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二章 変転
四.松平竹千代
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三月二日。
上巳の節句を明日に控えて、城内の者達は心なしか浮き立っている様であった。
那古野の本丸の庭に植えられた桃の木の花も程よく染まり、沢山の愛らしい蕾を付けている。
明日が一番の見頃だろう。
「綺麗だな…」
翔隆は、奉行務めの手を休めて呟く。
側で務めを教えている長秀がそれに微笑んだ。
「うむ、何とも見事だ。…だが、気が散っていては奉行は務まらんぞ」
「ん…」
軽く叱られて、すぐに書に向き直る。
陽が落ちるのは早いもので、既に夕刻となっていた。
翔隆はそんな事も知らずに、うたた寝をしてしまっている…。
―――暗闇…
これから始まる夢には、ろくなものがない。
「岩室や……」
声が、する。
その声に導かれる様に、翔隆は小さな光を目指して歩く。
すると、末森城が見えてきた。
その座敷の中に、織田信秀と側室の岩室の方が居た。
睦まじく寄り添い合い酒を呑み、語らっている。
〈何故こんな夢を…?〉
そう思った次の瞬間には、その光景が見る間に血に染まっていった。
〈うっ、うわっ!〉
一面が、血に染まっていく…。
―――誰かが、自分を呼ぶ声がする……
「…たか…」
「翔隆!」
ハッと目を覚ますと、辺りは真っ暗になっており心配げに見つめる前田犬千代がいた。
「あ……犬千代………」
「どうした? 酷く魘されていたぞ…? こんなに汗を掻いて……」
言われてみると、汗で全身びっしょりとしていた。
翔隆は苦笑して立ち上がり、背伸びする。
「んんーっ。いや、何でもない。…済まんな、居眠りなどして…」
「春も近いからな。それより、今日はもう休んで良いとの事だ」
「え?」
「明日は寅の三刻(午前五時)に出仕せよ、との事。…夜の内は〝修行〟に励むが良い……殿の計らいじゃ」
「そう、か…ありがとう!」
翔隆は書物を片付けて、外に出た。
城内は賑やかで明るい。
それを背にしながら、翔隆は何か心に引っ掛かるものを感じていた。
先刻、見た夢が――――余りにも生々し過ぎて気に掛かるのだ。
〈何かあってからでは遅い!〉
そう決意し、末森城へ向かう。
夜の闇に紛れて走っていくと、森の中に同じ様に走る〝影〟を見付けた。
影は、東に向かって獣の如き速さで駆けていく。間違いなく、狭霧だ。
己の守る土地で、敵を見付ける。
…これ程、忌ま忌ましいものはない。
月明かりの中、翔隆は相手に悟られない様に、後をつけた。
この頃やっと〝気配〟と〝足音〟を消せる様になったのだ。
〈あれは……霧風? 何用でこんな所に……〉
慎重に、冷静に…。見付からぬ様にしなければ意味がない。
今、この大地を、尾張を〔一族〕の血で汚したくはない。
その一心で、翔隆は生まれて初めて〝尾行〟をした。
霧風は翔隆に気付く様子もなく、三河・遠江と駆けて行く。
それを見つめながら、翔隆はある言葉を思い出した。
「彼を知り、己を知れば百戦して危うからず」
昔、睦月に習った兵法の言葉。
…確かに、狭霧は良く不知火の事を知っている。
だが、自分はどうなんだ―――…?
自分の知っている事は―――――――?
〈白茶の髪である…今川家と深く結び付いている…他は?〉
そう……それ以外の事は何も掴めていないではないか。
〈――――もっと、知っておかなければ…また捕まってしまう…!〉
翔隆は自分自身に頷いて、見失わない様に後を付けた。…とはいえ、行き先など分かっている。
思った通り、霧風は今川館へ入って行った。
〈…どうやって、忍び込もうか…〉
取り敢えず、城外を一通り見てみると一ヶ所だけ守りの薄い場所があった。
大手門だ。
その向こうには屋敷が並んでいる。
門番はただの人間二人。
幸い、辺りには狭霧の気配もない。
〈…悪いが通らせてもらうぞ〉
心中で詫び、翔隆は背後に回るとその無防備な首筋に手刀を食らわせた。
「っっ!」
兵士は呻く間も無く気絶する。
中に潜入して何人かの者に会ったが、その度に鳩尾を突いたり《術》で眠らせたりして、なるべく殺さぬ様に躱していった。
そして、やっと屋敷の中に足を忍ばせる。
〈…やはり、造りがいいなぁ…〉
などと半ば感心しながら歩いていくと、急にすぐ側の襖がカラリと開き、少年が顔を出した。
「!」
小姓かと思い身構えると少年はニヤリと笑って、後ろを向き
「やはりお主の言う通り、不知火の嫡子じゃぞ」
と小さめな声で明るく言った。
〈…?!〉
驚愕していると、その後方からこげ茶色の髪で顔の左半面に酷い火傷を負った男が出て来た。
「…竹千代様…もう一度だけ言いますが、不知火と関われば義元公の怒りに触れますぞ」
「だから内密じゃと申しておろう。一度だけじゃ、な?」
と二人で会話をする。
〈竹千代…松平竹千代様か…!〉
その竹千代の事なら、信長に聞いた事がある。
一五四七年に、三河から今川に人質とされる途中信秀の家臣が攫って来た。
一時は処刑されかけたのだが信長に救われて三年間、織田に居たという。
その間、よく共に遊び実の弟の様に可愛がっていた、と……。
〈確か、俺が仕える前に父を亡くし…義元が安祥城を攻めて…そこの城主で信長様の庶兄である信広様を質として、竹千代様と人質交換なされたとか……〉
そう冷静に考えてふと前を見ると、竹千代がすぐ側まで来ていた。
「うわっ!」
「しーっ! …中へ入れ」
「え…?」
「ここでは人目に付く。わしの相手をしてくれたら、黙って見逃す故…」
〝人質の身〟にも関わらず、竹千代は大胆に言った。
言っている意味が良く分からないが、とにかくここは竹千代を信じた方が良さそうだ。
素直に従い、中に入って座ると竹千代はニコリと笑う。
「わしは松平竹千代じゃ。主、翔隆であろう?」
「あ…はい。貴方様のお噂は、信長様から伺っております。とても気丈で賢く、可愛い弟だ…と」
「はっはっはっ、そうか信長どのが…。よくこの竹千代に優しゅうしてくれたのぉ」
竹千代は懐かしげに、目を細めた。
「あの…どうして俺の事を…」
「この修隆から聞いてな。一度、話をしてみたかったのだ」
「そうですか…」
―――え?
〝おさたか〟から聞いて?
って、この人か?!
もしや狭霧……?
そんな不安を抱きながらも、翔隆は率直に聞いてみる。
「あの…もしや、竹千代様は〔狭霧〕をご存じで…?」
「うむ」
「あの…狭霧は―――何を目的としているのでしょうか」
突然そう言うと、火傷の男も竹千代も唖然とする。その内、竹千代が笑い出した。
「あっはははは。わしに言われてもなぁ…」
困って言うと 後ろに控える男が溜め息を吐いた。
「さすがに羽隆の小伜だけあって、いい度胸をしておるわ」
「父を、ご存じなのか―――?」
「知るも何も、私の弟だ」
修隆(五十二歳)と呼ばれた男は、苦笑する。
羽隆の〝兄〟―――――…と、いう事は…
「貴殿は……〝狭霧に送られた長男〟…っ?!」
「そうだ」
…つくづく、不知火は〝不幸〟だと思った。
父の代に送られた〝長男〟が狭霧の中に居る、という事は…この人は、羽隆に連れ戻されぬまま――――忘れ去られた人………?
だが、この人にはそんな悲しさを感じられない。
人それぞれに、違う価値観と正義と真実を持っているからかもしれないが…。
翔隆はもう一度、真剣に尋ねてみた。
「俺は、狭霧の事を何一つ知りません。何かご存じならば、お教え頂きたい」
そう言ってじっと返答を待つと、竹千代が修隆を見る。
「…修隆、教えてやってはくれまいか?」
「しかし……」
「この竹千代からの願いじゃ」
そう言われると、修隆はフッと微苦笑を浮かべる。
…どうやら、修隆は竹千代に〝好意〟を抱いているらしい。
「…分かり申した」
そう言うと、修隆は真面目な表情で翔隆を見据える。
「翔隆、本来〔嫡子〕たる者、己で道を極め切り開いていかねば一族の信頼を得られぬのだ。何があろうとも、自分一人の力でやれ」
「は、はい!」
翔隆は、姿勢を正して答えた。
その態度で気を和らげたか、修隆は仕方無さそうに重い口を開く。
「フウ…。狭霧の目的は、決して〝人〟に悟られぬ様に天下を手中に収める事だ。代々、各大名を騙し味方にしている。どの大名が狭霧を取り入れているかは、己で調べるのだな」
冷たいが、どこか優しさを感じさせる口調であった。
翔隆は、満面に笑みを浮かべる。
「ありがとう、修隆」
「いや………」
その無邪気な笑みを見て、修隆は心中で狼狽する。
〈…羽隆の様な気性かと思うたが……こ奴、人の心を開かせるコツをよう知っておるな……〉
そんな事を考えている間に、竹千代が翔隆の間近に居た。
「さっ! 次はわしの番じゃぞ」
「は、はあ…」
「信長公はどうじゃ? 息災か?」
懐かしそうに竹千代が聞いた。
「あ……はい。茶筅つぶりで小袖に縄を巻き、瓢箪や袋をいっぱいぶらさげて、いつも泥だらけになっておられまする」
「ふむ、そうか」
竹千代はにこやかに微笑む。
「して、そなたいつから仕えておるのじゃ?」
「はあ………昨年の、四月に」
「ふーむ。そうそう、平手どのは?」
「あ、はあ…ははは、いつも信長様に振り回されておられますよ」
「あはははははは、そうかそうか…」
竹千代は、とても満足そうにしている。翔隆は少し気が引けたが、思い切って聞く。
「その……お怒りを覚悟の上でお聞きしたい事がございます」
「ん?」
「…お父君、広忠様ご逝去の後、岡崎城にて跡目を継がれてもいい筈。なのに何故ここに…」
…沈黙。
竹千代は真顔でじっと一点を見つめている。
そして、何かを振っ切る様に首を振り苦笑した。
「察しておろうが…わしは今川の〝人質〟よ。松平の者達が謀叛を起こさぬ為の、な」
とても、寂しい言葉である。だがそんな寂しさを、竹千代は微塵も感じさせない。
寧ろその逆境をばねにして、強く生きようとしている。
「竹千代様…」
「……父はな、狭霧に殺されたのだ」
「えっ?!」
「…奴らは今川の乱破じゃ…。三河欲しさに、暗殺された。だが、それでも……松平は今川に〝恩〟があるのだ。それを、無にする訳にはいかぬ…」
「………っ」
なんと、言っていいか分からなかった。なんて、哀れなのだろうか…。
まだ幼いというのに、人質にされて………尚かつ父を暗殺されて。
〈汚い真似を……!〉
ギリッと歯噛みすると、修隆が神妙な面持ちでぽつりと言う。
「そういえば、信秀も明日には死ぬと霧風が申しておりましたな」
「弾正忠どのまでっ?!」
竹千代が驚愕して言った。
〈―――――のぶひで………!?〉
翔隆は、目を見開いて修隆を見る。
「信秀って…まさか信長様の――――」
「それ以外に、誰かいるのか?」
冷たい言葉に、翔隆は限りない闇の中に堕ちていく様な錯覚に捕らわれた。
〈あの夢……っ!! 正夢だったのかっ!〉
蒼白しきって立ち上がると、竹千代が目の前に笛を突き付けた。
竹で出来た漆塗りの、立派な笛だ。
「〝友好の証〟じゃ、翔隆」
「竹千代様…」
翔隆は戸惑って竹千代を見る。
「これは、父上が幼い頃くれた物じゃ。父上が元服の折、祖父から頂いたとかでな」
「そっ、そんな大切な品、頂けませんっ」
「良いから聞け。…これは…わしが尾張にいた頃、よう吹いたのだ。信長どのは何かあると、この笛の音を所望された」
「で、ですが…こんな事をして…罰せられるのでは――――…」
ちらっと修隆を見ると、複雑な表情でこのやりとりを見ている。
竹千代はそんな事もお構いなしに、笛を翔隆に強引に持たせ肩を叩いた。
「持っていけ」
重い、一言だった。
せめてこれで、信長を慰めてやれとの心遣いなのだろう。
何も出来ぬ自分に代わって…。
翔隆は軽く頷くと、笛を腰に差す。
竹千代はニコリと笑い、
(また会おうぞ)
と小声で言った。それに微笑で応え、翔隆は深く一礼して夜の闇に消えていった。
〈信秀様が死ぬ――――。それを知ったら、信長様はどうなさるだろうか…〉
友好と、死と、真実。
翔隆は複雑な心境で、尾張への帰路を急いだ。
一刻、二刻と過ぎゆき日が昇り…尾張に着いた時には、卯の一刻(午前六時)となっていた。
〈まずい…出仕に遅れる…!〉
余計、苛立たせる原因を作ってしまった事に後悔した。
だが、今更慌てふためいた所でどうにもなりはしない。翔隆は恐る恐る城に向かった。
那古野城内の中庭では、丹羽長秀、前田犬千代、佐々内蔵助、池田勝三郎を始め小姓達が上巳の節句を楽しんでいた。
……が、信長の姿が見えない。
翔隆はそっとその輪の中に入ると、塙直政の肩を軽く突つく。
「おお、遅かったの」
「はあ…その、信長様は……」
「殿ならば小用じゃ」
そう言った瞬間に、信長が厠から戻ってきた。
翔隆はすぐ様、駆け寄って跪く。
「遅いッ!!」
との一喝で、皆が注目した。
「はっ、申し訳ございませぬ。ですが火急、お知らせせねばならぬ事がござりますれば…」
「何じゃッ」
翔隆はそっと近付き耳打ちする。
(…信秀様が、今朝…お隠れに……)
「何ィ…?!」
(子細は後程。これには、一族が絡んでおります…狭霧の)
と、言い掛けた時
「一大事にござる!!」
と叫びながら、平手政秀が走ってきた。
そして、滑りながらも平伏する。
「殿! 大殿さまがっっ」
「分かっておる! して!」
そう返されて、政秀は戸惑いながらも布で汗を拭った。
「は、はあ。末森の岩室御前の下で、突然お倒れになり…」
「何か言って死んだかッ!!」
「〝信長を〟…と。その後は………」
政秀は目を潤ませて俯いた。
〝信長を…〟その後に、何を言わんとしていたのか。
死人に口無し、である。
〈死んだ…―――――!!〉
信長は、政秀に何も言わず背を向ける。
「翔隆ッ、犬千代ッ、万千代ッ! 参れ!!」
「はっ!」
「他の者は節句を続けよ! 派手になッ」
そう言うと、信長はスタスタと歩いて行ってしまった。
上巳の節句を明日に控えて、城内の者達は心なしか浮き立っている様であった。
那古野の本丸の庭に植えられた桃の木の花も程よく染まり、沢山の愛らしい蕾を付けている。
明日が一番の見頃だろう。
「綺麗だな…」
翔隆は、奉行務めの手を休めて呟く。
側で務めを教えている長秀がそれに微笑んだ。
「うむ、何とも見事だ。…だが、気が散っていては奉行は務まらんぞ」
「ん…」
軽く叱られて、すぐに書に向き直る。
陽が落ちるのは早いもので、既に夕刻となっていた。
翔隆はそんな事も知らずに、うたた寝をしてしまっている…。
―――暗闇…
これから始まる夢には、ろくなものがない。
「岩室や……」
声が、する。
その声に導かれる様に、翔隆は小さな光を目指して歩く。
すると、末森城が見えてきた。
その座敷の中に、織田信秀と側室の岩室の方が居た。
睦まじく寄り添い合い酒を呑み、語らっている。
〈何故こんな夢を…?〉
そう思った次の瞬間には、その光景が見る間に血に染まっていった。
〈うっ、うわっ!〉
一面が、血に染まっていく…。
―――誰かが、自分を呼ぶ声がする……
「…たか…」
「翔隆!」
ハッと目を覚ますと、辺りは真っ暗になっており心配げに見つめる前田犬千代がいた。
「あ……犬千代………」
「どうした? 酷く魘されていたぞ…? こんなに汗を掻いて……」
言われてみると、汗で全身びっしょりとしていた。
翔隆は苦笑して立ち上がり、背伸びする。
「んんーっ。いや、何でもない。…済まんな、居眠りなどして…」
「春も近いからな。それより、今日はもう休んで良いとの事だ」
「え?」
「明日は寅の三刻(午前五時)に出仕せよ、との事。…夜の内は〝修行〟に励むが良い……殿の計らいじゃ」
「そう、か…ありがとう!」
翔隆は書物を片付けて、外に出た。
城内は賑やかで明るい。
それを背にしながら、翔隆は何か心に引っ掛かるものを感じていた。
先刻、見た夢が――――余りにも生々し過ぎて気に掛かるのだ。
〈何かあってからでは遅い!〉
そう決意し、末森城へ向かう。
夜の闇に紛れて走っていくと、森の中に同じ様に走る〝影〟を見付けた。
影は、東に向かって獣の如き速さで駆けていく。間違いなく、狭霧だ。
己の守る土地で、敵を見付ける。
…これ程、忌ま忌ましいものはない。
月明かりの中、翔隆は相手に悟られない様に、後をつけた。
この頃やっと〝気配〟と〝足音〟を消せる様になったのだ。
〈あれは……霧風? 何用でこんな所に……〉
慎重に、冷静に…。見付からぬ様にしなければ意味がない。
今、この大地を、尾張を〔一族〕の血で汚したくはない。
その一心で、翔隆は生まれて初めて〝尾行〟をした。
霧風は翔隆に気付く様子もなく、三河・遠江と駆けて行く。
それを見つめながら、翔隆はある言葉を思い出した。
「彼を知り、己を知れば百戦して危うからず」
昔、睦月に習った兵法の言葉。
…確かに、狭霧は良く不知火の事を知っている。
だが、自分はどうなんだ―――…?
自分の知っている事は―――――――?
〈白茶の髪である…今川家と深く結び付いている…他は?〉
そう……それ以外の事は何も掴めていないではないか。
〈――――もっと、知っておかなければ…また捕まってしまう…!〉
翔隆は自分自身に頷いて、見失わない様に後を付けた。…とはいえ、行き先など分かっている。
思った通り、霧風は今川館へ入って行った。
〈…どうやって、忍び込もうか…〉
取り敢えず、城外を一通り見てみると一ヶ所だけ守りの薄い場所があった。
大手門だ。
その向こうには屋敷が並んでいる。
門番はただの人間二人。
幸い、辺りには狭霧の気配もない。
〈…悪いが通らせてもらうぞ〉
心中で詫び、翔隆は背後に回るとその無防備な首筋に手刀を食らわせた。
「っっ!」
兵士は呻く間も無く気絶する。
中に潜入して何人かの者に会ったが、その度に鳩尾を突いたり《術》で眠らせたりして、なるべく殺さぬ様に躱していった。
そして、やっと屋敷の中に足を忍ばせる。
〈…やはり、造りがいいなぁ…〉
などと半ば感心しながら歩いていくと、急にすぐ側の襖がカラリと開き、少年が顔を出した。
「!」
小姓かと思い身構えると少年はニヤリと笑って、後ろを向き
「やはりお主の言う通り、不知火の嫡子じゃぞ」
と小さめな声で明るく言った。
〈…?!〉
驚愕していると、その後方からこげ茶色の髪で顔の左半面に酷い火傷を負った男が出て来た。
「…竹千代様…もう一度だけ言いますが、不知火と関われば義元公の怒りに触れますぞ」
「だから内密じゃと申しておろう。一度だけじゃ、な?」
と二人で会話をする。
〈竹千代…松平竹千代様か…!〉
その竹千代の事なら、信長に聞いた事がある。
一五四七年に、三河から今川に人質とされる途中信秀の家臣が攫って来た。
一時は処刑されかけたのだが信長に救われて三年間、織田に居たという。
その間、よく共に遊び実の弟の様に可愛がっていた、と……。
〈確か、俺が仕える前に父を亡くし…義元が安祥城を攻めて…そこの城主で信長様の庶兄である信広様を質として、竹千代様と人質交換なされたとか……〉
そう冷静に考えてふと前を見ると、竹千代がすぐ側まで来ていた。
「うわっ!」
「しーっ! …中へ入れ」
「え…?」
「ここでは人目に付く。わしの相手をしてくれたら、黙って見逃す故…」
〝人質の身〟にも関わらず、竹千代は大胆に言った。
言っている意味が良く分からないが、とにかくここは竹千代を信じた方が良さそうだ。
素直に従い、中に入って座ると竹千代はニコリと笑う。
「わしは松平竹千代じゃ。主、翔隆であろう?」
「あ…はい。貴方様のお噂は、信長様から伺っております。とても気丈で賢く、可愛い弟だ…と」
「はっはっはっ、そうか信長どのが…。よくこの竹千代に優しゅうしてくれたのぉ」
竹千代は懐かしげに、目を細めた。
「あの…どうして俺の事を…」
「この修隆から聞いてな。一度、話をしてみたかったのだ」
「そうですか…」
―――え?
〝おさたか〟から聞いて?
って、この人か?!
もしや狭霧……?
そんな不安を抱きながらも、翔隆は率直に聞いてみる。
「あの…もしや、竹千代様は〔狭霧〕をご存じで…?」
「うむ」
「あの…狭霧は―――何を目的としているのでしょうか」
突然そう言うと、火傷の男も竹千代も唖然とする。その内、竹千代が笑い出した。
「あっはははは。わしに言われてもなぁ…」
困って言うと 後ろに控える男が溜め息を吐いた。
「さすがに羽隆の小伜だけあって、いい度胸をしておるわ」
「父を、ご存じなのか―――?」
「知るも何も、私の弟だ」
修隆(五十二歳)と呼ばれた男は、苦笑する。
羽隆の〝兄〟―――――…と、いう事は…
「貴殿は……〝狭霧に送られた長男〟…っ?!」
「そうだ」
…つくづく、不知火は〝不幸〟だと思った。
父の代に送られた〝長男〟が狭霧の中に居る、という事は…この人は、羽隆に連れ戻されぬまま――――忘れ去られた人………?
だが、この人にはそんな悲しさを感じられない。
人それぞれに、違う価値観と正義と真実を持っているからかもしれないが…。
翔隆はもう一度、真剣に尋ねてみた。
「俺は、狭霧の事を何一つ知りません。何かご存じならば、お教え頂きたい」
そう言ってじっと返答を待つと、竹千代が修隆を見る。
「…修隆、教えてやってはくれまいか?」
「しかし……」
「この竹千代からの願いじゃ」
そう言われると、修隆はフッと微苦笑を浮かべる。
…どうやら、修隆は竹千代に〝好意〟を抱いているらしい。
「…分かり申した」
そう言うと、修隆は真面目な表情で翔隆を見据える。
「翔隆、本来〔嫡子〕たる者、己で道を極め切り開いていかねば一族の信頼を得られぬのだ。何があろうとも、自分一人の力でやれ」
「は、はい!」
翔隆は、姿勢を正して答えた。
その態度で気を和らげたか、修隆は仕方無さそうに重い口を開く。
「フウ…。狭霧の目的は、決して〝人〟に悟られぬ様に天下を手中に収める事だ。代々、各大名を騙し味方にしている。どの大名が狭霧を取り入れているかは、己で調べるのだな」
冷たいが、どこか優しさを感じさせる口調であった。
翔隆は、満面に笑みを浮かべる。
「ありがとう、修隆」
「いや………」
その無邪気な笑みを見て、修隆は心中で狼狽する。
〈…羽隆の様な気性かと思うたが……こ奴、人の心を開かせるコツをよう知っておるな……〉
そんな事を考えている間に、竹千代が翔隆の間近に居た。
「さっ! 次はわしの番じゃぞ」
「は、はあ…」
「信長公はどうじゃ? 息災か?」
懐かしそうに竹千代が聞いた。
「あ……はい。茶筅つぶりで小袖に縄を巻き、瓢箪や袋をいっぱいぶらさげて、いつも泥だらけになっておられまする」
「ふむ、そうか」
竹千代はにこやかに微笑む。
「して、そなたいつから仕えておるのじゃ?」
「はあ………昨年の、四月に」
「ふーむ。そうそう、平手どのは?」
「あ、はあ…ははは、いつも信長様に振り回されておられますよ」
「あはははははは、そうかそうか…」
竹千代は、とても満足そうにしている。翔隆は少し気が引けたが、思い切って聞く。
「その……お怒りを覚悟の上でお聞きしたい事がございます」
「ん?」
「…お父君、広忠様ご逝去の後、岡崎城にて跡目を継がれてもいい筈。なのに何故ここに…」
…沈黙。
竹千代は真顔でじっと一点を見つめている。
そして、何かを振っ切る様に首を振り苦笑した。
「察しておろうが…わしは今川の〝人質〟よ。松平の者達が謀叛を起こさぬ為の、な」
とても、寂しい言葉である。だがそんな寂しさを、竹千代は微塵も感じさせない。
寧ろその逆境をばねにして、強く生きようとしている。
「竹千代様…」
「……父はな、狭霧に殺されたのだ」
「えっ?!」
「…奴らは今川の乱破じゃ…。三河欲しさに、暗殺された。だが、それでも……松平は今川に〝恩〟があるのだ。それを、無にする訳にはいかぬ…」
「………っ」
なんと、言っていいか分からなかった。なんて、哀れなのだろうか…。
まだ幼いというのに、人質にされて………尚かつ父を暗殺されて。
〈汚い真似を……!〉
ギリッと歯噛みすると、修隆が神妙な面持ちでぽつりと言う。
「そういえば、信秀も明日には死ぬと霧風が申しておりましたな」
「弾正忠どのまでっ?!」
竹千代が驚愕して言った。
〈―――――のぶひで………!?〉
翔隆は、目を見開いて修隆を見る。
「信秀って…まさか信長様の――――」
「それ以外に、誰かいるのか?」
冷たい言葉に、翔隆は限りない闇の中に堕ちていく様な錯覚に捕らわれた。
〈あの夢……っ!! 正夢だったのかっ!〉
蒼白しきって立ち上がると、竹千代が目の前に笛を突き付けた。
竹で出来た漆塗りの、立派な笛だ。
「〝友好の証〟じゃ、翔隆」
「竹千代様…」
翔隆は戸惑って竹千代を見る。
「これは、父上が幼い頃くれた物じゃ。父上が元服の折、祖父から頂いたとかでな」
「そっ、そんな大切な品、頂けませんっ」
「良いから聞け。…これは…わしが尾張にいた頃、よう吹いたのだ。信長どのは何かあると、この笛の音を所望された」
「で、ですが…こんな事をして…罰せられるのでは――――…」
ちらっと修隆を見ると、複雑な表情でこのやりとりを見ている。
竹千代はそんな事もお構いなしに、笛を翔隆に強引に持たせ肩を叩いた。
「持っていけ」
重い、一言だった。
せめてこれで、信長を慰めてやれとの心遣いなのだろう。
何も出来ぬ自分に代わって…。
翔隆は軽く頷くと、笛を腰に差す。
竹千代はニコリと笑い、
(また会おうぞ)
と小声で言った。それに微笑で応え、翔隆は深く一礼して夜の闇に消えていった。
〈信秀様が死ぬ――――。それを知ったら、信長様はどうなさるだろうか…〉
友好と、死と、真実。
翔隆は複雑な心境で、尾張への帰路を急いだ。
一刻、二刻と過ぎゆき日が昇り…尾張に着いた時には、卯の一刻(午前六時)となっていた。
〈まずい…出仕に遅れる…!〉
余計、苛立たせる原因を作ってしまった事に後悔した。
だが、今更慌てふためいた所でどうにもなりはしない。翔隆は恐る恐る城に向かった。
那古野城内の中庭では、丹羽長秀、前田犬千代、佐々内蔵助、池田勝三郎を始め小姓達が上巳の節句を楽しんでいた。
……が、信長の姿が見えない。
翔隆はそっとその輪の中に入ると、塙直政の肩を軽く突つく。
「おお、遅かったの」
「はあ…その、信長様は……」
「殿ならば小用じゃ」
そう言った瞬間に、信長が厠から戻ってきた。
翔隆はすぐ様、駆け寄って跪く。
「遅いッ!!」
との一喝で、皆が注目した。
「はっ、申し訳ございませぬ。ですが火急、お知らせせねばならぬ事がござりますれば…」
「何じゃッ」
翔隆はそっと近付き耳打ちする。
(…信秀様が、今朝…お隠れに……)
「何ィ…?!」
(子細は後程。これには、一族が絡んでおります…狭霧の)
と、言い掛けた時
「一大事にござる!!」
と叫びながら、平手政秀が走ってきた。
そして、滑りながらも平伏する。
「殿! 大殿さまがっっ」
「分かっておる! して!」
そう返されて、政秀は戸惑いながらも布で汗を拭った。
「は、はあ。末森の岩室御前の下で、突然お倒れになり…」
「何か言って死んだかッ!!」
「〝信長を〟…と。その後は………」
政秀は目を潤ませて俯いた。
〝信長を…〟その後に、何を言わんとしていたのか。
死人に口無し、である。
〈死んだ…―――――!!〉
信長は、政秀に何も言わず背を向ける。
「翔隆ッ、犬千代ッ、万千代ッ! 参れ!!」
「はっ!」
「他の者は節句を続けよ! 派手になッ」
そう言うと、信長はスタスタと歩いて行ってしまった。
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