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第5話 朝市デビュー
〇
夜明けの霧が谷を離れ、村の屋根がゆっくりと赤く染まっていく。クラリッサは台所でマルタと並び、収穫したばかりの野菜を籠に詰めていた。大根やにんじん、まだ小さいけれど艶やかなトマト。昨日まで土の中にあった命を、今度は人の手に渡すのだと思うと胸が弾んだ。
「ふふ……市で売れるでしょうか」
「売れるさ。お前さんの畑で採れたと知れりゃ、村の連中は皆興味津々さね」
マルタの手は慣れたもので、野菜を見栄えよく並べていく。その横顔を見ながら、クラリッサは袖で額の汗を拭った。昨日の夕暮れまで続いた畑仕事で体はまだ重い。だが、その疲れさえ心地よい。
扉の外から馬の嘶きが聞こえ、ライナルトが現れた。いつものように無骨な姿で、肩には薪を抱えている。
「朝市へ行くのか」
「はい。……緊張します」
「心配するな。市は賑やかだ。村人は声が大きいだけだ」
短く言い切る彼の声に勇気をもらい、クラリッサは籠を両手で抱えた。外に出ると、空はすでに明るく、村の広場へ向かう人々の列が伸びている。トーマが駆け寄り、勢いよく手を振った。
「クラリッサ! ぼく、案内する!」
「ありがとう、心強いわ」
その笑顔に背を押されるようにして、クラリッサは初めての朝市へ足を踏み入れた。
△
村の広場は活気に包まれていた。木の屋台が並び、色とりどりの野菜や果物、干し肉や蜂蜜の瓶が所狭しと積まれている。人々の声が飛び交い、匂いが混ざり合って胸をくすぐる。
クラリッサはマルタに教えられた場所に布を敷き、籠を並べた。最初は誰も近寄らず、遠巻きに彼女を眺めるだけだった。王都から追放された令嬢――そんな噂がまだ人々の心に影を落としているのだ。
「……誰も買ってくれないのかしら」
不安が胸をよぎった瞬間、小さな影が駆けてきた。昨日出会った子どもたちだ。
「クラリッサ様の畑のトマトだ!」
「ぼくたちが旗を立てた畑だよ!」
子どもたちの声に周囲がざわめく。興味を持った村人が一人、また一人と近づいてきた。
「へえ……確かに瑞々しい。お嬢様が作ったってのは本当かい?」
「ええ。私の手と、村のみんなの力で育ちました」
クラリッサの言葉に、農夫の顔がほころびる。やがて最初の一袋が売れ、その後は次々と手が伸びた。大根を抱えて笑う老婆、トマトを頬張る子ども、蜂蜜と交換したいと持ちかける商人――。市は賑わい、クラリッサの籠はみるみる空になっていった。
その様子を少し離れた場所でライナルトが見ていた。灰色の瞳が僅かに和らぎ、口元がほんの一瞬だけ緩む。
◇
昼過ぎ、すべての野菜を売り切ったクラリッサは、木陰のベンチに腰を下ろした。額の汗を拭いながら、胸の奥に温かな達成感が広がる。周囲の人々が「奥方様」と声をかけてくるのも、今では素直に受け入れられた。
「思った以上に売れましたね」
隣に座ったライナルトが頷く。
「村人たちも、お前をただの貴族娘だとは思わなくなっただろう」
「……それなら嬉しいです」
クラリッサは視線を空へ向けた。青く澄んだ空に、白い雲がゆっくりと流れている。王都で過ごしたどの豪奢な一日よりも、今日の方が心に残る。
ライナルトが少し間を置き、低く呟いた。
「誇れ。お前は、自分の力でここに立った」
その言葉は、胸の奥深くに沈んでいた痛みを溶かし、代わりに確かな自信を芽吹かせた。クラリッサは小さく頷き、そっと微笑む。
遠くで鐘が鳴り、市が終わりを告げる。村人たちの笑い声と共に、今日の思い出は温かな記憶となって心に刻まれていった。
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夜明けの霧が谷を離れ、村の屋根がゆっくりと赤く染まっていく。クラリッサは台所でマルタと並び、収穫したばかりの野菜を籠に詰めていた。大根やにんじん、まだ小さいけれど艶やかなトマト。昨日まで土の中にあった命を、今度は人の手に渡すのだと思うと胸が弾んだ。
「ふふ……市で売れるでしょうか」
「売れるさ。お前さんの畑で採れたと知れりゃ、村の連中は皆興味津々さね」
マルタの手は慣れたもので、野菜を見栄えよく並べていく。その横顔を見ながら、クラリッサは袖で額の汗を拭った。昨日の夕暮れまで続いた畑仕事で体はまだ重い。だが、その疲れさえ心地よい。
扉の外から馬の嘶きが聞こえ、ライナルトが現れた。いつものように無骨な姿で、肩には薪を抱えている。
「朝市へ行くのか」
「はい。……緊張します」
「心配するな。市は賑やかだ。村人は声が大きいだけだ」
短く言い切る彼の声に勇気をもらい、クラリッサは籠を両手で抱えた。外に出ると、空はすでに明るく、村の広場へ向かう人々の列が伸びている。トーマが駆け寄り、勢いよく手を振った。
「クラリッサ! ぼく、案内する!」
「ありがとう、心強いわ」
その笑顔に背を押されるようにして、クラリッサは初めての朝市へ足を踏み入れた。
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村の広場は活気に包まれていた。木の屋台が並び、色とりどりの野菜や果物、干し肉や蜂蜜の瓶が所狭しと積まれている。人々の声が飛び交い、匂いが混ざり合って胸をくすぐる。
クラリッサはマルタに教えられた場所に布を敷き、籠を並べた。最初は誰も近寄らず、遠巻きに彼女を眺めるだけだった。王都から追放された令嬢――そんな噂がまだ人々の心に影を落としているのだ。
「……誰も買ってくれないのかしら」
不安が胸をよぎった瞬間、小さな影が駆けてきた。昨日出会った子どもたちだ。
「クラリッサ様の畑のトマトだ!」
「ぼくたちが旗を立てた畑だよ!」
子どもたちの声に周囲がざわめく。興味を持った村人が一人、また一人と近づいてきた。
「へえ……確かに瑞々しい。お嬢様が作ったってのは本当かい?」
「ええ。私の手と、村のみんなの力で育ちました」
クラリッサの言葉に、農夫の顔がほころびる。やがて最初の一袋が売れ、その後は次々と手が伸びた。大根を抱えて笑う老婆、トマトを頬張る子ども、蜂蜜と交換したいと持ちかける商人――。市は賑わい、クラリッサの籠はみるみる空になっていった。
その様子を少し離れた場所でライナルトが見ていた。灰色の瞳が僅かに和らぎ、口元がほんの一瞬だけ緩む。
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昼過ぎ、すべての野菜を売り切ったクラリッサは、木陰のベンチに腰を下ろした。額の汗を拭いながら、胸の奥に温かな達成感が広がる。周囲の人々が「奥方様」と声をかけてくるのも、今では素直に受け入れられた。
「思った以上に売れましたね」
隣に座ったライナルトが頷く。
「村人たちも、お前をただの貴族娘だとは思わなくなっただろう」
「……それなら嬉しいです」
クラリッサは視線を空へ向けた。青く澄んだ空に、白い雲がゆっくりと流れている。王都で過ごしたどの豪奢な一日よりも、今日の方が心に残る。
ライナルトが少し間を置き、低く呟いた。
「誇れ。お前は、自分の力でここに立った」
その言葉は、胸の奥深くに沈んでいた痛みを溶かし、代わりに確かな自信を芽吹かせた。クラリッサは小さく頷き、そっと微笑む。
遠くで鐘が鳴り、市が終わりを告げる。村人たちの笑い声と共に、今日の思い出は温かな記憶となって心に刻まれていった。
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