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四章 礎
二十八.迎え
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一五六一年(永禄四年)、三月。
…睦月と拓須の手掛かりが何も掴めないまま、年が明けてもう春を迎える…。
そんな中突然、嵩美(二十歳)が普通の着物を着て翔隆(二十六歳)の前に座った。
「どうしたのだ? 嵩美…」
「翔隆様、しばし暇を下され。出掛けたい場所があるのです」
「それは構わぬが…」
「では」
許可を得ると、嵩美はすぐに行ってしまった。
翔隆は不思議そうに嵩美の後ろ姿を見送り、光征(十六歳)を見る。
「…どうしたのだ?」
「さあ」
光征は首を傾げて答えた。
〈…待っていろ、弓香! 今行く!〉
嵩美は、全速力で富士の樹海に向かってひた走る。
樹海の西に辿り着くと、慎重に辺りを窺いながら中には入らずに、一歩一歩樹海に沿って北西に歩いていく。
〈今なら、こちら側は見張りも手薄。……しかし、樹海に入ってしまえば《結界》に触れ、侵入が読まれてしまう……〉
考えながら嵩美は耳を澄ませ、目を凝らして歩いていった。
その時、見張りの姿を捉える。
〈あれは…!〉
嵩美は気配を消して隠れながら、小声で呼び掛ける。
(弓奈殿! 聞こえますか?)
その声に気が付いた京羅の長男の娘である弓奈(二十歳)が、飄羅の孫である氷雨(十二歳)を連れて寄ってきた。
(どうしたの?! 不知火に寝返ったって噂を聞いて驚いていたのよ!)
弓奈が小声で言うと、嵩美はニヤリとして弓奈を見て言う。
(その通り。わたくしは、不知火につきました)
「か…!」
思わず声を上げて、弓奈は口を塞いで嵩美に近寄る。
(貴方、自分が何をしているか分かっているの?! ……ここでは話しも出来ないわ。ちょっと待ってて)
そう言って弓奈が氷雨の手を引いて行こうとすると、嵩美が呼び止める。
(お待ち下され。弓香を…妹君を、連れてきて頂きたいのです)
(……分かったわ。西湖で待っていて)
頷いて言うと、氷雨の手を引いて歩き出す。
「今の人、誰?」
「…覚えてないのね。その方がいいわ…この事は、二人だけの秘密よ」
「はい!」
氷雨は、愛らしく笑って答えた。
嵩美は言われた通りに、富士の西湖に向かった。
果たして、弓奈は約束を守ってくれるだろうか…?
弓奈は、弓香の姉だ。……共に育ち、歯痒い思いをしてきた仲間だ。
その仲間を裏切ったのだから、今更どうこう頼める筋合いはない。
しかし、信じたいのだ…共に切磋琢磨し、苦汁を飲まされ育った仲間であったからこそ!
〈…懐かしいものだ……〉
西湖を見つめながら、嵩美は遠い昔に思いを馳せる…。
同じような子供達と共に、洞窟の中で勉学や兵法を習い、剣術・体術などを仕込まれ、《術》の特訓をした日々…。
父や伯父達は冷酷で、何一つ教えてもくれなかった。
唯一、弓香の父である弓駿だけが、剣技や処世術を教えてくれていた…。
しかし、その辛く苦しい日々よりも、素晴らしいものを見付けてしまった。もう、後には退けない。
いや、退かない!
〈迷いも悔いもない。…ただ、弓香がついてきてくれるか、だな…〉
弓香とは、愛を語らい睦み合った仲だ。
必ず迎えに来ると言って富士を出た時は、泣かせてしまったが…。
この愛に、偽りは無い!
そう考えていると、弓奈が弓香(十八歳)を連れてやってきてくれた。
それを見て、嵩美は満面に笑みを浮かべる。
「弓香…!」
「嵩美!」
弓香は泣きながら走って、嵩美に抱きつく。
「遅くなって、すまなかった…」
嵩美は、弓香に頬擦りして抱き締めながら言う。
「どうして何の連絡もよこさなかったの?! 何故不知火などに…!」
「弓香……」
「私も聞きたいわ。姉として!」
横から弓奈が言ってきた。
嵩美は弓香の両肩に手を置いて、真剣な眼差しで弓奈を見つめる。
「…不知火の新しき長、優しくも強い翔隆様に惚れました。故に今、仕えておりまする」
「なっ…?!」
「信じ難いでしょうけれど、わたくしは命を捧げて尽くす主君を見付けてしまったのです。勿論、それは京羅ではありませぬ。翔隆様、只お一人!」
その言葉と表情から、説得は無理だと判断した弓奈は、頷いて微苦笑を浮かべる。
「分かったわ…貴方の生だもの、好きになさい…ただし、妹を不幸にするのは許さないわよ!」
その言葉に、嵩美は力強く頷いて弓香を見る。
「…言った通り、私は裏切り者だ。しかし、そなたへの愛は変わらぬ! そなたは、必ずわたしが守り幸せにする! …共に、来てくれるか?」
真剣に優しく尋ねると、弓香はゆっくりと頷いた。
「私は、貴方が来てくれると信じて待っていたんですもの……たとえ反逆であろうとも、貴方の妻として、共に行くわ」
「ありがとう、弓香」
弓香の頬に口付け、嵩美は弓奈を見る。
「弓奈殿…義理の弟となるというのに、申し訳ない」
頭を下げて言うと、弓奈はにっこりと微笑んで二人を見つめる。
「いいのよ。…弓香…自分で決めたのだから、しっかりと見極めて生きるのよ。兄様には、私から伝えておくわ」
「はい、姉様。…お達者で」
弓香は、涙を拭いながら答えた。
「嵩美……弓香を、頼むわね!」
涙ぐんで言うと、嵩美は頷いて弓奈を見つめる……弓奈も、嵩美の目を見つめた。
〝仲間〟としての、最後の別れとして…互いに目礼し、立ち去った………。
「本当に、良かったのだな?」
嵩美が聞く。
「ええ! 昔に誓ったでしょう? 生涯、共に生きると!」
弓香は微笑んで答え、共に走った。
尾張の翔隆の邸に着くと、嵩美が先に入り、弓香は少し不安げにそれに続く。
「只今、戻りました」
いつも通りに言い、嵩美は弓香と共に広間に向かう。
それを、椎名雪孝(十三歳)が驚愕して見ていた。
〔狭霧一族〕の女を連れてきたのだから、無理もないが…。
嵩美は、広間で長男・樟美(四歳)に字を教えている翔隆を見付けて、弓香と共に座った。
「翔隆様」
「どうした………その、女子は?」
「…京羅の長男、弓駿の次女で名を弓香。年は十八……わたくしの妻に迎え入れる為に、連れて参りました」
嵩美が堂々と言うと、少し後ろに座っている弓香が頬を染めて平伏した。
翔隆は、横に座る義成(三十六歳)を見る。
「…覚悟の上か」
義成の問いに、嵩美と弓香はコクリと力強く頷いた。
「ならば、良いのではないのか?」
「う…む……。しかし…」
翔隆が戸惑っていると、椎名雪孝が縁側に来て座った。
「お屋形、我ら年幼き者が自由に富士の拠点から出られる機会は、滅多にありません。余程の覚悟がなくば、抜け出て来られぬ場所なのです」
「…そう、なのか?」
翔隆が雪孝と嵩美を見て言うと、二人は真顔で頷く。そして、嵩美が喋る。
「狭霧は実力主義。実力があれば、年に関係なく重用されまするが、さして実力を持たぬ者は富士の拠点にて日々何もせずに、ただ過ごすのみ…。わたくしも、貴方様の噂を聞いて命懸けで抜け出したのです。そして先程、共に育ち愛を誓い合った弓香を、迎えに行きました」
それを聞き、翔隆は頷いて微笑む。
「分かった。よく来てくれたな、弓香。部屋は侍女達と同じで良いか?」
「は、はい!」
平伏したまま弓香が答える。
それを見て、嵩美は苦笑して弓香に顔を上げさせた。
「…話した通り、翔隆様はお優しい主君だ。何も怖がる事はないよ」
「………」
言われて、弓香は恐る恐る翔隆を見た…それを見て翔隆は、ああ、と納得する。
弓香にしてみれば、宿敵〔不知火一族〕の長だ…怖がらない方がおかしい。
翔隆は優しく微笑んで弓香を見る。
「弓香、私は狭霧であろうとも友好を示す者は殺さぬし、受け入れる。何より、私自身……狭霧の者と共に育ったのだ。安心してくれ。その目でじっくりと見て、確かめて欲しい」
翔隆がそう言うと、弓香はただ頷いた。
そこに、篠姫(十一歳)がお茶を運んでくる。
「わらわは、翔隆が正室の篠と申す。道中お疲れでしょう。ゆるりとなさりませ」
微笑んで篠姫がお茶を出すと、嵩美と弓香は一礼して茶を飲んだ。
そして、嵩美がニコリとして翔隆に言う。
「翔隆様、わたくしも改名至そうと思いまする」
「ん? …それはいいが、名を決めてくれと言うのではあるまいな」
「いいえ、決めてございまする。忌那蒼司…と」
そう言い、嵩美は紙に書いて見せた。それを見て翔隆は頷く。
「良い名だな…。忌那蒼司か……分かった。これからも弓香と共に、よろしく頼む」
そう言い頭を下げると、忌那蒼司と弓香も平伏した。
そのやりとりを見ていた忠長(十一歳)や光征(十七歳)達も入ってきた。
「遅い元服だな!」
忠長が言うと、蒼司はクスリと笑う。
「我々〔一族〕には武家のような改名は、滅多にありませぬよ。ただ、大名と接するのに必要な時にだけ名を考えておくものなのです」
その蒼司の言葉で、翔隆はハッと気付く。
〈…そういえば、陽炎は〝義羽陽亮〟と名乗っていた……外交手段として名を使うのか……〉
さして深く考えずに、ただ思った……そう、重要な事を忘れて…。
「あ、一成も呼んできてくれ。祝宴をしなければならんからな」
笑って翔隆が言うと、雪孝が呼びに行った。
「ささやかながらも、二人の婚儀の宴をしよう」
「ありがたき幸せ!」
蒼司は嬉しそうに言い、畳に額を付けて平伏した。
同じく平伏しながら、弓香の〔不知火〕に対する見解が変わってきていた。
…今まで、ずっと〔不知火〕は残虐で冷血。
憎み滅ぼす存在だと聞かされて育った。
しかし、実際に目の前にいる翔隆の言動は、まるで違う…。
これまでに言われた事もないような言葉とその優しさに触れて、弓香も何故蒼司が命を懸けてまで出ていったのかが、やっと理解出来たのだ。
〈…狭霧にはない、思いやりと優しさで満ちているのね…〉
そう思い、弓香もやっと心を開き始めた。
…睦月と拓須の手掛かりが何も掴めないまま、年が明けてもう春を迎える…。
そんな中突然、嵩美(二十歳)が普通の着物を着て翔隆(二十六歳)の前に座った。
「どうしたのだ? 嵩美…」
「翔隆様、しばし暇を下され。出掛けたい場所があるのです」
「それは構わぬが…」
「では」
許可を得ると、嵩美はすぐに行ってしまった。
翔隆は不思議そうに嵩美の後ろ姿を見送り、光征(十六歳)を見る。
「…どうしたのだ?」
「さあ」
光征は首を傾げて答えた。
〈…待っていろ、弓香! 今行く!〉
嵩美は、全速力で富士の樹海に向かってひた走る。
樹海の西に辿り着くと、慎重に辺りを窺いながら中には入らずに、一歩一歩樹海に沿って北西に歩いていく。
〈今なら、こちら側は見張りも手薄。……しかし、樹海に入ってしまえば《結界》に触れ、侵入が読まれてしまう……〉
考えながら嵩美は耳を澄ませ、目を凝らして歩いていった。
その時、見張りの姿を捉える。
〈あれは…!〉
嵩美は気配を消して隠れながら、小声で呼び掛ける。
(弓奈殿! 聞こえますか?)
その声に気が付いた京羅の長男の娘である弓奈(二十歳)が、飄羅の孫である氷雨(十二歳)を連れて寄ってきた。
(どうしたの?! 不知火に寝返ったって噂を聞いて驚いていたのよ!)
弓奈が小声で言うと、嵩美はニヤリとして弓奈を見て言う。
(その通り。わたくしは、不知火につきました)
「か…!」
思わず声を上げて、弓奈は口を塞いで嵩美に近寄る。
(貴方、自分が何をしているか分かっているの?! ……ここでは話しも出来ないわ。ちょっと待ってて)
そう言って弓奈が氷雨の手を引いて行こうとすると、嵩美が呼び止める。
(お待ち下され。弓香を…妹君を、連れてきて頂きたいのです)
(……分かったわ。西湖で待っていて)
頷いて言うと、氷雨の手を引いて歩き出す。
「今の人、誰?」
「…覚えてないのね。その方がいいわ…この事は、二人だけの秘密よ」
「はい!」
氷雨は、愛らしく笑って答えた。
嵩美は言われた通りに、富士の西湖に向かった。
果たして、弓奈は約束を守ってくれるだろうか…?
弓奈は、弓香の姉だ。……共に育ち、歯痒い思いをしてきた仲間だ。
その仲間を裏切ったのだから、今更どうこう頼める筋合いはない。
しかし、信じたいのだ…共に切磋琢磨し、苦汁を飲まされ育った仲間であったからこそ!
〈…懐かしいものだ……〉
西湖を見つめながら、嵩美は遠い昔に思いを馳せる…。
同じような子供達と共に、洞窟の中で勉学や兵法を習い、剣術・体術などを仕込まれ、《術》の特訓をした日々…。
父や伯父達は冷酷で、何一つ教えてもくれなかった。
唯一、弓香の父である弓駿だけが、剣技や処世術を教えてくれていた…。
しかし、その辛く苦しい日々よりも、素晴らしいものを見付けてしまった。もう、後には退けない。
いや、退かない!
〈迷いも悔いもない。…ただ、弓香がついてきてくれるか、だな…〉
弓香とは、愛を語らい睦み合った仲だ。
必ず迎えに来ると言って富士を出た時は、泣かせてしまったが…。
この愛に、偽りは無い!
そう考えていると、弓奈が弓香(十八歳)を連れてやってきてくれた。
それを見て、嵩美は満面に笑みを浮かべる。
「弓香…!」
「嵩美!」
弓香は泣きながら走って、嵩美に抱きつく。
「遅くなって、すまなかった…」
嵩美は、弓香に頬擦りして抱き締めながら言う。
「どうして何の連絡もよこさなかったの?! 何故不知火などに…!」
「弓香……」
「私も聞きたいわ。姉として!」
横から弓奈が言ってきた。
嵩美は弓香の両肩に手を置いて、真剣な眼差しで弓奈を見つめる。
「…不知火の新しき長、優しくも強い翔隆様に惚れました。故に今、仕えておりまする」
「なっ…?!」
「信じ難いでしょうけれど、わたくしは命を捧げて尽くす主君を見付けてしまったのです。勿論、それは京羅ではありませぬ。翔隆様、只お一人!」
その言葉と表情から、説得は無理だと判断した弓奈は、頷いて微苦笑を浮かべる。
「分かったわ…貴方の生だもの、好きになさい…ただし、妹を不幸にするのは許さないわよ!」
その言葉に、嵩美は力強く頷いて弓香を見る。
「…言った通り、私は裏切り者だ。しかし、そなたへの愛は変わらぬ! そなたは、必ずわたしが守り幸せにする! …共に、来てくれるか?」
真剣に優しく尋ねると、弓香はゆっくりと頷いた。
「私は、貴方が来てくれると信じて待っていたんですもの……たとえ反逆であろうとも、貴方の妻として、共に行くわ」
「ありがとう、弓香」
弓香の頬に口付け、嵩美は弓奈を見る。
「弓奈殿…義理の弟となるというのに、申し訳ない」
頭を下げて言うと、弓奈はにっこりと微笑んで二人を見つめる。
「いいのよ。…弓香…自分で決めたのだから、しっかりと見極めて生きるのよ。兄様には、私から伝えておくわ」
「はい、姉様。…お達者で」
弓香は、涙を拭いながら答えた。
「嵩美……弓香を、頼むわね!」
涙ぐんで言うと、嵩美は頷いて弓奈を見つめる……弓奈も、嵩美の目を見つめた。
〝仲間〟としての、最後の別れとして…互いに目礼し、立ち去った………。
「本当に、良かったのだな?」
嵩美が聞く。
「ええ! 昔に誓ったでしょう? 生涯、共に生きると!」
弓香は微笑んで答え、共に走った。
尾張の翔隆の邸に着くと、嵩美が先に入り、弓香は少し不安げにそれに続く。
「只今、戻りました」
いつも通りに言い、嵩美は弓香と共に広間に向かう。
それを、椎名雪孝(十三歳)が驚愕して見ていた。
〔狭霧一族〕の女を連れてきたのだから、無理もないが…。
嵩美は、広間で長男・樟美(四歳)に字を教えている翔隆を見付けて、弓香と共に座った。
「翔隆様」
「どうした………その、女子は?」
「…京羅の長男、弓駿の次女で名を弓香。年は十八……わたくしの妻に迎え入れる為に、連れて参りました」
嵩美が堂々と言うと、少し後ろに座っている弓香が頬を染めて平伏した。
翔隆は、横に座る義成(三十六歳)を見る。
「…覚悟の上か」
義成の問いに、嵩美と弓香はコクリと力強く頷いた。
「ならば、良いのではないのか?」
「う…む……。しかし…」
翔隆が戸惑っていると、椎名雪孝が縁側に来て座った。
「お屋形、我ら年幼き者が自由に富士の拠点から出られる機会は、滅多にありません。余程の覚悟がなくば、抜け出て来られぬ場所なのです」
「…そう、なのか?」
翔隆が雪孝と嵩美を見て言うと、二人は真顔で頷く。そして、嵩美が喋る。
「狭霧は実力主義。実力があれば、年に関係なく重用されまするが、さして実力を持たぬ者は富士の拠点にて日々何もせずに、ただ過ごすのみ…。わたくしも、貴方様の噂を聞いて命懸けで抜け出したのです。そして先程、共に育ち愛を誓い合った弓香を、迎えに行きました」
それを聞き、翔隆は頷いて微笑む。
「分かった。よく来てくれたな、弓香。部屋は侍女達と同じで良いか?」
「は、はい!」
平伏したまま弓香が答える。
それを見て、嵩美は苦笑して弓香に顔を上げさせた。
「…話した通り、翔隆様はお優しい主君だ。何も怖がる事はないよ」
「………」
言われて、弓香は恐る恐る翔隆を見た…それを見て翔隆は、ああ、と納得する。
弓香にしてみれば、宿敵〔不知火一族〕の長だ…怖がらない方がおかしい。
翔隆は優しく微笑んで弓香を見る。
「弓香、私は狭霧であろうとも友好を示す者は殺さぬし、受け入れる。何より、私自身……狭霧の者と共に育ったのだ。安心してくれ。その目でじっくりと見て、確かめて欲しい」
翔隆がそう言うと、弓香はただ頷いた。
そこに、篠姫(十一歳)がお茶を運んでくる。
「わらわは、翔隆が正室の篠と申す。道中お疲れでしょう。ゆるりとなさりませ」
微笑んで篠姫がお茶を出すと、嵩美と弓香は一礼して茶を飲んだ。
そして、嵩美がニコリとして翔隆に言う。
「翔隆様、わたくしも改名至そうと思いまする」
「ん? …それはいいが、名を決めてくれと言うのではあるまいな」
「いいえ、決めてございまする。忌那蒼司…と」
そう言い、嵩美は紙に書いて見せた。それを見て翔隆は頷く。
「良い名だな…。忌那蒼司か……分かった。これからも弓香と共に、よろしく頼む」
そう言い頭を下げると、忌那蒼司と弓香も平伏した。
そのやりとりを見ていた忠長(十一歳)や光征(十七歳)達も入ってきた。
「遅い元服だな!」
忠長が言うと、蒼司はクスリと笑う。
「我々〔一族〕には武家のような改名は、滅多にありませぬよ。ただ、大名と接するのに必要な時にだけ名を考えておくものなのです」
その蒼司の言葉で、翔隆はハッと気付く。
〈…そういえば、陽炎は〝義羽陽亮〟と名乗っていた……外交手段として名を使うのか……〉
さして深く考えずに、ただ思った……そう、重要な事を忘れて…。
「あ、一成も呼んできてくれ。祝宴をしなければならんからな」
笑って翔隆が言うと、雪孝が呼びに行った。
「ささやかながらも、二人の婚儀の宴をしよう」
「ありがたき幸せ!」
蒼司は嬉しそうに言い、畳に額を付けて平伏した。
同じく平伏しながら、弓香の〔不知火〕に対する見解が変わってきていた。
…今まで、ずっと〔不知火〕は残虐で冷血。
憎み滅ぼす存在だと聞かされて育った。
しかし、実際に目の前にいる翔隆の言動は、まるで違う…。
これまでに言われた事もないような言葉とその優しさに触れて、弓香も何故蒼司が命を懸けてまで出ていったのかが、やっと理解出来たのだ。
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