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五章 流浪
七.土佐
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その後、翔隆一行は備前に入り、三月始めには下津井から船で四国へ渡った。
讃岐の宇多津付近から、また町を目指して歩き出す。ふと馬上からサラサラと筆を走らせる音が聞こえた。
「…? 何を書いているんだ?」
「絵図。今までずっと書いてました。後々の大殿への土産にと思いまして……」
樟美が答えた。〝大殿〟とは信長の事。
〝お屋形〟が信玄で、〝毘沙門〟が景虎、〝殿〟は奇妙丸と言葉を使い分けているようだ。
五歳だというのに、とても利発な子だ。
きっと似推里に似たのだろう。
〈……どうして…いるかな………〉
ふと皆の事が懐かしくなる。
だが、今は考えまい…と、翔隆は自分に言い聞かせて歩いた。
ここ讃岐と阿波は三好領なので早めに通り抜け、山は避けるようにして土佐に入った。
宿が無いので、木の実や鳥や兎などを捕って過ごし、歩いていくと前方に人だかりを感じた。
「…弓術です。とても逞しそうな若者達が、的に矢を放っています。…とても大きな弓で」
樟美が事細かに状況を説明してくれるので、とても助かる。
「では、邪魔をしないように通ろう」
と言った時、ハラリと目の包帯が解けてしまう。
「あ………」
取れてしまうと、ついつい周りを見たくなってしまうのが人間の心理。
翔隆はつい出来心でその一行を見てしまう。
すると、その内の一人と目が合い近寄ってきた。まずいと思い、慌てて行こうとするが、
「待て!」
と、引き止められてしまった。
「ととさまのせいよ」
馬上の浅葱が言う。
翔隆は包帯を手に、仕方なく立ち止まって振り向く。
「何にござりましょう?」
「お主ら、この辺りの者ではないな」
「はい、牢人で旅をしております」
「何処から参った?」
「尾張です」
何故そこで馬鹿正直に答えてしまうのか………こんな時くらい、嘘を吐くものではないのか、と樟美は思ったが、口にはしなかった。
「見ていた所、包帯をしていたが、目が見えるのだな?」
「あ……はい。心身を鍛える為に、巻いております故に……」
「面白い! こちらに来て、弓術の鍛練をせぬか?」
「その…先を急ぎますので……」
「そう言うな、急いでいるようには見えん。ああ、そうか…わしは長宗我部弥三郎と申す。そなたは?」
「あ……」
名乗られたからには、こちらも名乗らねば失礼だ。翔隆は陣笠を取って一礼する。
「篠蔦三郎兵衛と申します」
「参られい」
にっこり笑って言われ断れなくなり、翔隆は影疾を樟美に任せて長宗我部弥三郎元親(二十五歳)についていった。
一行の中から、一人の若者が側に寄ってきた。
「大殿、その者は?」
「牢人じゃ。弥七郎、弓矢を貸してやれ」
言われるまま、香宗我部弥七郎親泰(二十一歳)は四尺(百二十一.二㎝)はあろう強弓と矢を五本、手渡してやった。
翔隆は弓を受け取り、まじまじと見つめ、弦を弾く。
〈しっかりとした作りだ……さぞ戦で役立とう〉
そう思いながら矢を番え、体勢を整えて的を見る。
的までの距離は一町(百九m)であろうか。
こうして弓矢を持つと、遥か昔を思い出す。
…信長が城で弓術をするのを初めて見た時は、体に電撃が走った。
興奮して、己もやりたくて真似をした………。
〈信長様………!〉
苦しくて切ない思いを振り払うように、翔隆は的だけを見つめて強弓の弓弦を何も考えずに思い切り引いて、次々と矢を放っていった。
矢は全て真ん中に当たり、最後に割れてしまった。
「おお! 細い体で何という強力!」
わあっという周りの声でハッと我に返った翔隆は、俯いて弓を置いた。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「あ……いえ…」
「そなた、素晴らしい力を持っているのだな! 我が城に来ぬか? 話がしたい」
言われて翔隆は苦笑して頷いた。
それから、翔隆達は一行についていき、岡豊城に入っていった。
広い板間に通されて、香宗我部親泰が側にいた。
〈…何だか……不思議な人だな〉
この人は、会った時から違和感が無い。
初対面にも関わらず、何かの安堵感を感じるのだ。
そう思っていると、浅葱が香宗我部弥七郎親泰の膝の上に座る。
「こら浅葱!」
「ふふっ、だってこのおじちゃん、おんなじ人なんだもの」
「失礼だろうっ」
翔隆は立ち上がって浅葱を抱き上げようとするが、浅葱はしっかりと香宗我部親泰の首に手を回して、しがみついてしまう。
「いやああー! ここがいいー!」
「拙者なら構わんよ」
泣き出す浅葱の頭を撫でながら、親泰が言った。
「…すみません……」
翔隆は仕方なく樟美の隣りに戻った。
親泰は、改めて浅葱をきちんと膝の上に乗せ、頭を撫でてやる。
「拙者の名は弥七郎、と言うんだ」
「やしちろう?」
「ん。…同じ人、とは誰かと似ておるのかな?」
「うん、一族の人!」
「………!」
翔隆はそれを聞いてやっと分かった。
この人は、かなり血が薄いが不知火一族の者なのだ!
「一族………ふうむ…」
弥七郎親泰は何か思い当たる節があるのか、考え込む。
と、そこへ元親がやってきたので、翔隆は樟美と共に慌てて平伏する。
「土佐のご領主様とは存じませんで、大変無礼を至しました!」
「いや良いのだ、面を上げられよ。ん? 何じゃ弥七郎、女子に好かれて…もう娶るのか?」
「大殿、浅葱どのに失礼ですぞ」
「あはは、すまんすまん」
そんな中に、愛らしく美しい女性が入ってきて、茶を置いていく。
「何もありませぬが…どうぞ」
「馳走になります」
そう言うと、女性はにこりとして長宗我部元親の隣りに座った。すると元親が喋る。
「篠蔦どの、これはわしの正室の由といって、美濃の斎藤家の家臣、利賢が息女でな。その兄である利三どのは美濃三人衆に仕えており、叔父には土岐明智どのがおるのだ」
「明智…光秀殿の事にござりまするか?」
「おう、よう知っておるな。今は美濃を追われてしまったようだが……」
まさか、こんな所で繋がりがあろうとは…!
「明智どのとは知り合いか?」
「あ、はい。よく酒を酌み交わした〝友〟にござりまする。利三殿とは一度しかお目に掛かった事はございませんが…」
「ほお、これは際遇! お由も寂しがっていた所。美濃の話でもしてはくれぬか?」
「…はい」
翔隆はお由の方も交えて、美濃の事、斎藤道三の事、明智光秀の事などを話した。
そんな間に、やはり泊まる事となった。
寝所として貸された一室で、樟美と浅葱は早めに寝る。
「…きっと十日以上は、ここにいるぞ」
「では、やしちろうと遊べるの?」
「うむ」
幼い兄弟の会話は、闇に溶け込んだ。
樟美の予感は的中し、朝になると元親がお由の方を連れてやってきて、話を聞きにきた。
早速、浅葱は親泰と樟美を連れて外に出た。
「今日もいい日和だの、浅葱どの」
「あい。川で遊びましょう!」
「では、馬を持って参ろうか」
「ならば私も」
樟美は、親泰と共に馬を取りにいく。
すぐに浅葱の下に戻って来ると、影疾に乗った。
「…幼いながらに、お上手ですな」
「いえ、まだまだです。浅葱をお願い出来ますか?」
「承知!」
親泰は浅葱を乗せて、馬を走らせた。
そして川までの間、互いの馬術を披露し合った。
川に着くと、浅葱ははしゃいで浅瀬に入った。危ないので、樟美が後ろで見守った。
そんな兄弟の前に弥七郎親泰も浅瀬に入る。
「春とはいえ、まだ冷たい」
「ほら、綺麗な石!」
浅葱が川からキラキラと光る石や、形の変わった石を見つけだす。
それを見つめながら、弥七郎親泰は樟美に話し掛けた。
「一族、とは……不知火や狭霧という名の、妖に似た者達の事か?」
「…はい」
「拙者がそれだ、と?」
「父は不知火の長です。だから分かったのでしょう」
「もう滅びたと聞いていたが…」
「表舞台には立たないのが、一族の鉄則です」
「……妖の話ならば、北の森で聞くが………それは、もしや一族なのか?」
「そうだと思います。貴方が一族であれば、やって頂きたい事があるのですが…」
「何かな?」
「父は…主君を支えながら各地の一族をまとめようと必死です。出来たら、この四国に散在する一族をまとめて欲しいのですが……」
「……急に言われても…父の昔語りで聞いただけで、拙者は………」
「分かっています。出来たら一度、その妖の話も含めて父と話してみて下さい」
そう言って樟美は浅葱を岸に上がらせる。
その姿を見つめながら、親泰は深く考え込む。
〈あんな幼い内より一族の事を考えるとは、大したものだ。…あれこそ元親さまのような器〉
翔隆が元親の話し相手をしている間に、浅葱と樟美は親泰と毎日出掛けていた。
川や森や林、町に出たりと親泰は振り回されていたが、楽しそうでもあった。
そんな暮らしをして十二日目の夜、香宗我部弥七郎親泰が酒を持って翔隆達の寝所にやってきた。
「よろしいか?」
「ええ、もう寝た所ですので…」
そう言って翔隆は浅葱から腕枕を外して、寝かせてやる。
そして、縁側に出て酒を酌み交わす。
「可愛いですな」
「ええ、ですが……いつも死と背中合わせで…」
それは、例え子供でも一族であれば、いつ殺されるか分からないという事だ。
「………」
酒を呑みながら、親泰は話をする機会を窺う。翔隆は酒を口にしながら、庭を見つめる。
「私が、あんな年には…何も知らずに過ごしていました」
「拙者もです」
「出来れば……こんな幼子が平穏無事に暮らせるように…したいものです」
翔隆は悲しげに空を見つめた。
その姿を、親泰はじっと見つめる。
〈この男…一人でこの日の本中の一族を束ねるつもりか?〉
ふと疑問に感じた。そんな事が出来る筈もない。
一人では大軍を率いる事など無理なのだ。
優れた大将の下に優れた将がいてこそ、軍として成立する…。
「つかぬ事を聞くが……一族とやらは、そなた一人が率いておられるのか?」
「…名ばかりで……。各地にいる頭領達が頑張って率いてくれています」
「ふむ。して…?」
「あ……樟美が何か言いましたね?」
「……まあ」
苦笑して言うと、翔隆も苦笑する。
「………嫌がる者を無理に誘ったりはしたくないのですが………今しか…。今、説き伏せていかなければ、この後ずっと後悔するような気がするのです。やるべき事をやり尽くして後悔した方が、いいでしょう?」
そう言って笑う翔隆を見て、親泰は深い感銘を受けた。
単なる無鉄砲でも無謀でも無い……強くて、揺るがない志を持った男だ、と…。
「ここから北にある森に、〝妖の森〟と呼ばれている所があってな。拙者自身はお力添え出来んが、恐らくそこに…その一族とやらがいるのだと思う」
「弥七郎殿………」
「そなたは大きな器を持った男だ。どれだけ時間が掛かろうとも、そなたならば全ての者を率いる事が出来るであろう」
親泰は笑って言い、酒を注ぐ。
翔隆はあえて何も言わずに、微笑してその酒を戴いた。
それから五日目に、岡豊城を出た。
「お世話になりました」
「気を付けてな」
元親と親泰が見送ってくれる。
「やしちろう! またね!」
馬上から浅葱がいつまでも手を振った。
「…これから近くの集落に行くが…………包帯は取ったままでいいか?」
聞かれた樟美は、絵図を書きながら苦笑する。
「どうなるか分からないのですから、その方がいいと思いますよ」
「そうか…では行こう」
翔隆は影疾の轡を取って、〝妖の森〟に向かった。
人里離れた所に、その〝妖の森〟があった。
春も始めなのに鬱蒼と生い茂る木々…本当に物の怪が居てもおかしくなさそうな森だ。
だが、一族が住むには丁度いい場所でもある。
「樟美、何かあったら浅葱を頼むぞ」
「はい」
慎重に中に入っていく………ここに頭領の高砂か土井野がいれば、いいのだが…。
そう思いつつ進むと、一斉に周りを取り囲まれた。…やはり〝不知火〟だ。
翔隆は冷静にその者達を見回す。そして、一人だけを見た。
「……高砂殿、だな?」
「! 貴様は集会の時の………!」
「翔隆だ。話を…」
「出て行け!」
「何をしに来た!」
「偽善者が!」
翔隆の言葉を遮って罵声が飛ぶ。
翔隆はしばらく黙って聞いていた。
〈集会の時と変わらないな………こんな所から、変えていかねばならないのか…?〉
その様子を見て、高砂が皆を黙らせる。
「やめよ。……目的は、説得か」
「そうだ」
「あの時に、認めぬとした筈だ」
「その、認めぬ訳は?」
「何?!」
「貴殿から直接は聞いていない。…何故、認めぬのだ?」
「………」
高砂は言葉を失った。まさかそんな事を聞かれるとは、夢にも思わなかったからだ。
「なっ…何故、わし一人の意見などを聞く?!」
「貴殿は、ここの頭領だ。土佐の皆の言葉でもあろう?」
ニコリとして言うと、高砂は一歩後退った。一瞬、翔隆が恐ろしくなったのだ。
〈何だ………この何とも言えぬ気持ち悪さは……〉
そんな高砂に、翔隆は一歩近付く。
「貴殿の本当の気持ちを、確かめたい」
「よ、寄るな!」
そう言われ、翔隆は高砂をじっと見る。
…まるで、敵わぬ敵に遭遇したかのような震え方…。
「……高砂殿…私は、何もしない。危害を与えるつもりもない…どうか、その警戒を解いてはもらえぬか…?」
「…っ!」
心中を見抜かれてカッとなるが、あの気持ち悪さは無くなっていた。
高砂は、汗を拭って大きく息を吐いてから、翔隆を見据えた。
集会の時とは、まるで別人のように凜とした姿…。
「…頼りない嫡男には、従えぬと判断したからだ」
そう言う語尾が、小さかった。翔隆は笑みを浮かべたままだ。
「それは、今でも同じか?」
「…それは……」
高砂が口籠もってしまったので、翔隆が話し出す。
「皆がいなければ、統一も出来ぬし戦も終わらせられない。一つにまとまり、協力し合わなければ、この戦はずっと平行線を辿っていくだけだ。手と手を取り合い、援護し合い、初めて仲間と呼べるのではないだろうか?」
翔隆の澄んだ声が、心地良く心に響く。
他の者達も同じだった。
「バラバラに戦うよりは、隣国や少し離れた領地からでも、援軍がくれば、それは頼もしく嬉しい事ではないか? 一人で重責を背負わずに、皆で考えた方が良かろう?」
「旨い、言葉だな…」
「自分で思った事を、言ったまでだ」
笑って言うと、高砂は苦笑した。
「高砂殿…?」
「ク、ハハ! 敵わんわ!」
そう言い、高砂は翔隆に近寄って微笑んで目を見る。
「口説き上手な長よ」
「…高砂殿……」
「高砂、で結構! 長として認める。…前代の羽隆は、主家や己の事で精一杯で、ここまではしなかったからな。……寧ろ、頼もしく思う!」
笑って言い、手を差し伸べた。
翔隆は照れ笑いしながら、右手を出して握手をする。
「…ありがとう」
「礼には及ばん。よろしく頼む」
それに、翔隆はコクリと頷き微笑んだ。
自分の思いを、一からそれぞれの頭領に伝えるのは大変だが、伝わり認められる時の喜びを思えば、苦ではなかった。
翔隆は一日泊めてもらい、出立した。
「……父上、包帯をお忘れですよ」
また絵図を書きながら、樟美が鋭く言った。
「ああ…忘れていた」
包帯を着けながら、翔隆は苦笑する。
「…いい軍師になれるぞ」
「父上は手の掛かる大将だ」
「これは手厳しい…」
そんな事を話ながら、山道を歩いていった。
讃岐の宇多津付近から、また町を目指して歩き出す。ふと馬上からサラサラと筆を走らせる音が聞こえた。
「…? 何を書いているんだ?」
「絵図。今までずっと書いてました。後々の大殿への土産にと思いまして……」
樟美が答えた。〝大殿〟とは信長の事。
〝お屋形〟が信玄で、〝毘沙門〟が景虎、〝殿〟は奇妙丸と言葉を使い分けているようだ。
五歳だというのに、とても利発な子だ。
きっと似推里に似たのだろう。
〈……どうして…いるかな………〉
ふと皆の事が懐かしくなる。
だが、今は考えまい…と、翔隆は自分に言い聞かせて歩いた。
ここ讃岐と阿波は三好領なので早めに通り抜け、山は避けるようにして土佐に入った。
宿が無いので、木の実や鳥や兎などを捕って過ごし、歩いていくと前方に人だかりを感じた。
「…弓術です。とても逞しそうな若者達が、的に矢を放っています。…とても大きな弓で」
樟美が事細かに状況を説明してくれるので、とても助かる。
「では、邪魔をしないように通ろう」
と言った時、ハラリと目の包帯が解けてしまう。
「あ………」
取れてしまうと、ついつい周りを見たくなってしまうのが人間の心理。
翔隆はつい出来心でその一行を見てしまう。
すると、その内の一人と目が合い近寄ってきた。まずいと思い、慌てて行こうとするが、
「待て!」
と、引き止められてしまった。
「ととさまのせいよ」
馬上の浅葱が言う。
翔隆は包帯を手に、仕方なく立ち止まって振り向く。
「何にござりましょう?」
「お主ら、この辺りの者ではないな」
「はい、牢人で旅をしております」
「何処から参った?」
「尾張です」
何故そこで馬鹿正直に答えてしまうのか………こんな時くらい、嘘を吐くものではないのか、と樟美は思ったが、口にはしなかった。
「見ていた所、包帯をしていたが、目が見えるのだな?」
「あ……はい。心身を鍛える為に、巻いております故に……」
「面白い! こちらに来て、弓術の鍛練をせぬか?」
「その…先を急ぎますので……」
「そう言うな、急いでいるようには見えん。ああ、そうか…わしは長宗我部弥三郎と申す。そなたは?」
「あ……」
名乗られたからには、こちらも名乗らねば失礼だ。翔隆は陣笠を取って一礼する。
「篠蔦三郎兵衛と申します」
「参られい」
にっこり笑って言われ断れなくなり、翔隆は影疾を樟美に任せて長宗我部弥三郎元親(二十五歳)についていった。
一行の中から、一人の若者が側に寄ってきた。
「大殿、その者は?」
「牢人じゃ。弥七郎、弓矢を貸してやれ」
言われるまま、香宗我部弥七郎親泰(二十一歳)は四尺(百二十一.二㎝)はあろう強弓と矢を五本、手渡してやった。
翔隆は弓を受け取り、まじまじと見つめ、弦を弾く。
〈しっかりとした作りだ……さぞ戦で役立とう〉
そう思いながら矢を番え、体勢を整えて的を見る。
的までの距離は一町(百九m)であろうか。
こうして弓矢を持つと、遥か昔を思い出す。
…信長が城で弓術をするのを初めて見た時は、体に電撃が走った。
興奮して、己もやりたくて真似をした………。
〈信長様………!〉
苦しくて切ない思いを振り払うように、翔隆は的だけを見つめて強弓の弓弦を何も考えずに思い切り引いて、次々と矢を放っていった。
矢は全て真ん中に当たり、最後に割れてしまった。
「おお! 細い体で何という強力!」
わあっという周りの声でハッと我に返った翔隆は、俯いて弓を置いた。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「あ……いえ…」
「そなた、素晴らしい力を持っているのだな! 我が城に来ぬか? 話がしたい」
言われて翔隆は苦笑して頷いた。
それから、翔隆達は一行についていき、岡豊城に入っていった。
広い板間に通されて、香宗我部親泰が側にいた。
〈…何だか……不思議な人だな〉
この人は、会った時から違和感が無い。
初対面にも関わらず、何かの安堵感を感じるのだ。
そう思っていると、浅葱が香宗我部弥七郎親泰の膝の上に座る。
「こら浅葱!」
「ふふっ、だってこのおじちゃん、おんなじ人なんだもの」
「失礼だろうっ」
翔隆は立ち上がって浅葱を抱き上げようとするが、浅葱はしっかりと香宗我部親泰の首に手を回して、しがみついてしまう。
「いやああー! ここがいいー!」
「拙者なら構わんよ」
泣き出す浅葱の頭を撫でながら、親泰が言った。
「…すみません……」
翔隆は仕方なく樟美の隣りに戻った。
親泰は、改めて浅葱をきちんと膝の上に乗せ、頭を撫でてやる。
「拙者の名は弥七郎、と言うんだ」
「やしちろう?」
「ん。…同じ人、とは誰かと似ておるのかな?」
「うん、一族の人!」
「………!」
翔隆はそれを聞いてやっと分かった。
この人は、かなり血が薄いが不知火一族の者なのだ!
「一族………ふうむ…」
弥七郎親泰は何か思い当たる節があるのか、考え込む。
と、そこへ元親がやってきたので、翔隆は樟美と共に慌てて平伏する。
「土佐のご領主様とは存じませんで、大変無礼を至しました!」
「いや良いのだ、面を上げられよ。ん? 何じゃ弥七郎、女子に好かれて…もう娶るのか?」
「大殿、浅葱どのに失礼ですぞ」
「あはは、すまんすまん」
そんな中に、愛らしく美しい女性が入ってきて、茶を置いていく。
「何もありませぬが…どうぞ」
「馳走になります」
そう言うと、女性はにこりとして長宗我部元親の隣りに座った。すると元親が喋る。
「篠蔦どの、これはわしの正室の由といって、美濃の斎藤家の家臣、利賢が息女でな。その兄である利三どのは美濃三人衆に仕えており、叔父には土岐明智どのがおるのだ」
「明智…光秀殿の事にござりまするか?」
「おう、よう知っておるな。今は美濃を追われてしまったようだが……」
まさか、こんな所で繋がりがあろうとは…!
「明智どのとは知り合いか?」
「あ、はい。よく酒を酌み交わした〝友〟にござりまする。利三殿とは一度しかお目に掛かった事はございませんが…」
「ほお、これは際遇! お由も寂しがっていた所。美濃の話でもしてはくれぬか?」
「…はい」
翔隆はお由の方も交えて、美濃の事、斎藤道三の事、明智光秀の事などを話した。
そんな間に、やはり泊まる事となった。
寝所として貸された一室で、樟美と浅葱は早めに寝る。
「…きっと十日以上は、ここにいるぞ」
「では、やしちろうと遊べるの?」
「うむ」
幼い兄弟の会話は、闇に溶け込んだ。
樟美の予感は的中し、朝になると元親がお由の方を連れてやってきて、話を聞きにきた。
早速、浅葱は親泰と樟美を連れて外に出た。
「今日もいい日和だの、浅葱どの」
「あい。川で遊びましょう!」
「では、馬を持って参ろうか」
「ならば私も」
樟美は、親泰と共に馬を取りにいく。
すぐに浅葱の下に戻って来ると、影疾に乗った。
「…幼いながらに、お上手ですな」
「いえ、まだまだです。浅葱をお願い出来ますか?」
「承知!」
親泰は浅葱を乗せて、馬を走らせた。
そして川までの間、互いの馬術を披露し合った。
川に着くと、浅葱ははしゃいで浅瀬に入った。危ないので、樟美が後ろで見守った。
そんな兄弟の前に弥七郎親泰も浅瀬に入る。
「春とはいえ、まだ冷たい」
「ほら、綺麗な石!」
浅葱が川からキラキラと光る石や、形の変わった石を見つけだす。
それを見つめながら、弥七郎親泰は樟美に話し掛けた。
「一族、とは……不知火や狭霧という名の、妖に似た者達の事か?」
「…はい」
「拙者がそれだ、と?」
「父は不知火の長です。だから分かったのでしょう」
「もう滅びたと聞いていたが…」
「表舞台には立たないのが、一族の鉄則です」
「……妖の話ならば、北の森で聞くが………それは、もしや一族なのか?」
「そうだと思います。貴方が一族であれば、やって頂きたい事があるのですが…」
「何かな?」
「父は…主君を支えながら各地の一族をまとめようと必死です。出来たら、この四国に散在する一族をまとめて欲しいのですが……」
「……急に言われても…父の昔語りで聞いただけで、拙者は………」
「分かっています。出来たら一度、その妖の話も含めて父と話してみて下さい」
そう言って樟美は浅葱を岸に上がらせる。
その姿を見つめながら、親泰は深く考え込む。
〈あんな幼い内より一族の事を考えるとは、大したものだ。…あれこそ元親さまのような器〉
翔隆が元親の話し相手をしている間に、浅葱と樟美は親泰と毎日出掛けていた。
川や森や林、町に出たりと親泰は振り回されていたが、楽しそうでもあった。
そんな暮らしをして十二日目の夜、香宗我部弥七郎親泰が酒を持って翔隆達の寝所にやってきた。
「よろしいか?」
「ええ、もう寝た所ですので…」
そう言って翔隆は浅葱から腕枕を外して、寝かせてやる。
そして、縁側に出て酒を酌み交わす。
「可愛いですな」
「ええ、ですが……いつも死と背中合わせで…」
それは、例え子供でも一族であれば、いつ殺されるか分からないという事だ。
「………」
酒を呑みながら、親泰は話をする機会を窺う。翔隆は酒を口にしながら、庭を見つめる。
「私が、あんな年には…何も知らずに過ごしていました」
「拙者もです」
「出来れば……こんな幼子が平穏無事に暮らせるように…したいものです」
翔隆は悲しげに空を見つめた。
その姿を、親泰はじっと見つめる。
〈この男…一人でこの日の本中の一族を束ねるつもりか?〉
ふと疑問に感じた。そんな事が出来る筈もない。
一人では大軍を率いる事など無理なのだ。
優れた大将の下に優れた将がいてこそ、軍として成立する…。
「つかぬ事を聞くが……一族とやらは、そなた一人が率いておられるのか?」
「…名ばかりで……。各地にいる頭領達が頑張って率いてくれています」
「ふむ。して…?」
「あ……樟美が何か言いましたね?」
「……まあ」
苦笑して言うと、翔隆も苦笑する。
「………嫌がる者を無理に誘ったりはしたくないのですが………今しか…。今、説き伏せていかなければ、この後ずっと後悔するような気がするのです。やるべき事をやり尽くして後悔した方が、いいでしょう?」
そう言って笑う翔隆を見て、親泰は深い感銘を受けた。
単なる無鉄砲でも無謀でも無い……強くて、揺るがない志を持った男だ、と…。
「ここから北にある森に、〝妖の森〟と呼ばれている所があってな。拙者自身はお力添え出来んが、恐らくそこに…その一族とやらがいるのだと思う」
「弥七郎殿………」
「そなたは大きな器を持った男だ。どれだけ時間が掛かろうとも、そなたならば全ての者を率いる事が出来るであろう」
親泰は笑って言い、酒を注ぐ。
翔隆はあえて何も言わずに、微笑してその酒を戴いた。
それから五日目に、岡豊城を出た。
「お世話になりました」
「気を付けてな」
元親と親泰が見送ってくれる。
「やしちろう! またね!」
馬上から浅葱がいつまでも手を振った。
「…これから近くの集落に行くが…………包帯は取ったままでいいか?」
聞かれた樟美は、絵図を書きながら苦笑する。
「どうなるか分からないのですから、その方がいいと思いますよ」
「そうか…では行こう」
翔隆は影疾の轡を取って、〝妖の森〟に向かった。
人里離れた所に、その〝妖の森〟があった。
春も始めなのに鬱蒼と生い茂る木々…本当に物の怪が居てもおかしくなさそうな森だ。
だが、一族が住むには丁度いい場所でもある。
「樟美、何かあったら浅葱を頼むぞ」
「はい」
慎重に中に入っていく………ここに頭領の高砂か土井野がいれば、いいのだが…。
そう思いつつ進むと、一斉に周りを取り囲まれた。…やはり〝不知火〟だ。
翔隆は冷静にその者達を見回す。そして、一人だけを見た。
「……高砂殿、だな?」
「! 貴様は集会の時の………!」
「翔隆だ。話を…」
「出て行け!」
「何をしに来た!」
「偽善者が!」
翔隆の言葉を遮って罵声が飛ぶ。
翔隆はしばらく黙って聞いていた。
〈集会の時と変わらないな………こんな所から、変えていかねばならないのか…?〉
その様子を見て、高砂が皆を黙らせる。
「やめよ。……目的は、説得か」
「そうだ」
「あの時に、認めぬとした筈だ」
「その、認めぬ訳は?」
「何?!」
「貴殿から直接は聞いていない。…何故、認めぬのだ?」
「………」
高砂は言葉を失った。まさかそんな事を聞かれるとは、夢にも思わなかったからだ。
「なっ…何故、わし一人の意見などを聞く?!」
「貴殿は、ここの頭領だ。土佐の皆の言葉でもあろう?」
ニコリとして言うと、高砂は一歩後退った。一瞬、翔隆が恐ろしくなったのだ。
〈何だ………この何とも言えぬ気持ち悪さは……〉
そんな高砂に、翔隆は一歩近付く。
「貴殿の本当の気持ちを、確かめたい」
「よ、寄るな!」
そう言われ、翔隆は高砂をじっと見る。
…まるで、敵わぬ敵に遭遇したかのような震え方…。
「……高砂殿…私は、何もしない。危害を与えるつもりもない…どうか、その警戒を解いてはもらえぬか…?」
「…っ!」
心中を見抜かれてカッとなるが、あの気持ち悪さは無くなっていた。
高砂は、汗を拭って大きく息を吐いてから、翔隆を見据えた。
集会の時とは、まるで別人のように凜とした姿…。
「…頼りない嫡男には、従えぬと判断したからだ」
そう言う語尾が、小さかった。翔隆は笑みを浮かべたままだ。
「それは、今でも同じか?」
「…それは……」
高砂が口籠もってしまったので、翔隆が話し出す。
「皆がいなければ、統一も出来ぬし戦も終わらせられない。一つにまとまり、協力し合わなければ、この戦はずっと平行線を辿っていくだけだ。手と手を取り合い、援護し合い、初めて仲間と呼べるのではないだろうか?」
翔隆の澄んだ声が、心地良く心に響く。
他の者達も同じだった。
「バラバラに戦うよりは、隣国や少し離れた領地からでも、援軍がくれば、それは頼もしく嬉しい事ではないか? 一人で重責を背負わずに、皆で考えた方が良かろう?」
「旨い、言葉だな…」
「自分で思った事を、言ったまでだ」
笑って言うと、高砂は苦笑した。
「高砂殿…?」
「ク、ハハ! 敵わんわ!」
そう言い、高砂は翔隆に近寄って微笑んで目を見る。
「口説き上手な長よ」
「…高砂殿……」
「高砂、で結構! 長として認める。…前代の羽隆は、主家や己の事で精一杯で、ここまではしなかったからな。……寧ろ、頼もしく思う!」
笑って言い、手を差し伸べた。
翔隆は照れ笑いしながら、右手を出して握手をする。
「…ありがとう」
「礼には及ばん。よろしく頼む」
それに、翔隆はコクリと頷き微笑んだ。
自分の思いを、一からそれぞれの頭領に伝えるのは大変だが、伝わり認められる時の喜びを思えば、苦ではなかった。
翔隆は一日泊めてもらい、出立した。
「……父上、包帯をお忘れですよ」
また絵図を書きながら、樟美が鋭く言った。
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包帯を着けながら、翔隆は苦笑する。
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そんな事を話ながら、山道を歩いていった。
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