、彼はゆっくり私を見た。灰色の瞳の奥に、春の光が宿っている。
「……お前も、変わった」
「そうですか?」
「王都にいた頃の顔とは違う」
「たぶん、風のせいです」

 彼が小さく笑った。珍しく、はっきりとした笑顔だった。胸の奥がふわりと温かくなる。

 そのとき、花畑の端から子どもたちの笑い声が聞こえてきた。村の子たちが走り回っている。手には花の冠。マルタが後ろから追いかけている。

「セリーナー! 見て、冠つくったの!」

 子どもが私のもとに駆け寄り、花の冠を掲げた。小さな手で差し出される白と黄色の花の輪。私はしゃがんでそれを受け取り、頭にそっとのせた。

「似合う」

 ライナルトの声がした。私は顔を上げ、彼を見た。彼の表情は穏やかで、どこか誇らしげでもあった。

「ありがとう」
「……礼はいい」

 けれどその耳が、少しだけ赤く染まっているのを私は見逃さなかった。

 風が再び吹き、花弁が舞う。春の光の中で、笑い声が広がる。あの日、王都で失ったものを思い出すことは、もう怖くなかった。ここには、いま生きている時間がある。

 私は花冠を押さえながら、彼の隣に立った。
「ねえ、ライナルト」
「なんだ」
「この花畑、いつか全部咲いたら……パンを持って、ピクニックしましょう」
「ピクニック?」
「ええ。あなたと、マルタさんと、村の子どもたちと。みんなで」

 彼は少し考えてから、静かに頷いた。
「いいだろう」

 空の青が深くなる。花の海が風に揺れ、世界が光で満たされた。私はその中で、彼と並んで立ち尽くした。



 夕刻になると、村の中心から笛の音が流れてきた。春祭りが始まったのだ。小屋の外には花の飾りが下げられ、畑の向こうでは子どもたちが走り回っている。パンの焼ける香りが風に乗って漂い、村全体がまるでひとつの家のように温かく呼吸していた。

 私はマルタに勧められて着替えをした。生成りのワンピースに、腰には薄いリボン。王都では一度も着たことのない素朴な服なのに、不思議と似合う気がした。鏡もないけれど、窓に映る自分の姿が、少しだけ笑っているのがわかる。

 扉を開けると、夜のはじまりの風が頬を撫でた。空にはまだ光が残り、村の灯りが点々と揺れている。その向こうに、いつもの灰色の背中が見えた。

「ライナルト」

 声をかけると、彼が振り向いた。いつもと違って、鎧を脱ぎ、黒いシャツのまま。肩のあたりに風で花びらが一枚引っかかっている。

「祭りに行かないのか」
「行きます。……あなたも?」
「見張りの役だ」
「でも、剣を持ってないじゃないですか」
「……花畑の見張りだ」

 その一言が可笑しくて、思わず笑ってしまった。彼の眉が少しだけ動く。
「花泥棒でも来ますか?」
「この村では、咲いた花を一番に見に来るのは風だ。風を止めることはできん」
「ふふ、やっぱり詩人みたいですね」

 彼は答えず、畑の方を見た。春の風が吹き抜けて、白い花がいっせいに揺れる。その様子は、まるで大地が呼吸をしているようだった。

「セリーナ」
「はい?」
「その服、似合ってる」

 唐突な言葉に、心臓が跳ねた。彼は視線を戻しもせず、淡々とした声で言ったのに、頬の端がわずかに赤く見える。

「……ありがとうございます」

 声が掠れる。風の音が追いかけてくる。沈黙の間に、遠くの笛の音が近づいてきた。

「行こう」
「え?」
「せっかくだ。花畑だけ見張っていても、風は止められん」

 私は頷き、彼の隣に並んだ。二人で歩く道は、いつもより柔らかい。

 ◇

 村の広場は人でいっぱいだった。木の柱には花の飾りが吊るされ、中央には焚き火。炎が大きく揺れ、子どもたちがその周りを笑いながら回っている。パンや果実酒の香りが立ちこめ、どこからともなく音楽が鳴る。

「きれい……」

 思わずこぼれた言葉に、ライナルトが静かに頷く。
「この村の春祭りは、戦のあとから続いている。花が咲いたことを祝う日だ」
「あなたが始めたのですか?」
「俺じゃない。だが、毎年ここで見ている」

 彼の声には懐かしさが混じっていた。きっとこの祭りには、彼の過去の仲間たちの記憶もあるのだろう。

「今年は……私もここにいていいんですね」
「当たり前だ」

 短く返された言葉が、胸の奥にまっすぐ刺さる。思わず、口元がゆるんだ。

 マルタがこちらを見つけて手を振っている。
「セリーナー! 隊長ー! こっち来て!」

 テーブルの上には、昼に焼いたパンが山のように並べられていた。みんながそれをちぎって笑顔で食べている。私はその中から小さなパンを取り、ライナルトに手渡した。

「お祭りですから、もう一度。……はい」
「また、俺に?」
「はい。味見係です」

 彼は少し戸惑ったようにパンを受け取り、無言で口に運ぶ。
「どうですか?」
「……うまい」
「ふふ、また同じ感想ですね」
「それ以外の言葉を知らない」
「それで十分です」

 そのやり取りにマルタが笑い、周囲の子どもたちもつられて笑った。夜風が焚き火を揺らし、花びらがひとひら、炎の上を舞った。

「踊りましょう!」とマルタが言い、笛の音が高く響く。村人たちが輪になって踊り始める。私はその輪の端に誘われて、一歩足を踏み出した。

「セリーナ」
「え?」
「行け」

 ライナルトが背中を押した。振り返ると、彼が焚き火の前に立ってこちらを見ている。その瞳が穏やかに光っていた。

 私は胸の奥に温かいものを感じながら、輪の中へ入った。見よう見まねで手を取り、笑い声の中で足を動かす。久しぶりに、心から笑えた気がした。

 踊りながら、ふと視線を上げる。焚き火の向こうで、ライナルトがこちらを見ていた。彼は輪に加わらず、ただ静かに立っていたが、その瞳の奥には柔らかな灯りがあった。

 祭りの音が少しずつ遠ざかっていく。夜空には星が瞬き、焚き火の光が花畑を照らしている。私は輪の外に出て、息を整えた。

 背後から足音。振り向けば、ライナルトが静かに歩いてくる。
「楽しかったか」
「はい。……少し、夢みたいでした」
「夢なら、明日も見ればいい」

 その言葉に、笑いがこみ上げた。
「欲張りな夢ですね」
「悪くない」

 焚き火の光が二人の間を温める。風が吹き、花びらがまた舞う。

「……ありがとう、ライナルト」
「礼はもう聞き飽きた」
「それでも言いたいんです」

 彼が息を吐き、空を見上げた。
「……この村は静かすぎるくらいだが、今夜は悪くない」

 夜空を見上げると、満天の星が輝いていた。花畑の白と、星の光が重なって、まるで地上にも空にも同じ星が咲いているようだった。

「ねえ、ライナルト」
「ん」
「いつか、もっとたくさん花を咲かせましょう。村が全部、光に包まれるくらい」
「ああ。お前が笑うなら、いくらでも」

 その声は風の音に混ざって、どこまでも穏やかに響いた。私は小さく笑い、彼の横に並んだ。

 夜はまだ深く、春の香りが続いていた。





 祭りの余韻は翌朝まで残っていた。焚き火の灰がまだかすかに温かく、村の広場の端には踏みつぶされた花の冠がいくつも落ちている。夜の間に降った霧が草の葉を濡らし、朝の光がその水滴を透かして虹のように光った。私はパンを抱え、畑の方へ向かった。

 花畑には、すでにライナルトの姿があった。いつものように鍬を肩にかけ、黙々と土をならしている。昨日の祭りの喧騒が嘘のように静かで、鳥の声だけが響いていた。

「おはようございます」

 私の声に、彼は短くうなずく。
「……早いな」
「目が覚めちゃって。昨日、楽しくて眠れませんでした」
「そうか」

 たった二文字。それでも、言葉の中に微かな笑みが混じっていた。私はパンを差し出す。
「朝食にどうぞ。昨日の残りですけど」
「もらう」

 彼はパンを受け取り、静かにかじる。その姿を見ながら、私は地面に膝をついて花の苗を確かめた。夜露で濡れた葉が、朝日を受けて輝いている。

「花、増えましたね」
「ああ。マルタたちが夜明け前に種を撒いていった」
「そうなんですか。みんな楽しそうでしたもんね」
「お前も楽しそうだった」

 不意の言葉に、胸が跳ねた。
「……見てたんですか」
「見張りだからな」
「花畑の見張り、ですよね?」
「踊っている花を見ていた」

 言葉が途切れ、彼はパンをもう一口かじった。私は頬が熱くなるのを隠すように視線を落とし、花に手を伸ばす。

「……恥ずかしいです」
「なぜ」
「踊るの、うまくないから」
「上手かった」

 あまりに即答だったので、思わず顔を上げる。彼はいつも通りの無表情だったが、どこか目がやさしかった。

「ありがとう……ございます」

 朝の光が差し込み、彼の髪が金色に縁取られた。その姿が一瞬まぶしくて、私は目を細めた。

「今日は何をしますか?」
「畑の東を整える。風よけの木を植える」
「手伝います」
「無理はするな。昨日はよく働いた」
「平気です。むしろ、動いていたい気分なんです」

 私が立ち上がると、ライナルトは無言でうなずき、鍬を一本渡してくれた。手に伝わる金属の冷たさが、指先の熱を落ち着かせてくれる。

 二人並んで作業を始める。土を掘り、穴を開け、苗を植える。風が吹くたびに髪が頬をくすぐり、遠くから村人たちの笑い声が聞こえる。昨日までの賑やかさは少し落ち着いて、今は穏やかな余韻だけが残っていた。

「ライナルト」
「なんだ」
「この村は、どうしてこんなに平和なんですか?」

 彼は少し考え、鍬を地面に突き立てた。
「平和に見えるのは、誰かが昔、戦ったからだ」
「……あなたが?」
「俺も、そのひとりだ」

 短い答えの中に、重たい記憶の影が見えた。私はそっと口を閉じた。彼の肩越しに、風で揺れるリリアの花が見える。白い花弁が陽光にきらめき、過去を包み込むように咲いていた。

「でも、今は守るべきものがある。ここは、もう戦場じゃない」
「……それは、花畑ですか?」
「そうだ。花畑と、そこで笑う人たち」

 彼の言葉に、胸の奥が静かに震えた。私は鍬を止め、彼の横顔を見つめた。戦いを終えてなお、彼はこうして誰かのために生きている。強さと優しさが同じ場所にある人。

「ライナルト。私も……あなたみたいに生きたい」
「俺みたいに?」
「うん。怖くても、傷ついても、それでも前に進める人に」

 彼は少し目を細め、低く答えた。
「お前はもう、そうなっている」

 その言葉が、胸の奥で柔らかく広がった。涙がこみ上げそうになる。けれど、ここで泣くのは違う気がして、私は笑った。

「じゃあ、もっと強くなります。花みたいに」
「なら、たくさん笑え。花は笑っているときに一番よく育つ」
「はい」

 風がふわりと吹いた。木々の葉がざわめき、空に花びらが舞う。

 ◇

 日が暮れる頃、畑の端に並べた苗の根元を水で湿らせた。夕陽が山に沈みかけていて、空は橙から群青へと移り変わっていく。村の家々の煙突から薄い煙が上がり、遠くでマルタの歌声が聞こえた。

 ライナルトが腰を伸ばし、空を見上げた。
「……春が終わる」
「え?」
「もうすぐ、夏の風になる。空の匂いが変わった」

 彼の言葉に、私は空を仰いだ。確かに風が少し熱を帯びている。白い花弁がその風に乗って遠くへ流れていく。

「寂しいですね」
「また咲く」
「ええ。でも……同じ花は、もう戻ってこない気がします」

 彼がこちらを見る。
「同じじゃなくていい。次の花が咲けばいい」

 その声が優しく響き、私は小さく頷いた。
「そうですね。じゃあ、来年はもっときれいに咲かせましょう」
「ああ」

 風が止み、ふたりの影が重なった。遠くで鐘が鳴る。

「……おかえりなさい、ライナルト」
「どこにも行ってない」
「でも、なんだかそう言いたくなったんです」

 彼が小さく笑った。その笑顔は、夕暮れの光よりもあたたかかった。

 その日、畑に植えた木々が夏の風よけになるとは、まだ誰も知らなかった。けれど私は信じていた。風に耐えて、また花が咲く。そんな季節を、彼と並んで迎えられる未来を。




 夜が落ちるのは静かだった。山の端に沈んだ太陽の余熱がまだ畑の土をぬくめ、ほのかに立ちのぼる湯気のような湿り気が、辺境の空気を柔らかく包み込んでいた。村の家々には明かりが灯りはじめ、窓越しに笑い声がこぼれてくる。私はリリアの花の列をゆっくり歩きながら、ひとつひとつに視線を落とした。

 白い花弁が夜風に揺れるたび、どこかでかすかな鈴の音が鳴るような気がした。ほんの一ヶ月前、この場所はまだ荒れ地だった。風が吹くたびに砂埃が立ち、誰も見向きもしなかった。それが今では、村の子どもたちが走り回り、笑い声を響かせる場所になっている。

「ずいぶん、明るくなったな」

 背後から聞こえる声に振り向く。ライナルトが、手に提灯を持って立っていた。揺れる灯りが彼の顔の輪郭を照らし、頬にかかる影がゆらめく。

「村の人たちがみんな協力してくれたからです。今日も、マルタさんが蜂蜜を持ってきてくれました」
「そうか。……よくやっている」

 彼は短くそう言い、土の上に膝をついて花を撫でた。指の先が花弁に触れ、わずかに揺れる。その指先を見ているだけで、胸の奥が熱くなる。

「ライナルト」
「ん」
「……あなたは、ずっとここにいるんですか?」

 問うと、彼は顔を上げ、少しだけ目を細めた。
「この村を離れる理由はない」
「でも、騎士団長なら、もっと大きな街で仕えることもできるでしょう?」
「戦が終わったあと、剣を置いた。もう誰も傷つけたくない」

 その言葉には、静かで確かな響きがあった。私は喉の奥が熱くなる。彼の過去を知っているわけではない。けれど、その沈黙の裏にどれほどの痛みが隠されているか、想像できた。

「……それでも、あなたがいてくれてよかった」
「何がだ」
「私、きっともうどこにも居場所がないって思ってたんです。でも、この村に来て、あなたと出会って、花を育てて……ようやく“生きる”ってことがどういうものか分かってきた気がします」

 ライナルトは何も言わず、ただ提灯の灯を少し高く掲げた。光が花畑全体を照らし、白い花々が金色の影をまとった。

「お前の花だ」
「いいえ。みんなの花です」
「それでも、お前がいなければ咲かなかった」

 声は低いのに、まっすぐに届いた。その言葉の温かさに、涙がにじみそうになる。

「……ありがとう、ございます」
「礼はいい」
「それでも、言わせてください」

 そう言うと、彼はわずかに息を吐き、花の列の先を見た。
「花は、人の心の形に咲くらしい。優しい者が育てれば、優しい花になる」
「じゃあ、この花はあなたの花ですね」
「……どうしてそう思う」
「こんなに穏やかで、まっすぐに咲いてます」

 彼の口元が、ほんの少しだけゆるんだ。
「お前のほうが、よく似ている」
「えっ?」
「強くて、風に負けない」

 その一言で、胸の奥に何かが溶けた。息を吸うたびに涙がこぼれそうになるのを必死でこらえる。風が吹き、花がさざめく。夜空には雲がなく、無数の星が瞬いていた。

 しばらく二人で並んで立っていた。沈黙は重くもなく、ただ穏やかで、言葉のいらない時間だった。提灯の炎が風に揺れ、彼の手の甲を淡く照らす。

「……寒くないか」
「平気です。少し、風が気持ちいいです」
「なら、少し歩こう」

 彼が先に歩き出す。私はその後ろを追い、並んで畑の縁を歩く。夜露に濡れた土が靴の底にまとわりつく感覚が心地よい。

 遠くでフクロウが鳴いた。村の灯りが小さく揺れる。ライナルトが歩を緩めたので、私も立ち止まる。

「セリーナ」
「はい」
「お前がこの村に来てから、俺は久しぶりに人と笑った」

 声が静かに胸に落ちる。私は息を詰め、彼を見上げた。灰色の瞳が夜の光を受けて、深い銀に変わっている。

「それは……私もです」

 彼がうなずき、視線を星空に向けた。
「花が咲くのを待つ時間が、こんなに短く感じるとは思わなかった」
「時間が短く感じるのは、きっと幸せだからですよ」
「そうかもしれん」

 短いやり取り。それだけで、心が満ちていく。

 夜風が強くなり、提灯の炎がふっと揺れた。彼が手で囲って火を守る。その手の中の光が、小さな命のように震えている。

「花も、人も、風に揺れながら強くなる」
「……あなたも?」
「俺もだ」

 その言葉に、私は静かに笑った。

 風が止み、夜がまた静まる。花畑の上を淡い月光が滑っていった。

「明日も花を見に行きましょう」
「ああ。だが早起きは得意か?」
「あなたほどじゃないけど、がんばります」
「なら、起こしてやる」

 私は思わず吹き出した。
「起こしてもらうなんて、初めて言われました」
「……そうか」

 彼の声がかすかに照れていて、胸がまた温かくなる。

 提灯の灯を消すと、夜空の星がいっそう鮮やかになった。白い花々がその光を映して、まるで地上の星のようにきらめく。

「ライナルト」
「なんだ」
「花が咲いても、散っても、また次の季節が来ますよね」
「ああ」
「そのときも、あなたと一緒にいたいです」

 彼は一瞬だけ言葉を失い、ゆっくりと私の方を向いた。月の光が彼の髪を照らす。

「……俺も、そう思っている」

 その一言で、世界が静かに満たされた。夜が深まり、空気が透明になる。花の香りがふわりと漂い、心の奥まで溶け込んでいった。

 二人の影が花畑に重なり、風がそっと通り抜けた。

 夜は、やさしい音を立てて更けていった。
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