脱走悪役令嬢、猫を飼う。

西藤島 みや

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山猫珈琲店、はじめました。

驟雨と焙煎士

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宿泊客のふたりが出かけると、棚から箱をひとつひとつ取り出して確認してゆく。

「あら、黒い砂糖がきれそうね。あとは、コーヒーの豆も」
買い物メモを書き付け、エプロンをはずした。
「エドアルドさま、こちらでお待ちいただけますか?帰りにお肉屋へ寄ってバセ肉の手羽など買い求めて参りますゆえ、浮気心などだしては嫌ですわよ?」
と、猫のふわふわの額にくちづけようとして、みぁん、という声とともに前肢で遮られた。うん、爪をださないお気遣い感謝いたします。

「ふん、不興をかったようですね。早く買い出しに行かれては?」
ちょうどフキンを洗いおえたルーが、相変わらずの無表情のままドアを開けて入ってきていた。なんだか恥ずかしくなって、頬をかく。猫もすう、と目を細めて、いいからはやく行けと言っているようだ。

「わかったわよ、行くわよ…つれないかた!」
猫の頭をくるりとなで、入り口にかけられていた籠をとって出掛けようとそとへ出た。

柔らかな春の陽光のなか、私は扉をしめて歩きだした。草原を渡ってきた風が、建物にからむつるばらとクレマチスをゆらりゆらり、と揺らして、小道をすすむたび足元のラベンダーや、イヌハッカの茂みからマルハナバチやチョウが飛び立つ。
その様子に気をとられて私は足を止めた。すうっとするような甘い香りのむこうに、どこかせつなくなるような…何の香りだったかしら?


「お嬢様、帽子を」
声をかけられて、それをうけとった。手に持ったまま、ぼんやり霞がかったようにまた庭をながめていると、
「……なにか、ありましたか」
そう言われてルーを見上げた。

なにかあるわけなんかない、そもそも私には、はじめからなにもなかったのに。

「お嬢様、靴紐はしゃんと結ぶように言ったじゃないですか、転びます」
ぱん、と肩を叩かれ、ルーが小道にひざまづいて靴紐を結び直してくれた。
「ランドルフ」
その呼び名に、ルーの肩がビクッと動いた。
「止めてください、もうその名前は捨ててきた筈です」
ルーは下を向いたままだ。

心が氷でできてる、なんて噂が出るほどのルーが、いまどんな顔をしているのかしら。
急に面白くなって、私は笑ってしまう。

「じゃあ私もお嬢様なんかじゃないわ、宿屋のエリンよ?親無しの貧乏な赤帽の妹で、兄のために恋人と家を離れた、料理上手で賢くて働き者の、美人なおかみさんよ」

ルーから靴紐を取り返し、さっさと結び直す。堅く、ほどけないように。
「はあ、だからあなたのその自信は何処から来るんですか」
買い物籠を私に返してくれながら、ルーは呆れたようにつぶやく。

「いけない、午後の開店に間に合わなくなる。いってくるわね」
私は踵をかえして小走りになる。



丘を下って行くと、糸杉の並木がある。そのあたりまでくると、急にあたりはほの暗くなって、雨の気配に私は足をはやめた。しまった、丘の上はほとんどいつも春の日差しだから、すっかり失念してた。


駆け足で小さな商店のたちならぶ町へはいってゆくと、ぱらぱらと雨粒が落ちはじめた。
「エリンさん、こちらへ」
開いた扉に飛び込むのと、ざあっと音がして、本降りになるのは一緒だった。


「間一髪だね」
扉をあけた若い男性は、そういってまだ雨を見ている。
上背の高い、銀の髪は、湿った風でゆらゆらと揺れている。青みがかった黒い瞳は、半分眠っているようにぼんやりと定まらない。

フランセス・クラン。町のひとたちは親しみを込めてクランさんと呼ぶ。もとは食品の貿易でひと財産築いた貴族だという噂だけれど、本当のところは誰にもわからない。私と同じ流れ者で、この商店街で珈琲の専門店を営んでおり、ちょっとした女性向けの小物の委託販売をしているが、お客がいないときはほとんどねむっている。
おそらくは、今も雨に気付かなかったら、まだ眠っていたのだろう。


私は薄暗いオレンジの照明の灯った店内を見回した。

何に使うのかわからない、沢山の秤や珈琲のための器具と、瓶に入った珈琲豆。ときには場違いなほど可愛らしい紅茶の缶や、レジのあるカウンターの上にはスミレや色とりどりの琥珀糖までが置かれていた。


「これはなにかしら?」

私が手にとったのは、丸い底の瓶のようなもの。蓋をあけ、匂いを嗅ごうとすると、

「危ない!」

突然、それをとりあげられた。
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