婚約破棄され追放された令嬢の私、異世界の辺境で無口な騎士団長に拾われ花畑を作るうちに愛されすぎて困ってます――ざまぁは風に流してスローライフ

さら

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第6話 無口な人の優しさ

 朝霧が、畑の向こうからゆっくりと流れてきた。空は淡い灰色で、太陽の輪郭さえまだ見えない。霧が木々の間を漂い、辺境の村はまるで夢の中に沈んでいるようだった。小屋の扉を開けると、冷たい空気が頬に当たる。私は思わず肩をすくめ、手にしていた籠を握り直した。

 今日は、市場の日だった。村の広場で開かれる週に一度の小さな市。マルタと一緒に野菜を運び、花を売るのが私の役目になっていた。けれど、ライナルトは「今日は休め」と言ってくれた。それでも、どうしても彼の役に立ちたくて、私は早く起きてしまったのだ。

「……おはようございます」

 背後から声をかけると、ライナルトはすでに庭先で作業をしていた。外套の袖をまくり、手にした鉋で木を削っている。削りかすが風に乗って舞い上がり、朝の霧の中で白い花びらのように見えた。

「起きるのが早いな」
「眠れなかったんです。今日の市、楽しみで」
「楽しむ場所ではない」
「でも、村の人たちと話せるのが嬉しくて」

 彼は手を止め、刃の光を確かめるように一度目を伏せた。
「……人が多い。気をつけろ」
「はい」

 短いやり取り。でも、それだけで心がほぐれる。ライナルトの言葉は、いつも少なくて、まるで必要最小限の音で世界を動かしているみたいだった。けれど、そこにある優しさは、誰よりも深い。

 私は笑みをこぼし、籠を腕に抱えた。
「では、行ってきます」
「マルタを待て」
「え?」

 振り返ると、彼が木片を置いて立ち上がっていた。
「一人で行くな」
「でも、マルタさんは支度が――」

 言い終わる前に、彼は自分の外套を私の肩に掛けた。厚手の生地がずしりと重く、彼の体温がふわりと伝わってくる。

「寒い」
「で、でもこれはあなたの……」
「構わん。市までは風が強い」

 そう言うと、彼はいつもの調子で歩き出した。私は慌てて後を追う。



 村の広場に着くと、すでにいくつもの露店が並び始めていた。パンの香ばしい匂い、焼いた魚の煙、干し果物の甘い香り。人々の声が重なり合い、朝の冷気を押しのけるように賑わっている。

「わあ……にぎやか」

 思わず声が漏れる。王都の華やかな市場とは違い、ここには飾り気のない温かさがあった。人々が顔見知り同士で笑い合い、手を取り合う。その輪の中にいるだけで、胸がじんと熱くなった。

 マルタが籠を下ろし、花の束を並べ始める。リリアの白、カモミールの黄色、野に咲く紫の小花。どれも朝露をまとって、輝いているようだった。

「セリーナちゃん、このあいだの花畑、本当に見事だったよ」
「おかげさまで、皆さんのお手伝いがあったからです」
「隊長も頑張ってるって聞いた。あんなに無口な人が、花を世話してるなんて信じられないねぇ」

 村の女性たちが笑う。その輪の中で、私は少し照れながらも嬉しくなった。
「ライナルトさん、とても丁寧に手入れしてくれるんです。花が好きなんですよ」
「へえ、あの人が? 昔は怖い顔してたのにねぇ」

 マルタがにやりと笑った。
「ねえセリーナ、あんたのおかげで隊長、顔がやわらかくなったんじゃない?」
「そ、そんな……!」

 思わず否定したけれど、頬が熱くなる。マルタはからかうように笑い、花束を客に渡した。

 そのとき、背後から男の声がした。
「ほう、これは立派な花だな」

 振り向くと、旅装の商人風の男が立っていた。王都からの行商人のようだ。肩に高価そうな外套をかけ、腰には革袋。手には杖。彼の目が、並べた花々をひと通り見て、最後に私で止まった。

「あなたが育てたのか?」
「はい」
「セリーナ、という名では?」

 胸の奥がざわめいた。男は薄く笑う。
「王都では、あなたの噂がまだ消えていませんよ。裏切られた令嬢が辺境で花を育てている――詩のようだ」

 マルタが顔をしかめる。私は言葉を選んで、静かに答えた。
「もう過去の話です」
「ええ、そうでしょうとも。ですが……王太子殿下が今どうなっているか、ご存じですか?」

 その言葉に、手が止まる。商人は周囲の目も気にせず、愉快そうに続けた。
「婚約を破棄したあの殿下、今では王都で笑いものですよ。妹君にも裏切られ、側近にも逃げられ、すっかり孤立しているとか。ざまぁ、というやつですな」

 村の人々が顔を見合わせる。マルタが「あんた、口が過ぎるよ」と睨むが、男は肩をすくめた。
「おっと、失礼。だが事実です。因果というものは面白い」

 私はしばらく黙っていた。けれど、不思議なことに怒りも哀しみも湧いてこなかった。ただ、心の奥に風が吹き抜けたような静けさがあった。

「……そうですか」
「え?」
「教えてくださって、ありがとうございます。でも、その人たちのことはもう、私の物語にはいません」

 そう言って、花を一輪手に取る。リリアの白が陽に透けた。
「私は、この花のように生きます。誰が何を言おうと、ここで笑っていられれば、それでいいんです」

 男は言葉を失い、少しだけ気まずそうに頭を下げた。やがて背を向け、群衆の中に消えていった。

 マルタが呆れたように息を吐く。
「まったく、嫌な客だったわね」
「でも、もう平気です。風に流しましたから」

 笑ってみせると、マルタは目を丸くして、それからふっと笑った。

「……あんた、強くなったねぇ」

 その言葉に、胸が熱くなる。



 市場の喧騒が静まるころ、夕暮れが村を包みはじめていた。帰り道、背後から軽い足音が近づく。振り向くと、ライナルトが立っていた。

「遅くなったな」
「いえ、楽しい一日でした」
「誰かに何か言われたか?」
「少しだけ。でも、もう大丈夫です」

 彼は黙って歩き出し、私の持つ籠を取り上げた。
「持つ」
「あ、いいですよ!」
「構わん」

 低い声でそう言うと、彼は無言のまま前を歩いた。肩越しに見る横顔が、夕焼けで金色に染まっている。

「ライナルト」
「ん」
「ありがとう。あなたがいてくれるだけで、安心できます」

 彼が立ち止まった。沈む夕日を背に、灰色の瞳がこちらを向く。
「……それは、俺の台詞だ」

 その一言で、胸の奥がきゅっと熱くなる。頬が赤くなり、視線を落とす。

 風が吹いた。花の香りを乗せて、遠くの丘から流れてくる。

「帰ろう」
「はい」

 二人並んで歩く道は、黄金色の光に包まれていた。村の家々の窓からは灯りがともり、煙突からは細い煙。花畑の向こうには、薄紫に染まる空。

 今日もまた、穏やかな一日が終わろうとしている。けれど、私の胸の中では、新しい何かが芽吹いていた。




 夜。
 村の灯が一つ、また一つと消えていく。辺境の空は驚くほど澄んでいて、星が水面のように瞬いていた。小屋の外では、風が花畑を撫で、リリアの花弁がゆるやかに揺れている。私は窓際の椅子に腰を下ろし、今日の市場で余った小さな花束を両手で抱いていた。

 昼間の喧騒が嘘のように静かだった。薪の燃える音だけが、ゆっくりとした呼吸のように部屋の奥から聞こえる。

 そのとき、扉の向こうで足音がした。
「……起きていたか」

 ライナルトだった。外套を肩に掛けたまま入ってくる。風に混じって、草と木の匂いが一緒に流れ込んだ。

「眠れなかったんです」
「市があったからな。疲れが遅れて出る」
「そうかもしれません」

 私は花束をテーブルに置き、立ち上がる。
「少し、お茶を入れますね」
「自分でやる」
「いいんです。座っててください」

 彼は一瞬、何か言いかけてやめた。私が湯を沸かす間、彼は暖炉の前で黙っていた。火の光が外套の裾を照らし、灰色の瞳に揺らぎを映す。

「……市場で、嫌なことを言われたんだろう」
「どうしてわかるんですか?」
「お前の目を見れば、だいたいわかる」

 そう言われて、少し照れくさく笑う。
「昔の話を、聞かれました。王都のことを」
「そうか」

 お湯が湧く音がして、私は二つのカップに注いだ。香草の香りが室内に広がる。
「でも、不思議と平気でした」
「強くなった」
「あなたがいてくれたからです」

 カップを渡すと、彼が少しだけ目を伏せた。手の中の湯気が彼の頬を照らす。
「……俺は、何もしていない」
「そんなことないです。あなたが無言で隣にいるだけで、私は守られてる気がします」

 彼が顔を上げる。その灰色の瞳が火の光を宿し、静かに私を見つめた。
「守られているのは、俺の方かもしれん」
「え?」
「お前が来てから、ここは本当に静かになった。風の音も、花の香りも、全部やわらかくなった」

 その言葉が、胸の奥にまっすぐ刺さる。何も言えず、ただ目を伏せた。

 しばらく沈黙が流れた。薪が崩れる音がひとつ、ぱち、と響く。

「ライナルト」
「ん」
「……あなたは、どうしてそんなに優しいんですか」
「優しい?」
「はい。無口だけど、いつも人の痛みをちゃんと見ている気がします」

 彼はしばらく考えるように視線を火に落とし、それからゆっくり口を開いた。
「戦のあと、何も守れなかった。だからせめて、これからは壊さないようにしているだけだ」

 その低い声には、過去の傷が滲んでいた。私は胸の奥が締めつけられるのを感じながら、そっと言葉を返す。
「壊さないって、難しいことです。でも……あなたは、ちゃんとできてます」

 彼が目を細める。
「どうしてそう言い切れる」
「だって、ほら」

 私は窓の外を指さした。夜風に揺れる花畑。白い花弁が月光に照らされ、まるで星空が地上に降りたみたいに輝いている。

「これ、全部あなたが守った景色でしょう?」
「……そうだな」

 その短い返事に、あたたかさがあった。火の光と月明かりが重なり、彼の顔に淡い陰影を落とす。

「戦の音より、こうして花の音を聞いていたい」
「花の音?」
「風に揺れる音。土が息をしている音。お前が笑う声」

 思わず息を呑んだ。胸の鼓動が耳の奥で鳴る。

「……そんなふうに言われたの、初めてです」
「俺も初めて言った」

 彼は不器用に微笑んだ。炎がその笑みを柔らかく照らす。私はもう何も言えなくなって、ただ笑い返す。

 外の風が少し強くなり、窓の外で花が波のように揺れた。月がその上をゆっくりと渡っていく。

 やがて、彼が立ち上がる。
「夜露が降りる。外の柵を見てくる」
「私も行きます」
「いい。休め」
「でも――」

 言いかけたとき、彼が振り向いた。火の光の中で、灰色の瞳が静かに光る。
「セリーナ。お前がここにいるだけで、この家はもう守られている」

 その一言で、心臓が跳ねた。喉の奥が熱くなり、何も言えなくなる。彼は軽く頷き、扉を開けて外へ出ていった。

 冷たい風が一瞬吹き込み、花の香りが室内に広がる。私は椅子に腰を下ろし、胸の上で手を重ねた。

「……あなたも、守られていますように」

 小さく呟く。外では、彼の足音が花畑を歩く音と混ざって遠ざかっていった。

 暖炉の火が静かに燃える。夜は深く、空には満天の星。
 この場所に流れる穏やかな時間が、どうか壊れずに続いていきますように――。

 私は目を閉じ、花の香りに包まれながら静かに息を吐いた。




 翌朝。
 夜の雨が上がり、辺境の村には澄んだ光が差し込んでいた。空気はひんやりしているのに、どこか柔らかい。草の先に宿った水滴が太陽の光を反射して、畑のあちこちで小さな虹が瞬いていた。

 私は裸足のまま、花畑の中を歩いた。湿った土の感触が足裏に心地よい。昨夜の雨を吸いこんだ花々は、いっそう色を深くしている。リリアの花弁が光をまとい、朝露をこぼすたびにきらめいた。

「おはようございます、ライナルト」

 声をかけると、彼は畑の端で鍬を振るう手を止め、振り返った。灰色の瞳が朝日を反射して、まるで金属のように光る。
「もう起きたのか」
「ええ。今日は草抜きもしたくて」
「無理はするな」
「平気です。雨上がりの匂いが気持ちいいんです」

 そう言って笑うと、彼はほんの少し口元を緩めた。
「……確かに。いい匂いだ」

 彼の声がいつもより少しだけ柔らかく聞こえる。私は胸の奥が温かくなって、花の茎をそっと整えた。

「昨日は本当にありがとうございました」
「何のことだ」
「市場の帰り道、ずっと隣を歩いてくれたことです。あのとき、すごく安心しました」
「当然のことをしただけだ」

 彼はそう言って、鍬を土に突き立てた。だが、耳の先がほんの少し赤く見えた。私は思わず微笑んでしまう。

 ふと、遠くでマルタの声が聞こえた。
「セリーナちゃーん! ちょっと来ておくれ!」

 振り返ると、マルタが村の入り口で手を振っている。大きな布袋を抱え、何やら困ったような顔をしていた。私は小走りで駆け寄った。

「どうしたんですか?」
「これねぇ、村の若い衆が花畑の手伝いに来たいって言うもんだから、許可をもらいにね。隊長に相談しておくれ」
「えっ、そんなに?」

 袋の中には、花の種や道具がぎっしり詰まっている。どうやら昨日の市場で、村人たちが花畑を見て感動したらしい。もっと広げて、村全体を花で満たしたい――そんな声が上がっているとマルタは嬉しそうに話した。

「みんな、あんたの花を見て元気が出たんだよ。あんたの笑顔も、村の花になってるのさ」

 そう言われて、胸の奥がじんと熱くなる。

 花畑に戻ると、ライナルトが静かにこちらを見ていた。私は少し照れながら伝える。
「村のみんなが、花畑を手伝いたいって。もっと広げたいそうです」
「……そうか」

 短く言って、彼は少しだけ空を見上げた。

「それはいいことだ。花は広がるほど、誰かの心を癒す」
「じゃあ、許可してもいいですか?」
「ああ。ただし、危険がないよう俺が見張る」
「ふふっ、ありがとうございます」

 笑うと、彼は目を細めてこちらを見た。
「お前の笑顔を見ると、花が咲く理由がわかる気がする」

 一瞬、風が止まった。
 心臓が、音を立てて跳ねる。

「……からかってます?」
「事実を言っただけだ」

 彼は真顔で答え、再び鍬を手に取った。その淡々とした仕草が、かえって心をざわつかせる。私は頬の熱を隠すように俯いた。

「じゃあ、村のみんなに伝えてきます!」
「ああ。無理はするな」

 そう言ってくれる声が、背中を優しく押してくれた。



 昼。
 村の若者たちが次々に集まり、花畑の拡張作業が始まった。笑い声が響き、土を掘る音があちこちで鳴る。マルタは差し入れのパンを配り、子どもたちは水を運ぶ。

 その中で、ライナルトはいつものように寡黙だった。だが、誰かが困っていれば黙って手を貸し、倒れた苗をそっと起こしていた。その姿を見て、村人たちは自然と彼を「隊長」と呼ぶようになった。

 私は少し離れたところで花の位置を整えながら、その光景を眺めていた。
 風の中に、笑い声と土の匂い。
 かつて王都では感じたことのない温かさがここにあった。

「セリーナ!」

 声の方を向くと、マルタが両手を腰に当てて立っている。
「そろそろ休憩にしなさい!」
「はい!」

 皆で木陰に集まり、水を分け合う。木漏れ日が顔に落ちて、風が髪を揺らした。

「ねえ、セリーナさん」
 若い娘が、花の冠を手にして近づいてくる。
「これ、作ってみたの。似合うと思って」

 冠を受け取ると、周りの皆が笑顔でうなずいた。私は少し恥ずかしくなりながらも、それを頭に乗せた。

「わぁ、本当にきれい!」
「まるでお姫様みたいだ!」

 笑い声が弾けた。私は照れ笑いを浮かべながら、ライナルトの方をちらりと見た。
 ――彼が、こちらを見ていた。
 無表情のまま、ほんの一瞬だけ視線が交わる。次の瞬間、彼は少しだけ目を逸らし、咳払いをした。

「……お似合いだ」

 その一言が、風よりも静かに、でも確かに届いた。

 心臓が跳ねる音を隠すように笑う。
「ありがとう、ございます」

 遠くで子どもが転んで笑っている。花畑の端ではマルタが皆に声をかけ、若者たちが新しい畝を作っている。
 村全体が、まるで春の光そのものみたいに輝いていた。

 私はその真ん中で、小さく呟く。
「……幸せって、こういうことなんですね」

 風が頬を撫で、リリアの花が一斉に揺れた。




 日が沈みかけるころ、作業はようやく一区切りを迎えた。西の空が茜色に染まり、畑一面の花々がその光を浴びてゆっくりと揺れている。リリアの白が橙に、カモミールの黄が金に変わり、空の色と溶け合っていく。

 村人たちは満足げな笑みを浮かべながら片づけを始めていた。手にした鍬の音が軽やかで、みんなの声が柔らかく響く。あたりに広がるのは、疲労ではなく、心地よい達成感だった。

「ねえ、セリーナちゃん」
 マルタが近づき、肩を軽く叩く。
「今日のあんた、ずっといい顔してたよ。ほんとに花が好きなんだねぇ」
「はい……この光景を見てると、心が満たされるんです」
「うんうん。あんたが来てから、村も明るくなった。隊長もね」

 マルタがそう言ってにやりと笑う。思わず頬が熱くなった。
「そ、そんなこと……」
「いやぁ、あの人が笑うとこ、あたし十年ぶりくらいに見た気がするよ」
「笑ってました?」
「ほら、気づいてないんだねぇ。そりゃもう、穏やか~な顔してたわ」

 マルタは満足そうに頷きながら、荷を背負って歩いていった。私はその背中を見送りながら、花畑に視線を戻す。
 夕陽の光がゆるやかに傾き、風が花々の間を抜けていった。

「……ライナルト」

 少し離れた場所で、彼が木の杭を打っていた。新しく作った畝の囲いを補強しているらしい。沈みゆく陽の中で、その背中が長く影を落としていた。

「手伝います」
「もう休め」
「いいんです。最後まで一緒に」

 そう言って近づくと、彼は黙って手を止め、道具を私に渡した。
「じゃあ、杭を押さえろ。力はいる」
「はい」

 土の中に杭を差し込み、両手で支える。彼が木槌で打ち込むたび、手のひらにずしんと衝撃が伝わる。音が夕暮れの空気に響いて、まるで心臓の鼓動みたいだった。

「……終わりだ」

 最後の杭を打ち終えた瞬間、ライナルトが息をついた。私も手を離し、両手を見つめる。指先が少し赤くなっていたけれど、不思議と痛みはなかった。

「よく頑張ったな」
「ええ、でも楽しかったです」
「お前は変わってる」
「褒め言葉として受け取ります」

 そう言うと、彼がわずかに笑う。その笑みが短い夕暮れの光を反射して、一瞬まぶしく見えた。

「……夕飯、作りますね」
「もう少し外にいよう」
「え?」

 彼が空を指した。
「今日の空は、滅多に見られない」

 見上げると、雲の切れ間から光が差し込み、山々の稜線が金に縁取られていた。紫と橙が混じり合い、空がまるで絵のように広がっている。

「きれい……」

 思わず息を漏らすと、彼が隣に立ち、同じ空を見上げていた。
「昔は、こういうものを見る余裕がなかった」
「戦の頃ですか?」
「ああ。剣と血の匂いばかりで、空の色もわからなくなっていた」
「……でも今は違います」
「お前がそうしたんだ」

 風がふわりと吹き、花の香りが流れていく。私は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じながら、言葉を探した。
「私、あの日ここに来て、本当によかったです」
「来たのは偶然だろう」
「でも、あなたが拾ってくれたのは必然です」

 ライナルトの手が一瞬、動いた。
 何か言おうとして、けれど言葉を選ぶように黙る。

「……お前が笑うなら、それで十分だ」

 それだけ言って、彼は視線を花畑に戻した。

 沈みきった太陽の名残が花々を照らし、白いリリアが金の縁をまとって輝く。まるで世界そのものが息をしているようだった。

 ふと、ひとすじの風が吹いた。花弁が空へと舞い上がり、夕空を渡る。私は思わず手を伸ばす。けれど、掴もうとしたその花びらは、指先から逃げるように風に乗って遠ざかっていった。

「……掴めませんね」
「掴まなくていい」
「どうしてですか?」
「風に任せた方が、美しい」

 彼の言葉は、まるで自分の過去を語るようでもあり、花を見送るようでもあった。私は頷いて、そっと微笑んだ。

「じゃあ、私の悲しみも風に任せます」
「いい選択だ」

 そう言って、ライナルトが花弁を一枚拾い上げた。掌の上で光を受けるそれを、彼は静かに見つめている。

「昔、仲間に言われたことがある。風のように生きろと」
「……それで、あなたは本当に風みたいになったんですね」
「いや。お前といると、風が止まる」

 その言葉に、胸が大きく波打った。声が出なかった。
 ただ、心の奥で何かがほどけていく。

「……止まって、困りませんか?」
「悪くない」

 彼がそう言って、初めて私の方を見た。
 その灰色の瞳に、橙の光が映っていた。

 風が静まり、世界が一瞬だけ止まったように感じた。
 花畑も、空も、音も、すべてがその一瞬のために存在しているみたいだった。

 私はゆっくりと微笑む。
「……風が止まるなら、私はここに咲き続けます」
「そうしてくれ」

 彼の声が低く響いた。まるで祈りのように、穏やかで確かな響きだった。

 沈黙の中、二人の影が並ぶ。空にはまだ淡い光が残り、花々がゆるやかに揺れる。
 その光景は、静かで、温かくて――どこまでも優しかった。
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