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第3話 初めての畑仕事
〇
夜明けの鐘が谷に響き渡り、屋敷の壁を伝って空気が震えた。クラリッサは眠気を押しのけて起き上がり、窓を開け放つ。冷たい朝風が頬を撫で、昨夜撒いた小さな種の眠る花壇を揺らしていく。まだ芽吹きは見えないけれど、土の色が少し柔らかくなったような気がした。
身支度を整えて台所へ降りると、マルタが大鍋に木杓子を突っ込んでいた。蒸気の中から漂う香りは、根菜と塩だけの素朴な匂い。それでも、腹の底を温める力強さがあった。
「おはようございます、マルタさん」
「おや、もう起きたのかい。昨日の疲れは残ってないか?」
「ええ。……今日は、畑を耕したいと思って」
マルタは眉を上げ、口元に笑みを浮かべた。
「やっぱりそう言うと思ったよ。なら、こいつを持って行きな」
渡されたのは、長く使い込まれた鍬だった。木の柄は滑らかに手に馴染み、幾度も汗を吸った証のように色が濃い。クラリッサは両手で受け取り、その重みを確かめる。王都で握った扇やペンよりもずっと頼りがいのある感触だった。
外に出ると、ライナルトがすでに畑の中央に立っていた。袖をまくり、鍬を振るう姿はまるで戦場にいる兵士のよう。振り下ろされるたび、乾いた土が跳ね、朝の光を浴びて舞い上がった。
「……おはようございます」
声を掛けると、彼は振り向き、灰色の瞳を細める。
「来たか。手は痛むぞ」
「それでも、やります」
クラリッサが鍬を握ると、柄がわずかに震えた。だが、ライナルトが背後からそっと手を添え、正しい角度を示す。
「腰を落として、腕だけでなく体ごと使え」
「……はい」
土を打つ音が重なり、畑に新しいリズムが生まれた。汗が額を伝い、土の匂いが胸いっぱいに広がる。
△
午前の作業で、数本の畝がようやく形になった。トーマが駆け回りながら石を集め、ハンスも渋々ながら鍬を振るっている。
「お嬢様にしちゃ、やるじゃねえか」
「だから、クラリッサでいいと申し上げましたのに」
息を切らしながらも微笑むと、ハンスは顔を赤くして視線を逸らした。
村人たちの間に漂っていた疑念が、少しずつ解けていくのを感じる。土に膝をつき、根をほぐし、石を取り除く。地味で汗まみれの作業が、なぜこんなにも心を軽くするのだろう。王都で無能と罵られた自分が、ここでは確かに役立っているのだ。
昼休み、木陰で水を飲んでいると、ライナルトが隣に腰を下ろした。彼の額にも汗が光り、袖は土で汚れている。その姿を見て、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……驚いた。想像以上にやれる」
「祖母の庭で、よく土をいじっていたんです。あの頃は遊びのつもりでしたけど……今になって役に立つなんて」
「遊びであれ、経験は無駄にならない。お前が手を入れた土は、生き返る」
不器用な言葉に、クラリッサは小さく笑った。こんな風に誰かから認められるのは、いつ以来だろうか。
◇
午後、村の子どもたちが興味津々で畑を覗きに来た。クラリッサは手を止め、布切れで小さな旗を作って見せる。
「これはね、風の向きを教えてくれる旗なの。君たちにも手伝ってほしいの」
子どもたちが歓声を上げ、畑の端に旗を立てて走り回る。布がはためき、風の道が一目でわかるようになった。
「すごい……!」
「クラリッサ様、ぼくらも役に立った?」
「ええ、とても。あなたたちがいてくれて助かりました」
笑顔が畑に咲き、空気が明るくなる。村人たちもその様子を見て、肩の力を抜いて笑った。
夕方、作業を終えた畑に並ぶ畝を眺める。まだ荒削りではあるが、確かに「畑」と呼べる姿になりつつあった。胸の奥に広がる充実感は、かつて豪華な舞踏会で感じたどんな虚飾よりも確かなものだ。
ライナルトが隣に立ち、低く呟いた。
「これで、春には芽が出る。……お前が撒いた種も」
その声に、クラリッサは深く頷いた。追放の烙印は、土の上で少しずつ剥がれ落ちていく。ここでなら、本当の自分を生きられるかもしれない――そう思えた夕暮れだった。
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夜明けの鐘が谷に響き渡り、屋敷の壁を伝って空気が震えた。クラリッサは眠気を押しのけて起き上がり、窓を開け放つ。冷たい朝風が頬を撫で、昨夜撒いた小さな種の眠る花壇を揺らしていく。まだ芽吹きは見えないけれど、土の色が少し柔らかくなったような気がした。
身支度を整えて台所へ降りると、マルタが大鍋に木杓子を突っ込んでいた。蒸気の中から漂う香りは、根菜と塩だけの素朴な匂い。それでも、腹の底を温める力強さがあった。
「おはようございます、マルタさん」
「おや、もう起きたのかい。昨日の疲れは残ってないか?」
「ええ。……今日は、畑を耕したいと思って」
マルタは眉を上げ、口元に笑みを浮かべた。
「やっぱりそう言うと思ったよ。なら、こいつを持って行きな」
渡されたのは、長く使い込まれた鍬だった。木の柄は滑らかに手に馴染み、幾度も汗を吸った証のように色が濃い。クラリッサは両手で受け取り、その重みを確かめる。王都で握った扇やペンよりもずっと頼りがいのある感触だった。
外に出ると、ライナルトがすでに畑の中央に立っていた。袖をまくり、鍬を振るう姿はまるで戦場にいる兵士のよう。振り下ろされるたび、乾いた土が跳ね、朝の光を浴びて舞い上がった。
「……おはようございます」
声を掛けると、彼は振り向き、灰色の瞳を細める。
「来たか。手は痛むぞ」
「それでも、やります」
クラリッサが鍬を握ると、柄がわずかに震えた。だが、ライナルトが背後からそっと手を添え、正しい角度を示す。
「腰を落として、腕だけでなく体ごと使え」
「……はい」
土を打つ音が重なり、畑に新しいリズムが生まれた。汗が額を伝い、土の匂いが胸いっぱいに広がる。
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午前の作業で、数本の畝がようやく形になった。トーマが駆け回りながら石を集め、ハンスも渋々ながら鍬を振るっている。
「お嬢様にしちゃ、やるじゃねえか」
「だから、クラリッサでいいと申し上げましたのに」
息を切らしながらも微笑むと、ハンスは顔を赤くして視線を逸らした。
村人たちの間に漂っていた疑念が、少しずつ解けていくのを感じる。土に膝をつき、根をほぐし、石を取り除く。地味で汗まみれの作業が、なぜこんなにも心を軽くするのだろう。王都で無能と罵られた自分が、ここでは確かに役立っているのだ。
昼休み、木陰で水を飲んでいると、ライナルトが隣に腰を下ろした。彼の額にも汗が光り、袖は土で汚れている。その姿を見て、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……驚いた。想像以上にやれる」
「祖母の庭で、よく土をいじっていたんです。あの頃は遊びのつもりでしたけど……今になって役に立つなんて」
「遊びであれ、経験は無駄にならない。お前が手を入れた土は、生き返る」
不器用な言葉に、クラリッサは小さく笑った。こんな風に誰かから認められるのは、いつ以来だろうか。
◇
午後、村の子どもたちが興味津々で畑を覗きに来た。クラリッサは手を止め、布切れで小さな旗を作って見せる。
「これはね、風の向きを教えてくれる旗なの。君たちにも手伝ってほしいの」
子どもたちが歓声を上げ、畑の端に旗を立てて走り回る。布がはためき、風の道が一目でわかるようになった。
「すごい……!」
「クラリッサ様、ぼくらも役に立った?」
「ええ、とても。あなたたちがいてくれて助かりました」
笑顔が畑に咲き、空気が明るくなる。村人たちもその様子を見て、肩の力を抜いて笑った。
夕方、作業を終えた畑に並ぶ畝を眺める。まだ荒削りではあるが、確かに「畑」と呼べる姿になりつつあった。胸の奥に広がる充実感は、かつて豪華な舞踏会で感じたどんな虚飾よりも確かなものだ。
ライナルトが隣に立ち、低く呟いた。
「これで、春には芽が出る。……お前が撒いた種も」
その声に、クラリッサは深く頷いた。追放の烙印は、土の上で少しずつ剥がれ落ちていく。ここでなら、本当の自分を生きられるかもしれない――そう思えた夕暮れだった。
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