婚約者を妹に寝取られ王都を追放された私絶望の果てで出会った無口な王弟殿下に「俺だけの妻に」と誓われ一途で過保護な寵愛に包まれながら第二の人生

さくら

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第2話 追放の朝



 目を開けたとき、まぶたの裏を焼くような光が差し込んでいた。白い天井がゆっくりと視界に滲み、木で組まれた梁が柔らかく軋む音を立てている。すぐそばで、薪が燃える音。焦げた木の匂いと薬草の香りが入り混じり、かすかに甘い煙が漂っていた。私は、重たい毛布に包まれて横たわっていた。濡れた髪が首筋に張り付き、体の芯まで冷え切っていたことを思い出す。けれど今は、指先まで温かい。まるで誰かが灯をともしてくれたように。

 頭を動かそうとすると、こめかみがずきりと痛んだ。呻き声が漏れた瞬間、部屋の奥で椅子がわずかにきしむ音がした。驚いて視線を向けると、暖炉のそばに男が座っていた。黒い外套のまま、肘を膝に置き、顎に手を添えている。年の頃は二十代半ばほど。長い黒髪がうなじで束ねられ、煤けた光がその髪を濡らしていた。瞳の色は深い灰。火の反射でわずかに銀を帯び、どこか冷たくも静かな印象を与える。

「……目が覚めたか」

 低く、乾いた声だった。言葉の響きがあまりに穏やかで、一瞬返事を忘れてしまう。唇を開こうとしたが、喉がからからに乾いていて、うまく声が出なかった。男はゆっくりと立ち上がり、木の卓の上に置かれていた器を手に取る。湯気の立つ水だった。

「飲めるか」

 彼は言いながら、私の枕元に膝をつく。その仕草に、どこか不器用な優しさがあった。私はうなずくことしかできず、器を受け取ろうとしたが、手が震えてこぼしそうになる。すると、男は無言で手を添え、口元まで運んでくれた。水は温かく、喉を通るたびに生き返るような感覚がした。息を吐くと、肺の奥の冷たさが少しずつ溶けていく。

「……助けて、くださったのですか」

 ようやく搾り出した声は、掠れていて自分のものとは思えなかった。男は短くうなずき、また暖炉のほうへ視線を戻した。

「森の入口で倒れていた。通り雨のあとだった」

「……そう、でしたか」

 言葉を返しながら、昨夜の出来事が少しずつ蘇る。雨、雷鳴、そして、あの腕の温もり。夢ではなかったのだ。

 私は体を起こそうとしたが、男が軽く手を上げて制した。

「無理をするな。熱がまだ残っている」

 彼の声には命令ではなく、淡い心配が滲んでいた。その響きに、不思議な安心を覚える。王城では誰もが言葉を飾った。優しさは礼儀に包まれ、憂いは形式に隠された。けれど、目の前の男の言葉には飾りがなかった。

「ここは……どこなのでしょう」

「北の森のはずれ、カーヴェルの山小屋だ。村までは歩いて半日ほどだ」

「あなたは……」

 言いかけたところで、彼は答える前に小さく息を吐き、視線を火に戻した。

「名はルシアン。余計な詮索はしなくていい」

 静かにそう言うと、火の棒で薪を崩す。火花がぱちりと弾け、灰が舞い上がった。私はその背を見つめながら、これ以上は尋ねるべきでないと悟った。恩人の素性を問うのは、無礼に等しい。それに、彼の背中には、何か触れてはならない影のようなものがあった。

 部屋の中を見渡すと、木製の家具がいくつか並び、壁には乾燥させた薬草の束が吊るされている。素朴だが、どこか整然としていて、清潔だった。彼がこの小屋で暮らしているのだろう。窓の外では、細い光が木々の間を縫うように差し込み、緑の粒が揺れていた。

「あなたが……薬を?」

「少し心得がある。熱冷ましの草と蜂蜜を煎じた。しばらくすれば良くなる」

 そう言って、ルシアンは木の器をもうひとつ手に取り、茶色がかった液体を差し出した。匂いは独特だが、不快ではない。私は一口飲み、ほっと息を漏らした。喉を通る苦味の奥に、わずかな甘みが残る。

「ありがとう、ございます」

 礼を言うと、彼は黙ってうなずき、再び椅子に腰を下ろした。沈黙が流れる。だがその沈黙は重くなかった。暖炉の火がぱちぱちと音を立て、外では風が木々を撫でる。静けさの中で、私の心の奥に残っていた緊張が、少しずつ溶けていくのを感じた。

 毛布を握りしめ、私は胸の奥でそっと呟く。

 ——私は生きている。

 あの日、王城の扉を出たとき、自分の命などどうでもよかった。けれど今、この温かい部屋の中で、薪の匂いと誰かの声に包まれながら、確かに呼吸をしている。小さな火の音が、心臓の鼓動と重なって聞こえた。

 ルシアンは、ふとこちらに目を向けた。火の光がその瞳に映り、金属のような輝きを帯びる。私は視線を逸らそうとしたが、彼は何も言わずに小さく頷いた。それは、言葉よりも優しい仕草だった。

「……しばらく、ここにいてもいいでしょうか」

 気づけば、そう口にしていた。彼は少しの間黙っていたが、やがて低く答えた。

「好きにするといい」

 その言葉に、胸の奥が温かくなった。私は毛布を胸の下まで引き上げ、深く息を吐いた。外では雨上がりの風が吹き、窓辺の木々がきらめいている。

 新しい朝が始まっていた。



 翌朝、目を覚ますと、窓の外では小鳥の鳴き声がしていた。森の奥に響く高く澄んだ声は、まるで夜の闇を切り裂くように清らかで、胸の奥を洗われるようだった。柔らかな日差しが木の隙間から差し込み、カーテンの代わりに吊るされたリネン布を透かして、部屋に淡い金色の光が満ちている。毛布の上に落ちた光が揺れ、私はその光をぼんやりと見つめながら、自分がどこにいるのかを再び確かめた。昨日の出来事が夢でなかった証拠に、まだ少しだけ薬草の匂いが鼻先をくすぐる。

 体を起こすと、足元に置かれていた靴が目に入った。泥にまみれていたはずの靴は、きれいに拭かれ、かかとの破れも丁寧に縫われている。その手仕事の細かさに思わず息をのむ。自分が眠っている間に、誰かがここまで気を配ってくれたのだ。私はそっと靴を手に取り、指先で縫い目をなぞった。針の通った跡が真っ直ぐで、無駄がない。森の中で生きる人間の手だ——そう思った。

 扉の向こうで、木を割る音がする。斧が幹を叩くたび、乾いた響きが空気を震わせて部屋の壁に伝わる。音の主が誰なのか、考えるまでもなかった。私は毛布を整え、床に足を下ろす。板の感触は冷たいが、どこか懐かしい。王都の屋敷では、絨毯がすべての足音を吸い取ってしまっていた。だからこうして木の軋む音を聞くのは、子供の頃以来だった。

 少しふらつきながらも、私は扉を開けた。朝の空気はひんやりとしていて、肺の奥まで透き通るように澄んでいた。外には、昨日の男——ルシアンがいた。彼は厚手のシャツの袖をまくり上げ、無言で斧を振り下ろしていた。陽の光がその腕の筋肉を照らし、汗が肌を滑って光る。力強い音とともに、丸太が二つに割れた。その動きは迷いがなく、まるで森そのものと呼吸を合わせているかのようだった。

 私が立ち尽くしているのに気づいたのか、彼は一度だけこちらを見た。

「起きたのか」

 その言葉は、相変わらず短い。しかし不思議と、そこには冷たさがなかった。私は慌てて頭を下げる。

「昨夜は……本当にありがとうございました」

「礼はいらない」

 そう言って、彼は斧を地面に立てかけた。額の汗を拭うこともせず、無表情のまま井戸の方へ向かう。私はその後ろ姿を見送りながら、胸の奥が少しだけ温かくなった。人の情けというものは、言葉で飾らなくても伝わるのだと知る。

 ルシアンが桶に水を汲み、私の前に差し出す。透明な水が陽の光を受けてきらめき、表面に木々の影が揺れていた。

「飲め。昨日はほとんど食べていないだろう」

 私はうなずき、水を受け取る。口に含むと、冷たさが体中に広がり、頭の中が冴える。喉を潤しながら、森の香りが鼻を抜けた。

「……美しい場所ですね」

 思わず漏らした言葉に、彼は少しだけ目を細めた。

「王都の空気は重い。ここは静かだ」

 その短い返答の中に、過去への含みがある気がした。けれど、それを聞き出す権利は私にはない。私もまた、過去を語りたくない立場なのだから。私はうつむいて、水面に映る自分の顔を見た。血色の薄い唇、少しやつれた頬。王城で鏡を覗いたときの自分とは、まるで別人のようだ。けれど、不思議と嫌ではなかった。

 彼は斧を持ち直し、再び薪割りを始めた。私はその音を聞きながら、目を閉じた。乾いた音が心の奥のざわめきを少しずつ押し流していく。あの王城のざらついた空気も、妹の笑顔も、遠く霞んでいく。代わりに、今この森の中に流れる静けさが、胸に沁みた。

「……私、何かお手伝いできることはありますか?」

 口をついて出た言葉に、彼の動きが止まる。ゆっくりとこちらを振り返り、短く首を傾けた。

「手伝い?」

「はい。何もしないで休んでいるのは落ち着かなくて……」

 そう言うと、ルシアンはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「なら、薪を運ぶのを頼む。重くはない。できる範囲でいい」

 その言葉に、胸の奥が少し明るくなった。私は裾を持ち上げ、慎重に足を運ぶ。丸太の端を持つと、思ったよりも軽い。けれど、指先に残る木のざらつきと樹脂の香りが心地よい。王都の華やかな庭園では決して触れることのなかった、素朴な生活の匂い。私は夢中で何度も往復した。

 途中、ルシアンがこちらをちらりと見て、ぼそりと言った。

「無理はするな」

 その一言に、心臓が跳ねた。注意ではなく、心配だった。私は振り返り、小さく笑みを浮かべる。

「大丈夫です。少し動くと、気分が楽になりますから」

 彼は何も言わなかったが、わずかに唇の端が動いたように見えた。陽光の下でその表情を見たのは、これが初めてだった。ほんの一瞬だったが、冷たい印象しかなかった顔が、やわらかく見えた。

 日が高くなるころ、作業を終えるとルシアンは手を洗い、私に小さな籠を渡した。中には黒い実と小さなパンが入っている。

「食べろ。腹を空かせたままでは動けん」

「……ありがとうございます」

 私は礼を言い、ひと口かじる。少し酸っぱい実の味が口に広がり、パンの香ばしさと混ざり合う。噛むたびに、身体の奥に熱が戻ってくる気がした。

 ふと視線を上げると、森の木々の間から、薄い霧が立ち上っていた。まるで金色の糸が空へ昇っていくようで、幻想的だった。私はその景色に見とれて、言葉を失う。

「王都には……こんな光景、ありませんでした」

 小さく呟くと、ルシアンは手を止めた。

「だから、ここに来た」

 その短い答えに、何か深い意味があるように思えた。だが彼はそれ以上何も言わない。ただ、静かに森の奥を見つめていた。

 私は彼の横顔を見ながら、胸の奥で小さな声が囁くのを聞いた。——この人も、何かを捨ててここに来たのかもしれない。そう思うと、少しだけ安心した。私だけが逃げてきたのではないのだ、と。

 森の風が頬を撫で、髪を揺らす。遠くで鳥が羽ばたく音がする。世界はこんなにも穏やかで、美しかった。





 午後になると、森の光は金色から橙に変わり、木々の影がゆっくりと長く伸びていった。小屋の裏手では、ルシアンが積み上げた薪の上に布をかけ、雨よけの縄を結んでいる。その姿を、私は窓越しに見つめていた。肩越しに落ちる光が彼の黒髪を照らし、一本一本が琥珀の糸のように輝いて見える。力強くも無駄のない動き。言葉を多く持たない彼の背中には、不思議な安心感があった。

 私は台所の棚を開け、昼に彼が用意してくれた籠の中を覗く。乾いたパンの欠片、少しのチーズ、数種類の干し果物。贅沢とは程遠いが、温かな食卓を作れる気がした。王都にいた頃、料理などしたことがなかった。厨房に立つことは許されず、常に侍女が皿を並べてくれた。けれど今は、自分の手を使って何かを作りたいと思った。
 私は戸棚の隅に見つけた小鍋を取り出し、残っていた薬草を少し刻んで湯を沸かす。湯気が立ちのぼり、ほのかに甘い香りが鼻をくすぐる。木のスプーンでかき混ぜる手つきがぎこちなくても、なぜか心は落ち着いていた。

 扉が軋む音がして、ルシアンが戻ってきた。手には小さな木籠を提げている。中には真っ赤な果実がいくつか。

「森の奥で見つけた。食える」

「……わざわざ、ありがとうございます」

 受け取った果実は丸く艶やかで、指先に触れるとほんのり温かい。私はそれを切り分け、薬草湯の隣に並べた。彼は黙ってテーブルに腰を下ろし、斧を磨くための布を取り出す。金属の光が夕日を弾き、部屋の中をわずかに照らした。

「あなたは、いつもこうして森で過ごしているのですか?」

 思わず尋ねると、ルシアンは短くうなずいた。

「人が多い場所は、どうも落ち着かない」

「……わかります」

 自分でも驚くほど自然に言葉が出た。王都の喧騒、冷たい視線、飾られた言葉。思い出すたびに息苦しくなる。それでも、その世界が全てだと信じて生きてきたのだ。けれど今、こうして森の静寂に包まれていると、初めて心が呼吸をしているように感じた。

「王都で何かあったのか」

 彼が不意に問う。その声に、胸がわずかに跳ねた。聞かれるとは思っていなかった。けれど、責めるような響きはない。ただ淡々と、火の揺らぎのように穏やかな声音だった。私はカップを両手で包み、口をつぐむ。

「……少し、いろいろと」

 そう答えると、彼はそれ以上追及しなかった。沈黙が再び落ちる。けれど、その沈黙は重苦しいものではなく、許しにも似た柔らかさがあった。薪のはぜる音が小さく響き、二人の間をつなぐ。

「明日から、森の奥に入る。木の実や獣道を覚えるといい。ここにいるなら、生き方を知っておくべきだ」

「……私も行っていいのですか?」

「無理をしなければ」

 そう言いながら、ルシアンはカップを取った。その手の甲には薄く古い傷がいくつも走っていた。戦いのものだろうか、それとも労働の跡か。尋ねようとしたが、唇が動く前に彼が言葉を継いだ。

「外の世界は、思うよりも脆い」

「……はい?」

「王都の人間は、守られすぎている。壁の外で何が起きているかを知らない。だから、痛みにも冷たさにも耐えられない」

 彼の言葉には、どこか悲しげな響きがあった。まるで、自分自身に向けて呟いているように。私はうつむき、小さく頷いた。確かに、自分はその“守られすぎた”側の人間だった。何も知らず、何も見ようとせず、ただ用意された幸福の中で眠っていたのだ。

「……私も、そうでした」

 声は震えていた。ルシアンは火を見つめたまま、何も言わなかった。沈黙の中で、薪の燃える音が涙のように小さく弾けた。

 しばらくして、彼が立ち上がった。

「寝るといい。疲れが残っている」

「あなたは?」

「外で見張りをする。夜は獣が出るからな」

「でも——」

「大丈夫だ。慣れている」

 その言葉に、私はそれ以上何も言えなかった。扉の前で彼の背を見送る。夜風が入り込み、火の灯りがゆらゆらと揺れる。扉が閉まると、部屋に再び静寂が戻った。私は椅子に座ったまま、暖炉の火をじっと見つめる。炎が揺らぐたびに、影が壁を這い、まるで生き物のように形を変える。

 胸の奥に残る孤独は、完全には消えない。けれど、不思議と恐ろしくなかった。誰かが外で風の音を聞きながら立っている。その事実だけで、世界は少し温かかった。

 毛布を肩にかけ、ベッドに横たわる。目を閉じると、森のざわめきが耳を満たした。木々の葉擦れの音、遠くのフクロウの声、そして時折聞こえる足音のような低い響き。きっとルシアンが歩いているのだろう。

 心臓の鼓動がその音に重なり、やがて意識がゆっくりと沈んでいく。
 最後に思ったのは、あの言葉——「好きにするといい」。
 それは、自由の意味を知らなかった私への、最初の贈り物だったのかもしれない。
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