鸞翔鬼伝 〜らんしょうきでん〜

紗々置 遼嘉

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七章 帰参

二十五.小夜更けて

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 五月~六月まで、翔隆は髪と目を黒くしてから九州の島津家に出仕していた。
島津又四郎忠平は勿論、小姓・近習の一人一人と刀を交えて指導をしていたのだ。

 そして六月の三日に甲斐の躑躅ヶ崎館に入った。
既に出仕する事は伝えてあったので、すぐに中に通された。
「お屋形さまは只今、重臣方と共に本主殿にて評定中にございまする故、お一人でそちらへ」
案内した小姓がそう言い、行ってしまう。
〈まずい所へ来たな…〉
翔隆はそう思いながらも優雅な築山泉水つきやませんすいのある庭の側にある本主殿に来て跪き、障子越しに声を掛ける。
「評定中に失礼致します。篠蔦三郎兵衛、まかり越しました」
「…入れ」
中から武田徳栄軒とくえいけん信玄の声が返ってきたので、翔隆は障子を開けた。
ーーーと、そこにはほぼ全員が揃っていた。
信玄の弟の武田刑部少輔ぎょうぶのしょうふ信廉のぶかど(四十二歳)、諏訪四郎勝頼(二十三歳)、その腕には嫡男の武王(二歳)が抱かれている。
そして馬場民部少輔みんぶのしょうふ信春(五十五歳)、山県三郎兵衛尉さぶろうびょうえのじょう昌景(三十八歳)、内藤修理亮しゅりのすけ昌豊まさとよ(四十五歳)、真田一徳斎いっとくさい幸隆ゆきたか(五十六歳)は勿論の事、高坂弾正忠だんしょうちゅう昌信(四十二歳)、秋山伯耆守ほうきのかみ虎繁とらしげ(四十二歳)も居た。
翔隆は平伏しながらもドキドキと高鳴る胸を押さえた。
〈まずいなぁ…苦手な方が多い…〉
思っていると、馬場民部少輔みんぶのしょうふが声を荒らげて言う。
「早う入って閉めぬかっ!」
「はっ!」
怒鳴られて中に入ると、翔隆は信玄の正面に座る。
そして、中央の絵図を見て驚破きょうはさせられる。
その絵図は信濃から遠江、駿河への物だったのだ。
「…駿河を、お攻めになられるのですか?」
「うむ」
やはり…報告の通りだ。
「左様で…」
「何か、言いたげな顔をしておるな」
「いえ………」
翔隆は目線を伏せる。
「構わん、申してみよ」
そう言われて、翔隆はためらいがちに信玄を見て言う。
「…では申し上げまする。今川領を攻めるのには反対です」
「その訳は?」
「北の上杉は隙あらば信濃や上野こうずけに来ますし、今川氏真は北条の娘を娶っています。さすれは北条の援軍も来る事でしょう。それに、今川領は三河の徳川も狙っています。これを知れば、好機とばかりに徳川・織田の連合軍が攻め寄せて参りましょう」
「ふむ…しかしもう決めた事よ」
「では、駿河を攻めるにあたり、徳川三河守に書状を出して下され。同盟して遠江を譲るべきです」
そう言うと、流石に信玄も驚いて目を丸くする。
「何?!」
そして、馬場民部少輔みんぶのしょうふが怒鳴る。
「小童がっ!貴様はこの今川攻めがいかに重要か分かっておらぬくせに…」
すると言い終わらぬ内に翔隆が負けじと叫ぶ。
「分かっておりまする!重臣方は北条、織田、徳川の強さが分かっておられぬのです!!」
「織田の透破すっぱが出しゃばるでないわ!!」
久々に言われた言葉だ。しかしそれでも黙っている訳にはいかない。
「上杉のみを警戒して、他は何の手も打たずに駿河を攻めれば、東は北条、西は徳川と攻めてくるのは確実です!さすれば織田も黙っておりますまい、好機とばかりに二万三万の兵を持ち出してやってきましょう!本隊が危うくなってからでは遅いのですぞ!?そうなる前に、今や自由の身であるを味方に付けておく必要があるのです!!」
その迫力のある進言に、一同はしんとなる。
本心から武田の御為を思って言っているのだという事が分かったからこそだ。
すると信玄がしばし考えた後に言う。
「…分かった、そうしよう」
「お屋形さま!!しかし…」
「織田と徳川をよく知る翔隆がこれ程言うのだ、その可能性は否定出来まい。同盟しておくのも手であろう」
そう言うと、信玄は手を叩いて評定を終わらせた。
すると小姓・近習がやって来て絵図を片付けて夕餉の支度に取り掛かる。
翔隆がホッと胸を撫で下ろしていると、勝頼が手招くのに気が付いて近寄った。
「翔隆、お菊の子の武王たけおうじゃ」
「四郎様に似てとても利発げなお子ですね」
「ふっ…ほら武王、翔隆じゃぞ」
勝頼が紹介すると、武王は楽しげに笑う。
そこへ膳が運ばれてきたので、翔隆は失礼して酒の入った提子ひさげを持ち、信玄の盃に注ぐ。そして他の小姓達同様に重臣達の盃にも注いで回った。
ふと盃を出しながら秋山虎繁がまじまじと翔隆を見て言う。
「変わらんのぉ」
「は?」
「初めて会った時より、体しか変わっとらん。不思議な奴じゃ」
「…左様ですか…?」
自分では随分と変わったつもりでいるのだが…傍から見ると変わらないのだろうか?
「あの矢苑しおんとやらは、あの時の童であろう?随分と変わっておったわ」
「はい。中々以て口が悪く…ご迷惑をお掛けしてるものと存じまする」
「はは…デカくなっておったわ。わしより背が高かったぞ」
「私も越されました」
そんな会話をしていると、隣にいた内藤修理亮しゅりのすけが咳払いをしたので、翔隆は一礼して奥に控えた。
そこに信玄が声を掛ける。
「翔隆」
「あ、はい!」
は、それ程強いか?」
「はっ…織田の方は鉄砲隊がございます。…こちらでは鉄砲など軽んじられるやもしれませんが、侮れませぬ。そして、兵の士気も充分で、まともに戦えば…痛手を負うかと…。徳川は忠義者揃いで、いかな窮地でも命も惜しまず尽くしましょう」
「いかな策略をするのだ?」
そう聞くと翔隆は頭を下げた。
「それは申せませぬ。主命とあらば、今より探ってきた事をそのまま申し上げまする。織田も主家なればこそ、ご容赦を…また、武田の秘事も織田には漏らしませぬ故…」
「分かった、それは透破すっぱにやらせよう」
「申し訳…」
言い掛けて翔隆は刀を抜いて飛び上がった。
「!!」
皆が皆、信玄に斬り掛かるのかと思ったその時、刀は天井を貫き、翔隆は左手で天井にぶら下がった。
ポタリと雫が落ち、それが血であると知ると驚愕した。
その間に翔隆は板を外して死体を引きずり出して中央に降り立つ。
覆面の形状から、それが上杉の〝軒猿のきざる〟であると悟る。
「何処の透破すっぱだ」
信玄が冷静に問う。
「はっ、上杉の手の者と存じまする」
「輝虎めか…他に居るやもしれん」
「いえ、探った所この者のみでした」
「そうか」
信玄がホッとして微笑する。
翔隆は場がしんとなっているのに気が付いて慌てて死体を担いだ。
「申し訳ござりません!すぐに始末して床を拭きに参りまする故、どうかお待ち下さいませ!」
そう言い、翔隆は走っていった。
近習などが床を拭いている所に翔隆が水桶を持ってきて共に床掃除をしたので、忠義者だという事だけは宿老も認めたようであった。

 それから戌の刻まで酒宴となり、信玄と勝頼親子は退出した。
勝頼は余程、武王が可愛いのか常に側に置いていた。
武王は義信自刃の翌月に生まれた嫡子で、不運にもお菊の方は武王を産んですぐに亡くなっている。
〈…勝頼様もお淋しいのだろう〉
と思っているとグオーッという凄いいびきが耳を通過する。
見ると馬場信春が大の字になって眠っていた。
「馬場どの、風邪を召されるぞ!」
内藤昌豊が体を揺すっても馬場信春は全く目を覚まさない。
翔隆は苦笑して側に寄って膝を付く。
「私めがお運び致しましょう。寝所はどちらでしょうか?」
「裏方だが…一人では無理であろう」
「いえ」
にっこり笑いながら、翔隆は二十貫以上はあろう信春の巨体を抱き上げて歩き出した。
それを慌てながら内藤昌豊が追い掛ける。
一同はそれを唖然として見送った。

 暫くして翔隆が戻ると、山県昌景と真田幸隆とすれ違う。
翔隆は端に避けて頭を下げるが、二人は舌打ちして行ってしまった。
〈…やはり嫌われているな…〉
そう思っていると、後から来た信廉に肩を叩かれる。
「気に致すな」
そう微笑して言い、信廉も寝所へ向かった。
翔隆は溜め息を吐いて、本主殿の片付けをし始める。
すると、その手を高坂昌信に掴まれた。
「お主はやらなくても良いから、こっちへ座れ」
そう言う先には膳と円座が置かれていた。
「しかし…」
「何も食べておらぬではないか。わざわざ用意させたのだから食え」
「…かたじけない…実は腹が減って目が回りそうだったのだ」
翔隆は笑って言い、遠慮なく円座に座って夕餉を頂く。
するとその側に高坂昌信と秋山虎繁が座る。
「士官が叶ったそうじゃな」
とは高坂昌信。
「はい」
「武田以外に主家を持つなどと信じ難いが、何故か許せる…不思議よな」
とは秋山虎繁。
「それは翔隆がだからであろう」
笑って昌信が言う。否定は出来ないので、翔隆は黙って食べた。
「本に変わらんのぉ…いや、若くなったか?」
「高坂、それはあり得まい。でも変わらんな…」
二人は真剣にじーっと翔隆を見た。
翔隆は苦笑して言う。
「その…落ち着いて食わせて頂けまいか…?」
「おお済まん!」と秋山虎繁。
「つい」と高坂昌信。
「言っておくが、私は貴方方と九つしか違いませぬぞ」
「ふーむ…」
納得出来ない様子で、二人はチラチラと翔隆を見る。
その内に二人も仮寝所へ向かったので、翔隆は一人で片付けをした。
すると天井から声がする。
(私もお手伝い致しましょうか?)
「…義深よしみか…」
(はい、お久しゅうございまする)
「今は近習ではないのか?」
(もうそのような年ではございませぬ)
小声で言い、天井から忍び装束の影優かげゆう義深よしみ(三十七歳)が降りてきた。
「…懐かしいな…息災だったか?」
「はい。貴方さまはお変わりありませんな」
「皮肉を言うな…。久方振りに皆と会ったが、変わらぬのは私だけだ…。これでも気にしているのだぞ?」
「済みませぬ…」
「あ、いや…いいんだ」
そう言うものの、心の不安は拭えなかった。
自分は〔不知火一族〕で、不老であり長寿なのだ…百や二百も生きる間に、周りの仲間達は…友や主君はーーーーー。
〈いや!考えまい!!〉
考えたらゾッとしたので、翔隆は首を振って考えるのをやめた。
「そういえば、伊織いおりの姿が見えんが…」
「え?伊織どのならば………もしや、何も聞いておられないのですか?」
「何がだ」
「あ………その…」
義深は目を逸らす。
忠長が報告しないものを、自分が言っていいものなのか考えたのだ。
「何かあったのか?!」
「いえ!あ、はい…」
「どっちなんだ?!」
翔隆は思わず義深の肩を掴んで揺する。
すると義深はまだ考えながらも耳打ちした。
(実は………)
それを聞き、翔隆は目を見開いて驚く。
「え…?真に………?」
「嘘など申しませぬ。伊織どのはご懐妊遊ばして、あと五ヶ月程でお産みになられるとの事です」
「ーーーーー」
翔隆は暫く茫然とする。
恐らくは、喜ぶべき事なのだろう。しかし…。
〈……体を許した、という事は…お屋形様に好意を持った…という事だよな……〉
個人的な事に、自分が立ち入るべきでは無い…。
べきでは無いのは分かっている。
もうとしては会わぬーーーそう決意して別れたにも関わらず、嫉妬の炎が沸き上がってくる。
〈身勝手なものだ…〉
愛した女が他の男へ好意を寄せる事が、こんなにも辛いとは思いも寄らなかった。
しかし相手は主君である信玄だ…誰が文句を言えようか。
苦悩している翔隆の背を義深は軽く叩く。
「伊織どのは義信さまが使われていた曲輪におられます」
それだけ言い、義深は天井へと消えた。
〈私と伊織は、同じ主君に仕える身……!〉
そう強く思い、嫉妬心を押し殺してから、翔隆は歩き出した。

 義信の曲輪に来ると、番兵が居た。
「中に入れろ」
「ここは何人たりとも中へは通すなとの、お屋形さまのご下知にございます!」
「そのお屋形様より代わりに行けと命じられたのだ。通るぞ」
そう咄嗟に嘘を付くと翔隆はスタスタと中へ入っていく。
少し廊下を歩くと侍女が走ってきて行く手を遮った。
「なりませぬ!」
「構わん。私は伊織の元の主の篠蔦だ。様子を見に来た」
「あ…篠蔦、どの…?」
名は聞いているらしく、侍女はすぐにどいてくれる。
一番奥の部屋に伊織の姿を見つけた。
小袖のみを来て、ゆったりと横たわりながら庭を眺めている…。
久しく見る、穏やかで優しい顔だ。
翔隆はそっと近付いて障子越しに声を掛ける。
「…月見れば、千々に物こそ悲しけれ、我が身一つの秋にはあらねど」
それは〝月を見ると私一人の秋では無いが、あれこれと限りなく物悲しい思いになる〟という意味の百人一首の句の一つだった。
すると中から返事が来た。
やすらはで、寝なましものを小夜更けて、かたぶくまでの月を見しかな」
それも百人一首の句の一つで〝ためらう事なく寝れば良かったのに、貴方が来てくれると宛にしたばかりに、夜が更けて西の山に沈もうとするまでの月を見てしまった〟という意味の物だ。
翔隆がドキッとして止まっていると、中からくすりと笑う声がする。
「ーーーに、なる所だったわ。久し振りね、翔隆…入って」
「あ、ああ…」
翔隆がおずおずと中に入ると、伊織は着物の襟を合わせて座る。
久し振りに間近で見る伊織はとても艶っぽく、目映いばかりに美しかった。
翔隆は思わず息を呑んで、ふと視線を逸らした。
「その…ちゃんと食べているか?」
「ええ、の分もしっかり食べているわ。まだ奉公出来るのに、お屋形さまがここに居ろと…」
「息災で何よりだ…」
「ねぇ、こっちを見て?」
そう言われて、翔隆は俯きがちに伊織の方を見る。
「…相変わらず美男子よね」
「…からかわないでくれ」
そのふてくされたような様子から、伊織は何も知らずに来たのを悟った。
「さては忠長から何も聞いてなかったのね?」
「こんな事、一言も聞いてない!いや、お、おめでとう…」
「ありがとう。…じゃあこれも知らないのね………私ね、百騎を預かる将になれたの!凄いでしょ」
「え?!あ…お、おめでとう………凄いな…俺より大出世じゃないか…」
翔隆は何だか悲しくなりながらも言う。
「ふふ…信長公への再士官、おめでとう」
「あ、ありがとう…」
「もう侍大将にでもなった?」
「いや、まだ…一応奉行だが、小姓から抜けられない…」
「大変ね…でも貴方は綺麗だから、寵愛されていいでしょ」
随分と明るく皮肉を言ってくれる。
〈もしかしたらずっと小姓、近習のまま一生を終えるんじゃあ…〉
そんな不安が頭をよぎる。
だが、深く考えたくないという本能がすぐにそれを打ち消した。
「その子は………どうやって育てるんだ…?」
「女でも男でも、厳しく育てるわ!お屋形さまの良き手足となれるように!」
なんと力強い答えなのだろうか。
翔隆は苦笑して立ち上がる。
「長居をしたな。また来る」
「ええ」
答えると翔隆はすぐに歩き去ってしまう。
その後ろ姿を目で追いながら、伊織は呟く。
「待っているわ…」
蚊のような小さな囁きは翔隆の背に吹く風に掻き消されて、その耳に届く事は無かった。

 それから翔隆は約束通り十日間、甲斐で出仕した。
刀の師事や弓道などにも付き合い、掃除や料理など様々な事をした。
「また参りまする」
久し振りに大雨となった十四日、翔隆は信玄に挨拶をして甲斐を離れた。
 ーーー一つやり残した事をすっかり忘れて。
そう、伊織の事だ。
伊織は
「やはり来なかった…」
と雨を見ながら呟く。
あの時歌った句の通り、翔隆はこと女に関しては宛にならない男だった………。
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