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第6話 無口な人の優しさ
朝霧が、畑の向こうからゆっくりと流れてきた。空は淡い灰色で、太陽の輪郭さえまだ見えない。霧が木々の間を漂い、辺境の村はまるで夢の中に沈んでいるようだった。小屋の扉を開けると、冷たい空気が頬に当たる。私は思わず肩をすくめ、手にしていた籠を握り直した。
今日は、市場の日だった。村の広場で開かれる週に一度の小さな市。マルタと一緒に野菜を運び、花を売るのが私の役目になっていた。けれど、ライナルトは「今日は休め」と言ってくれた。それでも、どうしても彼の役に立ちたくて、私は早く起きてしまったのだ。
「……おはようございます」
背後から声をかけると、ライナルトはすでに庭先で作業をしていた。外套の袖をまくり、手にした鉋で木を削っている。削りかすが風に乗って舞い上がり、朝の霧の中で白い花びらのように見えた。
「起きるのが早いな」
「眠れなかったんです。今日の市、楽しみで」
「楽しむ場所ではない」
「でも、村の人たちと話せるのが嬉しくて」
彼は手を止め、刃の光を確かめるように一度目を伏せた。
「……人が多い。気をつけろ」
「はい」
短いやり取り。でも、それだけで心がほぐれる。ライナルトの言葉は、いつも少なくて、まるで必要最小限の音で世界を動かしているみたいだった。けれど、そこにある優しさは、誰よりも深い。
私は笑みをこぼし、籠を腕に抱えた。
「では、行ってきます」
「マルタを待て」
「え?」
振り返ると、彼が木片を置いて立ち上がっていた。
「一人で行くな」
「でも、マルタさんは支度が――」
言い終わる前に、彼は自分の外套を私の肩に掛けた。厚手の生地がずしりと重く、彼の体温がふわりと伝わってくる。
「寒い」
「で、でもこれはあなたの……」
「構わん。市までは風が強い」
そう言うと、彼はいつもの調子で歩き出した。私は慌てて後を追う。
◇
村の広場に着くと、すでにいくつもの露店が並び始めていた。パンの香ばしい匂い、焼いた魚の煙、干し果物の甘い香り。人々の声が重なり合い、朝の冷気を押しのけるように賑わっている。
「わあ……にぎやか」
思わず声が漏れる。王都の華やかな市場とは違い、ここには飾り気のない温かさがあった。人々が顔見知り同士で笑い合い、手を取り合う。その輪の中にいるだけで、胸がじんと熱くなった。
マルタが籠を下ろし、花の束を並べ始める。リリアの白、カモミールの黄色、野に咲く紫の小花。どれも朝露をまとって、輝いているようだった。
「セリーナちゃん、このあいだの花畑、本当に見事だったよ」
「おかげさまで、皆さんのお手伝いがあったからです」
「隊長も頑張ってるって聞いた。あんなに無口な人が、花を世話してるなんて信じられないねぇ」
村の女性たちが笑う。その輪の中で、私は少し照れながらも嬉しくなった。
「ライナルトさん、とても丁寧に手入れしてくれるんです。花が好きなんですよ」
「へえ、あの人が? 昔は怖い顔してたのにねぇ」
マルタがにやりと笑った。
「ねえセリーナ、あんたのおかげで隊長、顔がやわらかくなったんじゃない?」
「そ、そんな……!」
思わず否定したけれど、頬が熱くなる。マルタはからかうように笑い、花束を客に渡した。
そのとき、背後から男の声がした。
「ほう、これは立派な花だな」
振り向くと、旅装の商人風の男が立っていた。王都からの行商人のようだ。肩に高価そうな外套をかけ、腰には革袋。手には杖。彼の目が、並べた花々をひと通り見て、最後に私で止まった。
「あなたが育てたのか?」
「はい」
「セリーナ、という名では?」
胸の奥がざわめいた。男は薄く笑う。
「王都では、あなたの噂がまだ消えていませんよ。裏切られた令嬢が辺境で花を育てている――詩のようだ」
マルタが顔をしかめる。私は言葉を選んで、静かに答えた。
「もう過去の話です」
「ええ、そうでしょうとも。ですが……王太子殿下が今どうなっているか、ご存じですか?」
その言葉に、手が止まる。商人は周囲の目も気にせず、愉快そうに続けた。
「婚約を破棄したあの殿下、今では王都で笑いものですよ。妹君にも裏切られ、側近にも逃げられ、すっかり孤立しているとか。ざまぁ、というやつですな」
村の人々が顔を見合わせる。マルタが「あんた、口が過ぎるよ」と睨むが、男は肩をすくめた。
「おっと、失礼。だが事実です。因果というものは面白い」
私はしばらく黙っていた。けれど、不思議なことに怒りも哀しみも湧いてこなかった。ただ、心の奥に風が吹き抜けたような静けさがあった。
「……そうですか」
「え?」
「教えてくださって、ありがとうございます。でも、その人たちのことはもう、私の物語にはいません」
そう言って、花を一輪手に取る。リリアの白が陽に透けた。
「私は、この花のように生きます。誰が何を言おうと、ここで笑っていられれば、それでいいんです」
男は言葉を失い、少しだけ気まずそうに頭を下げた。やがて背を向け、群衆の中に消えていった。
マルタが呆れたように息を吐く。
「まったく、嫌な客だったわね」
「でも、もう平気です。風に流しましたから」
笑ってみせると、マルタは目を丸くして、それからふっと笑った。
「……あんた、強くなったねぇ」
その言葉に、胸が熱くなる。
◇
市場の喧騒が静まるころ、夕暮れが村を包みはじめていた。帰り道、背後から軽い足音が近づく。振り向くと、ライナルトが立っていた。
「遅くなったな」
「いえ、楽しい一日でした」
「誰かに何か言われたか?」
「少しだけ。でも、もう大丈夫です」
彼は黙って歩き出し、私の持つ籠を取り上げた。
「持つ」
「あ、いいですよ!」
「構わん」
低い声でそう言うと、彼は無言のまま前を歩いた。肩越しに見る横顔が、夕焼けで金色に染まっている。
「ライナルト」
「ん」
「ありがとう。あなたがいてくれるだけで、安心できます」
彼が立ち止まった。沈む夕日を背に、灰色の瞳がこちらを向く。
「……それは、俺の台詞だ」
その一言で、胸の奥がきゅっと熱くなる。頬が赤くなり、視線を落とす。
風が吹いた。花の香りを乗せて、遠くの丘から流れてくる。
「帰ろう」
「はい」
二人並んで歩く道は、黄金色の光に包まれていた。村の家々の窓からは灯りがともり、煙突からは細い煙。花畑の向こうには、薄紫に染まる空。
今日もまた、穏やかな一日が終わろうとしている。けれど、私の胸の中では、新しい何かが芽吹いていた。
◇
夜。
村の灯が一つ、また一つと消えていく。辺境の空は驚くほど澄んでいて、星が水面のように瞬いていた。小屋の外では、風が花畑を撫で、リリアの花弁がゆるやかに揺れている。私は窓際の椅子に腰を下ろし、今日の市場で余った小さな花束を両手で抱いていた。
昼間の喧騒が嘘のように静かだった。薪の燃える音だけが、ゆっくりとした呼吸のように部屋の奥から聞こえる。
そのとき、扉の向こうで足音がした。
「……起きていたか」
ライナルトだった。外套を肩に掛けたまま入ってくる。風に混じって、草と木の匂いが一緒に流れ込んだ。
「眠れなかったんです」
「市があったからな。疲れが遅れて出る」
「そうかもしれません」
私は花束をテーブルに置き、立ち上がる。
「少し、お茶を入れますね」
「自分でやる」
「いいんです。座っててください」
彼は一瞬、何か言いかけてやめた。私が湯を沸かす間、彼は暖炉の前で黙っていた。火の光が外套の裾を照らし、灰色の瞳に揺らぎを映す。
「……市場で、嫌なことを言われたんだろう」
「どうしてわかるんですか?」
「お前の目を見れば、だいたいわかる」
そう言われて、少し照れくさく笑う。
「昔の話を、聞かれました。王都のことを」
「そうか」
お湯が湧く音がして、私は二つのカップに注いだ。香草の香りが室内に広がる。
「でも、不思議と平気でした」
「強くなった」
「あなたがいてくれたからです」
カップを渡すと、彼が少しだけ目を伏せた。手の中の湯気が彼の頬を照らす。
「……俺は、何もしていない」
「そんなことないです。あなたが無言で隣にいるだけで、私は守られてる気がします」
彼が顔を上げる。その灰色の瞳が火の光を宿し、静かに私を見つめた。
「守られているのは、俺の方かもしれん」
「え?」
「お前が来てから、ここは本当に静かになった。風の音も、花の香りも、全部やわらかくなった」
その言葉が、胸の奥にまっすぐ刺さる。何も言えず、ただ目を伏せた。
しばらく沈黙が流れた。薪が崩れる音がひとつ、ぱち、と響く。
「ライナルト」
「ん」
「……あなたは、どうしてそんなに優しいんですか」
「優しい?」
「はい。無口だけど、いつも人の痛みをちゃんと見ている気がします」
彼はしばらく考えるように視線を火に落とし、それからゆっくり口を開いた。
「戦のあと、何も守れなかった。だからせめて、これからは壊さないようにしているだけだ」
その低い声には、過去の傷が滲んでいた。私は胸の奥が締めつけられるのを感じながら、そっと言葉を返す。
「壊さないって、難しいことです。でも……あなたは、ちゃんとできてます」
彼が目を細める。
「どうしてそう言い切れる」
「だって、ほら」
私は窓の外を指さした。夜風に揺れる花畑。白い花弁が月光に照らされ、まるで星空が地上に降りたみたいに輝いている。
「これ、全部あなたが守った景色でしょう?」
「……そうだな」
その短い返事に、あたたかさがあった。火の光と月明かりが重なり、彼の顔に淡い陰影を落とす。
「戦の音より、こうして花の音を聞いていたい」
「花の音?」
「風に揺れる音。土が息をしている音。お前が笑う声」
思わず息を呑んだ。胸の鼓動が耳の奥で鳴る。
「……そんなふうに言われたの、初めてです」
「俺も初めて言った」
彼は不器用に微笑んだ。炎がその笑みを柔らかく照らす。私はもう何も言えなくなって、ただ笑い返す。
外の風が少し強くなり、窓の外で花が波のように揺れた。月がその上をゆっくりと渡っていく。
やがて、彼が立ち上がる。
「夜露が降りる。外の柵を見てくる」
「私も行きます」
「いい。休め」
「でも――」
言いかけたとき、彼が振り向いた。火の光の中で、灰色の瞳が静かに光る。
「セリーナ。お前がここにいるだけで、この家はもう守られている」
その一言で、心臓が跳ねた。喉の奥が熱くなり、何も言えなくなる。彼は軽く頷き、扉を開けて外へ出ていった。
冷たい風が一瞬吹き込み、花の香りが室内に広がる。私は椅子に腰を下ろし、胸の上で手を重ねた。
「……あなたも、守られていますように」
小さく呟く。外では、彼の足音が花畑を歩く音と混ざって遠ざかっていった。
暖炉の火が静かに燃える。夜は深く、空には満天の星。
この場所に流れる穏やかな時間が、どうか壊れずに続いていきますように――。
私は目を閉じ、花の香りに包まれながら静かに息を吐いた。
△
翌朝。
夜の雨が上がり、辺境の村には澄んだ光が差し込んでいた。空気はひんやりしているのに、どこか柔らかい。草の先に宿った水滴が太陽の光を反射して、畑のあちこちで小さな虹が瞬いていた。
私は裸足のまま、花畑の中を歩いた。湿った土の感触が足裏に心地よい。昨夜の雨を吸いこんだ花々は、いっそう色を深くしている。リリアの花弁が光をまとい、朝露をこぼすたびにきらめいた。
「おはようございます、ライナルト」
声をかけると、彼は畑の端で鍬を振るう手を止め、振り返った。灰色の瞳が朝日を反射して、まるで金属のように光る。
「もう起きたのか」
「ええ。今日は草抜きもしたくて」
「無理はするな」
「平気です。雨上がりの匂いが気持ちいいんです」
そう言って笑うと、彼はほんの少し口元を緩めた。
「……確かに。いい匂いだ」
彼の声がいつもより少しだけ柔らかく聞こえる。私は胸の奥が温かくなって、花の茎をそっと整えた。
「昨日は本当にありがとうございました」
「何のことだ」
「市場の帰り道、ずっと隣を歩いてくれたことです。あのとき、すごく安心しました」
「当然のことをしただけだ」
彼はそう言って、鍬を土に突き立てた。だが、耳の先がほんの少し赤く見えた。私は思わず微笑んでしまう。
ふと、遠くでマルタの声が聞こえた。
「セリーナちゃーん! ちょっと来ておくれ!」
振り返ると、マルタが村の入り口で手を振っている。大きな布袋を抱え、何やら困ったような顔をしていた。私は小走りで駆け寄った。
「どうしたんですか?」
「これねぇ、村の若い衆が花畑の手伝いに来たいって言うもんだから、許可をもらいにね。隊長に相談しておくれ」
「えっ、そんなに?」
袋の中には、花の種や道具がぎっしり詰まっている。どうやら昨日の市場で、村人たちが花畑を見て感動したらしい。もっと広げて、村全体を花で満たしたい――そんな声が上がっているとマルタは嬉しそうに話した。
「みんな、あんたの花を見て元気が出たんだよ。あんたの笑顔も、村の花になってるのさ」
そう言われて、胸の奥がじんと熱くなる。
花畑に戻ると、ライナルトが静かにこちらを見ていた。私は少し照れながら伝える。
「村のみんなが、花畑を手伝いたいって。もっと広げたいそうです」
「……そうか」
短く言って、彼は少しだけ空を見上げた。
「それはいいことだ。花は広がるほど、誰かの心を癒す」
「じゃあ、許可してもいいですか?」
「ああ。ただし、危険がないよう俺が見張る」
「ふふっ、ありがとうございます」
笑うと、彼は目を細めてこちらを見た。
「お前の笑顔を見ると、花が咲く理由がわかる気がする」
一瞬、風が止まった。
心臓が、音を立てて跳ねる。
「……からかってます?」
「事実を言っただけだ」
彼は真顔で答え、再び鍬を手に取った。その淡々とした仕草が、かえって心をざわつかせる。私は頬の熱を隠すように俯いた。
「じゃあ、村のみんなに伝えてきます!」
「ああ。無理はするな」
そう言ってくれる声が、背中を優しく押してくれた。
◇
昼。
村の若者たちが次々に集まり、花畑の拡張作業が始まった。笑い声が響き、土を掘る音があちこちで鳴る。マルタは差し入れのパンを配り、子どもたちは水を運ぶ。
その中で、ライナルトはいつものように寡黙だった。だが、誰かが困っていれば黙って手を貸し、倒れた苗をそっと起こしていた。その姿を見て、村人たちは自然と彼を「隊長」と呼ぶようになった。
私は少し離れたところで花の位置を整えながら、その光景を眺めていた。
風の中に、笑い声と土の匂い。
かつて王都では感じたことのない温かさがここにあった。
「セリーナ!」
声の方を向くと、マルタが両手を腰に当てて立っている。
「そろそろ休憩にしなさい!」
「はい!」
皆で木陰に集まり、水を分け合う。木漏れ日が顔に落ちて、風が髪を揺らした。
「ねえ、セリーナさん」
若い娘が、花の冠を手にして近づいてくる。
「これ、作ってみたの。似合うと思って」
冠を受け取ると、周りの皆が笑顔でうなずいた。私は少し恥ずかしくなりながらも、それを頭に乗せた。
「わぁ、本当にきれい!」
「まるでお姫様みたいだ!」
笑い声が弾けた。私は照れ笑いを浮かべながら、ライナルトの方をちらりと見た。
――彼が、こちらを見ていた。
無表情のまま、ほんの一瞬だけ視線が交わる。次の瞬間、彼は少しだけ目を逸らし、咳払いをした。
「……お似合いだ」
その一言が、風よりも静かに、でも確かに届いた。
心臓が跳ねる音を隠すように笑う。
「ありがとう、ございます」
遠くで子どもが転んで笑っている。花畑の端ではマルタが皆に声をかけ、若者たちが新しい畝を作っている。
村全体が、まるで春の光そのものみたいに輝いていた。
私はその真ん中で、小さく呟く。
「……幸せって、こういうことなんですね」
風が頬を撫で、リリアの花が一斉に揺れた。
◇
日が沈みかけるころ、作業はようやく一区切りを迎えた。西の空が茜色に染まり、畑一面の花々がその光を浴びてゆっくりと揺れている。リリアの白が橙に、カモミールの黄が金に変わり、空の色と溶け合っていく。
村人たちは満足げな笑みを浮かべながら片づけを始めていた。手にした鍬の音が軽やかで、みんなの声が柔らかく響く。あたりに広がるのは、疲労ではなく、心地よい達成感だった。
「ねえ、セリーナちゃん」
マルタが近づき、肩を軽く叩く。
「今日のあんた、ずっといい顔してたよ。ほんとに花が好きなんだねぇ」
「はい……この光景を見てると、心が満たされるんです」
「うんうん。あんたが来てから、村も明るくなった。隊長もね」
マルタがそう言ってにやりと笑う。思わず頬が熱くなった。
「そ、そんなこと……」
「いやぁ、あの人が笑うとこ、あたし十年ぶりくらいに見た気がするよ」
「笑ってました?」
「ほら、気づいてないんだねぇ。そりゃもう、穏やか~な顔してたわ」
マルタは満足そうに頷きながら、荷を背負って歩いていった。私はその背中を見送りながら、花畑に視線を戻す。
夕陽の光がゆるやかに傾き、風が花々の間を抜けていった。
「……ライナルト」
少し離れた場所で、彼が木の杭を打っていた。新しく作った畝の囲いを補強しているらしい。沈みゆく陽の中で、その背中が長く影を落としていた。
「手伝います」
「もう休め」
「いいんです。最後まで一緒に」
そう言って近づくと、彼は黙って手を止め、道具を私に渡した。
「じゃあ、杭を押さえろ。力はいる」
「はい」
土の中に杭を差し込み、両手で支える。彼が木槌で打ち込むたび、手のひらにずしんと衝撃が伝わる。音が夕暮れの空気に響いて、まるで心臓の鼓動みたいだった。
「……終わりだ」
最後の杭を打ち終えた瞬間、ライナルトが息をついた。私も手を離し、両手を見つめる。指先が少し赤くなっていたけれど、不思議と痛みはなかった。
「よく頑張ったな」
「ええ、でも楽しかったです」
「お前は変わってる」
「褒め言葉として受け取ります」
そう言うと、彼がわずかに笑う。その笑みが短い夕暮れの光を反射して、一瞬まぶしく見えた。
「……夕飯、作りますね」
「もう少し外にいよう」
「え?」
彼が空を指した。
「今日の空は、滅多に見られない」
見上げると、雲の切れ間から光が差し込み、山々の稜線が金に縁取られていた。紫と橙が混じり合い、空がまるで絵のように広がっている。
「きれい……」
思わず息を漏らすと、彼が隣に立ち、同じ空を見上げていた。
「昔は、こういうものを見る余裕がなかった」
「戦の頃ですか?」
「ああ。剣と血の匂いばかりで、空の色もわからなくなっていた」
「……でも今は違います」
「お前がそうしたんだ」
風がふわりと吹き、花の香りが流れていく。私は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じながら、言葉を探した。
「私、あの日ここに来て、本当によかったです」
「来たのは偶然だろう」
「でも、あなたが拾ってくれたのは必然です」
ライナルトの手が一瞬、動いた。
何か言おうとして、けれど言葉を選ぶように黙る。
「……お前が笑うなら、それで十分だ」
それだけ言って、彼は視線を花畑に戻した。
沈みきった太陽の名残が花々を照らし、白いリリアが金の縁をまとって輝く。まるで世界そのものが息をしているようだった。
ふと、ひとすじの風が吹いた。花弁が空へと舞い上がり、夕空を渡る。私は思わず手を伸ばす。けれど、掴もうとしたその花びらは、指先から逃げるように風に乗って遠ざかっていった。
「……掴めませんね」
「掴まなくていい」
「どうしてですか?」
「風に任せた方が、美しい」
彼の言葉は、まるで自分の過去を語るようでもあり、花を見送るようでもあった。私は頷いて、そっと微笑んだ。
「じゃあ、私の悲しみも風に任せます」
「いい選択だ」
そう言って、ライナルトが花弁を一枚拾い上げた。掌の上で光を受けるそれを、彼は静かに見つめている。
「昔、仲間に言われたことがある。風のように生きろと」
「……それで、あなたは本当に風みたいになったんですね」
「いや。お前といると、風が止まる」
その言葉に、胸が大きく波打った。声が出なかった。
ただ、心の奥で何かがほどけていく。
「……止まって、困りませんか?」
「悪くない」
彼がそう言って、初めて私の方を見た。
その灰色の瞳に、橙の光が映っていた。
風が静まり、世界が一瞬だけ止まったように感じた。
花畑も、空も、音も、すべてがその一瞬のために存在しているみたいだった。
私はゆっくりと微笑む。
「……風が止まるなら、私はここに咲き続けます」
「そうしてくれ」
彼の声が低く響いた。まるで祈りのように、穏やかで確かな響きだった。
沈黙の中、二人の影が並ぶ。空にはまだ淡い光が残り、花々がゆるやかに揺れる。
その光景は、静かで、温かくて――どこまでも優しかった。
朝霧が、畑の向こうからゆっくりと流れてきた。空は淡い灰色で、太陽の輪郭さえまだ見えない。霧が木々の間を漂い、辺境の村はまるで夢の中に沈んでいるようだった。小屋の扉を開けると、冷たい空気が頬に当たる。私は思わず肩をすくめ、手にしていた籠を握り直した。
今日は、市場の日だった。村の広場で開かれる週に一度の小さな市。マルタと一緒に野菜を運び、花を売るのが私の役目になっていた。けれど、ライナルトは「今日は休め」と言ってくれた。それでも、どうしても彼の役に立ちたくて、私は早く起きてしまったのだ。
「……おはようございます」
背後から声をかけると、ライナルトはすでに庭先で作業をしていた。外套の袖をまくり、手にした鉋で木を削っている。削りかすが風に乗って舞い上がり、朝の霧の中で白い花びらのように見えた。
「起きるのが早いな」
「眠れなかったんです。今日の市、楽しみで」
「楽しむ場所ではない」
「でも、村の人たちと話せるのが嬉しくて」
彼は手を止め、刃の光を確かめるように一度目を伏せた。
「……人が多い。気をつけろ」
「はい」
短いやり取り。でも、それだけで心がほぐれる。ライナルトの言葉は、いつも少なくて、まるで必要最小限の音で世界を動かしているみたいだった。けれど、そこにある優しさは、誰よりも深い。
私は笑みをこぼし、籠を腕に抱えた。
「では、行ってきます」
「マルタを待て」
「え?」
振り返ると、彼が木片を置いて立ち上がっていた。
「一人で行くな」
「でも、マルタさんは支度が――」
言い終わる前に、彼は自分の外套を私の肩に掛けた。厚手の生地がずしりと重く、彼の体温がふわりと伝わってくる。
「寒い」
「で、でもこれはあなたの……」
「構わん。市までは風が強い」
そう言うと、彼はいつもの調子で歩き出した。私は慌てて後を追う。
◇
村の広場に着くと、すでにいくつもの露店が並び始めていた。パンの香ばしい匂い、焼いた魚の煙、干し果物の甘い香り。人々の声が重なり合い、朝の冷気を押しのけるように賑わっている。
「わあ……にぎやか」
思わず声が漏れる。王都の華やかな市場とは違い、ここには飾り気のない温かさがあった。人々が顔見知り同士で笑い合い、手を取り合う。その輪の中にいるだけで、胸がじんと熱くなった。
マルタが籠を下ろし、花の束を並べ始める。リリアの白、カモミールの黄色、野に咲く紫の小花。どれも朝露をまとって、輝いているようだった。
「セリーナちゃん、このあいだの花畑、本当に見事だったよ」
「おかげさまで、皆さんのお手伝いがあったからです」
「隊長も頑張ってるって聞いた。あんなに無口な人が、花を世話してるなんて信じられないねぇ」
村の女性たちが笑う。その輪の中で、私は少し照れながらも嬉しくなった。
「ライナルトさん、とても丁寧に手入れしてくれるんです。花が好きなんですよ」
「へえ、あの人が? 昔は怖い顔してたのにねぇ」
マルタがにやりと笑った。
「ねえセリーナ、あんたのおかげで隊長、顔がやわらかくなったんじゃない?」
「そ、そんな……!」
思わず否定したけれど、頬が熱くなる。マルタはからかうように笑い、花束を客に渡した。
そのとき、背後から男の声がした。
「ほう、これは立派な花だな」
振り向くと、旅装の商人風の男が立っていた。王都からの行商人のようだ。肩に高価そうな外套をかけ、腰には革袋。手には杖。彼の目が、並べた花々をひと通り見て、最後に私で止まった。
「あなたが育てたのか?」
「はい」
「セリーナ、という名では?」
胸の奥がざわめいた。男は薄く笑う。
「王都では、あなたの噂がまだ消えていませんよ。裏切られた令嬢が辺境で花を育てている――詩のようだ」
マルタが顔をしかめる。私は言葉を選んで、静かに答えた。
「もう過去の話です」
「ええ、そうでしょうとも。ですが……王太子殿下が今どうなっているか、ご存じですか?」
その言葉に、手が止まる。商人は周囲の目も気にせず、愉快そうに続けた。
「婚約を破棄したあの殿下、今では王都で笑いものですよ。妹君にも裏切られ、側近にも逃げられ、すっかり孤立しているとか。ざまぁ、というやつですな」
村の人々が顔を見合わせる。マルタが「あんた、口が過ぎるよ」と睨むが、男は肩をすくめた。
「おっと、失礼。だが事実です。因果というものは面白い」
私はしばらく黙っていた。けれど、不思議なことに怒りも哀しみも湧いてこなかった。ただ、心の奥に風が吹き抜けたような静けさがあった。
「……そうですか」
「え?」
「教えてくださって、ありがとうございます。でも、その人たちのことはもう、私の物語にはいません」
そう言って、花を一輪手に取る。リリアの白が陽に透けた。
「私は、この花のように生きます。誰が何を言おうと、ここで笑っていられれば、それでいいんです」
男は言葉を失い、少しだけ気まずそうに頭を下げた。やがて背を向け、群衆の中に消えていった。
マルタが呆れたように息を吐く。
「まったく、嫌な客だったわね」
「でも、もう平気です。風に流しましたから」
笑ってみせると、マルタは目を丸くして、それからふっと笑った。
「……あんた、強くなったねぇ」
その言葉に、胸が熱くなる。
◇
市場の喧騒が静まるころ、夕暮れが村を包みはじめていた。帰り道、背後から軽い足音が近づく。振り向くと、ライナルトが立っていた。
「遅くなったな」
「いえ、楽しい一日でした」
「誰かに何か言われたか?」
「少しだけ。でも、もう大丈夫です」
彼は黙って歩き出し、私の持つ籠を取り上げた。
「持つ」
「あ、いいですよ!」
「構わん」
低い声でそう言うと、彼は無言のまま前を歩いた。肩越しに見る横顔が、夕焼けで金色に染まっている。
「ライナルト」
「ん」
「ありがとう。あなたがいてくれるだけで、安心できます」
彼が立ち止まった。沈む夕日を背に、灰色の瞳がこちらを向く。
「……それは、俺の台詞だ」
その一言で、胸の奥がきゅっと熱くなる。頬が赤くなり、視線を落とす。
風が吹いた。花の香りを乗せて、遠くの丘から流れてくる。
「帰ろう」
「はい」
二人並んで歩く道は、黄金色の光に包まれていた。村の家々の窓からは灯りがともり、煙突からは細い煙。花畑の向こうには、薄紫に染まる空。
今日もまた、穏やかな一日が終わろうとしている。けれど、私の胸の中では、新しい何かが芽吹いていた。
◇
夜。
村の灯が一つ、また一つと消えていく。辺境の空は驚くほど澄んでいて、星が水面のように瞬いていた。小屋の外では、風が花畑を撫で、リリアの花弁がゆるやかに揺れている。私は窓際の椅子に腰を下ろし、今日の市場で余った小さな花束を両手で抱いていた。
昼間の喧騒が嘘のように静かだった。薪の燃える音だけが、ゆっくりとした呼吸のように部屋の奥から聞こえる。
そのとき、扉の向こうで足音がした。
「……起きていたか」
ライナルトだった。外套を肩に掛けたまま入ってくる。風に混じって、草と木の匂いが一緒に流れ込んだ。
「眠れなかったんです」
「市があったからな。疲れが遅れて出る」
「そうかもしれません」
私は花束をテーブルに置き、立ち上がる。
「少し、お茶を入れますね」
「自分でやる」
「いいんです。座っててください」
彼は一瞬、何か言いかけてやめた。私が湯を沸かす間、彼は暖炉の前で黙っていた。火の光が外套の裾を照らし、灰色の瞳に揺らぎを映す。
「……市場で、嫌なことを言われたんだろう」
「どうしてわかるんですか?」
「お前の目を見れば、だいたいわかる」
そう言われて、少し照れくさく笑う。
「昔の話を、聞かれました。王都のことを」
「そうか」
お湯が湧く音がして、私は二つのカップに注いだ。香草の香りが室内に広がる。
「でも、不思議と平気でした」
「強くなった」
「あなたがいてくれたからです」
カップを渡すと、彼が少しだけ目を伏せた。手の中の湯気が彼の頬を照らす。
「……俺は、何もしていない」
「そんなことないです。あなたが無言で隣にいるだけで、私は守られてる気がします」
彼が顔を上げる。その灰色の瞳が火の光を宿し、静かに私を見つめた。
「守られているのは、俺の方かもしれん」
「え?」
「お前が来てから、ここは本当に静かになった。風の音も、花の香りも、全部やわらかくなった」
その言葉が、胸の奥にまっすぐ刺さる。何も言えず、ただ目を伏せた。
しばらく沈黙が流れた。薪が崩れる音がひとつ、ぱち、と響く。
「ライナルト」
「ん」
「……あなたは、どうしてそんなに優しいんですか」
「優しい?」
「はい。無口だけど、いつも人の痛みをちゃんと見ている気がします」
彼はしばらく考えるように視線を火に落とし、それからゆっくり口を開いた。
「戦のあと、何も守れなかった。だからせめて、これからは壊さないようにしているだけだ」
その低い声には、過去の傷が滲んでいた。私は胸の奥が締めつけられるのを感じながら、そっと言葉を返す。
「壊さないって、難しいことです。でも……あなたは、ちゃんとできてます」
彼が目を細める。
「どうしてそう言い切れる」
「だって、ほら」
私は窓の外を指さした。夜風に揺れる花畑。白い花弁が月光に照らされ、まるで星空が地上に降りたみたいに輝いている。
「これ、全部あなたが守った景色でしょう?」
「……そうだな」
その短い返事に、あたたかさがあった。火の光と月明かりが重なり、彼の顔に淡い陰影を落とす。
「戦の音より、こうして花の音を聞いていたい」
「花の音?」
「風に揺れる音。土が息をしている音。お前が笑う声」
思わず息を呑んだ。胸の鼓動が耳の奥で鳴る。
「……そんなふうに言われたの、初めてです」
「俺も初めて言った」
彼は不器用に微笑んだ。炎がその笑みを柔らかく照らす。私はもう何も言えなくなって、ただ笑い返す。
外の風が少し強くなり、窓の外で花が波のように揺れた。月がその上をゆっくりと渡っていく。
やがて、彼が立ち上がる。
「夜露が降りる。外の柵を見てくる」
「私も行きます」
「いい。休め」
「でも――」
言いかけたとき、彼が振り向いた。火の光の中で、灰色の瞳が静かに光る。
「セリーナ。お前がここにいるだけで、この家はもう守られている」
その一言で、心臓が跳ねた。喉の奥が熱くなり、何も言えなくなる。彼は軽く頷き、扉を開けて外へ出ていった。
冷たい風が一瞬吹き込み、花の香りが室内に広がる。私は椅子に腰を下ろし、胸の上で手を重ねた。
「……あなたも、守られていますように」
小さく呟く。外では、彼の足音が花畑を歩く音と混ざって遠ざかっていった。
暖炉の火が静かに燃える。夜は深く、空には満天の星。
この場所に流れる穏やかな時間が、どうか壊れずに続いていきますように――。
私は目を閉じ、花の香りに包まれながら静かに息を吐いた。
△
翌朝。
夜の雨が上がり、辺境の村には澄んだ光が差し込んでいた。空気はひんやりしているのに、どこか柔らかい。草の先に宿った水滴が太陽の光を反射して、畑のあちこちで小さな虹が瞬いていた。
私は裸足のまま、花畑の中を歩いた。湿った土の感触が足裏に心地よい。昨夜の雨を吸いこんだ花々は、いっそう色を深くしている。リリアの花弁が光をまとい、朝露をこぼすたびにきらめいた。
「おはようございます、ライナルト」
声をかけると、彼は畑の端で鍬を振るう手を止め、振り返った。灰色の瞳が朝日を反射して、まるで金属のように光る。
「もう起きたのか」
「ええ。今日は草抜きもしたくて」
「無理はするな」
「平気です。雨上がりの匂いが気持ちいいんです」
そう言って笑うと、彼はほんの少し口元を緩めた。
「……確かに。いい匂いだ」
彼の声がいつもより少しだけ柔らかく聞こえる。私は胸の奥が温かくなって、花の茎をそっと整えた。
「昨日は本当にありがとうございました」
「何のことだ」
「市場の帰り道、ずっと隣を歩いてくれたことです。あのとき、すごく安心しました」
「当然のことをしただけだ」
彼はそう言って、鍬を土に突き立てた。だが、耳の先がほんの少し赤く見えた。私は思わず微笑んでしまう。
ふと、遠くでマルタの声が聞こえた。
「セリーナちゃーん! ちょっと来ておくれ!」
振り返ると、マルタが村の入り口で手を振っている。大きな布袋を抱え、何やら困ったような顔をしていた。私は小走りで駆け寄った。
「どうしたんですか?」
「これねぇ、村の若い衆が花畑の手伝いに来たいって言うもんだから、許可をもらいにね。隊長に相談しておくれ」
「えっ、そんなに?」
袋の中には、花の種や道具がぎっしり詰まっている。どうやら昨日の市場で、村人たちが花畑を見て感動したらしい。もっと広げて、村全体を花で満たしたい――そんな声が上がっているとマルタは嬉しそうに話した。
「みんな、あんたの花を見て元気が出たんだよ。あんたの笑顔も、村の花になってるのさ」
そう言われて、胸の奥がじんと熱くなる。
花畑に戻ると、ライナルトが静かにこちらを見ていた。私は少し照れながら伝える。
「村のみんなが、花畑を手伝いたいって。もっと広げたいそうです」
「……そうか」
短く言って、彼は少しだけ空を見上げた。
「それはいいことだ。花は広がるほど、誰かの心を癒す」
「じゃあ、許可してもいいですか?」
「ああ。ただし、危険がないよう俺が見張る」
「ふふっ、ありがとうございます」
笑うと、彼は目を細めてこちらを見た。
「お前の笑顔を見ると、花が咲く理由がわかる気がする」
一瞬、風が止まった。
心臓が、音を立てて跳ねる。
「……からかってます?」
「事実を言っただけだ」
彼は真顔で答え、再び鍬を手に取った。その淡々とした仕草が、かえって心をざわつかせる。私は頬の熱を隠すように俯いた。
「じゃあ、村のみんなに伝えてきます!」
「ああ。無理はするな」
そう言ってくれる声が、背中を優しく押してくれた。
◇
昼。
村の若者たちが次々に集まり、花畑の拡張作業が始まった。笑い声が響き、土を掘る音があちこちで鳴る。マルタは差し入れのパンを配り、子どもたちは水を運ぶ。
その中で、ライナルトはいつものように寡黙だった。だが、誰かが困っていれば黙って手を貸し、倒れた苗をそっと起こしていた。その姿を見て、村人たちは自然と彼を「隊長」と呼ぶようになった。
私は少し離れたところで花の位置を整えながら、その光景を眺めていた。
風の中に、笑い声と土の匂い。
かつて王都では感じたことのない温かさがここにあった。
「セリーナ!」
声の方を向くと、マルタが両手を腰に当てて立っている。
「そろそろ休憩にしなさい!」
「はい!」
皆で木陰に集まり、水を分け合う。木漏れ日が顔に落ちて、風が髪を揺らした。
「ねえ、セリーナさん」
若い娘が、花の冠を手にして近づいてくる。
「これ、作ってみたの。似合うと思って」
冠を受け取ると、周りの皆が笑顔でうなずいた。私は少し恥ずかしくなりながらも、それを頭に乗せた。
「わぁ、本当にきれい!」
「まるでお姫様みたいだ!」
笑い声が弾けた。私は照れ笑いを浮かべながら、ライナルトの方をちらりと見た。
――彼が、こちらを見ていた。
無表情のまま、ほんの一瞬だけ視線が交わる。次の瞬間、彼は少しだけ目を逸らし、咳払いをした。
「……お似合いだ」
その一言が、風よりも静かに、でも確かに届いた。
心臓が跳ねる音を隠すように笑う。
「ありがとう、ございます」
遠くで子どもが転んで笑っている。花畑の端ではマルタが皆に声をかけ、若者たちが新しい畝を作っている。
村全体が、まるで春の光そのものみたいに輝いていた。
私はその真ん中で、小さく呟く。
「……幸せって、こういうことなんですね」
風が頬を撫で、リリアの花が一斉に揺れた。
◇
日が沈みかけるころ、作業はようやく一区切りを迎えた。西の空が茜色に染まり、畑一面の花々がその光を浴びてゆっくりと揺れている。リリアの白が橙に、カモミールの黄が金に変わり、空の色と溶け合っていく。
村人たちは満足げな笑みを浮かべながら片づけを始めていた。手にした鍬の音が軽やかで、みんなの声が柔らかく響く。あたりに広がるのは、疲労ではなく、心地よい達成感だった。
「ねえ、セリーナちゃん」
マルタが近づき、肩を軽く叩く。
「今日のあんた、ずっといい顔してたよ。ほんとに花が好きなんだねぇ」
「はい……この光景を見てると、心が満たされるんです」
「うんうん。あんたが来てから、村も明るくなった。隊長もね」
マルタがそう言ってにやりと笑う。思わず頬が熱くなった。
「そ、そんなこと……」
「いやぁ、あの人が笑うとこ、あたし十年ぶりくらいに見た気がするよ」
「笑ってました?」
「ほら、気づいてないんだねぇ。そりゃもう、穏やか~な顔してたわ」
マルタは満足そうに頷きながら、荷を背負って歩いていった。私はその背中を見送りながら、花畑に視線を戻す。
夕陽の光がゆるやかに傾き、風が花々の間を抜けていった。
「……ライナルト」
少し離れた場所で、彼が木の杭を打っていた。新しく作った畝の囲いを補強しているらしい。沈みゆく陽の中で、その背中が長く影を落としていた。
「手伝います」
「もう休め」
「いいんです。最後まで一緒に」
そう言って近づくと、彼は黙って手を止め、道具を私に渡した。
「じゃあ、杭を押さえろ。力はいる」
「はい」
土の中に杭を差し込み、両手で支える。彼が木槌で打ち込むたび、手のひらにずしんと衝撃が伝わる。音が夕暮れの空気に響いて、まるで心臓の鼓動みたいだった。
「……終わりだ」
最後の杭を打ち終えた瞬間、ライナルトが息をついた。私も手を離し、両手を見つめる。指先が少し赤くなっていたけれど、不思議と痛みはなかった。
「よく頑張ったな」
「ええ、でも楽しかったです」
「お前は変わってる」
「褒め言葉として受け取ります」
そう言うと、彼がわずかに笑う。その笑みが短い夕暮れの光を反射して、一瞬まぶしく見えた。
「……夕飯、作りますね」
「もう少し外にいよう」
「え?」
彼が空を指した。
「今日の空は、滅多に見られない」
見上げると、雲の切れ間から光が差し込み、山々の稜線が金に縁取られていた。紫と橙が混じり合い、空がまるで絵のように広がっている。
「きれい……」
思わず息を漏らすと、彼が隣に立ち、同じ空を見上げていた。
「昔は、こういうものを見る余裕がなかった」
「戦の頃ですか?」
「ああ。剣と血の匂いばかりで、空の色もわからなくなっていた」
「……でも今は違います」
「お前がそうしたんだ」
風がふわりと吹き、花の香りが流れていく。私は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じながら、言葉を探した。
「私、あの日ここに来て、本当によかったです」
「来たのは偶然だろう」
「でも、あなたが拾ってくれたのは必然です」
ライナルトの手が一瞬、動いた。
何か言おうとして、けれど言葉を選ぶように黙る。
「……お前が笑うなら、それで十分だ」
それだけ言って、彼は視線を花畑に戻した。
沈みきった太陽の名残が花々を照らし、白いリリアが金の縁をまとって輝く。まるで世界そのものが息をしているようだった。
ふと、ひとすじの風が吹いた。花弁が空へと舞い上がり、夕空を渡る。私は思わず手を伸ばす。けれど、掴もうとしたその花びらは、指先から逃げるように風に乗って遠ざかっていった。
「……掴めませんね」
「掴まなくていい」
「どうしてですか?」
「風に任せた方が、美しい」
彼の言葉は、まるで自分の過去を語るようでもあり、花を見送るようでもあった。私は頷いて、そっと微笑んだ。
「じゃあ、私の悲しみも風に任せます」
「いい選択だ」
そう言って、ライナルトが花弁を一枚拾い上げた。掌の上で光を受けるそれを、彼は静かに見つめている。
「昔、仲間に言われたことがある。風のように生きろと」
「……それで、あなたは本当に風みたいになったんですね」
「いや。お前といると、風が止まる」
その言葉に、胸が大きく波打った。声が出なかった。
ただ、心の奥で何かがほどけていく。
「……止まって、困りませんか?」
「悪くない」
彼がそう言って、初めて私の方を見た。
その灰色の瞳に、橙の光が映っていた。
風が静まり、世界が一瞬だけ止まったように感じた。
花畑も、空も、音も、すべてがその一瞬のために存在しているみたいだった。
私はゆっくりと微笑む。
「……風が止まるなら、私はここに咲き続けます」
「そうしてくれ」
彼の声が低く響いた。まるで祈りのように、穏やかで確かな響きだった。
沈黙の中、二人の影が並ぶ。空にはまだ淡い光が残り、花々がゆるやかに揺れる。
その光景は、静かで、温かくて――どこまでも優しかった。
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