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第5話 風の噂と、過去のざまぁ
昼下がりの風が畑を通り抜けた。春の終わりを告げる風だった。白いリリアの花弁がゆらめき、空を仰げば群青の中に薄い雲が流れている。私は花の間に腰を下ろし、膝の上でスケッチ帳を広げた。最近は毎日、花畑の様子を描き残している。記録というより、心の整理のようなものだった。
ページの端に、小さな花の輪郭を描いていると、遠くから馬車の車輪の音が聞こえてきた。こんな辺境に客が来るのは珍しい。村の入り口の方から、砂ぼこりが上がっている。私はペンを置き、立ち上がった。
「セリーナ、下がっていろ」
すぐ背後でライナルトの声がした。彼は鍬を置き、村の門の方を見ている。灰色の瞳にわずかな警戒が宿っていた。
「旅人かな……?」
「見ればわかる」
やがて、荷馬車がゆっくりと近づいてきた。荷台には干し草と数個の木箱。御者台には、年配の行商人が座っていた。腰を曲げ、汗を拭きながら笑っている。
「おや、これはこれは。辺境の花畑は噂通りの見事さですな!」
声が大きく、陽気だった。私は胸をなでおろす。ライナルトは表情を崩さないまま、短く頷いた。
「何の用だ」
「王都からの帰りでしてな、ついでに各地に商品を卸しておるのです。蜂蜜、絹布、それに少し珍しい香草も」
行商人は手際よく荷をほどきながら、周囲を見回した。目に映る花畑に感嘆の声を上げる。
「いやはや……まさか、こんな場所に公爵家の令嬢がいらっしゃるとは」
その言葉に、息が止まった。ライナルトの眉がぴくりと動く。
「――どういう意味だ」
行商人は驚いたように目を瞬かせ、慌てて手を振った。
「い、いえいえ! 噂で聞いたものでして。王都ではもう有名な話ですよ。あのセリーナ・レイフォード様が婚約破棄をされ、国外追放になられたと」
空気が、ひやりと冷たくなる。私は唇を噛んだ。久しく聞かなかった名前が、突然胸を突き刺すように響いた。
ライナルトが一歩前に出る。その背中が、私の視界を覆った。
「……今の話、詳しく聞かせろ」
「は、はい。王都では大騒ぎでしてな。前公爵家の長女が王太子殿下に婚約を破棄されたとか。どうやら、妹君に心を奪われたらしい。しかも、その妹君が――」
「やめてください」
気づけば、私は声を出していた。
「もう、その話は……いいんです」
行商人が驚いて口を閉じる。風が吹き、花畑の花々が一斉に揺れた。私は俯いて、両手をぎゅっと握りしめた。
「失礼しました、奥様。つい口がすべりまして」
「……気にしません。お仕事の邪魔をしてしまってすみません」
笑顔を作る。けれど、胸の奥はざらざらと痛んでいた。行商人は何度も頭を下げ、村の子どもたちに手を振りながら去っていった。馬車の音が遠ざかり、静寂が戻る。
「……セリーナ」
背後から、低い声。私は振り向けなかった。
「大丈夫か」
「ええ。もう、昔のことです」
そう答えたのに、声が少し震えた。彼は沈黙したまま、そっと私の肩に手を置く。
「無理をするな」
「してません。ほんとに」
それでも、視界がにじんだ。花が揺れて見える。
「……妹が幸せなら、それでいいんです」
「お前はどうする」
「私は、もう十分幸せです」
嘘ではなかった。けれど、それでも胸の奥の古傷は、完全には癒えていない。
沈黙の中で、ライナルトが空を仰ぐ。
「王都では、どういうざまぁがあった」
「え?」
「お前を追放した男たちの末路は」
私は驚いて彼を見た。彼の灰色の瞳が静かに燃えている。怒りではなく、どこか哀しみに似た光だった。
「……噂では、妹が彼を裏切ったそうです。財産も地位も失って、もう行方もわからないとか」
「そうか」
ライナルトは短く息を吐いた。風が吹き、花がひらひらと舞い上がる。
「ざまぁ、だな」
その一言が、風の中でやけに鮮やかに響いた。私は目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「あなたがそんなこと言うなんて、珍しいです」
「俺も人間だ」
彼はわずかに肩をすくめた。その仕草が可笑しくて、笑いがこみ上げる。涙が乾き、胸の痛みが少しだけ和らいだ。
「でも、もうどうでもいいんです。あの人たちは、もう遠い過去ですから」
「お前は、前を向いている」
「はい。ここで咲いていきたいんです」
そう言うと、ライナルトの表情がほんのわずかに和らいだ。
「なら、これからも守る。お前が枯れないように」
その言葉が、どんな誓いよりも強く響いた。心臓がひとつ跳ね、胸の奥で温かな何かが溶けていく。
「……ありがとうございます」
風が止み、世界が静まる。花畑の奥で、ひとつのリリアがゆっくりと開いた。光の中で白い花弁が揺れる。その姿は、まるで新しい始まりを告げているようだった。
私はその花を見つめながら、小さく呟いた。
「ざまぁなんて、風に流してしまえばいいですね」
「そうだ。風が運んでくれる」
ライナルトが微笑んだ。私は頷き、彼と並んで花畑の中を歩き出す。
風がふたたび吹き抜け、白い花が波のように揺れた。
△
夕陽が傾き、花畑が金色に染まるころ。リリアの白が夕焼けの橙に溶け込み、世界がまるごと温かな光の中に包まれていた。昼の風が収まり、代わりに山から冷たい空気が降りてくる。私は花の列の間に座り、掌の上で花びらを一枚そっと転がした。
光を受けた花びらは、薄く透けていて、まるで小さな羽のようだった。指先に触れる感触が柔らかく、ほんの少し心が落ち着いていく。
背後から、足音が近づく。
「まだ起きていたのか」
振り向くと、ライナルトが立っていた。背に光を背負い、影が長く伸びている。彼の手には水桶がひとつ。畑の端の小川から汲んできたのだろう。
「少し、花を見てたんです」
「寒くなる。風が変わる前に戻れ」
「もう少しだけ。今日の夕陽、とてもきれいなんです」
そう言うと、彼は無言で隣に腰を下ろした。夕陽の光が二人の影を重ねる。花畑を渡る風の音だけが響いていた。
「……王都のことを、思い出してた」
ぽつりと声がこぼれた。彼が少しだけ視線をこちらに向ける。
「辛いことを?」
「いいえ。今となっては、どれも遠い夢みたいです」
私は花びらをそっと手のひらから放した。風がそれをさらって、空に乗せる。
「でも、あの頃の私には、こんな風景を見る余裕なんてなかった。いつも誰かに見られて、笑わなきゃいけなくて、誰かの期待の中で息をしていました」
「もう、そうしなくていい」
「ええ。今はもう、自由です」
ライナルトは静かに頷く。
「自由は風と似ている。時に冷たく、時に優しい」
「そうですね。あなたは……風のような人です」
その言葉に、彼が少しだけ息を止めたのがわかった。
「風?」
「はい。そばにいるのに、つかめない。でも、いつも包んでくれる」
彼は返事をしなかった。けれど、その横顔に淡い笑みが浮かぶ。夕陽の光が彼の睫毛の影を長く伸ばし、その姿がどこか儚く見えた。
「風のように……か」
「うん。あなたがここにいるだけで、安心するんです」
「……それは、お前が強いからだ」
彼は視線を花畑に戻し、ひとつの花を摘み取った。手のひらでその花を回しながら、静かに言葉を紡ぐ。
「風は弱い。掴めないからこそ、逃げることもできる」
「でも、風があるから花は揺れる。息をしているみたいに」
「……そうかもしれない」
沈黙が訪れる。風の音と、鳥の羽ばたきが遠くで重なる。世界が静まり返っていく中、花の香りがゆるやかに広がっていく。
「ねえ、ライナルト」
「ん」
「あなたは、戦っていた頃の自分を、後悔してますか?」
彼の指が、花の茎をそっと折った。
「後悔というより、祈っている」
「祈り?」
「倒した者たちにも、春が来るように」
その言葉に、息が詰まった。
「……そんなふうに思えるなんて、あなたはやっぱり優しい」
「俺は、優しくなどない。ただ、戦が終わってから気づいたんだ。人は誰も、咲こうとする場所を間違えることがある」
彼が花を私の手に渡した。白いリリア。その中心に、かすかな黄金色が宿っている。
「セリーナ、お前の咲く場所はここだ」
言葉が胸に落ちた瞬間、涙があふれそうになる。
「……はい。ここが、私の場所です」
夕陽が完全に沈む。空の端が紫に変わり、遠くの山が影になった。花畑の白が夜の光に溶けていく。
風が頬を撫でた。冷たくも優しい。まるで彼の手のように。
「ライナルト」
「ん」
「あなたに拾われてから、世界が変わりました」
「拾ったつもりはない。お前が自分で歩いてきた」
「でも、あなたがいなければ、私は今ここにいません」
彼がゆっくりと立ち上がり、差し出した手に花の香りがまとわりつく。
「帰ろう」
「はい」
手を取ると、彼の掌は温かかった。その熱が腕を伝い、心臓の奥にまで届く。
小屋への道を歩きながら、空を見上げた。星がひとつ、またひとつと瞬き始める。
「風が、花の匂いを運んでますね」
「お前の笑い声も、村中に聞こえてる」
「それは……恥ずかしいです」
「悪くない音だ」
歩幅を合わせて歩く。沈黙の中でも、互いの呼吸が重なっていく。夜の匂いと土の匂いが混ざり合い、世界が穏やかに落ち着いていく。
小屋に着くころ、空には満天の星が広がっていた。マルタが外で洗濯物を取り込んでいる。
「おかえりなさい。……あらまあ、まるで夫婦みたい」
「ち、違います!」
思わず声が裏返る。マルタが笑って手を振った。
「冗談よ。二人ともいい顔してるわ」
ライナルトは何も言わず、軽く会釈して小屋の中に入る。私は耳まで熱くなりながら後を追った。
暖炉に火をつけると、炎がぱちぱちと鳴った。オレンジの光が壁を照らし、彼の背中を柔らかく包み込む。
「ライナルト」
「なんだ」
「……今日の風、きっとあの人たちの噂を遠くに運んでくれましたね」
「ああ。もう戻らん」
「よかった」
私は微笑み、膝の上の花を見つめた。白い花弁の中心が、炎の光で金に染まっている。
「過去のことは、もう風に任せます」
「それがいい」
彼は静かにうなずき、火を見つめた。その瞳の奥に宿る光が、まるで新しい春の始まりを映しているように見えた。
外では、夜風がそっと花畑を撫でている。
◇
夜の静けさが、ゆっくりと小屋を包んでいく。外では風がやさしく吹き、窓辺に吊るした木の鈴がかすかに鳴った。焚き火の火が落ち着いて、橙の光が室内をやわらかく揺らしている。私はテーブルに手を置き、指先でリリアの花をそっと転がした。白い花弁が光を受けて、まるで小さな月のように輝いている。
「……セリーナ」
ライナルトが呼んだ。いつもより少し低く、ゆっくりとした声だった。
「はい?」
「落ち着いたか」
「ええ。さっきの話……もう、心は大丈夫です」
そう答えると、彼は小さく頷き、暖炉の前の椅子に腰を下ろした。火の光に照らされた横顔が穏やかで、まるで長い戦いを終えた人のようだった。
私は湯を注いだ木のカップを手渡した。
「これ、マルタさんからもらったハーブティーです。疲れが取れるって」
「……香りがいいな」
彼は一口、ゆっくりと口をつけた。湯気が頬をなで、ほんのわずかに微笑む。
「お前が入れると、茶まで優しくなる」
「そんな……お茶はお茶ですよ」
「不思議なものだ」
彼はまた一口飲み、視線を火に戻した。ぱち、ぱち、と薪のはぜる音が耳に心地いい。外では虫の声が聞こえ始めている。
「ライナルト」
「ん」
「……あなたは、怒らないんですね」
「何にだ」
「私を追放した人たちに、です」
彼は少しの間、黙っていた。炎の光が灰色の瞳を金色に染めていく。
「怒っても、過去は変わらない」
「それでも、理不尽だったのに」
「理不尽なことは、風が片づける」
その言葉があまりに自然で、思わず笑ってしまった。
「あなたって本当に、風みたいな人です」
「また、それか」
「だって、いつもそう思うんです。気づいたら私の心を軽くしてくれてる」
「……なら、少しは役に立っているということだな」
彼の口元がわずかに緩む。その表情を見ていると、胸が温かくなった。
静かな沈黙が流れる。風の音、火の音、そして二人の呼吸。
その全てが、この夜を包んでいた。
「セリーナ」
「はい?」
「王都でのことは……誰も、お前を本当には見ていなかったのだろう」
「え?」
「花を咲かせる手を、汚れたと笑った。だが今、お前が咲かせた花を見て笑っている者は誰もいない。皆、感謝している」
その言葉に、喉の奥が熱くなる。
「……ありがとうございます」
「礼はもういい」
「でも、嬉しいんです」
彼は少し照れくさそうに視線を逸らした。火の光が頬を撫で、橙に染める。
私はその光景を胸に焼きつけるように見つめた。
「あなたはどうして、そんなに人を信じられるんですか?」
「信じてはいない。ただ、信じたいと思うだけだ」
「それで十分だと思います」
彼がわずかに笑った。その笑顔を見たのは、きっと二度目か三度目くらいだ。
けれど、たったそれだけで、胸の奥が静かに波立つ。
外の風が窓を叩いた。カラン、と吊るした鈴が鳴る。
「……明日は少し雨になるな」
「花、折れちゃいますか?」
「心配ない。花は風よりも雨に強い」
「なるほど。あなたが育てる花ですものね」
「お前も一緒に育てているだろう」
その返しに、言葉が詰まった。頬が熱くなり、視線を落とす。
「……はい」
炎が少し小さくなり、木の香りが室内に漂う。
やがて、彼が立ち上がり、暖炉に薪を足した。火が再び勢いを取り戻し、壁に光が踊る。
「もう休め」
「あなたは?」
「もう少し、火を見てから寝る」
「……そうですか」
私は立ち上がり、彼の隣を通り過ぎるとき、小さくつぶやいた。
「おやすみなさい、ライナルト」
「おやすみ」
短い返事。それでも、その声に包まれるような安心感があった。
部屋の奥に戻り、寝台に体を横たえる。薄い毛布に身を包みながら、遠くで薪の燃える音を聞いた。
火の音と、彼の気配が混ざり合って、いつの間にか眠りに落ちていく。
夢の中では、風が吹いていた。
リリアの花が一面に咲く畑の真ん中で、彼がこちらを振り向く。
そして、言った。
『お前は、もう自由だ』
その声が、風のように優しく響いた。
私は微笑んで、そっと目を閉じた。
昼下がりの風が畑を通り抜けた。春の終わりを告げる風だった。白いリリアの花弁がゆらめき、空を仰げば群青の中に薄い雲が流れている。私は花の間に腰を下ろし、膝の上でスケッチ帳を広げた。最近は毎日、花畑の様子を描き残している。記録というより、心の整理のようなものだった。
ページの端に、小さな花の輪郭を描いていると、遠くから馬車の車輪の音が聞こえてきた。こんな辺境に客が来るのは珍しい。村の入り口の方から、砂ぼこりが上がっている。私はペンを置き、立ち上がった。
「セリーナ、下がっていろ」
すぐ背後でライナルトの声がした。彼は鍬を置き、村の門の方を見ている。灰色の瞳にわずかな警戒が宿っていた。
「旅人かな……?」
「見ればわかる」
やがて、荷馬車がゆっくりと近づいてきた。荷台には干し草と数個の木箱。御者台には、年配の行商人が座っていた。腰を曲げ、汗を拭きながら笑っている。
「おや、これはこれは。辺境の花畑は噂通りの見事さですな!」
声が大きく、陽気だった。私は胸をなでおろす。ライナルトは表情を崩さないまま、短く頷いた。
「何の用だ」
「王都からの帰りでしてな、ついでに各地に商品を卸しておるのです。蜂蜜、絹布、それに少し珍しい香草も」
行商人は手際よく荷をほどきながら、周囲を見回した。目に映る花畑に感嘆の声を上げる。
「いやはや……まさか、こんな場所に公爵家の令嬢がいらっしゃるとは」
その言葉に、息が止まった。ライナルトの眉がぴくりと動く。
「――どういう意味だ」
行商人は驚いたように目を瞬かせ、慌てて手を振った。
「い、いえいえ! 噂で聞いたものでして。王都ではもう有名な話ですよ。あのセリーナ・レイフォード様が婚約破棄をされ、国外追放になられたと」
空気が、ひやりと冷たくなる。私は唇を噛んだ。久しく聞かなかった名前が、突然胸を突き刺すように響いた。
ライナルトが一歩前に出る。その背中が、私の視界を覆った。
「……今の話、詳しく聞かせろ」
「は、はい。王都では大騒ぎでしてな。前公爵家の長女が王太子殿下に婚約を破棄されたとか。どうやら、妹君に心を奪われたらしい。しかも、その妹君が――」
「やめてください」
気づけば、私は声を出していた。
「もう、その話は……いいんです」
行商人が驚いて口を閉じる。風が吹き、花畑の花々が一斉に揺れた。私は俯いて、両手をぎゅっと握りしめた。
「失礼しました、奥様。つい口がすべりまして」
「……気にしません。お仕事の邪魔をしてしまってすみません」
笑顔を作る。けれど、胸の奥はざらざらと痛んでいた。行商人は何度も頭を下げ、村の子どもたちに手を振りながら去っていった。馬車の音が遠ざかり、静寂が戻る。
「……セリーナ」
背後から、低い声。私は振り向けなかった。
「大丈夫か」
「ええ。もう、昔のことです」
そう答えたのに、声が少し震えた。彼は沈黙したまま、そっと私の肩に手を置く。
「無理をするな」
「してません。ほんとに」
それでも、視界がにじんだ。花が揺れて見える。
「……妹が幸せなら、それでいいんです」
「お前はどうする」
「私は、もう十分幸せです」
嘘ではなかった。けれど、それでも胸の奥の古傷は、完全には癒えていない。
沈黙の中で、ライナルトが空を仰ぐ。
「王都では、どういうざまぁがあった」
「え?」
「お前を追放した男たちの末路は」
私は驚いて彼を見た。彼の灰色の瞳が静かに燃えている。怒りではなく、どこか哀しみに似た光だった。
「……噂では、妹が彼を裏切ったそうです。財産も地位も失って、もう行方もわからないとか」
「そうか」
ライナルトは短く息を吐いた。風が吹き、花がひらひらと舞い上がる。
「ざまぁ、だな」
その一言が、風の中でやけに鮮やかに響いた。私は目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「あなたがそんなこと言うなんて、珍しいです」
「俺も人間だ」
彼はわずかに肩をすくめた。その仕草が可笑しくて、笑いがこみ上げる。涙が乾き、胸の痛みが少しだけ和らいだ。
「でも、もうどうでもいいんです。あの人たちは、もう遠い過去ですから」
「お前は、前を向いている」
「はい。ここで咲いていきたいんです」
そう言うと、ライナルトの表情がほんのわずかに和らいだ。
「なら、これからも守る。お前が枯れないように」
その言葉が、どんな誓いよりも強く響いた。心臓がひとつ跳ね、胸の奥で温かな何かが溶けていく。
「……ありがとうございます」
風が止み、世界が静まる。花畑の奥で、ひとつのリリアがゆっくりと開いた。光の中で白い花弁が揺れる。その姿は、まるで新しい始まりを告げているようだった。
私はその花を見つめながら、小さく呟いた。
「ざまぁなんて、風に流してしまえばいいですね」
「そうだ。風が運んでくれる」
ライナルトが微笑んだ。私は頷き、彼と並んで花畑の中を歩き出す。
風がふたたび吹き抜け、白い花が波のように揺れた。
△
夕陽が傾き、花畑が金色に染まるころ。リリアの白が夕焼けの橙に溶け込み、世界がまるごと温かな光の中に包まれていた。昼の風が収まり、代わりに山から冷たい空気が降りてくる。私は花の列の間に座り、掌の上で花びらを一枚そっと転がした。
光を受けた花びらは、薄く透けていて、まるで小さな羽のようだった。指先に触れる感触が柔らかく、ほんの少し心が落ち着いていく。
背後から、足音が近づく。
「まだ起きていたのか」
振り向くと、ライナルトが立っていた。背に光を背負い、影が長く伸びている。彼の手には水桶がひとつ。畑の端の小川から汲んできたのだろう。
「少し、花を見てたんです」
「寒くなる。風が変わる前に戻れ」
「もう少しだけ。今日の夕陽、とてもきれいなんです」
そう言うと、彼は無言で隣に腰を下ろした。夕陽の光が二人の影を重ねる。花畑を渡る風の音だけが響いていた。
「……王都のことを、思い出してた」
ぽつりと声がこぼれた。彼が少しだけ視線をこちらに向ける。
「辛いことを?」
「いいえ。今となっては、どれも遠い夢みたいです」
私は花びらをそっと手のひらから放した。風がそれをさらって、空に乗せる。
「でも、あの頃の私には、こんな風景を見る余裕なんてなかった。いつも誰かに見られて、笑わなきゃいけなくて、誰かの期待の中で息をしていました」
「もう、そうしなくていい」
「ええ。今はもう、自由です」
ライナルトは静かに頷く。
「自由は風と似ている。時に冷たく、時に優しい」
「そうですね。あなたは……風のような人です」
その言葉に、彼が少しだけ息を止めたのがわかった。
「風?」
「はい。そばにいるのに、つかめない。でも、いつも包んでくれる」
彼は返事をしなかった。けれど、その横顔に淡い笑みが浮かぶ。夕陽の光が彼の睫毛の影を長く伸ばし、その姿がどこか儚く見えた。
「風のように……か」
「うん。あなたがここにいるだけで、安心するんです」
「……それは、お前が強いからだ」
彼は視線を花畑に戻し、ひとつの花を摘み取った。手のひらでその花を回しながら、静かに言葉を紡ぐ。
「風は弱い。掴めないからこそ、逃げることもできる」
「でも、風があるから花は揺れる。息をしているみたいに」
「……そうかもしれない」
沈黙が訪れる。風の音と、鳥の羽ばたきが遠くで重なる。世界が静まり返っていく中、花の香りがゆるやかに広がっていく。
「ねえ、ライナルト」
「ん」
「あなたは、戦っていた頃の自分を、後悔してますか?」
彼の指が、花の茎をそっと折った。
「後悔というより、祈っている」
「祈り?」
「倒した者たちにも、春が来るように」
その言葉に、息が詰まった。
「……そんなふうに思えるなんて、あなたはやっぱり優しい」
「俺は、優しくなどない。ただ、戦が終わってから気づいたんだ。人は誰も、咲こうとする場所を間違えることがある」
彼が花を私の手に渡した。白いリリア。その中心に、かすかな黄金色が宿っている。
「セリーナ、お前の咲く場所はここだ」
言葉が胸に落ちた瞬間、涙があふれそうになる。
「……はい。ここが、私の場所です」
夕陽が完全に沈む。空の端が紫に変わり、遠くの山が影になった。花畑の白が夜の光に溶けていく。
風が頬を撫でた。冷たくも優しい。まるで彼の手のように。
「ライナルト」
「ん」
「あなたに拾われてから、世界が変わりました」
「拾ったつもりはない。お前が自分で歩いてきた」
「でも、あなたがいなければ、私は今ここにいません」
彼がゆっくりと立ち上がり、差し出した手に花の香りがまとわりつく。
「帰ろう」
「はい」
手を取ると、彼の掌は温かかった。その熱が腕を伝い、心臓の奥にまで届く。
小屋への道を歩きながら、空を見上げた。星がひとつ、またひとつと瞬き始める。
「風が、花の匂いを運んでますね」
「お前の笑い声も、村中に聞こえてる」
「それは……恥ずかしいです」
「悪くない音だ」
歩幅を合わせて歩く。沈黙の中でも、互いの呼吸が重なっていく。夜の匂いと土の匂いが混ざり合い、世界が穏やかに落ち着いていく。
小屋に着くころ、空には満天の星が広がっていた。マルタが外で洗濯物を取り込んでいる。
「おかえりなさい。……あらまあ、まるで夫婦みたい」
「ち、違います!」
思わず声が裏返る。マルタが笑って手を振った。
「冗談よ。二人ともいい顔してるわ」
ライナルトは何も言わず、軽く会釈して小屋の中に入る。私は耳まで熱くなりながら後を追った。
暖炉に火をつけると、炎がぱちぱちと鳴った。オレンジの光が壁を照らし、彼の背中を柔らかく包み込む。
「ライナルト」
「なんだ」
「……今日の風、きっとあの人たちの噂を遠くに運んでくれましたね」
「ああ。もう戻らん」
「よかった」
私は微笑み、膝の上の花を見つめた。白い花弁の中心が、炎の光で金に染まっている。
「過去のことは、もう風に任せます」
「それがいい」
彼は静かにうなずき、火を見つめた。その瞳の奥に宿る光が、まるで新しい春の始まりを映しているように見えた。
外では、夜風がそっと花畑を撫でている。
◇
夜の静けさが、ゆっくりと小屋を包んでいく。外では風がやさしく吹き、窓辺に吊るした木の鈴がかすかに鳴った。焚き火の火が落ち着いて、橙の光が室内をやわらかく揺らしている。私はテーブルに手を置き、指先でリリアの花をそっと転がした。白い花弁が光を受けて、まるで小さな月のように輝いている。
「……セリーナ」
ライナルトが呼んだ。いつもより少し低く、ゆっくりとした声だった。
「はい?」
「落ち着いたか」
「ええ。さっきの話……もう、心は大丈夫です」
そう答えると、彼は小さく頷き、暖炉の前の椅子に腰を下ろした。火の光に照らされた横顔が穏やかで、まるで長い戦いを終えた人のようだった。
私は湯を注いだ木のカップを手渡した。
「これ、マルタさんからもらったハーブティーです。疲れが取れるって」
「……香りがいいな」
彼は一口、ゆっくりと口をつけた。湯気が頬をなで、ほんのわずかに微笑む。
「お前が入れると、茶まで優しくなる」
「そんな……お茶はお茶ですよ」
「不思議なものだ」
彼はまた一口飲み、視線を火に戻した。ぱち、ぱち、と薪のはぜる音が耳に心地いい。外では虫の声が聞こえ始めている。
「ライナルト」
「ん」
「……あなたは、怒らないんですね」
「何にだ」
「私を追放した人たちに、です」
彼は少しの間、黙っていた。炎の光が灰色の瞳を金色に染めていく。
「怒っても、過去は変わらない」
「それでも、理不尽だったのに」
「理不尽なことは、風が片づける」
その言葉があまりに自然で、思わず笑ってしまった。
「あなたって本当に、風みたいな人です」
「また、それか」
「だって、いつもそう思うんです。気づいたら私の心を軽くしてくれてる」
「……なら、少しは役に立っているということだな」
彼の口元がわずかに緩む。その表情を見ていると、胸が温かくなった。
静かな沈黙が流れる。風の音、火の音、そして二人の呼吸。
その全てが、この夜を包んでいた。
「セリーナ」
「はい?」
「王都でのことは……誰も、お前を本当には見ていなかったのだろう」
「え?」
「花を咲かせる手を、汚れたと笑った。だが今、お前が咲かせた花を見て笑っている者は誰もいない。皆、感謝している」
その言葉に、喉の奥が熱くなる。
「……ありがとうございます」
「礼はもういい」
「でも、嬉しいんです」
彼は少し照れくさそうに視線を逸らした。火の光が頬を撫で、橙に染める。
私はその光景を胸に焼きつけるように見つめた。
「あなたはどうして、そんなに人を信じられるんですか?」
「信じてはいない。ただ、信じたいと思うだけだ」
「それで十分だと思います」
彼がわずかに笑った。その笑顔を見たのは、きっと二度目か三度目くらいだ。
けれど、たったそれだけで、胸の奥が静かに波立つ。
外の風が窓を叩いた。カラン、と吊るした鈴が鳴る。
「……明日は少し雨になるな」
「花、折れちゃいますか?」
「心配ない。花は風よりも雨に強い」
「なるほど。あなたが育てる花ですものね」
「お前も一緒に育てているだろう」
その返しに、言葉が詰まった。頬が熱くなり、視線を落とす。
「……はい」
炎が少し小さくなり、木の香りが室内に漂う。
やがて、彼が立ち上がり、暖炉に薪を足した。火が再び勢いを取り戻し、壁に光が踊る。
「もう休め」
「あなたは?」
「もう少し、火を見てから寝る」
「……そうですか」
私は立ち上がり、彼の隣を通り過ぎるとき、小さくつぶやいた。
「おやすみなさい、ライナルト」
「おやすみ」
短い返事。それでも、その声に包まれるような安心感があった。
部屋の奥に戻り、寝台に体を横たえる。薄い毛布に身を包みながら、遠くで薪の燃える音を聞いた。
火の音と、彼の気配が混ざり合って、いつの間にか眠りに落ちていく。
夢の中では、風が吹いていた。
リリアの花が一面に咲く畑の真ん中で、彼がこちらを振り向く。
そして、言った。
『お前は、もう自由だ』
その声が、風のように優しく響いた。
私は微笑んで、そっと目を閉じた。
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