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一章 天命
七.偶発〔二〕
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今、君主・織田信長はいつもの〝遊び〟から戻り、夕餉を食べている。
自分はといえば、朝食べた握り飯一つだけで腹がぺこぺこ。
〈…腹が減って目が回る…〉
そう思いながら座っている。
池田勝三郎、佐々内蔵助らが毅然として座っているのに対して、翔隆はゆらゆらと揺れていた。
「翔隆、どうした」
信長に声を掛けられ、翔隆はびしっとする。
「ハハハハハ、そうかしこまる事はない。お主は、お主のやりたい様にすれば良いのだ」
「はあ…」
「時に、一つ尋ねるが……」
「何でしょう」
幾分、気を和ませて答える。
「―――この世を、どう見る」
「え…」
その問いに小姓衆それに塙直政らが翔隆に注目し、耳を傾ける。
信長は、重い口調で更に尋ねた。
「今のこの世を、どう思う?」
家臣としてこれをどう答えるかによって、翔隆が使える者か否か又、どういう気質かが分かってくるのだ。
〈…義成と同じ事を聞くなあ…〉
翔隆は少し首をかしげて考えた後、口を開く。
「乱世、ですね」
「うむ。戦続きじゃ」
「戦を起こす事…。大名達が…領地を増やすそうと…利益を得ようとして〝無駄〟な争いばかりするから…戦ばかり起き、上手くいかないんだと思います…」
「では、どうすれば良いと思う」
聞かれて、翔隆はしばし考えてから答える。
「欲を張っていないで、戦を失くそうと思い戦をすれば自然と人心…民や武将が従うだろうし…。何より自分の領地がどうなっているか、民草は何を欲しているのかを知らなければ、とても平定なんて出来ないだろうし…。民の心を捉えて地の利を知り尽くしていれば、どんな戦にも勝てます。それも出来ない様な族ばかりだから、滅びていくんだ……と、思います」
使える!
信長が思い、驚嘆した。
池田勝三郎や佐々内蔵助などはその言葉を反芻して考え込んでいる。
とても、ただの平民とは思えない。
その上、腕も立つ。
信長の目がねは、確かであった。
「うむ。よう、そこまで見抜けるものだ」
「いえ…あの…いつも義成に言われてましたから…。あっ! 義を成すと書くんですけれど…」
「それは誰だ?」
「あ、俺の刀術の師匠で…。幼い時からよく、各地の事を教えてくれました。どの大名も、天下は取れないと言っていて…」
翔隆は焦って説明する。
「ほう…」
信長は、目を光らせた。
こういう時は気に障ったか、興味を待ったかのどちらかだ。
「天下は取れぬ、か」
「はい。甲斐の武田は国造りに向いてるし、相模の北条は国を守るのに忙しい、今川は野心しかあらず。毛利は〝上洛出来ない〟。九州の島津などは例外だ、と……」
実に、的を得た言葉である。
だが〝凡人〟ではそこまで見抜けまい。
「翔隆、今度そ奴を連れて参れ」
「はあ…」
翔隆は気のない返事をした。
今度とは、いつになる事やら…。
連れて来るという事は、主君を持った事が、ばれるという事なのだから……。
ギュルルルル…
ふいに低い音が、一同の耳を通過した。翔隆の腹の虫が鳴ったのだ。
「プッ」
皆、思わず吹き出し掛けた。
笑いを堪えなかったのは、信長だけ。
「ハハハハハ! さては九郎め、飯を食う間も与えなかったな?」
「い、いえ違うんです! 頂きましたが…」
翔隆はもじもじとする。
代わって直政が、苦笑気味に答えた。
「こ奴、台所の女の童にくれてやったそうで」
「自分の飯をかッ!」
「御意」
「ハッ! アハハハハハ! そうか、今後は下の者にもたらふく食わせんと大事な〔軍師〕が飢え死にするか!」
実に楽しげに笑いながら、信長は翔隆にも湯づけをやった。
「して、どうであった」
とは信長。寝所の明かりの中、塙直政と二人きりで話す。
「はっ。先刻お聞きの通り、各地の事などは小姓達よりも詳しく、武については申し分ございませぬ。…他についてもよく吸収しまして、あと二日もあれば充分に育つかと」
「それは重畳。…しかし〝義成〟とやらは、気になるな」
「〝義〟の字を使うとなれば、やはり城持ちの家でしょうな。一度、お会いなさるが宜しいでしょう」
「ん…」
塙直政は信長の寝所を退出して、己の邸に戻る。
〈ん…?〉
途中、呻き声が聞こえたので行ってみると、翔隆の部屋であった。
〈…?〉
傷でも痛むのかと思い、障子を開けて様子を窺う。
と、畳の上でうなされて藻掻いている翔隆の姿があった。
「! 翔隆!」
塙直政は慌てて駆け寄り、翔隆を揺り起こす。
「翔隆、しっかり致せ!」
「うあっ!!」
翔隆は叫んで起き上がり、震えている。
「翔隆…」
その様子から、余程辛い目に遭ったというのが分かる。
直政は哀憫を感じて、翔隆を優しく抱き締めた。
「大丈夫だ……」
何が大丈夫なのか…と自問しながらも、直政は翔隆の頭を撫でてやる。
それから、翔隆が眠るまで頭を撫でていた。
幾日も過ぎ行くと翔隆は城勤めにも慣れ、十日も経つと他の小姓達ともすっかり意気役合し、仲良くなっていた。
翔隆は明るく振る舞っている…。
翔隆が信長の事を〝三郎様〟と呼ぶと、何やら違和を覚えた。
信長を含め、その場の皆が考えると、〝ああ〟と納得する。
翔隆の字も三郎が付くからだ。
そう付けたのは信長自身。
自身の三郎の名をくれてやったのだから仕方がない。
「翔隆、諱を呼ぶのを許してやる」
「え?! ですが、忌み名って…立ち場が偉くないと…」
「構わん」
「はあ…では、信長様で…」
そうなると、他の者も同じく諱を許さなくてはならなくなる。
だが、どうしても厭な人は呼ばないから安心して欲しい、と翔隆から申し出たので名前の呼び方については解決した。
今日も河原に、はしゃぎ声が響く。
信長がいつもの如く村の悪童共を引き連れて、年少の者には印地打ち(石投げ合戦)をやらせ、自らは年長の者達と小姓で、竹槍合戦に熱中しているのだ。
「それッ!」
特別に長い竹槍で、東西別れての叩き合い。
その合戦に、翔隆も交ざっていた。
無論勝ったのは信長軍。
万千代軍は惨敗である。
勝利した、少年や青年達は褒美として握り飯を貰う。
敗者の万千代・内蔵助らは他の者と共にしょげて拗ねた様に信長を見つめる。
「何じゃ、その顔は!」
「殿、不公平にござりまする!」
万千代が言う。
「殿お一人でも強いのに翔隆まで居ては、負けが見えているではござりませぬか!」
「そうごねるな。次はそっちに入れてやる」
信長が明るく言うと、翔隆が苦笑した。
「万千代殿、俺が居たって勝てないよ」
「それもそうじゃ!」
そう言い、笑い合う。
―――――その時!
「翔隆!!」
という、稲妻の如き怒鳴り声が響いた。
〈この声…!〉
翔隆はビクリとして反射的に振り向く。
見るとそこには、傷だらけの義成が仁王立ちしていた。
「義―――成……!」
翔隆は驚愕し、そして嬉しそうに笑いながら立ち上がる。
信長らは遠巻きにじっと、成り行きを見つめていた。
義成は、翔隆だけを睨み据えてズカズカと歩み寄って来た。
「生きて……」
翔隆は驚喜して涙を浮かべて言う。
それには何も答えずに目の前に立つと、義成は無言で手を振り上げ、平手打ちをする。
バシッ… いい音だ。
「…この大馬鹿者!! 風麻呂の知らせにも応じないとは何事か! …誰がこんな所で、こんな時に遊べと言った?!」
「ごめんなさい…っ!」
何度も、容赦なく平手打ちをする。
突然、その手が止まった。
見ると、信長が義成の手首を強く掴んでいるではないか!
「そのくらいにしておけ」
「あんたには関係あるまい!」
「ある。そ奴はわしの〝家臣〟だ」
言ってしまった…!
翔隆は、知られた事に絶望感を抱いた。
「翔隆……お前……――――!」
義成は蒼冷めて、翔隆を見つめる。
「だから〝近付くな〟と言ったのだ!」
そんな義成にお構い無しに、信長は堂々と言う。
「お主が〝義成〟か」
「!?」
「名乗れ」
「お…俺に、名乗る様な名など無いっ!」
…明らかにおかしい。
「ほおお…果たしてそうか? ん? ……その柄の〝紋〟は……」
「!」
義成はサッと退き、大声で怒鳴る。
「翔隆、来い!!」
「義成…! す、済みません信長様! すぐに戻りますから!」
言いながら、翔隆は走り去る義成の後を追った。黙って見送る信長に、直政が歩み寄る。
「殿、今の男の刀の柄……」
「ん…。あれは今川家のもの……」
駿河の大名、今川…織田家の、強敵。
「成る程…義成、か。調べる必要があるようじゃな」
「はっ」
直政は、すぐに馬の下へ走った。
「…すぐ戻る、か…。当てにはならんな」
ポツリと信長が呟いた。
「待ってよ義成!」
後を追って来た所は、清洲城の近くにある小高い丘の中の森であった。
その奥深くの、生い茂った木々の中に真新しい小屋が建てられていた…。
中に入ると、義成は凄い形相で睨む。
「翔隆、〝掟〟を破ったな?」
「そ、それは…認めるさ。けど! 俺だって好きで〔一族〕なんかに生まれた訳じゃない! それに、皆だって〝掟破り〟だったじゃないかっ!! 皆………皆は!? 母さんや姉さん達……睦月や拓須は?!」
義成は沈黙した。
「まさか……死―――っ!?」
「違う! …いや……弥生さんは…死んだ………」
「母さんまで…っっ!」
翔隆はぎゅっと唇を噛み、涙を堪える。
「…楓は、何処かで必ず生きている筈だ」
「どこか…って…一緒じゃなかったのか?!」
「逃がしたのだ。奴らが、集落に目を奪われている隙に…」
生きている!!
…そう、目が語っていた。
彼とて、愛する女を易々と殺させる様な男ではない。
それに頷いて、翔隆は小屋の中を見回す。
「…睦月達は……?」
ピクリと義成の体が、一瞬強強ばった。
それを見て、翔隆は例え様のない不安に駆られる。
「義成! 睦月と拓須は?!」
翔隆は叫びながら、義成の体を揺する。
だが義成は、目を閉じて辛そうにうつむくだけである。
「…どうしたんだ…? 何故、何も言ってくれないんだ………義成っ!」
「………」
沈黙。義成は、どう話していいものか考えていた。
〈…あの二人が狭霧だと……言ってしまった方がいいのか? しかし、翔隆は認めずに拒絶するだろう…どう、言えばいいものか…〉
考えていると、翔隆が蒼白して言う。
「まさか…殺され、た…のか…?!」
「いや! 生きて…いる」
「なら、どうしてそんな顔をする?! 何があったんだ!!」
「翔隆…」
義成はやっと顔を上げた。
そして、力強く翔隆の両肩を掴む。
「落ち着いて、よく聞け。睦月達はもう戻らぬ」
「え……?」
「陽炎に、連れ去られた……〝今川〟に送られたのだ」
「今川? 駿河の? 何で?!」
「それは……」
「義成っ!!」
またもや、だんまりである。
翔隆は出掛かった言葉を呑み込み、深呼吸をして少し心を落ち着かせてから、今聞いた話を頭の中で整理する。
〈陽炎に連れ去られた………あいつは睦月でさえも敵わなかった相手だ。もう戻らない…?どういう事だ? 今川に連れていかれた……陽炎が、今川と通じている! …だが……何故?いや、考えても判らないんだ。…きっと義成はその事について、何か知っている………だが、何か言えない〝訳〟がある…〉
義成を見ると、彼はやはり辛そうに唇を噛み、俯いている。
それを見て何かを確信すると、翔隆はスックと立ち上がった。
「翔隆?」
「今川に、居るんだね?」
「何をする気だ」
「―――俺が…助け出す」
「無茶だ! お前の敵う相手ではない!!」
「そんな事分かってるさ! でも俺は、じっとなんかしていられないんだ! …無理はしない、大丈夫」
「待てっ…」
止める間もなく、翔隆は飛び出していった。
〈義成の様子を見れば無理だって分かる……義成だって、きっとあいつと戦って止めようとしたんだ。……でも、出来なかった…―――義成でさえも敵わない相手に、立ち向かうなんて出来る筈もない…。だけど、誰かがやらなくちゃ…義成がやらないのなら俺が……やるしかない――――!!〉
まず真っ先に那古野城に入ると、翔隆は己にあてがわれた城の一室に向かい、志木の形見である小刀を背にした。
鏡に向かいコクリと頷き決意を固めると、信長の下へ走っていった。
「信長様!」
「おう! 早かったのう」
「俺に、しばしの暇を下さい!」
「何ッ?」
仕えて早々、休みをくれとは大胆不敵…というか、突飛な発言である。
驚く信長らに、翔隆は真剣な眼差しを向ける。
「お願いします! 無礼だとは思います。でも、どうしても行かねばならない訳があるのです! それは…どうか聞かないで下さい。俺の……大事な〔師匠〕の危機なのです! …どうか、お許しを…!!」
その深刻な表情で、信長は何かを悟りうなずいた。
「許す。行って参れ」
「ありがとうございます!」
そう言い翔隆は、深々と頭を下げる。
そして、そのまま外に飛び出し、石垣を飛び越えて行ってしまった。
「お珍しいですな」
どこか嬉しげな平手政秀の言葉に微笑し、信長は表を見やった。
…本当に珍しい。
信長がこんなにも清々しく、家臣を〝見る〟とは…。
〝翔隆〟という風が、今までの信長を…………いや。
那古野城を、変えつつあるのだ………。
自分はといえば、朝食べた握り飯一つだけで腹がぺこぺこ。
〈…腹が減って目が回る…〉
そう思いながら座っている。
池田勝三郎、佐々内蔵助らが毅然として座っているのに対して、翔隆はゆらゆらと揺れていた。
「翔隆、どうした」
信長に声を掛けられ、翔隆はびしっとする。
「ハハハハハ、そうかしこまる事はない。お主は、お主のやりたい様にすれば良いのだ」
「はあ…」
「時に、一つ尋ねるが……」
「何でしょう」
幾分、気を和ませて答える。
「―――この世を、どう見る」
「え…」
その問いに小姓衆それに塙直政らが翔隆に注目し、耳を傾ける。
信長は、重い口調で更に尋ねた。
「今のこの世を、どう思う?」
家臣としてこれをどう答えるかによって、翔隆が使える者か否か又、どういう気質かが分かってくるのだ。
〈…義成と同じ事を聞くなあ…〉
翔隆は少し首をかしげて考えた後、口を開く。
「乱世、ですね」
「うむ。戦続きじゃ」
「戦を起こす事…。大名達が…領地を増やすそうと…利益を得ようとして〝無駄〟な争いばかりするから…戦ばかり起き、上手くいかないんだと思います…」
「では、どうすれば良いと思う」
聞かれて、翔隆はしばし考えてから答える。
「欲を張っていないで、戦を失くそうと思い戦をすれば自然と人心…民や武将が従うだろうし…。何より自分の領地がどうなっているか、民草は何を欲しているのかを知らなければ、とても平定なんて出来ないだろうし…。民の心を捉えて地の利を知り尽くしていれば、どんな戦にも勝てます。それも出来ない様な族ばかりだから、滅びていくんだ……と、思います」
使える!
信長が思い、驚嘆した。
池田勝三郎や佐々内蔵助などはその言葉を反芻して考え込んでいる。
とても、ただの平民とは思えない。
その上、腕も立つ。
信長の目がねは、確かであった。
「うむ。よう、そこまで見抜けるものだ」
「いえ…あの…いつも義成に言われてましたから…。あっ! 義を成すと書くんですけれど…」
「それは誰だ?」
「あ、俺の刀術の師匠で…。幼い時からよく、各地の事を教えてくれました。どの大名も、天下は取れないと言っていて…」
翔隆は焦って説明する。
「ほう…」
信長は、目を光らせた。
こういう時は気に障ったか、興味を待ったかのどちらかだ。
「天下は取れぬ、か」
「はい。甲斐の武田は国造りに向いてるし、相模の北条は国を守るのに忙しい、今川は野心しかあらず。毛利は〝上洛出来ない〟。九州の島津などは例外だ、と……」
実に、的を得た言葉である。
だが〝凡人〟ではそこまで見抜けまい。
「翔隆、今度そ奴を連れて参れ」
「はあ…」
翔隆は気のない返事をした。
今度とは、いつになる事やら…。
連れて来るという事は、主君を持った事が、ばれるという事なのだから……。
ギュルルルル…
ふいに低い音が、一同の耳を通過した。翔隆の腹の虫が鳴ったのだ。
「プッ」
皆、思わず吹き出し掛けた。
笑いを堪えなかったのは、信長だけ。
「ハハハハハ! さては九郎め、飯を食う間も与えなかったな?」
「い、いえ違うんです! 頂きましたが…」
翔隆はもじもじとする。
代わって直政が、苦笑気味に答えた。
「こ奴、台所の女の童にくれてやったそうで」
「自分の飯をかッ!」
「御意」
「ハッ! アハハハハハ! そうか、今後は下の者にもたらふく食わせんと大事な〔軍師〕が飢え死にするか!」
実に楽しげに笑いながら、信長は翔隆にも湯づけをやった。
「して、どうであった」
とは信長。寝所の明かりの中、塙直政と二人きりで話す。
「はっ。先刻お聞きの通り、各地の事などは小姓達よりも詳しく、武については申し分ございませぬ。…他についてもよく吸収しまして、あと二日もあれば充分に育つかと」
「それは重畳。…しかし〝義成〟とやらは、気になるな」
「〝義〟の字を使うとなれば、やはり城持ちの家でしょうな。一度、お会いなさるが宜しいでしょう」
「ん…」
塙直政は信長の寝所を退出して、己の邸に戻る。
〈ん…?〉
途中、呻き声が聞こえたので行ってみると、翔隆の部屋であった。
〈…?〉
傷でも痛むのかと思い、障子を開けて様子を窺う。
と、畳の上でうなされて藻掻いている翔隆の姿があった。
「! 翔隆!」
塙直政は慌てて駆け寄り、翔隆を揺り起こす。
「翔隆、しっかり致せ!」
「うあっ!!」
翔隆は叫んで起き上がり、震えている。
「翔隆…」
その様子から、余程辛い目に遭ったというのが分かる。
直政は哀憫を感じて、翔隆を優しく抱き締めた。
「大丈夫だ……」
何が大丈夫なのか…と自問しながらも、直政は翔隆の頭を撫でてやる。
それから、翔隆が眠るまで頭を撫でていた。
幾日も過ぎ行くと翔隆は城勤めにも慣れ、十日も経つと他の小姓達ともすっかり意気役合し、仲良くなっていた。
翔隆は明るく振る舞っている…。
翔隆が信長の事を〝三郎様〟と呼ぶと、何やら違和を覚えた。
信長を含め、その場の皆が考えると、〝ああ〟と納得する。
翔隆の字も三郎が付くからだ。
そう付けたのは信長自身。
自身の三郎の名をくれてやったのだから仕方がない。
「翔隆、諱を呼ぶのを許してやる」
「え?! ですが、忌み名って…立ち場が偉くないと…」
「構わん」
「はあ…では、信長様で…」
そうなると、他の者も同じく諱を許さなくてはならなくなる。
だが、どうしても厭な人は呼ばないから安心して欲しい、と翔隆から申し出たので名前の呼び方については解決した。
今日も河原に、はしゃぎ声が響く。
信長がいつもの如く村の悪童共を引き連れて、年少の者には印地打ち(石投げ合戦)をやらせ、自らは年長の者達と小姓で、竹槍合戦に熱中しているのだ。
「それッ!」
特別に長い竹槍で、東西別れての叩き合い。
その合戦に、翔隆も交ざっていた。
無論勝ったのは信長軍。
万千代軍は惨敗である。
勝利した、少年や青年達は褒美として握り飯を貰う。
敗者の万千代・内蔵助らは他の者と共にしょげて拗ねた様に信長を見つめる。
「何じゃ、その顔は!」
「殿、不公平にござりまする!」
万千代が言う。
「殿お一人でも強いのに翔隆まで居ては、負けが見えているではござりませぬか!」
「そうごねるな。次はそっちに入れてやる」
信長が明るく言うと、翔隆が苦笑した。
「万千代殿、俺が居たって勝てないよ」
「それもそうじゃ!」
そう言い、笑い合う。
―――――その時!
「翔隆!!」
という、稲妻の如き怒鳴り声が響いた。
〈この声…!〉
翔隆はビクリとして反射的に振り向く。
見るとそこには、傷だらけの義成が仁王立ちしていた。
「義―――成……!」
翔隆は驚愕し、そして嬉しそうに笑いながら立ち上がる。
信長らは遠巻きにじっと、成り行きを見つめていた。
義成は、翔隆だけを睨み据えてズカズカと歩み寄って来た。
「生きて……」
翔隆は驚喜して涙を浮かべて言う。
それには何も答えずに目の前に立つと、義成は無言で手を振り上げ、平手打ちをする。
バシッ… いい音だ。
「…この大馬鹿者!! 風麻呂の知らせにも応じないとは何事か! …誰がこんな所で、こんな時に遊べと言った?!」
「ごめんなさい…っ!」
何度も、容赦なく平手打ちをする。
突然、その手が止まった。
見ると、信長が義成の手首を強く掴んでいるではないか!
「そのくらいにしておけ」
「あんたには関係あるまい!」
「ある。そ奴はわしの〝家臣〟だ」
言ってしまった…!
翔隆は、知られた事に絶望感を抱いた。
「翔隆……お前……――――!」
義成は蒼冷めて、翔隆を見つめる。
「だから〝近付くな〟と言ったのだ!」
そんな義成にお構い無しに、信長は堂々と言う。
「お主が〝義成〟か」
「!?」
「名乗れ」
「お…俺に、名乗る様な名など無いっ!」
…明らかにおかしい。
「ほおお…果たしてそうか? ん? ……その柄の〝紋〟は……」
「!」
義成はサッと退き、大声で怒鳴る。
「翔隆、来い!!」
「義成…! す、済みません信長様! すぐに戻りますから!」
言いながら、翔隆は走り去る義成の後を追った。黙って見送る信長に、直政が歩み寄る。
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「ん…。あれは今川家のもの……」
駿河の大名、今川…織田家の、強敵。
「成る程…義成、か。調べる必要があるようじゃな」
「はっ」
直政は、すぐに馬の下へ走った。
「…すぐ戻る、か…。当てにはならんな」
ポツリと信長が呟いた。
「待ってよ義成!」
後を追って来た所は、清洲城の近くにある小高い丘の中の森であった。
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「翔隆、〝掟〟を破ったな?」
「そ、それは…認めるさ。けど! 俺だって好きで〔一族〕なんかに生まれた訳じゃない! それに、皆だって〝掟破り〟だったじゃないかっ!! 皆………皆は!? 母さんや姉さん達……睦月や拓須は?!」
義成は沈黙した。
「まさか……死―――っ!?」
「違う! …いや……弥生さんは…死んだ………」
「母さんまで…っっ!」
翔隆はぎゅっと唇を噛み、涙を堪える。
「…楓は、何処かで必ず生きている筈だ」
「どこか…って…一緒じゃなかったのか?!」
「逃がしたのだ。奴らが、集落に目を奪われている隙に…」
生きている!!
…そう、目が語っていた。
彼とて、愛する女を易々と殺させる様な男ではない。
それに頷いて、翔隆は小屋の中を見回す。
「…睦月達は……?」
ピクリと義成の体が、一瞬強強ばった。
それを見て、翔隆は例え様のない不安に駆られる。
「義成! 睦月と拓須は?!」
翔隆は叫びながら、義成の体を揺する。
だが義成は、目を閉じて辛そうにうつむくだけである。
「…どうしたんだ…? 何故、何も言ってくれないんだ………義成っ!」
「………」
沈黙。義成は、どう話していいものか考えていた。
〈…あの二人が狭霧だと……言ってしまった方がいいのか? しかし、翔隆は認めずに拒絶するだろう…どう、言えばいいものか…〉
考えていると、翔隆が蒼白して言う。
「まさか…殺され、た…のか…?!」
「いや! 生きて…いる」
「なら、どうしてそんな顔をする?! 何があったんだ!!」
「翔隆…」
義成はやっと顔を上げた。
そして、力強く翔隆の両肩を掴む。
「落ち着いて、よく聞け。睦月達はもう戻らぬ」
「え……?」
「陽炎に、連れ去られた……〝今川〟に送られたのだ」
「今川? 駿河の? 何で?!」
「それは……」
「義成っ!!」
またもや、だんまりである。
翔隆は出掛かった言葉を呑み込み、深呼吸をして少し心を落ち着かせてから、今聞いた話を頭の中で整理する。
〈陽炎に連れ去られた………あいつは睦月でさえも敵わなかった相手だ。もう戻らない…?どういう事だ? 今川に連れていかれた……陽炎が、今川と通じている! …だが……何故?いや、考えても判らないんだ。…きっと義成はその事について、何か知っている………だが、何か言えない〝訳〟がある…〉
義成を見ると、彼はやはり辛そうに唇を噛み、俯いている。
それを見て何かを確信すると、翔隆はスックと立ち上がった。
「翔隆?」
「今川に、居るんだね?」
「何をする気だ」
「―――俺が…助け出す」
「無茶だ! お前の敵う相手ではない!!」
「そんな事分かってるさ! でも俺は、じっとなんかしていられないんだ! …無理はしない、大丈夫」
「待てっ…」
止める間もなく、翔隆は飛び出していった。
〈義成の様子を見れば無理だって分かる……義成だって、きっとあいつと戦って止めようとしたんだ。……でも、出来なかった…―――義成でさえも敵わない相手に、立ち向かうなんて出来る筈もない…。だけど、誰かがやらなくちゃ…義成がやらないのなら俺が……やるしかない――――!!〉
まず真っ先に那古野城に入ると、翔隆は己にあてがわれた城の一室に向かい、志木の形見である小刀を背にした。
鏡に向かいコクリと頷き決意を固めると、信長の下へ走っていった。
「信長様!」
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「何ッ?」
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驚く信長らに、翔隆は真剣な眼差しを向ける。
「お願いします! 無礼だとは思います。でも、どうしても行かねばならない訳があるのです! それは…どうか聞かないで下さい。俺の……大事な〔師匠〕の危機なのです! …どうか、お許しを…!!」
その深刻な表情で、信長は何かを悟りうなずいた。
「許す。行って参れ」
「ありがとうございます!」
そう言い翔隆は、深々と頭を下げる。
そして、そのまま外に飛び出し、石垣を飛び越えて行ってしまった。
「お珍しいですな」
どこか嬉しげな平手政秀の言葉に微笑し、信長は表を見やった。
…本当に珍しい。
信長がこんなにも清々しく、家臣を〝見る〟とは…。
〝翔隆〟という風が、今までの信長を…………いや。
那古野城を、変えつつあるのだ………。
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bekichi
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