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走馬灯

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家を出た俺は、あてもなく街を彷徨った。
見慣れた風景も、今はモノクロに霞んで見える。
俺は、いったい何てことを言ってしまったんだ。
俺は、改めて自分の口にした言葉を悔い、恥ずかしいと思った。
余命いくばくも無いなかで懸命に生きている彼を、俺は心無い言葉で傷つけてしまった。
俺なんかより、彼は毎日辛い想いをしているのに、それをわかってやれていなかった自分が情けなく、自分を責めることしか出来なかった。
いったいどうやって許しを乞うたら許してもらえるだろう?
どうしたら、彼の傷ついた心を癒せるだろう?
公園のベンチで俺は座りこみ、さっきのこと、そしてこれからのことを考えてみた。
しかし、いくら考えても良いアイデアなど思い浮かぶはずもなく、ただただ時間だけが経過していく。
気がつけば、辺りを夕闇が包んでいた。
太陽も山の稜線にその姿を隠そうとしていた。
公園で遊んでいた子供たちも、蜘蛛の子を散らすように家族の待つ家に帰って行く。
子供の頃、俺は夢がいっぱいだった。
野球選手になりたいと思っていた。
その次にパイロットになりたいと思った。
宇宙飛行士にもなりたかったし、F1レーサーにもなりたかった。
しかし、だんだんと大人に近づくにつれて、夢は小さくなっていった。
野球選手になるには才能が足りなかったし、パイロットや宇宙飛行士になるには勉強が出来なかったし、F1ドライバーになるにもどうやってなるのかすら分からず、気がつけば大学受験をし、就職をし、今の生活に至っている。
今の自分の姿を見て、少年の頃の俺はどう思うのだろう?
何一つ夢を叶えることのできなかった大人の俺を見て、何を思うだろう?
しかも俺は、大切な人1人を守ることすらできない、それどころか傷つけてしまうような未熟で最低な男だ。
頭の中で、俺はいつまでも、いつまでも、何度も何度も自分を責め、罵った。
そしてふと、俺は死にたいと思った。
こんな自分に何の生きている価値や意味があるのだろう?
俺は立ち上がり、フラフラとある場所を目指して歩き出した。
もう、こんな人生は終わらせよう。
俺がいても、彼を傷つけてしまうばかりで、何もしてあげられない。
それならば、いっそのこと消えた方が彼も楽になるのではないだろうか。
目的地に向かう道すがら、俺はずっと呪文のように繰り返し、繰り返しそれらの言葉を念じるように自分に言い聞かせていた。
気がつけば、俺は駅のホームに立っていた。
夜の帳が下りた駅は、多くの家路を急ぐ人たちで溢れていた。
あぁ、この人たちには帰る場所があって、待っている人がいるのだろうな。
また明日になれば、何の疑問もなく起きて、朝ごはんを食べて、仕事に向かうのだろうな。
毎朝起きるたびに、1日の始まりを苦痛に思い、また生きていることに絶望している俺にはできない生活だ。
羨ましい。
ちょっと前までは俺もこれらの人たちと同じく生活していたのに、今は精神を病み、この体たらくだ。
その時、駅にアナウンスが流れてきた。
次の快速電車がこの駅を通過するというアナウンスだった。
ちょうどいい、もう思い残すことなんて何も無い。
もう、生きていることに疲れたよ。
いや、思い残すことが一つだけあった。
でも、もうそれさえもどうでもいい。
俺は、ゆっくりと線路に向かって一歩踏み出した。
と、その時だった。隣にいた若い母親が電話に夢中になってベビーカーから手を離した。
ベビーカーは、ホームの傾斜をゆっくりと滑りだし、次第に加速して線路に向かって走り出す。
気づいた母親の大きな悲鳴が辺りに響き、必死に追いかけるが、既にベビーカーは線路に落ちる寸前だった。
俺は咄嗟に走り出し、身を挺してベビーカーを倒して俺は線路に落ちた。
そこへちょうど快速電車が入線してきた。
目の前に電車が迫っている。
もう避けきれない。周りには退避する場所も無い。
俺は、電車に轢かれた。
人は、人生の終わりに、それまでの人生を走馬灯のように見るらしいと聞いたことがある。
だけど、俺にはその走馬灯を見ることが出来なかった。
ただ、俺の命が消えるその瞬間、俺は川口青年の笑顔を見たような気がした。
良かった、最後に見たものが、彼の明るい笑顔で。
もう、これで本当に思い残すことは無かった。



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