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第9話 病気の村人
〇
祭りの熱気が冷め、谷に静けさが戻ったある朝。クラリッサは畑で芽吹いたばかりの若葉を眺めていた。露を含んだ葉先が陽光にきらめき、小さな宝石のように輝いている。昨日までの疲れも、この光景を見るだけで癒される気がした。
そこへ駆け込んできたのは、トーマだった。顔は青ざめ、息を切らしながら叫ぶ。
「クラリッサ! 村のヨハンおじさんが……! 熱を出して、動けないんだ!」
驚いて振り返ると、すでにリーネや他の村人も慌てて集まっていた。ヨハンは村で最も働き者の一人。畑仕事を休んだことなど一度もない男だ。その彼が倒れたと聞けば、皆が不安になるのも当然だった。
「医者を呼んでは?」
クラリッサの問いに、リーネが首を振った。
「王都から派遣される医者なんて、ここには滅多に来ないの。薬も高くて、とても払えない……」
胸が締め付けられる。王都なら薬師がすぐ駆けつけるだろうに、辺境では人ひとりの命さえ危うい。クラリッサは迷わず言った。
「私に診させてください。祖母から薬草の知識を学びました。できる限りのことをします」
人々の視線が一斉に集まり、疑念と期待が入り混じる。けれど、彼女は怯まず頷いた。ここで役に立たなければ、この土地で生きる意味を失ってしまう――そう感じたからだ。
△
ヨハンの家は村の外れにあり、木の壁は煤で黒ずんでいた。中に入ると、寝台に横たわる男の荒い息が耳に届く。顔は赤く火照り、額には汗が滲んでいる。クラリッサは脈を測り、瞳の色を確かめた。熱は高いが、呼吸は乱れていない。肺を病んだわけではなさそうだ。
「これは……悪寒と高熱。おそらくは体内に溜まった湿気が原因でしょう」
周囲の村人たちは不安げに顔を見合わせた。クラリッサは籠から薬草を取り出し、手際よく刻み始める。タイムとミントを煮出して清涼な香りを立たせ、熱を冷ますために額へ湿布を作る。さらに体を温めるためのスープを用意し、弱った胃を労る。
「マルタさん、鍋をお願いします。リーネ、井戸から清水を。ハンス、薪をもう少し」
次々と指示を出すと、人々は戸惑いながらも動き始めた。王都の「無能令嬢」と呼ばれたクラリッサが、今は堂々と指揮を執っている。
薬草の香りが部屋に広がり、やがてヨハンの荒い息が少しずつ落ち着いてきた。クラリッサは彼の手を握り、静かに囁く。
「大丈夫です。あなたはまた畑に立てます」
リーネが涙ぐみながら呟いた。
「……本当に、奥方様がいなかったらどうなっていたか」
◇
夜更け、ヨハンの熱は峠を越え、静かな寝息に変わっていた。村人たちは安堵の声を漏らし、皆でクラリッサを囲んだ。
「奥方様のおかげで助かりました」
「まるで薬師のようだ!」
賞賛の声に、クラリッサは顔を赤らめた。だが、胸の奥には確かな誇りが灯っていた。
屋敷へ戻る道、ライナルトが隣を歩いていた。彼は無言のまま歩き続け、やがて低い声で言った。
「……ありがとう。お前がいてくれて助かった」
「私も、この土地で役に立てて嬉しいです」
「いや。役に立つ以上だ。命を救った。……お前を無能と言った者たちに、見せつけてやりたい」
灰色の瞳が夜の闇に揺れる。クラリッサは立ち止まり、微笑んで答えた。
「そんな必要はありません。私は、あなたと村人たちに認めてもらえれば、それで十分です」
ライナルトの表情がわずかに和らぎ、彼女の肩にそっと手を置いた。冷たい夜風の中、その温もりが心まで温めてくれる。
辺境の空には無数の星が瞬いていた。クラリッサは胸の中で小さく呟いた。
「ここが、私の居場所……」
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祭りの熱気が冷め、谷に静けさが戻ったある朝。クラリッサは畑で芽吹いたばかりの若葉を眺めていた。露を含んだ葉先が陽光にきらめき、小さな宝石のように輝いている。昨日までの疲れも、この光景を見るだけで癒される気がした。
そこへ駆け込んできたのは、トーマだった。顔は青ざめ、息を切らしながら叫ぶ。
「クラリッサ! 村のヨハンおじさんが……! 熱を出して、動けないんだ!」
驚いて振り返ると、すでにリーネや他の村人も慌てて集まっていた。ヨハンは村で最も働き者の一人。畑仕事を休んだことなど一度もない男だ。その彼が倒れたと聞けば、皆が不安になるのも当然だった。
「医者を呼んでは?」
クラリッサの問いに、リーネが首を振った。
「王都から派遣される医者なんて、ここには滅多に来ないの。薬も高くて、とても払えない……」
胸が締め付けられる。王都なら薬師がすぐ駆けつけるだろうに、辺境では人ひとりの命さえ危うい。クラリッサは迷わず言った。
「私に診させてください。祖母から薬草の知識を学びました。できる限りのことをします」
人々の視線が一斉に集まり、疑念と期待が入り混じる。けれど、彼女は怯まず頷いた。ここで役に立たなければ、この土地で生きる意味を失ってしまう――そう感じたからだ。
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ヨハンの家は村の外れにあり、木の壁は煤で黒ずんでいた。中に入ると、寝台に横たわる男の荒い息が耳に届く。顔は赤く火照り、額には汗が滲んでいる。クラリッサは脈を測り、瞳の色を確かめた。熱は高いが、呼吸は乱れていない。肺を病んだわけではなさそうだ。
「これは……悪寒と高熱。おそらくは体内に溜まった湿気が原因でしょう」
周囲の村人たちは不安げに顔を見合わせた。クラリッサは籠から薬草を取り出し、手際よく刻み始める。タイムとミントを煮出して清涼な香りを立たせ、熱を冷ますために額へ湿布を作る。さらに体を温めるためのスープを用意し、弱った胃を労る。
「マルタさん、鍋をお願いします。リーネ、井戸から清水を。ハンス、薪をもう少し」
次々と指示を出すと、人々は戸惑いながらも動き始めた。王都の「無能令嬢」と呼ばれたクラリッサが、今は堂々と指揮を執っている。
薬草の香りが部屋に広がり、やがてヨハンの荒い息が少しずつ落ち着いてきた。クラリッサは彼の手を握り、静かに囁く。
「大丈夫です。あなたはまた畑に立てます」
リーネが涙ぐみながら呟いた。
「……本当に、奥方様がいなかったらどうなっていたか」
◇
夜更け、ヨハンの熱は峠を越え、静かな寝息に変わっていた。村人たちは安堵の声を漏らし、皆でクラリッサを囲んだ。
「奥方様のおかげで助かりました」
「まるで薬師のようだ!」
賞賛の声に、クラリッサは顔を赤らめた。だが、胸の奥には確かな誇りが灯っていた。
屋敷へ戻る道、ライナルトが隣を歩いていた。彼は無言のまま歩き続け、やがて低い声で言った。
「……ありがとう。お前がいてくれて助かった」
「私も、この土地で役に立てて嬉しいです」
「いや。役に立つ以上だ。命を救った。……お前を無能と言った者たちに、見せつけてやりたい」
灰色の瞳が夜の闇に揺れる。クラリッサは立ち止まり、微笑んで答えた。
「そんな必要はありません。私は、あなたと村人たちに認めてもらえれば、それで十分です」
ライナルトの表情がわずかに和らぎ、彼女の肩にそっと手を置いた。冷たい夜風の中、その温もりが心まで温めてくれる。
辺境の空には無数の星が瞬いていた。クラリッサは胸の中で小さく呟いた。
「ここが、私の居場所……」
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