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第8話 光の花の朝
朝の光が、ゆっくりと山の端から差し込んできた。薄い霧が畑の上に漂い、白いリリアの花々が光を受けて柔らかく輝く。夜露のしずくが太陽に照らされ、無数の小さな虹を作っていた。
私はその光景の中で、そっと息を吸い込む。雨のあとに漂う土と草の匂い、湿った空気の奥に混ざる甘い香り――それらすべてが、昨日までの苦労を報いてくれるようだった。
「……きれい」
その声に応えるように、後ろから足音が近づく。
「早いな」
振り返ると、ライナルトが立っていた。朝日を背にして、彼の髪が金色に縁取られている。外套の裾が風に揺れ、灰色の瞳が穏やかに光っていた。
「昨日眠れなかったんです。嬉しくて」
「嵐を越えた後は、誰でも少し浮かれるものだ」
「あなたもですか?」
「俺は……少しだけな」
彼が珍しく口の端を上げた。笑うことに慣れていない人の、ぎこちない微笑み。でもそれが、たまらなくあたたかかった。
「ライナルト」
「ん」
「あなた、昨日言いましたよね。私がこの村の光だって」
「ああ」
「それなら、あなたはこの村の風ですよ。優しくて、みんなを包んで、どこかへ導いてくれる」
言ったあとで、少し恥ずかしくなった。けれど、ライナルトは目を細めて空を見上げた。
「光と風か……悪くない」
風が吹き、花の海が波のように揺れる。朝日を受けた花弁が一斉に煌めき、そのたびに小さなきらめきが空気の中を舞う。
「花が、笑ってるみたい」
「花は笑う。生きているからな」
彼の言葉に、胸がふわりと浮くような感覚がした。私はそのまま花の間を歩き出した。裸足で踏む土の感触が心地よくて、足の裏に伝わる温もりが生きている実感を与えてくれた。
◇
村の中央の小道を、朝の光がゆっくりと満たしていく。マルタが籠を抱えて畑へ向かってくるのが見えた。
「セリーナちゃん! 花、見た? ほら、まるで宝石みたいよ!」
「見ました! 本当にきれいですね!」
「嵐のあとに、こんなに咲くなんてねぇ……。やっぱり、あんたと隊長の花だ」
マルタは嬉しそうに笑い、背中を叩いてくれた。
「村の若い衆が言ってたよ。この花畑をもっと広げて、村の入り口まで続けたいって」
「村の入り口まで?」
「そう。旅人がここを通ったときに、“この村は優しい香りがする”って言われるようにしたいんだって」
その言葉を聞いて、胸の奥が熱くなった。
「……いいですね、それ」
「いいだろう? だから今日も忙しくなるよ。お昼までに種を分けなきゃね」
「手伝います!」
「ふふっ、頼もしい!」
笑い合う声が、風に乗って広がっていった。
◇
昼を過ぎたころ、村の子どもたちが花畑の周りで遊んでいた。花の冠を作り、走り回り、笑い声をあげる。その様子を眺めていると、時間が止まったように穏やかだった。
「セリーナさん、こっち来て!」
「見て見て! これ、あなたのリリア!」
少女が差し出した花を受け取る。指先に触れた花弁は、まるで絹のように柔らかく、ほんのりと香っていた。
「ありがとう。大切にしますね」
「うん! また作ってあげる!」
子どもたちが笑いながら走り去る。私はその背中を見送り、花を胸に当てた。
「……こうしてると、まるで夢みたい」
あの王都での日々が、もう遠い昔のことのように感じた。冷たい石の城、嘘の笑顔、氷のような視線――それらすべてが、今の温かな光景に溶けて消えていく。
「セリーナ」
背後から呼ばれ、振り返る。ライナルトが立っていた。陽射しを浴びて、その瞳がまぶしいほどに輝いている。
「花を届けに行くぞ。東の村までだ」
「はい!」
二人で馬車に荷を積む。花の香りが風に乗り、村の外れへと続く道を包み込む。
◇
道中、馬の足音が一定のリズムを刻む。鳥が飛び立ち、遠くで川の流れる音が聞こえた。私は花を抱えながら、横目でライナルトを見た。
「……昔は、こんな穏やかな日が来るなんて思ってもいませんでした」
「人は変われる。花のようにな」
「あなたも、変わりましたか?」
「お前と出会ってからはな」
短い答えなのに、胸の奥が熱くなる。私は視線を逸らし、手の中の花を見つめた。
「あなたは本当に、不器用ですね」
「そうか?」
「ええ。でも、そこが好きです」
一瞬、馬車の車輪の音が止まったように感じた。風が吹き抜け、木々の葉がさざめく。ライナルトが前を向いたまま、低く呟いた。
「……俺もだ」
「え?」
「お前のことが、好きだ」
時間が止まった。
風の音が遠ざかり、鳥の声さえ聞こえなくなる。心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
ライナルトは振り向かない。ただまっすぐ前を見たまま、手綱を握っている。
「お前が笑うたびに、胸があたたかくなる。花が咲くたびに、お前を思う。……それがどうしようもなく、嬉しい」
涙がこぼれそうになるのをこらえて、私は唇を噛んだ。
「そんなふうに言われたら……泣いちゃいます」
「泣かなくていい。風に流せ」
「……やっぱり、あなたらしいですね」
笑いながら、涙が頬を伝った。
空を見上げると、雨雲の残滓がすっかり消えていた。青が果てしなく広がり、太陽が柔らかく輝いている。
私は小さく呟いた。
「ありがとう、ライナルト」
「これからも一緒に咲こう」
彼の言葉に頷いた瞬間、風が花びらを舞い上げた。白い光が空に散って、まるで祝福のように降り注ぐ。
嵐を越えた花畑には、確かな春が訪れていた。
◇
午後になっても風は穏やかで、村全体が春の匂いに包まれていた。青い空の下で、白と黄色の花々がやわらかく揺れる。畑を囲むように子どもたちが笑い、村人たちが次の畝を整える。スコップの音と、笑い声と、遠くの川のせせらぎ――そのすべてがひとつの音楽のように響いていた。
私は花の種を袋から取り出し、掌でそっと転がした。光に透けたそれは小さくて、今にも風に乗って飛んでいきそうだった。
「この種から、また新しい花が咲くんですね」
「そうだ」
隣に立つライナルトが答える。
「小さなものでも、根を張れば大きな景色になる」
「……まるで、人の心みたい」
「お前らしい考えだな」
私は笑って、しゃがみこんだ。指で小さな穴を掘り、そっと種を落とす。土をかけ、掌で押さえる。風が吹き、土の匂いが立ち上る。
「ライナルト」
「ん」
「この村に来たばかりの頃、私、何も持っていなかったんです。家も名前も、居場所も。でも、あなたが拾ってくれたから、今こうして笑えています」
「……拾ったわけじゃない。お前が自分で立った」
「でも、その最初の一歩をくれたのは、あなたです」
彼は何も言わず、ただ静かに私を見つめていた。
その視線の奥に、たくさんの思いが詰まっている気がして、胸がじんと温かくなる。
「もしも、昔の私に言えるなら伝えたいです。“あなたは間違っていない”って」
「今なら言えるだろう」
「ええ。今の私は、胸を張って言えます」
風がふわりと吹き、髪が舞う。花畑の上を、陽射しの粒が滑るように流れていく。
◇
夕方。村の丘の上からは、花畑全体が見渡せた。村人たちは作業を終え、家路につき始めている。私はライナルトと並んで、静かな光景を眺めていた。
白い花々の間に差す夕陽が金色にきらめき、風がゆっくりと吹き抜ける。
「……いつか、この花畑を王都の人たちにも見せたいです」
「どうしてだ」
「私を追い出した人たちが、今どんな思いで暮らしているのかは分かりません。でも、この花を見たら、きっと何かを思い出すと思うんです。優しさとか、後悔とか」
「ざまぁを望まないのか」
「ええ。ざまぁなんて、もう風に流しました」
彼が微かに笑った。
「お前らしい答えだ」
「ライナルトも、笑ってますね」
「……そう見えるか」
「はい。あなたの笑顔は、夕陽より温かいです」
彼の頬が、ほんの少しだけ赤く染まった。
その瞬間、風が止み、花畑が静まり返った。
遠くで鐘の音が鳴る。
それが村の一日の終わりを告げる音だった。
◇
夜。
空には満天の星が広がっていた。嵐の前の夜とは違い、今日はひとつの雲もない。月が白く輝き、花畑を照らしている。
私は小屋の前で、ひとり風に当たっていた。
そのとき、背後から扉の軋む音がして、ライナルトが現れた。
「眠れないのか」
「はい。花が気になって」
「心配はいらない。もう嵐は来ない」
「……あなたがそう言うと、本当に安心します」
彼が隣に座る。二人の間を夜風が通り抜け、草がかすかに揺れる。
「昔、戦が終わったあと、何も残らなかったと思っていた」
「……」
「だが今は違う。ここに残したいものがある」
「花、ですか?」
「それも。……それから、お前だ」
心臓が跳ねた。風が止まり、世界が静まる。
「……ライナルト」
「お前が笑ってくれるなら、それだけで十分だ」
その声は、風よりも穏やかで、焚き火の灯よりも温かかった。私は彼の方を向き、微笑む。
「私も……あなたの隣で笑っていたい」
「なら、ここにいろ」
彼が小さくうなずく。
その目に映るのは、夜空でも月でもなく、ただ私だけだった。
長い沈黙が流れたあと、私は小さく囁いた。
「……この村を、花でいっぱいにしましょう」
「ああ。お前と一緒に」
夜風がふわりと吹く。花畑が月光を浴びて輝く。まるで星が地上に降りたみたいに、どこまでも美しい光景だった。
ライナルトが私の手を取る。大きくて、少し硬い手。その温もりが確かに伝わる。
「この手を離すな」
「離しません」
その約束の言葉が、夜の空へ溶けていった。
月が静かに見守る中、二人の影が重なり、風がそっと花びらを運んでいく。
嵐も、痛みも、すべてを越えて――。
この夜、確かに“愛”という花が咲いた。
◇
翌朝、村の空は清らかに晴れ渡っていた。昨夜の星空の名残がまだ空に残っていて、空気のひとつひとつが透き通るように澄んでいる。風は柔らかく、畑を撫でて花の香りを運んだ。リリアの花々は夜露を宿し、朝日を受けて一斉に光を返す。
私はその中を歩いていた。
足元の土はしっとりと温かく、生命の鼓動のように力強かった。小屋の前で息を吸うと、胸の奥まで清らかな香りが満ちていく。
「セリーナ」
呼ばれて振り向く。ライナルトが畑の端に立っていた。袖をまくり、鍬を肩にかけている。朝の光を受けて灰色の瞳が静かに輝いていた。
「もう起きてたんですか?」
「眠れなかった。風が気持ちよくてな」
「ふふっ、あなたらしいです」
彼は少しだけ微笑んだ。
無口な人の笑顔は、言葉よりもあたたかい。
「今日から新しい畝を作る」
「わたしも手伝います」
「だがその前に……これを」
彼が差し出したのは、木彫りの小さな飾りだった。リリアの花を模したもので、白く塗られた花弁の中心に、小さな青い石が埋め込まれている。
「これ、あなたが?」
「夜のうちに作った。雨で折れた花を見ていたら、形を残しておきたくなった」
「……すごくきれいです」
指先で触れると、木の感触が手に馴染む。
「この石、どこから?」
「東の谷の川底で拾った。昔から“祈りの石”と呼ばれている」
「祈り……」
「願いを込めて渡すものらしい」
ライナルトは静かに言って、私の首もとにそれをかけた。
青い石が陽の光を受けて、かすかに光る。
「似合う」
「……ありがとう」
胸の奥がいっぱいになった。言葉にできないほど、心が温かくなる。
私はそっと石を握りしめた。
「願いごと、してもいいですか?」
「ああ」
「じゃあ――この村が、いつまでも平和でありますように」
風が花の海を揺らす。ライナルトがその音に耳を傾け、目を細めた。
「叶うだろう。お前がいる限り」
「そんな……」
「本当のことだ」
彼の声が、穏やかに風へと溶けていった。
◇
昼。
村の子どもたちが畑に集まり、花の間を駆け回っていた。笑い声が絶えない。マルタがパンを焼く香りが漂い、遠くから歌声が聞こえてくる。
ライナルトは畑の端で杭を打ち、私は花の手入れをしていた。汗ばむほど暖かい日で、空には白い雲がゆっくりと流れている。
「ねえ、ライナルト」
「ん」
「この村に来て、どのくらい経ちましたっけ」
「半年ほどだ」
「半年……そんなに経ったんですね」
私は花の間にしゃがみ込み、咲いたばかりのリリアを撫でた。
「時間が過ぎるのって、こんなに早いんですね」
「穏やかな時間は短く感じる」
「でも、ずっとこうしていたい」
「同じだ」
短い言葉。それだけで胸が満たされる。
ふと、子どもたちの笑い声が響いた。
「セリーナお姉ちゃん! 見て見て!」
小さな男の子が両手に花びらをいっぱい抱えて走ってくる。
「花の雪!」
彼がそれを空に放ると、白い花びらが舞い上がり、太陽の光を受けてきらめいた。
「わあ……!」
村人たちの歓声が上がる。まるで春の雪が降ったように、空気が光に包まれた。
私はその光景を見上げながら、小さく囁いた。
「この瞬間を、忘れたくない」
ライナルトが隣に立ち、同じ空を見上げていた。
「花の雪、か……悪くない名だ」
「ふふっ、あなたが詩的なことを言うなんて珍しいです」
「お前の影響だ」
彼の言葉に、思わず頬が緩んだ。
◇
日が暮れ始めたころ、風が少し冷たくなった。
作業を終えた村人たちが家へ帰り、畑には私とライナルトだけが残った。
「今日も一日、お疲れさまでした」
「お前もな」
「明日は……どうします?」
「南の畝を整える。花の根が広がりすぎた」
「わかりました。朝から手伝います」
そう言って笑うと、彼が一瞬だけ迷うように視線を逸らした。
「……無理をするな。お前が倒れたら困る」
「そんなこと言って、あなたが倒れたらどうします?」
「俺は倒れない」
「強がりですね」
「本当だ」
その真っ直ぐな声が可笑しくて、思わず笑ってしまう。
花畑の向こうで、沈みかけた太陽が空を赤く染めている。風が穏やかに吹き、花の海が波のように揺れた。
「……ライナルト」
「ん」
「わたし、もう何も怖くありません」
「そうか」
「あなたと、この村と、この花たちがあれば、それでいいんです」
ライナルトは何も言わなかった。
ただ、静かに私の肩に手を置いた。
「……それでいい」
その声は、夕暮れよりも優しかった。
遠くで鐘が鳴る。
村の一日が、ゆっくりと終わりを告げていた。
◇
夜。
花畑の中央に立つと、風が星の匂いを運んできた。空は澄み切っていて、月が花々の上を照らしている。
私は胸元の小さな青い石を握りしめた。祈りの石――ライナルトがくれたもの。指先で触れると、ほんのりと温かい。
「……願い、もうひとつだけ」
そっと目を閉じて、心の中で呟いた。
――どうか、この幸せが長く続きますように。
風が頬を撫で、髪を揺らす。
その風の向こうから、静かな足音が聞こえた。
「また祈っているのか」
「ええ。あなたの分も、祈りました」
「何を」
「あなたが、これからも笑えますように」
ライナルトが少しだけ笑った。
「なら、叶うだろう。お前の願いは強い」
星の光が二人の間に降り注ぐ。花の海がゆるやかに揺れ、夜の空気が静かに満ちていく。
「ライナルト」
「ん」
「これが、わたしの新しい“ざまぁ”です」
「……風に流すためのか」
「はい。もう悲しみじゃなくて、幸せを風に流したいんです」
彼は何も言わず、ただ目を閉じて頷いた。
そして、小さく囁いた。
「お前らしいな」
風が、優しく吹いた。
花が一斉に揺れ、夜空に無数の花びらが舞い上がる。
それはまるで、二人を祝福する光の雨のようだった。
△
翌日。朝の光がまぶしく、風が新しい季節の匂いを運んでいた。花畑の端では、子どもたちが笑いながら花冠を編み、大人たちは次の苗を植える準備をしている。昨日までよりも空が高く見えた。
私は腰をかがめ、花の間に生えた小さな草を抜いた。指先が土の感触を覚えていて、何も考えなくても自然に手が動く。ふと、背中に誰かの影が落ちた。
「熱心だな」
「ライナルト」
「朝から働きすぎだ」
「花が元気だと、わたしも元気になるんです」
顔を上げると、彼が淡い笑みを浮かべていた。灰色の瞳の奥に、どこか優しい光が宿っている。
「そういえば……村の人たちが言ってました。花祭りを開くんですって?」
「ああ。村長が言い出した。嵐を越えた花を祝う祭りだ」
「素敵ですね」
「お前が来てから、皆がよく笑うようになった」
「そうですか?」
「それがどれだけ貴重なことか、昔の俺なら考えもしなかった」
風が吹き、二人の間を花の香りが通り抜けた。
「ねえ、ライナルト。あなたは……戦の頃のこと、今でも思い出しますか?」
「たまに、夢に見る」
「怖い夢ですか?」
「そうだな。だが、お前の声がすると消える」
その言葉に、胸が熱くなる。
「……そんなこと、あるんですね」
「ある。人は、優しさで過去を塗り替えられる」
静かな時間が流れた。花が揺れ、風の音が柔らかく響く。私は胸の前で手を組んで、小さく微笑んだ。
「花祭り、楽しみですね」
「お前が主役だ」
「えっ、なんで私が!?」
「村の連中がそう決めた。追放された令嬢が、この村を咲かせた“花の守り人”だとな」
「そんな大げさな……」
「誇っていいことだ」
ライナルトの声が穏やかで、どこまでも真っ直ぐだった。
◇
花祭りの準備は、日が落ちても続いた。村人たちは広場に灯を並べ、花で飾りつけをしている。畑の方からは歌声が聞こえ、家々の窓からは笑い声と料理の匂いが溢れていた。
私は小屋の前で花飾りを作っていた。白いリリアを中心に、ピンクと青の花を織り交ぜる。指先で茎を編みながら、無意識に唇がほころぶ。
そこへライナルトが現れた。
「まだ起きていたのか」
「はい。冠を作ってるんです。明日、子どもたちに配りたくて」
「器用だな」
「ええ、これくらいしか取り柄がありませんから」
「それは違う」
彼が短く言った。声にほんの少し力がこもっていて、思わず手を止めた。
「お前の手は、人の心を咲かせる手だ」
「……そんな、綺麗なこと言って」
「本当のことだ」
沈黙。
暖炉の火の音がぱちぱちと響き、外の風が花を揺らす音が混じった。
私は笑いながら顔を伏せた。
「もう……ずるいです、そういうところ」
「何がだ」
「そうやって、何気ない言葉で心を掴むところ」
「掴んでいるつもりはない」
「でも掴まれてるんです」
その言葉に、ライナルトがわずかに目を瞬かせた。
「……それは、悪くない」
「え?」
「お前に掴まれているなら、悪くない」
胸がどくんと鳴った。言葉を失い、彼の顔を見つめる。
その灰色の瞳が、炎に照らされて淡く揺れていた。
「セリーナ」
「はい……」
「明日、花祭りが終わったら、少し話がある」
「話?」
「ああ。大事なことだ」
その声音があまりに真剣で、息を呑んだ。
「わかりました」
「今夜は休め」
彼がそう言って小屋を出る。
閉じられた扉の向こうで、風がふっと吹いた。
胸が高鳴り、眠れそうにない夜だった。
◇
翌朝。
村中が色とりどりの花で飾られていた。リリアの花を模した旗が揺れ、家々の前には花籠が並んでいる。村の広場には長い木のテーブルが置かれ、果実やパン、香草スープの香りが漂っていた。
子どもたちは花冠を被り、若者たちは楽器を鳴らして踊っている。太鼓の音に合わせて手拍子が起こり、村全体がひとつの笑顔で満ちていた。
「セリーナさん!」
マルタが駆け寄ってくる。
「主役なんだから、真ん中に立って!」
「ちょっと、恥ずかしいですよ!」
「いいのいいの! みんな、あんたに感謝してるんだよ!」
マルタに背中を押され、私は中央へと出る。
視線を感じて頬が熱くなる。
その中で、ライナルトが人混みの向こうに立っていた。いつもの鎧姿ではなく、深緑の衣を身にまとっている。
彼が静かに歩み寄ってきた。
「……花の祭りに、花が歩いてくるとはな」
「また、そうやって……」
「本心だ」
笑い合う二人を見て、村人たちの拍手が起こる。
「セリーナ! 挨拶を!」
誰かの声に押され、私は深呼吸をした。
「みなさん……ありがとうございます。この村に来て、たくさんの優しさをもらいました。花は、風と光があって初めて咲くように、私も皆さんに支えられてここに立っています。どうか、これからも――この村に、花と笑顔が咲き続けますように」
拍手が湧き、風が花びらを舞い上げた。
まるで世界そのものが祝福してくれているようだった。
その時、ライナルトが一歩前へ出た。
「……俺からも話がある」
広場が静まり返る。彼はまっすぐに私を見つめた。
胸の奥で何かが跳ねた。
「セリーナ」
「……はい」
「俺は、お前と生きたい」
言葉が、空気を震わせた。
息が詰まる。風が止まり、花びらが宙に浮かんだまま時間が止まったように感じる。
ライナルトの声は、まっすぐに私の心を貫いた。
「お前が来てから、この村は変わった。俺も変わった。……もう一人では生きられない。共にいてほしい」
涙がこぼれた。
花の香りが胸いっぱいに広がり、世界がやさしい光に包まれた。
「……はい。喜んで」
ライナルトが微かに笑った。
風が吹き、花が一斉に舞う。白と金の光がふたりを包み、村の人々が歓声を上げた。
その瞬間、私は心から思った。
――ざまぁなんて、もういらない。
風と花と、愛だけがあればいい。
彼が私の手を取る。大きくて、温かい手。
「これが、俺たちの始まりだ」
「はい……」
風が流れ、花が舞う。
村の空は晴れ渡り、幸福という名の光が降り注いだ。
嵐の夜を越えた花たちは、今、誰よりも美しく咲いていた。
朝の光が、ゆっくりと山の端から差し込んできた。薄い霧が畑の上に漂い、白いリリアの花々が光を受けて柔らかく輝く。夜露のしずくが太陽に照らされ、無数の小さな虹を作っていた。
私はその光景の中で、そっと息を吸い込む。雨のあとに漂う土と草の匂い、湿った空気の奥に混ざる甘い香り――それらすべてが、昨日までの苦労を報いてくれるようだった。
「……きれい」
その声に応えるように、後ろから足音が近づく。
「早いな」
振り返ると、ライナルトが立っていた。朝日を背にして、彼の髪が金色に縁取られている。外套の裾が風に揺れ、灰色の瞳が穏やかに光っていた。
「昨日眠れなかったんです。嬉しくて」
「嵐を越えた後は、誰でも少し浮かれるものだ」
「あなたもですか?」
「俺は……少しだけな」
彼が珍しく口の端を上げた。笑うことに慣れていない人の、ぎこちない微笑み。でもそれが、たまらなくあたたかかった。
「ライナルト」
「ん」
「あなた、昨日言いましたよね。私がこの村の光だって」
「ああ」
「それなら、あなたはこの村の風ですよ。優しくて、みんなを包んで、どこかへ導いてくれる」
言ったあとで、少し恥ずかしくなった。けれど、ライナルトは目を細めて空を見上げた。
「光と風か……悪くない」
風が吹き、花の海が波のように揺れる。朝日を受けた花弁が一斉に煌めき、そのたびに小さなきらめきが空気の中を舞う。
「花が、笑ってるみたい」
「花は笑う。生きているからな」
彼の言葉に、胸がふわりと浮くような感覚がした。私はそのまま花の間を歩き出した。裸足で踏む土の感触が心地よくて、足の裏に伝わる温もりが生きている実感を与えてくれた。
◇
村の中央の小道を、朝の光がゆっくりと満たしていく。マルタが籠を抱えて畑へ向かってくるのが見えた。
「セリーナちゃん! 花、見た? ほら、まるで宝石みたいよ!」
「見ました! 本当にきれいですね!」
「嵐のあとに、こんなに咲くなんてねぇ……。やっぱり、あんたと隊長の花だ」
マルタは嬉しそうに笑い、背中を叩いてくれた。
「村の若い衆が言ってたよ。この花畑をもっと広げて、村の入り口まで続けたいって」
「村の入り口まで?」
「そう。旅人がここを通ったときに、“この村は優しい香りがする”って言われるようにしたいんだって」
その言葉を聞いて、胸の奥が熱くなった。
「……いいですね、それ」
「いいだろう? だから今日も忙しくなるよ。お昼までに種を分けなきゃね」
「手伝います!」
「ふふっ、頼もしい!」
笑い合う声が、風に乗って広がっていった。
◇
昼を過ぎたころ、村の子どもたちが花畑の周りで遊んでいた。花の冠を作り、走り回り、笑い声をあげる。その様子を眺めていると、時間が止まったように穏やかだった。
「セリーナさん、こっち来て!」
「見て見て! これ、あなたのリリア!」
少女が差し出した花を受け取る。指先に触れた花弁は、まるで絹のように柔らかく、ほんのりと香っていた。
「ありがとう。大切にしますね」
「うん! また作ってあげる!」
子どもたちが笑いながら走り去る。私はその背中を見送り、花を胸に当てた。
「……こうしてると、まるで夢みたい」
あの王都での日々が、もう遠い昔のことのように感じた。冷たい石の城、嘘の笑顔、氷のような視線――それらすべてが、今の温かな光景に溶けて消えていく。
「セリーナ」
背後から呼ばれ、振り返る。ライナルトが立っていた。陽射しを浴びて、その瞳がまぶしいほどに輝いている。
「花を届けに行くぞ。東の村までだ」
「はい!」
二人で馬車に荷を積む。花の香りが風に乗り、村の外れへと続く道を包み込む。
◇
道中、馬の足音が一定のリズムを刻む。鳥が飛び立ち、遠くで川の流れる音が聞こえた。私は花を抱えながら、横目でライナルトを見た。
「……昔は、こんな穏やかな日が来るなんて思ってもいませんでした」
「人は変われる。花のようにな」
「あなたも、変わりましたか?」
「お前と出会ってからはな」
短い答えなのに、胸の奥が熱くなる。私は視線を逸らし、手の中の花を見つめた。
「あなたは本当に、不器用ですね」
「そうか?」
「ええ。でも、そこが好きです」
一瞬、馬車の車輪の音が止まったように感じた。風が吹き抜け、木々の葉がさざめく。ライナルトが前を向いたまま、低く呟いた。
「……俺もだ」
「え?」
「お前のことが、好きだ」
時間が止まった。
風の音が遠ざかり、鳥の声さえ聞こえなくなる。心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
ライナルトは振り向かない。ただまっすぐ前を見たまま、手綱を握っている。
「お前が笑うたびに、胸があたたかくなる。花が咲くたびに、お前を思う。……それがどうしようもなく、嬉しい」
涙がこぼれそうになるのをこらえて、私は唇を噛んだ。
「そんなふうに言われたら……泣いちゃいます」
「泣かなくていい。風に流せ」
「……やっぱり、あなたらしいですね」
笑いながら、涙が頬を伝った。
空を見上げると、雨雲の残滓がすっかり消えていた。青が果てしなく広がり、太陽が柔らかく輝いている。
私は小さく呟いた。
「ありがとう、ライナルト」
「これからも一緒に咲こう」
彼の言葉に頷いた瞬間、風が花びらを舞い上げた。白い光が空に散って、まるで祝福のように降り注ぐ。
嵐を越えた花畑には、確かな春が訪れていた。
◇
午後になっても風は穏やかで、村全体が春の匂いに包まれていた。青い空の下で、白と黄色の花々がやわらかく揺れる。畑を囲むように子どもたちが笑い、村人たちが次の畝を整える。スコップの音と、笑い声と、遠くの川のせせらぎ――そのすべてがひとつの音楽のように響いていた。
私は花の種を袋から取り出し、掌でそっと転がした。光に透けたそれは小さくて、今にも風に乗って飛んでいきそうだった。
「この種から、また新しい花が咲くんですね」
「そうだ」
隣に立つライナルトが答える。
「小さなものでも、根を張れば大きな景色になる」
「……まるで、人の心みたい」
「お前らしい考えだな」
私は笑って、しゃがみこんだ。指で小さな穴を掘り、そっと種を落とす。土をかけ、掌で押さえる。風が吹き、土の匂いが立ち上る。
「ライナルト」
「ん」
「この村に来たばかりの頃、私、何も持っていなかったんです。家も名前も、居場所も。でも、あなたが拾ってくれたから、今こうして笑えています」
「……拾ったわけじゃない。お前が自分で立った」
「でも、その最初の一歩をくれたのは、あなたです」
彼は何も言わず、ただ静かに私を見つめていた。
その視線の奥に、たくさんの思いが詰まっている気がして、胸がじんと温かくなる。
「もしも、昔の私に言えるなら伝えたいです。“あなたは間違っていない”って」
「今なら言えるだろう」
「ええ。今の私は、胸を張って言えます」
風がふわりと吹き、髪が舞う。花畑の上を、陽射しの粒が滑るように流れていく。
◇
夕方。村の丘の上からは、花畑全体が見渡せた。村人たちは作業を終え、家路につき始めている。私はライナルトと並んで、静かな光景を眺めていた。
白い花々の間に差す夕陽が金色にきらめき、風がゆっくりと吹き抜ける。
「……いつか、この花畑を王都の人たちにも見せたいです」
「どうしてだ」
「私を追い出した人たちが、今どんな思いで暮らしているのかは分かりません。でも、この花を見たら、きっと何かを思い出すと思うんです。優しさとか、後悔とか」
「ざまぁを望まないのか」
「ええ。ざまぁなんて、もう風に流しました」
彼が微かに笑った。
「お前らしい答えだ」
「ライナルトも、笑ってますね」
「……そう見えるか」
「はい。あなたの笑顔は、夕陽より温かいです」
彼の頬が、ほんの少しだけ赤く染まった。
その瞬間、風が止み、花畑が静まり返った。
遠くで鐘の音が鳴る。
それが村の一日の終わりを告げる音だった。
◇
夜。
空には満天の星が広がっていた。嵐の前の夜とは違い、今日はひとつの雲もない。月が白く輝き、花畑を照らしている。
私は小屋の前で、ひとり風に当たっていた。
そのとき、背後から扉の軋む音がして、ライナルトが現れた。
「眠れないのか」
「はい。花が気になって」
「心配はいらない。もう嵐は来ない」
「……あなたがそう言うと、本当に安心します」
彼が隣に座る。二人の間を夜風が通り抜け、草がかすかに揺れる。
「昔、戦が終わったあと、何も残らなかったと思っていた」
「……」
「だが今は違う。ここに残したいものがある」
「花、ですか?」
「それも。……それから、お前だ」
心臓が跳ねた。風が止まり、世界が静まる。
「……ライナルト」
「お前が笑ってくれるなら、それだけで十分だ」
その声は、風よりも穏やかで、焚き火の灯よりも温かかった。私は彼の方を向き、微笑む。
「私も……あなたの隣で笑っていたい」
「なら、ここにいろ」
彼が小さくうなずく。
その目に映るのは、夜空でも月でもなく、ただ私だけだった。
長い沈黙が流れたあと、私は小さく囁いた。
「……この村を、花でいっぱいにしましょう」
「ああ。お前と一緒に」
夜風がふわりと吹く。花畑が月光を浴びて輝く。まるで星が地上に降りたみたいに、どこまでも美しい光景だった。
ライナルトが私の手を取る。大きくて、少し硬い手。その温もりが確かに伝わる。
「この手を離すな」
「離しません」
その約束の言葉が、夜の空へ溶けていった。
月が静かに見守る中、二人の影が重なり、風がそっと花びらを運んでいく。
嵐も、痛みも、すべてを越えて――。
この夜、確かに“愛”という花が咲いた。
◇
翌朝、村の空は清らかに晴れ渡っていた。昨夜の星空の名残がまだ空に残っていて、空気のひとつひとつが透き通るように澄んでいる。風は柔らかく、畑を撫でて花の香りを運んだ。リリアの花々は夜露を宿し、朝日を受けて一斉に光を返す。
私はその中を歩いていた。
足元の土はしっとりと温かく、生命の鼓動のように力強かった。小屋の前で息を吸うと、胸の奥まで清らかな香りが満ちていく。
「セリーナ」
呼ばれて振り向く。ライナルトが畑の端に立っていた。袖をまくり、鍬を肩にかけている。朝の光を受けて灰色の瞳が静かに輝いていた。
「もう起きてたんですか?」
「眠れなかった。風が気持ちよくてな」
「ふふっ、あなたらしいです」
彼は少しだけ微笑んだ。
無口な人の笑顔は、言葉よりもあたたかい。
「今日から新しい畝を作る」
「わたしも手伝います」
「だがその前に……これを」
彼が差し出したのは、木彫りの小さな飾りだった。リリアの花を模したもので、白く塗られた花弁の中心に、小さな青い石が埋め込まれている。
「これ、あなたが?」
「夜のうちに作った。雨で折れた花を見ていたら、形を残しておきたくなった」
「……すごくきれいです」
指先で触れると、木の感触が手に馴染む。
「この石、どこから?」
「東の谷の川底で拾った。昔から“祈りの石”と呼ばれている」
「祈り……」
「願いを込めて渡すものらしい」
ライナルトは静かに言って、私の首もとにそれをかけた。
青い石が陽の光を受けて、かすかに光る。
「似合う」
「……ありがとう」
胸の奥がいっぱいになった。言葉にできないほど、心が温かくなる。
私はそっと石を握りしめた。
「願いごと、してもいいですか?」
「ああ」
「じゃあ――この村が、いつまでも平和でありますように」
風が花の海を揺らす。ライナルトがその音に耳を傾け、目を細めた。
「叶うだろう。お前がいる限り」
「そんな……」
「本当のことだ」
彼の声が、穏やかに風へと溶けていった。
◇
昼。
村の子どもたちが畑に集まり、花の間を駆け回っていた。笑い声が絶えない。マルタがパンを焼く香りが漂い、遠くから歌声が聞こえてくる。
ライナルトは畑の端で杭を打ち、私は花の手入れをしていた。汗ばむほど暖かい日で、空には白い雲がゆっくりと流れている。
「ねえ、ライナルト」
「ん」
「この村に来て、どのくらい経ちましたっけ」
「半年ほどだ」
「半年……そんなに経ったんですね」
私は花の間にしゃがみ込み、咲いたばかりのリリアを撫でた。
「時間が過ぎるのって、こんなに早いんですね」
「穏やかな時間は短く感じる」
「でも、ずっとこうしていたい」
「同じだ」
短い言葉。それだけで胸が満たされる。
ふと、子どもたちの笑い声が響いた。
「セリーナお姉ちゃん! 見て見て!」
小さな男の子が両手に花びらをいっぱい抱えて走ってくる。
「花の雪!」
彼がそれを空に放ると、白い花びらが舞い上がり、太陽の光を受けてきらめいた。
「わあ……!」
村人たちの歓声が上がる。まるで春の雪が降ったように、空気が光に包まれた。
私はその光景を見上げながら、小さく囁いた。
「この瞬間を、忘れたくない」
ライナルトが隣に立ち、同じ空を見上げていた。
「花の雪、か……悪くない名だ」
「ふふっ、あなたが詩的なことを言うなんて珍しいです」
「お前の影響だ」
彼の言葉に、思わず頬が緩んだ。
◇
日が暮れ始めたころ、風が少し冷たくなった。
作業を終えた村人たちが家へ帰り、畑には私とライナルトだけが残った。
「今日も一日、お疲れさまでした」
「お前もな」
「明日は……どうします?」
「南の畝を整える。花の根が広がりすぎた」
「わかりました。朝から手伝います」
そう言って笑うと、彼が一瞬だけ迷うように視線を逸らした。
「……無理をするな。お前が倒れたら困る」
「そんなこと言って、あなたが倒れたらどうします?」
「俺は倒れない」
「強がりですね」
「本当だ」
その真っ直ぐな声が可笑しくて、思わず笑ってしまう。
花畑の向こうで、沈みかけた太陽が空を赤く染めている。風が穏やかに吹き、花の海が波のように揺れた。
「……ライナルト」
「ん」
「わたし、もう何も怖くありません」
「そうか」
「あなたと、この村と、この花たちがあれば、それでいいんです」
ライナルトは何も言わなかった。
ただ、静かに私の肩に手を置いた。
「……それでいい」
その声は、夕暮れよりも優しかった。
遠くで鐘が鳴る。
村の一日が、ゆっくりと終わりを告げていた。
◇
夜。
花畑の中央に立つと、風が星の匂いを運んできた。空は澄み切っていて、月が花々の上を照らしている。
私は胸元の小さな青い石を握りしめた。祈りの石――ライナルトがくれたもの。指先で触れると、ほんのりと温かい。
「……願い、もうひとつだけ」
そっと目を閉じて、心の中で呟いた。
――どうか、この幸せが長く続きますように。
風が頬を撫で、髪を揺らす。
その風の向こうから、静かな足音が聞こえた。
「また祈っているのか」
「ええ。あなたの分も、祈りました」
「何を」
「あなたが、これからも笑えますように」
ライナルトが少しだけ笑った。
「なら、叶うだろう。お前の願いは強い」
星の光が二人の間に降り注ぐ。花の海がゆるやかに揺れ、夜の空気が静かに満ちていく。
「ライナルト」
「ん」
「これが、わたしの新しい“ざまぁ”です」
「……風に流すためのか」
「はい。もう悲しみじゃなくて、幸せを風に流したいんです」
彼は何も言わず、ただ目を閉じて頷いた。
そして、小さく囁いた。
「お前らしいな」
風が、優しく吹いた。
花が一斉に揺れ、夜空に無数の花びらが舞い上がる。
それはまるで、二人を祝福する光の雨のようだった。
△
翌日。朝の光がまぶしく、風が新しい季節の匂いを運んでいた。花畑の端では、子どもたちが笑いながら花冠を編み、大人たちは次の苗を植える準備をしている。昨日までよりも空が高く見えた。
私は腰をかがめ、花の間に生えた小さな草を抜いた。指先が土の感触を覚えていて、何も考えなくても自然に手が動く。ふと、背中に誰かの影が落ちた。
「熱心だな」
「ライナルト」
「朝から働きすぎだ」
「花が元気だと、わたしも元気になるんです」
顔を上げると、彼が淡い笑みを浮かべていた。灰色の瞳の奥に、どこか優しい光が宿っている。
「そういえば……村の人たちが言ってました。花祭りを開くんですって?」
「ああ。村長が言い出した。嵐を越えた花を祝う祭りだ」
「素敵ですね」
「お前が来てから、皆がよく笑うようになった」
「そうですか?」
「それがどれだけ貴重なことか、昔の俺なら考えもしなかった」
風が吹き、二人の間を花の香りが通り抜けた。
「ねえ、ライナルト。あなたは……戦の頃のこと、今でも思い出しますか?」
「たまに、夢に見る」
「怖い夢ですか?」
「そうだな。だが、お前の声がすると消える」
その言葉に、胸が熱くなる。
「……そんなこと、あるんですね」
「ある。人は、優しさで過去を塗り替えられる」
静かな時間が流れた。花が揺れ、風の音が柔らかく響く。私は胸の前で手を組んで、小さく微笑んだ。
「花祭り、楽しみですね」
「お前が主役だ」
「えっ、なんで私が!?」
「村の連中がそう決めた。追放された令嬢が、この村を咲かせた“花の守り人”だとな」
「そんな大げさな……」
「誇っていいことだ」
ライナルトの声が穏やかで、どこまでも真っ直ぐだった。
◇
花祭りの準備は、日が落ちても続いた。村人たちは広場に灯を並べ、花で飾りつけをしている。畑の方からは歌声が聞こえ、家々の窓からは笑い声と料理の匂いが溢れていた。
私は小屋の前で花飾りを作っていた。白いリリアを中心に、ピンクと青の花を織り交ぜる。指先で茎を編みながら、無意識に唇がほころぶ。
そこへライナルトが現れた。
「まだ起きていたのか」
「はい。冠を作ってるんです。明日、子どもたちに配りたくて」
「器用だな」
「ええ、これくらいしか取り柄がありませんから」
「それは違う」
彼が短く言った。声にほんの少し力がこもっていて、思わず手を止めた。
「お前の手は、人の心を咲かせる手だ」
「……そんな、綺麗なこと言って」
「本当のことだ」
沈黙。
暖炉の火の音がぱちぱちと響き、外の風が花を揺らす音が混じった。
私は笑いながら顔を伏せた。
「もう……ずるいです、そういうところ」
「何がだ」
「そうやって、何気ない言葉で心を掴むところ」
「掴んでいるつもりはない」
「でも掴まれてるんです」
その言葉に、ライナルトがわずかに目を瞬かせた。
「……それは、悪くない」
「え?」
「お前に掴まれているなら、悪くない」
胸がどくんと鳴った。言葉を失い、彼の顔を見つめる。
その灰色の瞳が、炎に照らされて淡く揺れていた。
「セリーナ」
「はい……」
「明日、花祭りが終わったら、少し話がある」
「話?」
「ああ。大事なことだ」
その声音があまりに真剣で、息を呑んだ。
「わかりました」
「今夜は休め」
彼がそう言って小屋を出る。
閉じられた扉の向こうで、風がふっと吹いた。
胸が高鳴り、眠れそうにない夜だった。
◇
翌朝。
村中が色とりどりの花で飾られていた。リリアの花を模した旗が揺れ、家々の前には花籠が並んでいる。村の広場には長い木のテーブルが置かれ、果実やパン、香草スープの香りが漂っていた。
子どもたちは花冠を被り、若者たちは楽器を鳴らして踊っている。太鼓の音に合わせて手拍子が起こり、村全体がひとつの笑顔で満ちていた。
「セリーナさん!」
マルタが駆け寄ってくる。
「主役なんだから、真ん中に立って!」
「ちょっと、恥ずかしいですよ!」
「いいのいいの! みんな、あんたに感謝してるんだよ!」
マルタに背中を押され、私は中央へと出る。
視線を感じて頬が熱くなる。
その中で、ライナルトが人混みの向こうに立っていた。いつもの鎧姿ではなく、深緑の衣を身にまとっている。
彼が静かに歩み寄ってきた。
「……花の祭りに、花が歩いてくるとはな」
「また、そうやって……」
「本心だ」
笑い合う二人を見て、村人たちの拍手が起こる。
「セリーナ! 挨拶を!」
誰かの声に押され、私は深呼吸をした。
「みなさん……ありがとうございます。この村に来て、たくさんの優しさをもらいました。花は、風と光があって初めて咲くように、私も皆さんに支えられてここに立っています。どうか、これからも――この村に、花と笑顔が咲き続けますように」
拍手が湧き、風が花びらを舞い上げた。
まるで世界そのものが祝福してくれているようだった。
その時、ライナルトが一歩前へ出た。
「……俺からも話がある」
広場が静まり返る。彼はまっすぐに私を見つめた。
胸の奥で何かが跳ねた。
「セリーナ」
「……はい」
「俺は、お前と生きたい」
言葉が、空気を震わせた。
息が詰まる。風が止まり、花びらが宙に浮かんだまま時間が止まったように感じる。
ライナルトの声は、まっすぐに私の心を貫いた。
「お前が来てから、この村は変わった。俺も変わった。……もう一人では生きられない。共にいてほしい」
涙がこぼれた。
花の香りが胸いっぱいに広がり、世界がやさしい光に包まれた。
「……はい。喜んで」
ライナルトが微かに笑った。
風が吹き、花が一斉に舞う。白と金の光がふたりを包み、村の人々が歓声を上げた。
その瞬間、私は心から思った。
――ざまぁなんて、もういらない。
風と花と、愛だけがあればいい。
彼が私の手を取る。大きくて、温かい手。
「これが、俺たちの始まりだ」
「はい……」
風が流れ、花が舞う。
村の空は晴れ渡り、幸福という名の光が降り注いだ。
嵐の夜を越えた花たちは、今、誰よりも美しく咲いていた。
3
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