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六章 決別
七.春日山城の対峙〔二〕
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一方。
翔隆は春日山から北東の守門岳の山中で戦っていた。
幾分強くなったとはいえ、相手は義成と陽炎と清修……三人同時では、幾らか傷を付ける事は出来ても嬲られて踊らされてしまう。
「ぐあっ! くっ…」
「どうした! お前の力はこの程度のものかっ!」
「情けない奴よ」
容赦なく斬り付けられ、必死に防ぐしか出来ない中で、翔隆は歯噛みして考える。
山中鹿介のように、七難八苦を願った訳でもないというのに、不幸はいつも招きたくない時にばかりやってくる…。
同じような境遇の信長は、己の信ずる道の為にそれらを踏み潰し、竹中は己を貫き、家康は常に先回りする事で乗り越えている。
…しかし、自分にはどれも出来なかった…。
何もかもが、中途半端………。
ここで死んでしまっては、それこそ総てが生半可で終わってしまう!
自分の無責任さは良く分かっているからこそ、それだけは何としても免れたい。
〈駄目だ! 死ぬ訳にはいかない……ここで死ぬ訳にはいかないんだ………っ!!〉
翔隆はありったけの《力》も使って応戦するものの、義成と陽炎の連携攻撃に加え、清修の放つ石や小枝に邪魔をされて隙すら衝けない状態……いや、寧ろ隙を作らないよう、急所を斬られないようにするので精一杯であった。
義成も陽炎も余裕の笑みを浮かべて、楽しんでいるように見えた…。
じわりじわりと追い詰められて、いいように斬られて、意識が薄れていく。
〈…義成に殺され掛けるのは……何度目だ………?〉
いや、義成本人の意思で殺され掛けているのは、今が初めてだ…。
その内に、拓須や睦月の顔が思い浮かぶ……次に似推里、篠姫、家臣達、子供達の顔が脳裏に過る。
槍と刀の連続攻撃と飛んでくる岩や木を躱しながら、翔隆はふいに京で会った父・羽隆を思い出した。
〈………何か……言いたげだった、な……――――〉
目が霞んで倒れ込んだ時、遠くで烏の声がした。
『カアー、カアア!』
鳴くと同時に、旋風が舞い激しい雨が降る。
「ぐっ!」
雨を含んだ烈風が鎌鼬となって三人を襲う。
「ちぃ…助けに来たか! 退け! あれでは勝てぬ!」
清修が舌打ちして忌ま忌ましげに烏を見ながら言い、駆け出す。
すると義成と陽炎も後に続いて退散した…。
〈風…麻呂………?〉
翔隆は舞い降りてくる風麻呂を見つめながら気を失った…――――。
「これはこれは若君」
…優しい声が聞こえる。
広い板間の中で両足を伸ばして座っていた自分に対して、掛けられた言葉…。
ちらりと振り向くと、若き字佐美が微笑んで立って居た。
自分……十四歳の長尾景虎は、ふいと正面を向いて俯いた。
「いかがあそばした?」
「………」
答えない。
林泉寺で暮らしていたかったという思いから、ふてくされていたのだ。
字佐美はただ微笑んで側に座り、景虎の頭を撫でる。
「大事ありませぬよ、若。この字佐美もおります故に…」
「…………字佐美…」
その瞬間から、景虎にとって字佐美定満は特別な存在となった。
〈夢……か………〉
翔隆は、何故か輝虎の過去の出来事の夢を見ていた。
いきなり背景が変わる。
…春日山の御屋敷だ。
字佐美と輝虎が居る……自分は宙を浮いてそれを見ていた。
「養子などという噂がございますが、わたしは殿の御子を見とう存じまする」
「またその話か……」
「皆も同じ心中と存じ…」
「じい」
「はい?」
輝虎はもそりと字佐美の膝に寝転ぶ。
「子は、いつか出来る。いずれ見せてやる故、良かろう?」
そう言い輝虎は子供のように甘えた。
字佐美は溜め息を吐きながらも微笑して、輝虎の頭を撫でる。
互いに優しい瞳…穏やかな時間。
父子のように…いや、違う………。
まるで、自分が睦月や義成に甘えるのと同じように、信頼し安心しきった顔………。
そんな関係…。
〈ああ………そういう存在だったのか……〉
とても輝虎に共感出来る…輝虎の、字佐美に対する気持ちが良く分かる……。
痛い程に、良く………。
蝉が忙しく鳴く声で目を覚ました。
御屋敷の天井が見える………あれからどの位時が経ったのだろうか…?
〈………ここは…字佐美殿との思い出深い場所なのか…〉
かけがえのない存在である字佐美の死を目撃してしまったから、あんな夢を見たのであろうか?
外からは、浅葱や子供の笑い声が聞こえてくる。
起きようとしたが、体中が重く、鈍い痛みが走る。
〈…風麻呂に助けられるのは……これで二度目か…? 誰が運んでくれたのだろう…〉
考えているとサラリと障子が開き、小姓が入ってきた。
「気が付かれましたか」
「…お主は確か……」
「同朋衆の一人、東原十郎太郎と申します」
そう言って、額に布を置いてくれる。
…ひんやりとして気持ちがいい。
……こんな真夏に、冷たい水を汲んでくるのは大変だっただろうに…。
〈ああ……確か今年で十二になる…湯殿の世話もしている子だったな………〉
そう思いながら、翔隆は目を瞑る。
「今、何日なんだ?」
「はい、八月の十二日にございます。貴方さまは全身に負われた傷によって六日間、生死の境を彷徨っておられ、その後高熱を出されて…」
それを聞いて、翔隆は目を見開いた。
「輝虎様は?」
「ご出陣にござりまする」
「出陣?! 何処に!!」
「…因縁の武田が、また川中島付近に攻めてきたので…」
五度目の川中島合戦である。
翔隆はガバッと飛び起きて立ち上がる。
――――が、ガクリと膝を撞いてしまう。
手足が震え、熱で息が荒い…。
「まだ起きてはなりません!」
すぐに東原が駆け寄り、支えてくれる。
「しかと介抱しろと仰せ遣っておりますれば、どうぞ床へ寝て下され」
「………済まん…」
そう言い翔隆は崩れるように床に倒れ込んだ。
そこに、一成がやってきて東原と共に翔隆をきちんと寝かせる。
「では、わたくしめはまた二刻後に参りまする」
東原は一礼して出て行く。
それを見送り、一成が溜め息を吐く。
「…御子達は庭で蹴鞠をなされておいでです。…先日、輝虎様の姉君・仙桃院様と長尾政景様の御子であられる卯松様を引き取られました。その遊び役として樋口殿が一子、与六殿が共に参られました。…今、浅葱様と共に遊んでおられます」
「…養子………そうか…」
養子は取らぬと言ったのに、結局はそうなってしまった…。
〈…待てよ……あの暗殺は他家だけとも限らない………家臣による謀略という事も有り得るのか…〉
家臣の誰かが、養子にするべく殺したとも考えられる…。
そう考えたら、胸が痛んだ。
「翔隆様…」
「ん……?」
「……義成様の事…いかが至しますか……?」
ズキン… 忘れたい…信じたくない事実を問われて、翔隆は目を瞑り胸を押さえた。
「翔隆様…お辛いのは、分かります………しかし、目を背けている場合ではございませぬ」
「……分かって…いる……」
傷の痛みよりも、心が破裂しそうな程苦しい…。翔隆はそのまま喋る。
「………拓須も…睦月も………義成も、狭霧だったのだな…」
「………はい」
一成も辛そうに眉を顰めて答える。
信頼する師匠が敵などと…この目で見ても、信じたくはない。
「義成は…………義成は、真に…狭霧の長だ………」
「はい……っ」
「この事は、他言するな」
「?! しかし…っ」
一成が言い掛けると、翔隆はガバッと起きて睨み付ける。
「誰にも言うな! 蒼司にも光征にも、忠長にも疾風にも!」
「…なれど! 皆で考えおうて策を練らねばなりませぬ! 向こうに〔長〕が誕生した今、不知火は不利!」
負けずに言い返すと、翔隆は目を潤ませながら俯く。
分かってはいる事だ………今までは京羅が〝代理〟だった。
だがこれからは、あの義成が長となり動き出すのだ…………一番、有効な手段を用いて……迅速に、容赦なく隙を衝いて…。
〈義成…―――――っ!!〉
悲しさのせいか、熱のせいか、ポロポロと涙が落ちる。
一成も涙を堪えて、翔隆を見つめていた。
〈もう………何をしても…戻っては来ない… 何故…義成が狭霧の長なんだ…っ?! 何故ーーー私は不知火の長なんだっ!!〉
ずっと、昔から思ってきた事………。
ずっと、自分が嫡子でなければと思いながらも、長になるのを決意したのは…――――…悲しい戦いを終わらせたいと思ったからだ…。
大切な、かけがえのない人と戦いたくないからだ!
〈なのに! 何故――――!〉
兄と慕い心から信頼していた義成は……〝宿敵の長〟…だ。
「分かって…いるのだ………だが…少しでいいから………っ! 考え、させてくれ…っ!」
絞り出すような声で言われて、一成はもうそれ以上…何も言えなくなってしまう。
自分が引き取られる前に何があったか、蒼司や睦月達から聞いて知っている。
翔隆にとって、義成の存在がどれ程大きくて…どれ程大切であるかは、聞いているのだ…。
〈………誰にも言わないでおけば…ご自身が辛くなるだけだ…〉
しかし、今明かした所で翔隆は尾張には戻れない…。
皆で翔隆の下に集まる事こそが、敵の思う壷になるのではないだろうか…?
〈どうすれば良いのか………〉
一成もまた悩んでいた。
優しい師匠の笑顔が目に浮かぶ………しかし、もはや敵族の長。
博学で刀術に優れた義成が、敵となったのだ。これ以上の脅威は無いだろう…。
ふいに翔隆が立ち上がる。
「あ……まだ起きては…」
翔隆はふらふらしながらも、歩いて障子を開けた。
外では、眩しい太陽の日差しの下、元気よく浅葱と五歳の樋口与六と小姓二人が蹴鞠をして遊んでいる。
縁側では勉学に励む樟美と、無表情で浅葱達を見つめる少年がいた。
…彼が卯松(十歳)であろう。
〈……あの時…矢を放った方に走って捕らえておけば、良かったか…?〉
いや…もしかしたら、狙われたのは字佐美かもしれないし…両方かもしれない。
翔隆はへたり込むと、じっと卯松を見つめた。
すると、卯松が振り返ってこちらを見た。
翔隆は少し一礼する。
「…こんな姿で、失礼至しまする……篠蔦三郎兵衛翔隆と申します……」
「うむ。お伽衆の一人と聞いた。重症と聞いておるが…起きて良いのか?」
「……見ての通りでございまする…」
じっと翔隆を見て、卯松は苦笑した。
「寝ておってはどうじゃ?」
「…あの……共に、遊ばれないのですか?」
「蹴鞠は好きではない」
「では馬にでも…」
「剣の師事……それに、泳ぎも…な」
父の死を、分かっているのか……いや、もしかしたら暗殺されたのだと知っているのやもしれない…。
その瞳は既に青年の冷静さを秘め、真実を見極めようとする心構えが見受けられた。
〈……まさか、字佐美様が殺したと思われているのでは…〉
違う、と――――言い切れるのか…?
輝虎に跡継ぎを願う心は、宿老の中で誰よりも強かった筈………あれが字佐美の刺客ではないという証拠は何一つとして、無い…。
証拠は無いが、そうではないという確信ならあった。
〈言っていいものか? しかし分からないものは…〉
確たる証も無しに、何処ぞの刺客にやられた、などとは言えない。
翔隆は言葉を失ってしまう。
卯松は翔隆に近寄って、じっと顔を覗き込んできた。
「お主、バテレンでも無いのか? …ちゃんとした名があるが…」
「あ………」
そういえば、義成との対面の時に髪の毛と瞳の色が戻ってしまっていたのを忘れていた。
「生まれつき、この風体です……破天連ではありませんし………鬼でもありませぬよ」
「ほう……難儀だな」
「難儀…………」
呟いて、翔隆は宙を見つめる。
〈…珂室が、謀略で近付いた。義成と…共謀して――――〉
義成が………輝虎を利用して…殺しに、来た…。
「…おい…?」
姉と、仲睦まじく…母の弥生にも優しく……集落を襲われた日も、庇ってくれて……。
「篠蔦?」
卯松が翔隆の顔の前で手の平を振ってみても、何の反応も無い。
色んな事を教えてくれて……分からない事を、優しく……。
その内に、翔隆は吐き気と目眩で倒れ込む。
「おい!」
「翔隆様!」
すぐに一成と樟美も駆け付け、浅葱達もやってきた。
「父上、しっかり!」
ゆさゆさと肩を揺すられ、意識が朦朧とした。
…温かい集落の暮らし……師匠達との思い出―――拓須・睦月・義成の離反…
―――信長の怒りの表情…
――――各地で出会った武将や同族達
――――父・羽隆の悲しみと怒りの顔…
――――義成の…凍てつく表情…
――――様々な事が頭の中を駆け巡って、消えていった…。
「すぐに薬師を!」
小姓が走っていき、一成が翔隆を抱えて寝所に入った。
翔隆は春日山から北東の守門岳の山中で戦っていた。
幾分強くなったとはいえ、相手は義成と陽炎と清修……三人同時では、幾らか傷を付ける事は出来ても嬲られて踊らされてしまう。
「ぐあっ! くっ…」
「どうした! お前の力はこの程度のものかっ!」
「情けない奴よ」
容赦なく斬り付けられ、必死に防ぐしか出来ない中で、翔隆は歯噛みして考える。
山中鹿介のように、七難八苦を願った訳でもないというのに、不幸はいつも招きたくない時にばかりやってくる…。
同じような境遇の信長は、己の信ずる道の為にそれらを踏み潰し、竹中は己を貫き、家康は常に先回りする事で乗り越えている。
…しかし、自分にはどれも出来なかった…。
何もかもが、中途半端………。
ここで死んでしまっては、それこそ総てが生半可で終わってしまう!
自分の無責任さは良く分かっているからこそ、それだけは何としても免れたい。
〈駄目だ! 死ぬ訳にはいかない……ここで死ぬ訳にはいかないんだ………っ!!〉
翔隆はありったけの《力》も使って応戦するものの、義成と陽炎の連携攻撃に加え、清修の放つ石や小枝に邪魔をされて隙すら衝けない状態……いや、寧ろ隙を作らないよう、急所を斬られないようにするので精一杯であった。
義成も陽炎も余裕の笑みを浮かべて、楽しんでいるように見えた…。
じわりじわりと追い詰められて、いいように斬られて、意識が薄れていく。
〈…義成に殺され掛けるのは……何度目だ………?〉
いや、義成本人の意思で殺され掛けているのは、今が初めてだ…。
その内に、拓須や睦月の顔が思い浮かぶ……次に似推里、篠姫、家臣達、子供達の顔が脳裏に過る。
槍と刀の連続攻撃と飛んでくる岩や木を躱しながら、翔隆はふいに京で会った父・羽隆を思い出した。
〈………何か……言いたげだった、な……――――〉
目が霞んで倒れ込んだ時、遠くで烏の声がした。
『カアー、カアア!』
鳴くと同時に、旋風が舞い激しい雨が降る。
「ぐっ!」
雨を含んだ烈風が鎌鼬となって三人を襲う。
「ちぃ…助けに来たか! 退け! あれでは勝てぬ!」
清修が舌打ちして忌ま忌ましげに烏を見ながら言い、駆け出す。
すると義成と陽炎も後に続いて退散した…。
〈風…麻呂………?〉
翔隆は舞い降りてくる風麻呂を見つめながら気を失った…――――。
「これはこれは若君」
…優しい声が聞こえる。
広い板間の中で両足を伸ばして座っていた自分に対して、掛けられた言葉…。
ちらりと振り向くと、若き字佐美が微笑んで立って居た。
自分……十四歳の長尾景虎は、ふいと正面を向いて俯いた。
「いかがあそばした?」
「………」
答えない。
林泉寺で暮らしていたかったという思いから、ふてくされていたのだ。
字佐美はただ微笑んで側に座り、景虎の頭を撫でる。
「大事ありませぬよ、若。この字佐美もおります故に…」
「…………字佐美…」
その瞬間から、景虎にとって字佐美定満は特別な存在となった。
〈夢……か………〉
翔隆は、何故か輝虎の過去の出来事の夢を見ていた。
いきなり背景が変わる。
…春日山の御屋敷だ。
字佐美と輝虎が居る……自分は宙を浮いてそれを見ていた。
「養子などという噂がございますが、わたしは殿の御子を見とう存じまする」
「またその話か……」
「皆も同じ心中と存じ…」
「じい」
「はい?」
輝虎はもそりと字佐美の膝に寝転ぶ。
「子は、いつか出来る。いずれ見せてやる故、良かろう?」
そう言い輝虎は子供のように甘えた。
字佐美は溜め息を吐きながらも微笑して、輝虎の頭を撫でる。
互いに優しい瞳…穏やかな時間。
父子のように…いや、違う………。
まるで、自分が睦月や義成に甘えるのと同じように、信頼し安心しきった顔………。
そんな関係…。
〈ああ………そういう存在だったのか……〉
とても輝虎に共感出来る…輝虎の、字佐美に対する気持ちが良く分かる……。
痛い程に、良く………。
蝉が忙しく鳴く声で目を覚ました。
御屋敷の天井が見える………あれからどの位時が経ったのだろうか…?
〈………ここは…字佐美殿との思い出深い場所なのか…〉
かけがえのない存在である字佐美の死を目撃してしまったから、あんな夢を見たのであろうか?
外からは、浅葱や子供の笑い声が聞こえてくる。
起きようとしたが、体中が重く、鈍い痛みが走る。
〈…風麻呂に助けられるのは……これで二度目か…? 誰が運んでくれたのだろう…〉
考えているとサラリと障子が開き、小姓が入ってきた。
「気が付かれましたか」
「…お主は確か……」
「同朋衆の一人、東原十郎太郎と申します」
そう言って、額に布を置いてくれる。
…ひんやりとして気持ちがいい。
……こんな真夏に、冷たい水を汲んでくるのは大変だっただろうに…。
〈ああ……確か今年で十二になる…湯殿の世話もしている子だったな………〉
そう思いながら、翔隆は目を瞑る。
「今、何日なんだ?」
「はい、八月の十二日にございます。貴方さまは全身に負われた傷によって六日間、生死の境を彷徨っておられ、その後高熱を出されて…」
それを聞いて、翔隆は目を見開いた。
「輝虎様は?」
「ご出陣にござりまする」
「出陣?! 何処に!!」
「…因縁の武田が、また川中島付近に攻めてきたので…」
五度目の川中島合戦である。
翔隆はガバッと飛び起きて立ち上がる。
――――が、ガクリと膝を撞いてしまう。
手足が震え、熱で息が荒い…。
「まだ起きてはなりません!」
すぐに東原が駆け寄り、支えてくれる。
「しかと介抱しろと仰せ遣っておりますれば、どうぞ床へ寝て下され」
「………済まん…」
そう言い翔隆は崩れるように床に倒れ込んだ。
そこに、一成がやってきて東原と共に翔隆をきちんと寝かせる。
「では、わたくしめはまた二刻後に参りまする」
東原は一礼して出て行く。
それを見送り、一成が溜め息を吐く。
「…御子達は庭で蹴鞠をなされておいでです。…先日、輝虎様の姉君・仙桃院様と長尾政景様の御子であられる卯松様を引き取られました。その遊び役として樋口殿が一子、与六殿が共に参られました。…今、浅葱様と共に遊んでおられます」
「…養子………そうか…」
養子は取らぬと言ったのに、結局はそうなってしまった…。
〈…待てよ……あの暗殺は他家だけとも限らない………家臣による謀略という事も有り得るのか…〉
家臣の誰かが、養子にするべく殺したとも考えられる…。
そう考えたら、胸が痛んだ。
「翔隆様…」
「ん……?」
「……義成様の事…いかが至しますか……?」
ズキン… 忘れたい…信じたくない事実を問われて、翔隆は目を瞑り胸を押さえた。
「翔隆様…お辛いのは、分かります………しかし、目を背けている場合ではございませぬ」
「……分かって…いる……」
傷の痛みよりも、心が破裂しそうな程苦しい…。翔隆はそのまま喋る。
「………拓須も…睦月も………義成も、狭霧だったのだな…」
「………はい」
一成も辛そうに眉を顰めて答える。
信頼する師匠が敵などと…この目で見ても、信じたくはない。
「義成は…………義成は、真に…狭霧の長だ………」
「はい……っ」
「この事は、他言するな」
「?! しかし…っ」
一成が言い掛けると、翔隆はガバッと起きて睨み付ける。
「誰にも言うな! 蒼司にも光征にも、忠長にも疾風にも!」
「…なれど! 皆で考えおうて策を練らねばなりませぬ! 向こうに〔長〕が誕生した今、不知火は不利!」
負けずに言い返すと、翔隆は目を潤ませながら俯く。
分かってはいる事だ………今までは京羅が〝代理〟だった。
だがこれからは、あの義成が長となり動き出すのだ…………一番、有効な手段を用いて……迅速に、容赦なく隙を衝いて…。
〈義成…―――――っ!!〉
悲しさのせいか、熱のせいか、ポロポロと涙が落ちる。
一成も涙を堪えて、翔隆を見つめていた。
〈もう………何をしても…戻っては来ない… 何故…義成が狭霧の長なんだ…っ?! 何故ーーー私は不知火の長なんだっ!!〉
ずっと、昔から思ってきた事………。
ずっと、自分が嫡子でなければと思いながらも、長になるのを決意したのは…――――…悲しい戦いを終わらせたいと思ったからだ…。
大切な、かけがえのない人と戦いたくないからだ!
〈なのに! 何故――――!〉
兄と慕い心から信頼していた義成は……〝宿敵の長〟…だ。
「分かって…いるのだ………だが…少しでいいから………っ! 考え、させてくれ…っ!」
絞り出すような声で言われて、一成はもうそれ以上…何も言えなくなってしまう。
自分が引き取られる前に何があったか、蒼司や睦月達から聞いて知っている。
翔隆にとって、義成の存在がどれ程大きくて…どれ程大切であるかは、聞いているのだ…。
〈………誰にも言わないでおけば…ご自身が辛くなるだけだ…〉
しかし、今明かした所で翔隆は尾張には戻れない…。
皆で翔隆の下に集まる事こそが、敵の思う壷になるのではないだろうか…?
〈どうすれば良いのか………〉
一成もまた悩んでいた。
優しい師匠の笑顔が目に浮かぶ………しかし、もはや敵族の長。
博学で刀術に優れた義成が、敵となったのだ。これ以上の脅威は無いだろう…。
ふいに翔隆が立ち上がる。
「あ……まだ起きては…」
翔隆はふらふらしながらも、歩いて障子を開けた。
外では、眩しい太陽の日差しの下、元気よく浅葱と五歳の樋口与六と小姓二人が蹴鞠をして遊んでいる。
縁側では勉学に励む樟美と、無表情で浅葱達を見つめる少年がいた。
…彼が卯松(十歳)であろう。
〈……あの時…矢を放った方に走って捕らえておけば、良かったか…?〉
いや…もしかしたら、狙われたのは字佐美かもしれないし…両方かもしれない。
翔隆はへたり込むと、じっと卯松を見つめた。
すると、卯松が振り返ってこちらを見た。
翔隆は少し一礼する。
「…こんな姿で、失礼至しまする……篠蔦三郎兵衛翔隆と申します……」
「うむ。お伽衆の一人と聞いた。重症と聞いておるが…起きて良いのか?」
「……見ての通りでございまする…」
じっと翔隆を見て、卯松は苦笑した。
「寝ておってはどうじゃ?」
「…あの……共に、遊ばれないのですか?」
「蹴鞠は好きではない」
「では馬にでも…」
「剣の師事……それに、泳ぎも…な」
父の死を、分かっているのか……いや、もしかしたら暗殺されたのだと知っているのやもしれない…。
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〈……まさか、字佐美様が殺したと思われているのでは…〉
違う、と――――言い切れるのか…?
輝虎に跡継ぎを願う心は、宿老の中で誰よりも強かった筈………あれが字佐美の刺客ではないという証拠は何一つとして、無い…。
証拠は無いが、そうではないという確信ならあった。
〈言っていいものか? しかし分からないものは…〉
確たる証も無しに、何処ぞの刺客にやられた、などとは言えない。
翔隆は言葉を失ってしまう。
卯松は翔隆に近寄って、じっと顔を覗き込んできた。
「お主、バテレンでも無いのか? …ちゃんとした名があるが…」
「あ………」
そういえば、義成との対面の時に髪の毛と瞳の色が戻ってしまっていたのを忘れていた。
「生まれつき、この風体です……破天連ではありませんし………鬼でもありませぬよ」
「ほう……難儀だな」
「難儀…………」
呟いて、翔隆は宙を見つめる。
〈…珂室が、謀略で近付いた。義成と…共謀して――――〉
義成が………輝虎を利用して…殺しに、来た…。
「…おい…?」
姉と、仲睦まじく…母の弥生にも優しく……集落を襲われた日も、庇ってくれて……。
「篠蔦?」
卯松が翔隆の顔の前で手の平を振ってみても、何の反応も無い。
色んな事を教えてくれて……分からない事を、優しく……。
その内に、翔隆は吐き気と目眩で倒れ込む。
「おい!」
「翔隆様!」
すぐに一成と樟美も駆け付け、浅葱達もやってきた。
「父上、しっかり!」
ゆさゆさと肩を揺すられ、意識が朦朧とした。
…温かい集落の暮らし……師匠達との思い出―――拓須・睦月・義成の離反…
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克全
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アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
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