美男美女の同僚のおまけとして異世界召喚された私、ゴミ無能扱いされ王城から叩き出されるも、才能を見出してくれた隣国の王子様とスローライフ 

さくら

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第5話 お茶と焼き菓子と、午後の陽だまり


 翌日の午後、柔らかな日差しが差し込む中庭のテラスで、私は初めてレオンと二人きりで“お茶会”をしていた。
 ルーベリアの空は深く澄み渡り、白い雲が流れていく。噴水の水音と、遠くで鳥が鳴く声が重なり合い、屋敷の庭全体がまるで一枚の絵画のように静かだった。

「この国では、午後のひとときを“陽の休み”と呼ぶんですか?」
「そうだ。昼の仕事を終えたあと、誰もが短い休息を取る時間だ。体も心も一度立ち止まる。君の世界にも、似た風習があるのでは?」
「“ティータイム”ですね。オフィスではコーヒーでしたけど……」
「コーヒー? それはどんな飲み物だ?」
「苦くて、でも香りが深くて。徹夜明けの味です」
 レオンが小さく笑った。
「徹夜明け、か。君の世界の人々は、働きすぎなのだな」
「否定できません……」

 その穏やかな笑い声が、噴水の音に溶けていく。
 テーブルには白い磁器のティーポットが置かれ、湯気がゆらゆらと立ちのぼっていた。クララが用意してくれた焼き菓子が皿に並んでいる。丸いクッキーのようなもの、花の形をしたタルト、そして薄く切った果実の砂糖漬け。どれも甘い香りが漂っていた。

「この焼き菓子は、“ルーベリアの陽だまり”と呼ばれるものです」
 クララがカップに紅茶を注ぎながら説明する。
「殿下がまだ少年の頃、お母さまがよく焼かれていたんですよ」
「母上の味か……懐かしいな」
 レオンがカップを手に取り、目を細めた。
 私も一つ手に取り、口に入れる。バターの香りとほのかなハチミツの甘みが広がり、口の中でほろりと崩れる。思わず笑みがこぼれた。
「……おいしい。優しい味ですね」
「そうだろう? 母上は“甘さは心を包む布”と言っていた」
「素敵な言葉」

 レオンの表情が少し柔らかくなる。その横顔は穏やかで、陽射しの中でまぶしかった。
「君も焼き菓子を作れるか?」
「え? 私ですか?」
「もしできるなら、今度、君の世界の味を教えてほしい」
「コーヒーのお供に、クッキーとか……」
「クッキー?」
「小さくて、甘いお菓子です。簡単に作れるんですよ」
「それは楽しみだ」
 レオンが微笑む。その笑顔を見るだけで胸が温かくなり、私は慌てて紅茶を口にした。

 紅茶は深みのある香りで、ほんのりと甘い。
 飲みながらふと、昨日の神殿での儀式のことが脳裏をよぎった。
 ――私の手が光り、神官たちが静まり返った。
 あの瞬間のことを思い出すと、胸の奥がざわめく。
「……レオンさん」
「どうした?」
「昨日、神殿でのこと……本当に、私が“癒しの力”を持っているんでしょうか」
 レオンはカップを置き、まっすぐ私を見つめた。
「持っている。神官たちも驚いていた。百年ぶりに“癒しの印”を持つ者が現れたのだ」
「……百年ぶり」
「だからこそ、君の存在は奇跡だ。けれど、無理に力を使う必要はない。君が笑うこと、それだけで周囲は癒やされる」

 あの言葉――“君が笑うことが癒しになる”――がまた心に響いた。
 私はそっと息を吐き、カップを両手で包み込む。紅茶の温度が掌を伝い、まるで心の芯まであたためてくれるようだった。

「……前の世界では、私、誰かを癒すなんて考えたことなかったんです。自分が頑張らなきゃ、って思うばかりで」
「君は十分に頑張ってきた。もう、休んでいい」
 レオンの声は穏やかで、それでいて強い。まるで包み込むような響きだった。
「ありがとう、レオンさん」
「こちらこそ。……ミナ、君がここに来てから、この屋敷が明るくなった」
「そんな、私何もしてないですよ」
「いや。朝の花がいつもより早く開いた。クララも“気の流れが柔らかくなった”と言っていた。君はこの場所を癒やしている」

 そう言われて、胸の奥に何かが広がる。
 誰かに“存在を認められる”ことが、こんなに嬉しいなんて。
 紅茶をもう一口飲むと、花の香りとともに涙が出そうになった。

「ミナ」
「……はい」
「この国は、君を歓迎している。君が望むなら、ここでずっと暮らしてもいい」

 彼の声が優しく響く。
 噴水の音が静かに流れ、午後の陽射しが二人を包み込む。
 私はカップを見つめ、そっと微笑んだ。
「……ここに来てよかった」

 レオンは少しだけ目を細めた。
「そう言ってもらえて、嬉しい」

 その笑顔があまりにやさしくて、胸がきゅっと痛んだ。
 風が吹き、花びらが一枚、テーブルの上に落ちる。
 私はそっとそれを摘み上げ、手のひらにのせた。花びらが光を受け、わずかにきらめく。

 ――この世界で、私はようやく誰かの隣にいられる。

 そう思った瞬間、心の奥で何かが静かに弾けた。
 遠くで鐘が鳴り、午後の光が穏やかに揺れていた。




 夕方、日が西へ傾き始めたころ。紅茶の香りがまだ空気に残るテラスで、私はクララと並んで焼き菓子の皿を片づけていた。金色の光が噴水の水面で跳ね、花壇に映える。穏やかで、心の底がじんわり温かくなる光景だった。

「ミナさん、殿下と二人きりでお茶をされるの、初めてでしたね」
「う、うん……ちょっと緊張したけど、思ってたより楽しかった」
「でしょう? 殿下は誰にでも優しいお方ですが、あの笑い方は滅多に見ませんでしたよ」
「笑い方?」
「はい。心から楽しそうに笑われていました」
 クララが意味ありげに微笑む。胸の奥がくすぐったくなり、私は慌てて皿を重ねた。
「そ、そんなことないと思うけど」
「ふふっ。ミナさん、顔が赤いですよ」
「えっ!? ち、違っ……その、陽射しのせいです!」
 思わず声を上げると、クララは鈴のように笑った。
 からかわれているのに、不思議と嫌じゃなかった。彼女の笑顔はあたたかく、親しみやすい。

 ふと、風が吹いて木の葉が揺れる。私は空を見上げた。夕焼けがゆっくりと広がっていく。オレンジ色の空が、やわらかく庭を包み込む。
「ねえ、クララ。この国では、王族の人がこうして庶民と同じようにお茶を飲んだりするの、普通なの?」
「殿下だけですよ。あの方は昔から変わらない。身分よりも人の心を大事にされるお方です」
「……そうなんだ」
「それに、殿下は孤独なお方でもありますから」
「孤独?」
 クララは少し表情を曇らせた。
「幼い頃に母上を亡くされて、兄王陛下とは性格が違いすぎて……。けれど、殿下は誰かを憎むことをなさらなかった。いつも“誰かを守るために強くなる”とおっしゃっていました」
「……そんなこと、言ってたんだ」
 胸の奥に小さな痛みが走る。あの穏やかな瞳の奥に、そんな孤独が隠れていたなんて。

「だからこそ、ミナさんが笑っているのを見ると、殿下も少し救われるんです。あの方は、自分よりも他人の幸福を先に願う人ですから」
「……レオンさんって、本当に不思議な人ですね」
「ふふ、惹かれましたか?」
「ち、ちがっ――」
「冗談です。でも、殿下の傍にいられるのは簡単なことではありません。それでも、ミナさんなら……きっと」
 クララはそこで言葉を切り、意味深に笑った。

 焼き菓子の皿を抱えたまま、私はその笑顔を見つめる。彼女の言葉は冗談のようでいて、どこか真実味を帯びていた。

 ――惹かれている、のかもしれない。

 心の奥で小さくそう思う。けれど、怖かった。こんなふうに人を想うのは、いつぶりだろう。前の世界での恋は、仕事の忙しさにかき消されて終わった。恋という言葉は、ずっと自分とは無縁のものだと思っていたのに。

 テラスを片づけ終えたころ、背後から穏やかな声がした。
「クララ、あとはこちらでいい」
「殿下」
 レオンが現れた。夕陽の中で彼の金髪が光り、まるで陽そのもののように見える。クララが軽く会釈して、そっとその場を離れた。

 ふたりきりになった瞬間、空気が少しだけ変わる。
「今日はありがとう、ミナ。久しぶりに穏やかな時間を過ごせた」
「こちらこそ。すごく楽しかったです」
「それを聞けて嬉しい」
 レオンの視線が私をとらえる。まっすぐで、包み込むような瞳。その目を見ていると、時間が止まってしまいそうだった。

「……神殿での儀式の後、気分はどうだ?」
「少し疲れましたけど、もう平気です」
「本当に? 無理をしていないか?」
「大丈夫です。むしろ……少し、心が軽くなりました」
「それならよかった」
 レオンの口元がやわらかく緩む。その表情を見ているだけで、胸の奥が温かくなっていく。

 噴水の音が静かに響く。空は茜から藍へと変わり始め、風が夜の匂いを運んできた。
「君がここに来てから、屋敷の花々が以前より元気になった。あれは偶然ではないと思う」
「まさか、そんな」
「本当だ。君の力はこの場所にまで届いている」
 彼の言葉に、鼓動が早くなる。
 “力”と呼ばれるものが何かはまだわからないけれど、少なくとも彼がそう信じてくれていることが嬉しかった。

「……もし、私が本当に癒やす力を持っていたら」
「うん?」
「それを使って、レオンさんを癒やせたらいいのに」
 言葉にしてから、頬が熱くなる。けれど、もう止められなかった。
 レオンは少し驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくりと微笑んだ。
「もう、十分に癒やされているよ」
「え……?」
「君の声を聞くだけで、疲れが消えていく。だから、無理をしなくていい」

 その優しさが、胸を締めつける。言葉が出ない。
 沈黙がふたりを包む。夕焼けが完全に沈み、夜の帳がゆっくりと降りてくる。

「ミナ」
「はい」
「これからも、俺のそばにいてくれるか?」
 一瞬、息が止まった。
 まっすぐな金の瞳が私を映している。心臓が跳ね、喉がからからになる。
「……私なんかで、いいんですか?」
「“なんか”じゃない。君だからいい」

 胸の奥で何かが弾けた。言葉を探しても出てこない。けれど、涙がこぼれそうで、笑うしかなかった。
「……はい」

 レオンが静かに頷く。その顔は穏やかで、どこか安堵しているようだった。
「ありがとう、ミナ」

 風が吹き抜け、花の香りが漂う。月が昇り、淡い光が庭を照らした。
 その夜、私は初めて“この世界に生きている”と心から実感した。

 もう、どこにも帰らなくていい――そう思えた。



 その夜、眠りについたのはずいぶん遅くだった。胸が熱くて、鼓動がいつまでも静まらなかった。レオンに「そばにいてほしい」と言われた言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。あのときの彼の瞳、穏やかで、どこか哀しみを含んだ光――思い出すたび、胸の奥がふわりと疼く。
 シーツを握りしめて目を閉じる。天井の彫刻が月明かりに照らされ、影が揺れていた。
 ……この世界に来てから、まだ数日しか経っていないのに。まるで、前の世界で過ごした何年もの時間よりも濃い。息を吸うたび、光や風や音が心の底まで届く。そう思うと、不安よりも――少しだけ、幸福が勝っていた。

 ◇

 翌朝、クララに起こされて身支度を整えると、レオンの屋敷の前庭に一台の馬車が止まっていた。御者台には王都付きの紋章。深紅の布に金糸で王冠と翼が刺繍されている。
「今日は宮廷への挨拶です」とクララが微笑む。
「挨拶……って、王様に?」
「はい。殿下のご意向で、正式に“客人”として紹介されることになりました」
「きゃ、客人!?」
 あまりの言葉に、思わず声が裏返る。
「ちょっと待って、私……服も礼儀も……!」
「大丈夫ですよ、ミナさん。すべて殿下の指示で整えています。緊張なさらずに」
 クララが手早くスカートの裾を整え、髪に白いリボンを結ぶ。鏡に映る自分は、昨日までの私とは違う。頬には薄い紅が差され、瞳が光を帯びているように見えた。

 玄関の扉が開き、レオンが現れる。淡い灰色の外套を羽織り、胸元には王族の紋章を示す金のブローチ。穏やかに笑いながら、私に手を差し伸べた。
「行こう、ミナ」
「は、はい」
 その手を取った瞬間、掌の温もりが心まで届いた。

 ◇

 王都の中心へ向かう街道は、朝の光に包まれていた。両側に並ぶ建物は白と青の石でできていて、屋根には草花が飾られている。通りの人々が馬車を見ると、次々に頭を下げた。
「皆、レオンさんに挨拶してるんですか?」
「ああ。公の場では“第二王子殿下”として知られているからな」
「……なんだか、すごい人と一緒にいるんですね、私」
「そう思うか?」
「思います。庶民が王子様と並んで座るなんて、物語の中みたいです」
 レオンは小さく笑った。
「物語はいつだって、現実の延長にある。君がここにいるのも偶然ではない」
「また、それですか。運命論者ですね」
「君が信じなくても、俺は信じている」
 そのやわらかな声に、胸の奥がまた熱くなる。

 やがて、遠くに巨大な建物が見えてきた。白い石壁に囲まれ、中央には塔がそびえている。屋根の上で金色の旗が風にたなびく。
「あれが王城か……」
「ルーベリアの象徴だ。だが、見た目ほど華やかな場所ではない」
「どういう意味です?」
「そこには、政治と権力の匂いが渦巻いている。……だからこそ、俺はこの屋敷を都の外に置いた」
 レオンの声がわずかに低くなる。その横顔に、昨日の穏やかさとは違う影があった。

 馬車が城門を通り抜けると、石畳の広場が広がっていた。噴水の中央には、翼を広げた天使の像。その周囲には衛兵たちが整列し、私たちが馬車を降りると、一斉に頭を下げた。
「……緊張してきた」
「大丈夫だ。俺がいる」
 レオンがそっと背中を支えてくれる。彼の手が、心の奥の震えまで包み込んでくれた気がした。

 ◇

 広い回廊を歩くと、金色の光が壁に反射して眩しい。高い天井には天使と花を描いたフレスコ画が広がり、窓からは虹のような光が差し込んでいる。
 案内されたのは、玉座の間。そこには重厚な椅子に腰掛けた男――国王がいた。銀髪に深い青の瞳。レオンとよく似ているが、表情は鋭く、王としての威厳を漂わせていた。

「久しいな、レオン。……その女性が?」
「ああ。異界から召喚された客人、ミナだ」
 私は慌ててスカートの裾をつまみ、深く頭を下げる。
「はじめまして。ミナと申します」
 国王はしばらく私を見つめ、それから静かに頷いた。
「顔を上げよ。……不思議な光を持つな。まるで、春の風のようだ」
「は、はい……ありがとうございます」
「レオン、お前がこの者を庇護下に置く理由が、少しわかった気がする」
 その言葉に、レオンは軽く微笑んだ。
「彼女はこの国にとって必要な存在です。父上も、いずれわかるでしょう」
 国王はしばし沈黙し、やがて小さくため息をついた。
「……お前は昔からそうだな。己の信じるものを貫く。だが、その優しさが災いを呼ぶこともある。気をつけろ」
「承知しています」

 場の空気が少し和らぎ、国王が私の方を向いた。
「ミナよ。レオンを頼む。あの頑固者は、誰かに支えられてこそ輝く」
「……はい」
 思わず返事をすると、レオンがわずかに目を見開いた。けれど、次の瞬間、優しく微笑む。

 玉座の間を出ると、廊下の窓から光が差し込んでいた。
「……お疲れさまでした」
 レオンが私を振り返り、静かに言った。
「ありがとう。君が隣にいてくれたから、あの場も穏やかに済んだ」
「私、何もしてないですよ。ただ緊張して立ってただけで……」
「それでいい。君がいるだけで、場が柔らかくなる。それは誰にも真似できない力だ」

 風がカーテンを揺らし、白い光が二人の間を包んだ。
 私はその光の中で、改めて思う――ここに来たことは間違いじゃなかった、と。
 この世界に、私の居場所がある。

 そして何より――
 隣を歩くレオンの背中が、もうただの“王子”ではなくなっていた。

 あの夜、胸の奥に灯った小さな光が、いまはもう確かな炎になっている。
 それが恋というものなのだと、このとき初めて知った。




 謁見の後、王城をあとにした私たちは、王都の中心をゆっくりと歩いていた。午後の陽射しが石畳に反射してまぶしい。道の両脇にはカフェや花屋が並び、香草の匂いと焼き菓子の甘い香りが風に乗って流れてくる。通りを行く人々は笑顔で、あたたかい空気があった。

 レオンは隣を歩きながら、何度か私に視線を向けた。
「緊張していたな」
「当たり前です! あんな立派な玉座の前で、王様に話しかけるなんて……手のひら、まだ震えてます」
「ふふ……堂々としていたぞ」
「ほんとですか?」
「父上も気に入っていた。君が無理に飾らず、素直なままでいたからだ」
 そう言われると、少しだけ心が軽くなった。
「……それにしても、レオンさん。お父さまと話すとき、少し寂しそうでした」
「……そう見えたか?」
「はい。なんだか、距離があるような」

 レオンはしばらく無言のまま歩き続け、やがて小さく息をついた。
「父上とは、昔から考えが合わないんだ。俺は“守るための力”を信じているが、父上は“支配するための力”を信じている」
「……支配」
「この国を治めるためには強さが必要だと、父上は言う。それも間違ってはいない。だが俺は、民が恐れて従う国より、信じて笑う国をつくりたい」
 その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「だから、あの温室を大切にしてるんですね」
「……ああ。あそこは、俺の理想の縮図だ。花々が競わずに咲き、互いに支え合って生きている」

 レオンの横顔は光に照らされて、どこまでも真っ直ぐだった。
 私は黙ってその背を見つめながら思った――この人は本当に、王子様なんだ、と。地位や力ではなく、優しさで人を導こうとする。だからこそ、周囲が彼を放っておけないのだろう。

「……レオンさん」
「ん?」
「あなたの国の民は、幸せですね」
 そう言うと、レオンは少しだけ目を丸くしてから、照れくさそうに笑った。
「そう言われたのは初めてだ。だが、君がそう感じてくれたなら、それだけで報われる」
 その微笑みを見た瞬間、心臓が跳ねる。
 どうしよう――この人を見るたび、胸の奥がきゅっと痛くなる。

 通りの先に広場が見えた。中央には大きな噴水と、白い鳩の像。子どもたちが水辺で遊び、女性たちは花籠を抱えて行き交っている。
「少し寄っていこう」
 レオンの提案に頷き、私は石畳を踏みしめる。噴水の周囲には屋台が並び、果物のジュースやハーブ飴が売られていた。
「これを飲んでみるといい」
 レオンが買ってくれた透明な飲み物を受け取る。薄い青色をしていて、光を受けると宝石みたいにきらめく。
「綺麗……どんな味なんですか?」
「“月の蜜”という花の果汁だ。少し甘くて、眠気を取る効果がある」
 恐る恐る口をつけると、ほんのりとした甘みと、後味にすっきりとした香りが広がった。
「おいしい!」
「気に入ったか」
「はい!」

 レオンが目を細める。その笑顔に、また胸の鼓動が速くなる。まるで空気の温度まで上がったみたいに頬が熱い。

「……君の笑顔を見ると、胸が落ち着く」
「えっ……」
「この国に春が戻ったみたいだ」
 さらりとそんな言葉を言うから困る。頬がますます熱くなり、私は慌てて視線を逸らした。
「も、もう……そういうこと言うのずるいです」
「ずるい?」
「王子様の言葉って、全部特別に聞こえるんですよ!」
 思わず口にしてしまい、後悔が押し寄せる。けれど、レオンは笑いを堪えるように目を細めた。
「なるほど。それでは今後、言葉を慎重に選ばねばな」
「そういう意味じゃなくて!」
 顔を真っ赤にして抗議する私を見て、レオンはついに吹き出した。
 笑う彼を見て、なぜか私まで笑ってしまう。

 気づけば夕暮れ。空が桃色から紫へと変わり、街灯に火がともり始めた。
 レオンは少し歩調を緩め、私の方を見た。
「今日一日、ありがとう。君のおかげで、久しぶりに笑えた」
「私の方こそ。こんなに楽しい一日になるなんて思ってなかったです」
 風が頬を撫で、街の灯りがきらめく。人々の声、鐘の音、すべてが遠くで溶けていく。
 レオンの視線がやさしく私に注がれた。
「……ミナ、君に伝えたいことがある」
「え?」
 声がかすかに震える。
「この国に来てくれて、本当に感謝している。君は奇跡だ。――できるなら、これからもこの国にいてほしい」

 その瞬間、胸の奥が大きく波打った。心が熱くて、言葉が出ない。
 ただ、静かに頷くことしかできなかった。
「……はい。私も、ここにいたいです」
 レオンは微笑み、ゆっくりと手を伸ばした。指先がそっと私の頬をかすめる。
「ありがとう、ミナ」

 噴水の水音が響く。夕暮れの風が髪を揺らし、花びらがひとひら、二人のあいだに舞った。
 その光景があまりにも美しく、時間が止まったように感じた。

 ――私は今、確かにこの世界で生きている。
 そう実感しながら、胸の奥に芽生えた“想い”が、ゆっくりと形を持ち始めていた。




 その夜。屋敷に戻ると、胸の高鳴りがどうしてもおさまらなかった。
 レオンと過ごした王都での一日が、夢のように胸の奥で何度も反芻される。
 噴水のきらめき、夕暮れに差し込む光、あの手の温かさ。
 目を閉じるたびに、すべてが鮮やかに蘇って、息が詰まりそうになる。

 夜風を吸いたくて、私は寝間着のままバルコニーへ出た。
 外の空は深く、星がびっしりと散りばめられている。
 ルーベリアの星空は、地球のものよりも少し近く感じる――手を伸ばせば届きそうなくらいに。

「……きれい」

 小さく呟く。
 そのとき、背後の扉が開く音がして、ふいに心臓が跳ねた。

「ミナ。まだ起きていたのか」

 レオンの声だった。
 薄い部屋着の上から外套を羽織っていて、月光に照らされた金髪がやわらかく光っている。
 いつもより少しくだけた姿――それだけで、見慣れた人なのに胸が痛くなるほど綺麗に見えた。

「眠れなくて……。レオンさんこそ?」
「同じだ。考えごとをしていたら、外の空気が恋しくなった」

 彼は私の隣に立ち、柵に手を置いた。
 風が吹き、二人の髪がわずかに混じる。
 沈黙が落ちるけれど、不思議と気まずくない。
 その静けさの中で、レオンがふと口を開いた。

「……君は、今、幸せか?」

 不意の問いに、思わず息を呑む。
 彼は視線を夜空に向けたまま、続けた。

「この世界に来て、知らない土地で、知らない人々と過ごす。
 それは不安だったはずだ。俺が君をここに連れてきて――君の心を縛ってはいないかと思って」

 その言葉に胸が締めつけられる。
 私は首を横に振った。

「いいえ。むしろ……感謝してるんです」
「感謝?」
「はい。レオンさんがいなかったら、私はきっと、あの王都の空さえ見上げることもできなかったと思います」
 静かにそう言うと、レオンは目を細めた。

「……君は、いつも人を包むような言葉をくれるな」
「そんなつもりは」
「あるんだよ。君の声には、不思議と心をほぐす力がある」

 その言葉を聞いて、喉が詰まった。
 “癒しの力”と呼ばれるものが本当にあるのかは、まだ分からない。
 でも――レオンの目がまっすぐに私を見ている。
 その瞬間だけは、彼の言葉を信じたくなった。

「……レオンさん」
「ん?」
「どうしてそんなに優しくできるんですか?」

 問いかけると、彼は少しだけ遠くを見た。
 月の光が頬に影を落とし、その横顔がどこか哀しげに見えた。

「たぶん、俺は臆病なんだ。人が苦しむのを見ると、怖くなる。
 放っておくと、自分の心が壊れそうになる。
 だから、守ることでしか自分を保てない」

「そんなこと……」
「母上を亡くしたときも、そうだった。何もできなかった自分が、ずっと悔しくて。
 それ以来、“誰かの痛みを癒せる人間になりたい”と思った」

 その告白を聞きながら、私は胸の奥で何かが溶けていくのを感じた。
 彼は強い人だと思っていた。
 けれど、その強さの裏にあるのは、誰よりも繊細な優しさなのだ。

「……だから、君に出会えたのは運命なんだと思う」
「私に?」
「君がここに現れてから、俺の世界が変わった。
 重かった空が、少しずつ晴れていくような気がしている」

 息が止まりそうだった。
 何かを返したいのに、言葉が出ない。
 気づけば、手が柵の上で彼の手に触れていた。

 ほんの一瞬の出来事。
 でも、彼はそのまま私の手を包み込んだ。
 あたたかく、やさしく――まるで壊れものを扱うように。

「ミナ。俺は――」
 レオンが何かを言いかけた瞬間、遠くで鐘が鳴った。
 夜を告げる、静かな音。
 彼は言葉を止め、苦笑する。

「……この続きは、またいつか話そう」

 月光が二人の間に差し込み、影がゆっくりと重なる。
 手の温もりが離れたあとも、そこだけが熱を帯びたままだった。

 私は俯き、静かに笑う。
「……きっと、忘れません」

 夜空には、ひときわ明るい星がひとつ瞬いていた。
 それがまるで約束の証のように、私たちを見つめていた。

 そしてその夜、私はようやく悟った。
 ――この人に恋をしているのだと。

 胸の奥で灯った炎が、やわらかく広がっていく。
 その光は、月明かりよりも確かにあたたかかった。
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