5 / 14
山猫珈琲店、はじめました。
驟雨と焙煎士
しおりを挟む
宿泊客のふたりが出かけると、棚から箱をひとつひとつ取り出して確認してゆく。
「あら、黒い砂糖がきれそうね。あとは、コーヒーの豆も」
買い物メモを書き付け、エプロンをはずした。
「エドアルドさま、こちらでお待ちいただけますか?帰りにお肉屋へ寄ってバセ肉の手羽など買い求めて参りますゆえ、浮気心などだしては嫌ですわよ?」
と、猫のふわふわの額にくちづけようとして、みぁん、という声とともに前肢で遮られた。うん、爪をださないお気遣い感謝いたします。
「ふん、不興をかったようですね。早く買い出しに行かれては?」
ちょうどフキンを洗いおえたルーが、相変わらずの無表情のままドアを開けて入ってきていた。なんだか恥ずかしくなって、頬をかく。猫もすう、と目を細めて、いいからはやく行けと言っているようだ。
「わかったわよ、行くわよ…つれないかた!」
猫の頭をくるりとなで、入り口にかけられていた籠をとって出掛けようとそとへ出た。
柔らかな春の陽光のなか、私は扉をしめて歩きだした。草原を渡ってきた風が、建物にからむつるばらとクレマチスをゆらりゆらり、と揺らして、小道をすすむたび足元のラベンダーや、イヌハッカの茂みからマルハナバチやチョウが飛び立つ。
その様子に気をとられて私は足を止めた。すうっとするような甘い香りのむこうに、どこかせつなくなるような…何の香りだったかしら?
「お嬢様、帽子を」
声をかけられて、それをうけとった。手に持ったまま、ぼんやり霞がかったようにまた庭をながめていると、
「……なにか、ありましたか」
そう言われてルーを見上げた。
なにかあるわけなんかない、そもそも私には、はじめからなにもなかったのに。
「お嬢様、靴紐はしゃんと結ぶように言ったじゃないですか、転びます」
ぱん、と肩を叩かれ、ルーが小道にひざまづいて靴紐を結び直してくれた。
「ランドルフ」
その呼び名に、ルーの肩がビクッと動いた。
「止めてください、もうその名前は捨ててきた筈です」
ルーは下を向いたままだ。
心が氷でできてる、なんて噂が出るほどのルーが、いまどんな顔をしているのかしら。
急に面白くなって、私は笑ってしまう。
「じゃあ私もお嬢様なんかじゃないわ、宿屋のエリンよ?親無しの貧乏な赤帽の妹で、兄のために恋人と家を離れた、料理上手で賢くて働き者の、美人なおかみさんよ」
ルーから靴紐を取り返し、さっさと結び直す。堅く、ほどけないように。
「はあ、だからあなたのその自信は何処から来るんですか」
買い物籠を私に返してくれながら、ルーは呆れたようにつぶやく。
「いけない、午後の開店に間に合わなくなる。いってくるわね」
私は踵をかえして小走りになる。
丘を下って行くと、糸杉の並木がある。そのあたりまでくると、急にあたりはほの暗くなって、雨の気配に私は足をはやめた。しまった、丘の上はほとんどいつも春の日差しだから、すっかり失念してた。
駆け足で小さな商店のたちならぶ町へはいってゆくと、ぱらぱらと雨粒が落ちはじめた。
「エリンさん、こちらへ」
開いた扉に飛び込むのと、ざあっと音がして、本降りになるのは一緒だった。
「間一髪だね」
扉をあけた若い男性は、そういってまだ雨を見ている。
上背の高い、銀の髪は、湿った風でゆらゆらと揺れている。青みがかった黒い瞳は、半分眠っているようにぼんやりと定まらない。
フランセス・クラン。町のひとたちは親しみを込めてクランさんと呼ぶ。もとは食品の貿易でひと財産築いた貴族だという噂だけれど、本当のところは誰にもわからない。私と同じ流れ者で、この商店街で珈琲の専門店を営んでおり、ちょっとした女性向けの小物の委託販売をしているが、お客がいないときはほとんどねむっている。
おそらくは、今も雨に気付かなかったら、まだ眠っていたのだろう。
私は薄暗いオレンジの照明の灯った店内を見回した。
何に使うのかわからない、沢山の秤や珈琲のための器具と、瓶に入った珈琲豆。ときには場違いなほど可愛らしい紅茶の缶や、レジのあるカウンターの上にはスミレや色とりどりの琥珀糖までが置かれていた。
「これはなにかしら?」
私が手にとったのは、丸い底の瓶のようなもの。蓋をあけ、匂いを嗅ごうとすると、
「危ない!」
突然、それをとりあげられた。
「あら、黒い砂糖がきれそうね。あとは、コーヒーの豆も」
買い物メモを書き付け、エプロンをはずした。
「エドアルドさま、こちらでお待ちいただけますか?帰りにお肉屋へ寄ってバセ肉の手羽など買い求めて参りますゆえ、浮気心などだしては嫌ですわよ?」
と、猫のふわふわの額にくちづけようとして、みぁん、という声とともに前肢で遮られた。うん、爪をださないお気遣い感謝いたします。
「ふん、不興をかったようですね。早く買い出しに行かれては?」
ちょうどフキンを洗いおえたルーが、相変わらずの無表情のままドアを開けて入ってきていた。なんだか恥ずかしくなって、頬をかく。猫もすう、と目を細めて、いいからはやく行けと言っているようだ。
「わかったわよ、行くわよ…つれないかた!」
猫の頭をくるりとなで、入り口にかけられていた籠をとって出掛けようとそとへ出た。
柔らかな春の陽光のなか、私は扉をしめて歩きだした。草原を渡ってきた風が、建物にからむつるばらとクレマチスをゆらりゆらり、と揺らして、小道をすすむたび足元のラベンダーや、イヌハッカの茂みからマルハナバチやチョウが飛び立つ。
その様子に気をとられて私は足を止めた。すうっとするような甘い香りのむこうに、どこかせつなくなるような…何の香りだったかしら?
「お嬢様、帽子を」
声をかけられて、それをうけとった。手に持ったまま、ぼんやり霞がかったようにまた庭をながめていると、
「……なにか、ありましたか」
そう言われてルーを見上げた。
なにかあるわけなんかない、そもそも私には、はじめからなにもなかったのに。
「お嬢様、靴紐はしゃんと結ぶように言ったじゃないですか、転びます」
ぱん、と肩を叩かれ、ルーが小道にひざまづいて靴紐を結び直してくれた。
「ランドルフ」
その呼び名に、ルーの肩がビクッと動いた。
「止めてください、もうその名前は捨ててきた筈です」
ルーは下を向いたままだ。
心が氷でできてる、なんて噂が出るほどのルーが、いまどんな顔をしているのかしら。
急に面白くなって、私は笑ってしまう。
「じゃあ私もお嬢様なんかじゃないわ、宿屋のエリンよ?親無しの貧乏な赤帽の妹で、兄のために恋人と家を離れた、料理上手で賢くて働き者の、美人なおかみさんよ」
ルーから靴紐を取り返し、さっさと結び直す。堅く、ほどけないように。
「はあ、だからあなたのその自信は何処から来るんですか」
買い物籠を私に返してくれながら、ルーは呆れたようにつぶやく。
「いけない、午後の開店に間に合わなくなる。いってくるわね」
私は踵をかえして小走りになる。
丘を下って行くと、糸杉の並木がある。そのあたりまでくると、急にあたりはほの暗くなって、雨の気配に私は足をはやめた。しまった、丘の上はほとんどいつも春の日差しだから、すっかり失念してた。
駆け足で小さな商店のたちならぶ町へはいってゆくと、ぱらぱらと雨粒が落ちはじめた。
「エリンさん、こちらへ」
開いた扉に飛び込むのと、ざあっと音がして、本降りになるのは一緒だった。
「間一髪だね」
扉をあけた若い男性は、そういってまだ雨を見ている。
上背の高い、銀の髪は、湿った風でゆらゆらと揺れている。青みがかった黒い瞳は、半分眠っているようにぼんやりと定まらない。
フランセス・クラン。町のひとたちは親しみを込めてクランさんと呼ぶ。もとは食品の貿易でひと財産築いた貴族だという噂だけれど、本当のところは誰にもわからない。私と同じ流れ者で、この商店街で珈琲の専門店を営んでおり、ちょっとした女性向けの小物の委託販売をしているが、お客がいないときはほとんどねむっている。
おそらくは、今も雨に気付かなかったら、まだ眠っていたのだろう。
私は薄暗いオレンジの照明の灯った店内を見回した。
何に使うのかわからない、沢山の秤や珈琲のための器具と、瓶に入った珈琲豆。ときには場違いなほど可愛らしい紅茶の缶や、レジのあるカウンターの上にはスミレや色とりどりの琥珀糖までが置かれていた。
「これはなにかしら?」
私が手にとったのは、丸い底の瓶のようなもの。蓋をあけ、匂いを嗅ごうとすると、
「危ない!」
突然、それをとりあげられた。
2
あなたにおすすめの小説
無能妃候補は辞退したい
水綴(ミツヅリ)
ファンタジー
貴族の嗜み・教養がとにかく身に付かず、社交会にも出してもらえない無能侯爵令嬢メイヴィス・ラングラーは、死んだ姉の代わりに15歳で王太子妃候補として王宮へ迎え入れられる。
しかし王太子サイラスには周囲から正妃最有力候補と囁かれる公爵令嬢クリスタがおり、王太子妃候補とは名ばかりの茶番レース。
帰る場所のないメイヴィスは、サイラスとクリスタが正式に婚約を発表する3年後までひっそりと王宮で過ごすことに。
誰もが不出来な自分を見下す中、誰とも関わりたくないメイヴィスはサイラスとも他の王太子妃候補たちとも距離を取るが……。
果たしてメイヴィスは王宮を出られるのか?
誰にも愛されないひとりぼっちの無気力令嬢が愛を得るまでの話。
この作品は「小説家になろう」「カクヨム」にも掲載しています。
【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました
佐倉穂波
恋愛
転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。
確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。
(そんな……死にたくないっ!)
乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。
2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。
当然だったのかもしれない~問わず語り~
章槻雅希
ファンタジー
学院でダニエーレ第一王子は平民の下働きの少女アンジェリカと運命の出会いをし、恋に落ちた。真実の愛を主張し、二人は結ばれた。そして、数年後、二人は毒をあおり心中した。
そんな二人を見てきた第二王子妃ベアトリーチェの回想録というか、問わず語り。ほぼ地の文で細かなエピソード描写などはなし。ベアトリーチェはあくまで語り部で、かといってアンジェリカやダニエーレが主人公というほど描写されてるわけでもないので、群像劇?
『小説家になろう』(以下、敬称略)・『アルファポリス』・『Pixiv』・自サイトに重複投稿。
悪役令嬢は死んで生き返ってついでに中身も入れ替えました
蒼黒せい
恋愛
侯爵令嬢ミリアはその性格の悪さと家の権威散らし、散財から学園内では大層嫌われていた。しかし、突如不治の病にかかった彼女は5年という長い年月苦しみ続け、そして治療の甲斐もなく亡くなってしまう。しかし、直後に彼女は息を吹き返す。病を克服して。
だが、その中身は全くの別人であった。かつて『日本人』として生きていた女性は、異世界という新たな世界で二度目の生を謳歌する… ※同名アカウントでなろう・カクヨムにも投稿しています
悪役令嬢の父は売られた喧嘩は徹底的に買うことにした
まるまる⭐️
ファンタジー
【第5回ファンタジーカップにおきまして痛快大逆転賞を頂戴いたしました。応援頂き、本当にありがとうございました】「アルテミス! 其方の様な性根の腐った女はこの私に相応しくない!! よって其方との婚約は、今、この場を持って破棄する!!」
王立学園の卒業生達を祝うための祝賀パーティー。娘の晴れ姿を1目見ようと久しぶりに王都に赴いたワシは、公衆の面前で王太子に婚約破棄される愛する娘の姿を見て愕然とした。
大事な娘を守ろうと飛び出したワシは、王太子と対峙するうちに、この婚約破棄の裏に隠れた黒幕の存在に気が付く。
おのれ。ワシの可愛いアルテミスちゃんの今までの血の滲む様な努力を台無しにしおって……。
ワシの怒りに火がついた。
ところが反撃しようとその黒幕を探るうち、その奥には陰謀と更なる黒幕の存在が……。
乗り掛かった船。ここでやめては男が廃る。売られた喧嘩は徹底的に買おうではないか!!
※※ ファンタジーカップ、折角のお祭りです。遅ればせながら参加してみます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる