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六章 決別
十四.出羽にて
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そのまま海沿いの街道を北上し、出羽を回った。
もう十一月…既に風は冷たく、雪も降り積もってきたので山中での野宿となった。
廃屋も何も見当たらない雪山の中は、非常に危険だ。
翔隆はとにかく乾いた枝や葉を拾い集めて、火を起こしてから子供達を影疾から降ろした。
「寒くないか?」
「あい」「はい」
答えながら、浅葱は両腕を摩っていた。
翔隆は苦笑して浅葱と樟美に小袖を一枚ずつ被せると、水の入った竹筒を手渡した。
「…このまま北には行けないので、南に戻る事にする。何か採ってくるから、待っていられるか?」
そう尋ねた時、後方から何者かの気配がする。
「父上…」
樟美の言葉に微かに頷き、翔隆はそのままの姿勢で〝気〟を探る。
〈……こちらの様子を窺ってるのか…〉
どうやら同族らしい。
翔隆は振り向いて声を掛けた。
「何か用か?」
すると、木の陰から青年が出てきた。
「…もしや、翔隆様……か?」
「いかにも。貴方は?」
翔隆が明るく言うと、青年は戸惑いながらも答える。
「このような雪山の中で何をされておられる…? 凍え死んでしまうと思うのだが…」
「……見ての通り野宿だ」
あっさりと言う。
…しかし、どこからどう見ても遭難しているようにしか見えない…。
「この近くに集落があるので、参られるか?」
「…いいのか?」
「………いい…も何も……長、なのでしょう?」
「まだ、認めてもらえていないが…」
限りなく謙虚な言葉に、青年は思わず吹き出してしまう。
「ぷっ、くく…」
…以前も似たような事で笑われた気がする…。
青年は笑いながら言う。
「頭領もお待ちです。…こちらへ」
そう言い青年は子供達に笠を被せて浅葱を抱き上げた。
同じ山の中に、広めの集落があった。
翔隆達は、案内されて小屋の中に入る。
中は囲炉裏に火が焚かれていて暖かい。
川魚も焼かれていた。
「魚でも召し上がっていて下さい。今、頭領を呼んで参ります」
そう言って青年は出ていく。
翔隆は子供達を炉端に座らせて、いい具合に焼かれた魚を渡す。
「折角の好意だ。戴こう」
「あい」
浅葱が答えて、ふー、ふーと冷ましながら魚を食べる。
それを見て樟美も食べ始めた。
暫くすると、頭領の尾坂がやってきた。
共に、酒や鍋なども運ばれてくる。
尾坂は一礼して入り、座る。
翔隆も向き直って一礼した。
「…いつぞやは、無礼を働き申し訳…」
「尾坂殿」
言い掛けたのを遮ると、翔隆が頭を下げて言う。
「いつぞやは、若造が生意気な事をぬかして申し訳ない」
「なっ…頭を上げて下され! 謝らねばならぬのは、わしらの方です!」
「…ここ北陸一帯は山が多く、狭霧が圧倒的に有利と聞く…。何の事情も知らずに、大口を叩いて…さぞ憤りを感じられたであろうに…」
「いえ……わしの方こそ、長の立場も気持ちも考えず…軽率でした」
互いに謝り合うと、二人は見つめ合って微笑した。
「…随分と、逞しくなられましたな」
「外見だけは。中身はまだ子供で…」
「ご謙遜を……。あれから飄羅や景羅、清修や弓駿といった将と戦っていると聞き及んでおります。…感服至しました」
「感服されるような事ではありません…」
そう言う翔隆の表情には、憂いが見えた。
尾坂は微笑んで盃を渡す。
「どうぞ」
「…頂戴至す」
静かに盃を手にして酒を注いでもらい、呑む。
子供達は、鍋の具をよそってもらい食べていた。
酒を酌み交わしながら、翔隆は雪の降る外を眺めた。
「…弓駿は、手強い将ですな」
「はい。集落が確実に落とされておりまする。今は出羽に三つ残るのみ…。敬語はお止め下され」
「しかし…」
「我ら不知火を必ず勝たせる…―――そう仰有られた言葉は、胸に響きました。事実、数々の戦で勝利なされておられまする」
「…必死に戦った結果であって…」
「長」
急に言われて、翔隆は目を丸くする。
「何故、それ程謙虚に申されるのか……何か、ご不満でも?」
「いや、そんな事は無い」
「では、何か案じておられるのか…?」
その言葉に、翔隆は眉を顰めた。
不安な事――――…。
義成の事を、一族の者達には何と説明したらいい?
尾張で帰りを待ってくれている家臣達ならば、すぐに説明がついても…この者達は何の事情も知らないし、翔隆自身の問題であるのだから………。
「我らでは、言えぬ事にござりまするか?」
「いや……そうでは…無いのだが………」
俯きながら言う翔隆の姿を見て、何か重要な事であるのは分かる。
しかし、それが何か…までは尾坂にはよく分からなかった。
〈確か…長はよくお一人で悩みを抱える、と…竹中殿が申しておったが……何も申されぬ、では長の事が何も分からないままだ…〉
尾坂は問い詰めようとして、ギクリとする。
翔隆の顔が蒼冷めていたからだ。
…口唇を噛み締め、何かに耐えているかのような…。
「長…?」
すると、異変を察知した樟美が寄ってきた。
「父上! 横になられた方が…」
「…いや、大丈夫だ…」
「いかがなされたのだ?!」
尾坂が側に寄って尋ねると、樟美が答える。
「…夏に陽炎や清修と戦い、生死を彷徨いました。まだ、傷が癒えていません」
樟美は敢えて、義成の事を言わないでおいた。
すると尾坂は驚愕して翔隆の肩を支える。
「なっ…! 何故もっと早く言うて下されぬのかっ! 杣! 早く床を!」
「はい!」
答えて腹心の杣が畳と掻巻を持ってくる為に、急いで駆けていった。
すると翔隆は申し訳なさそうに尾坂を見て言う。
「…気を遣わせて済まない……」
「気を遣うも何も…貴方は長であり、私は不知火の一つの枝です! 何故敬語など使ってそのような……傷をお見せ下され、手当てくらいはさせて頂けますね?」
そう強く言われて、翔隆は苦笑して頷いた。
手当てが済んで床に就くと、翔隆の表情が少し和らぐ。
あんなに酷い怪我を負って…どれ程痛みを我慢していたのか…。
いや、それ程までに我慢させてしまった事を、尾坂は悔いた。
「…申し訳ありませぬ……事情も知らず…長を辛い目に……」
「いや……私の不甲斐なさ故の傷だ…」
「…長、陽炎と清修は弓駿よりも強うござりまする。誰も不甲斐ないなどとは思いません」
尾坂が言うと、杣も側にいた他の者も大きく頷いた。
それを見て翔隆は微苦笑を浮かべる。
「…ありがとう。尾坂殿」
「尾坂、で結構」
「…陸奥は……既に敵中…か?」
「はい……。昨年までは、幾つも集落がありましたが…敵将の弓栩羅という者が参りまして」
「弓栩羅…っ!」
その名を聞いて、翔隆は起き上がる。
「…すぐに…申し訳……」
「いや、謝らないでくれ。…弓栩羅をこちらに寄せたのは私だ………私の責任だ。済まん…!」
そう言い、深く頭を下げた。
「長…!」
「弓栩羅は強い…あらゆる意味でな…。苦戦を強いられた。故に、富士に封じようと判断したのだ………許せ」
「いえ、とんでもない! どうか、横になって下され!!」
必死に懇願すると、翔隆は申し訳無さそうにしながらも横になる。
「………山や谷ばかりで苦戦するだろうが………頼む」
「―――はい!」
その返答に頷いて、翔隆は外の雪を眺めた。
〈……もうすぐ十二月…。皆…元気でやっているだろうか……〉
一方、尾張の翔隆の邸。
ここでも、雪が舞っていた。
「今戻ったぞー…はっくしょい!」
矢苑佐馬亮忠長(十四歳)が戻ってきて、くしゃみをして鼻水を啜りながら歩く。
「あー……やけに冷えるな。おい、火鉢ぐらい無いのかっ?」
大声で言って、広間に一成を見付ける。
忠長は火鉢の側にドカッと座って暖を取る。
「…今日も門前払い! 昨日も一昨日もその前も、ず~っとだ! もう飽きた! イヤになるなー、おい?」
「………」
矢月一成は黙って外を見たまま。
どこか一点だけを見ている……夏から、ずっとこの調子だ。
「ケッ……何か言えっての。すましてばっかだよなあ?」
そこに、書物を持った明智四郎衛門光征(十九歳)がやってきた。
「一成に絡むな。それよりも報告を纏めろ」
「報告ぅ~っ?!」
忠長はカッとして怒鳴る。
「何を報告しろってんだよ! ずっと門前払いでしたってか?! 忍び込んだら斬り掛かられましたってか!! そんなの書いて喜ぶかよ!?」
「………喜ぶ喜ばないではなく、事実を書くだけだ」
「桜弥! てめえは島津だからいいよなあっ?! 知らねえ土地で、ただ命令に従ってりゃいいんだからよ! だがな! 俺は知った顔の中で毎日毎日突っ返されてんだよ!」
「怒鳴るな! …鹿奈殿の病に障る」
鹿奈(二十三歳)は秋頃から重い疱瘡に罹り、命も危うい状態になっていた。
移るといけないので裏庭の方に小屋を作り、そこで看病をしているのだ。
そこに、忌那蒼司(二十三歳)が茶を運んできて座る。
「生まれたばかりの稚児もおるのですよ。少しは桜巳殿でも見習っては? 朝からずっと字の練習をしておられまするよ」
桜巳は今年二歳になる、光征と葵の長男だ。
二十日に生まれたばかりの龍巳もいる。
隣りの部屋に、子供達が集まっていた。
九歳の楓の子の錐巴。
蒼司と弓香の子は二歳になる双子。
姉が桂で弟が槐。
椎名雪孝(十六歳)もいつの間にか、〝りつ〟という楽市に来ていた娘との間に一歳の娘、細雪と…今、身籠もっていて来年にはもう一人産まれる予定だ。
そして義成と鹿奈の長男、時乃宮(二歳)もいた。
「…わらわら居るよなー………ん?」
忠長は部屋を見つめていきなり立ち上がって桂に駆け寄った。
「何してんだ!」
そう言い桂が弄っていた火縄銃を取り上げる。
「危ねーなあ……誰だよ、これ持ってきたの」
「俺だ。興味があると言うから」
雪孝がやってきて細雪を抱き上げる。
「興味があるって…こんなモン持たせたら危ねーだろ!」
「かえちて!」
桂が火縄銃を掴んで言ってきた。
「駄目だ! …おい、何で弾丸が入ってるんだ?」
「ああ…一式揃えて説明してやったからな」
「まだガキなのに教えるなよ」
「…狭霧では当たり前の事だった。…何がいけない?」
忠長に言ってから、光征と蒼司を見るが苦笑いをされた。…二人共狭霧だ。
「盒薬などは渡していないのですから、問題無いでしょう?」
蒼司が言い、忠長から火縄銃を取って桂に渡した。
「ありあと」
そう言い桂は重たそうに引き摺りながらも、持っていった。
それに対して忠長はムッとする。
「おまっ…! ああくそっ!」
「何をそんなに苛立っておいでなのです?」
蒼司が言うと、忠長は蒼司を睨み付ける。
「何をって何だか分かるだろうがっ! 何でてめえは涼しげなんだよ!」
「………詮無き事を…」
翔隆の事だとは、誰もが分かっている。
だから、敢えて誰も口に出さないのだ。
蒼司は光征と共に報告を書き始める。
「…っくそ! 食らえ!」
そう言って忠長は突然《炎》を蒼司に向けて放つ。
蒼司はそれを《炎》で消した。
「生憎と、炎では負けませんよ?」
「分からねえだろ!」
怒鳴って忠長は憂さ晴らしにと、幾つも炎を作り出しては投げ付けた。
対して蒼司は笑みすら浮かべて、それらを消していく。
その内に二人は庭に出ていった。
…いつもの喧嘩だ。
それを見ながら、弓香が心配そうに雪孝の側に座る。
「ずっと荒れているけれど…平気なの?」
「惚れた主が留守にして、もう来年で二年。荒れぬ方がおかしいというもの」
「………ねえ、何処かの集落に行く訳には…………いかないわよね…」
考えて言い、弓香は項垂れる。
雪孝は墨を擦りながら苦笑する。
「…翔隆様は………とても変わったお方故に」
「大名達を守る為には〝仕える〟という形を取るしかないのだろう」
そう言って、庭から疾風(二十六歳)が上がってくる。
「お帰りなさいませ。いかがでした?」
「…御子達は元気だが……奇妙丸様が兄者からの返事が来ない事を案じておられる」
疾風は、座って葵の出す茶を飲んだ。
「文の返事どころではありますまい…が、慕われておられますからね」
光征も筆を止めて、外を眺めた。
雪が寂しく見える…。
弓香と葵は、子供達の下に行く。
疾風と光征と雪孝は、ずっと沈み込んでいる一成を見た。
何かあったのは一目瞭然………しかし、本人は翔隆に会って陽炎達と戦いになった、としか言わずに何か一人で悩みを抱え込んでいる…。
「…とにかく、怪我は治ったと言っていたし…。尋常ではないけれど、様子を見るしか…」
光征が言うと、雪孝も頷く。
「何を聞いても答えぬのは、翔隆様の命なのでしょう。気にはなりますが……至仕方ありますまい」
「そうだな。だが……ろくに飲まず食わずでは困る」
そう言い疾風は立ち上がり、一成の側に行く。
「一成」
「………」
「一成?」
「………」
「矢月一成!」
「えっ!? あ…疾風様……何か?」
「……夏から元気が無いが……きちんと食わねば倒れてしまうぞ?」
「―――はい…済みません…」
一成は苦笑して言い、俯いてしまう。
それを見て疾風は眉を顰め、しゃがんで一成の顔を覗き込んだ。
「…その悩みを話せとは言わぬ。ただ……お主が倒れては、兄者が悲しむだろう?」
その言葉に、一成は初めて皆の前で涙を流した。
見ていた光征と雪孝は驚いて近寄ろうとするも、戸惑って止まってしまう。
「一成……」
疾風は戸惑いながら、慰めようと一成の肩を叩く。
一成は皆に申し訳無くて、声も立てずに泣いた。
〈義成様――――!〉
一成は、涙を流しながら師匠と…翔隆の事を想った。
もう十一月…既に風は冷たく、雪も降り積もってきたので山中での野宿となった。
廃屋も何も見当たらない雪山の中は、非常に危険だ。
翔隆はとにかく乾いた枝や葉を拾い集めて、火を起こしてから子供達を影疾から降ろした。
「寒くないか?」
「あい」「はい」
答えながら、浅葱は両腕を摩っていた。
翔隆は苦笑して浅葱と樟美に小袖を一枚ずつ被せると、水の入った竹筒を手渡した。
「…このまま北には行けないので、南に戻る事にする。何か採ってくるから、待っていられるか?」
そう尋ねた時、後方から何者かの気配がする。
「父上…」
樟美の言葉に微かに頷き、翔隆はそのままの姿勢で〝気〟を探る。
〈……こちらの様子を窺ってるのか…〉
どうやら同族らしい。
翔隆は振り向いて声を掛けた。
「何か用か?」
すると、木の陰から青年が出てきた。
「…もしや、翔隆様……か?」
「いかにも。貴方は?」
翔隆が明るく言うと、青年は戸惑いながらも答える。
「このような雪山の中で何をされておられる…? 凍え死んでしまうと思うのだが…」
「……見ての通り野宿だ」
あっさりと言う。
…しかし、どこからどう見ても遭難しているようにしか見えない…。
「この近くに集落があるので、参られるか?」
「…いいのか?」
「………いい…も何も……長、なのでしょう?」
「まだ、認めてもらえていないが…」
限りなく謙虚な言葉に、青年は思わず吹き出してしまう。
「ぷっ、くく…」
…以前も似たような事で笑われた気がする…。
青年は笑いながら言う。
「頭領もお待ちです。…こちらへ」
そう言い青年は子供達に笠を被せて浅葱を抱き上げた。
同じ山の中に、広めの集落があった。
翔隆達は、案内されて小屋の中に入る。
中は囲炉裏に火が焚かれていて暖かい。
川魚も焼かれていた。
「魚でも召し上がっていて下さい。今、頭領を呼んで参ります」
そう言って青年は出ていく。
翔隆は子供達を炉端に座らせて、いい具合に焼かれた魚を渡す。
「折角の好意だ。戴こう」
「あい」
浅葱が答えて、ふー、ふーと冷ましながら魚を食べる。
それを見て樟美も食べ始めた。
暫くすると、頭領の尾坂がやってきた。
共に、酒や鍋なども運ばれてくる。
尾坂は一礼して入り、座る。
翔隆も向き直って一礼した。
「…いつぞやは、無礼を働き申し訳…」
「尾坂殿」
言い掛けたのを遮ると、翔隆が頭を下げて言う。
「いつぞやは、若造が生意気な事をぬかして申し訳ない」
「なっ…頭を上げて下され! 謝らねばならぬのは、わしらの方です!」
「…ここ北陸一帯は山が多く、狭霧が圧倒的に有利と聞く…。何の事情も知らずに、大口を叩いて…さぞ憤りを感じられたであろうに…」
「いえ……わしの方こそ、長の立場も気持ちも考えず…軽率でした」
互いに謝り合うと、二人は見つめ合って微笑した。
「…随分と、逞しくなられましたな」
「外見だけは。中身はまだ子供で…」
「ご謙遜を……。あれから飄羅や景羅、清修や弓駿といった将と戦っていると聞き及んでおります。…感服至しました」
「感服されるような事ではありません…」
そう言う翔隆の表情には、憂いが見えた。
尾坂は微笑んで盃を渡す。
「どうぞ」
「…頂戴至す」
静かに盃を手にして酒を注いでもらい、呑む。
子供達は、鍋の具をよそってもらい食べていた。
酒を酌み交わしながら、翔隆は雪の降る外を眺めた。
「…弓駿は、手強い将ですな」
「はい。集落が確実に落とされておりまする。今は出羽に三つ残るのみ…。敬語はお止め下され」
「しかし…」
「我ら不知火を必ず勝たせる…―――そう仰有られた言葉は、胸に響きました。事実、数々の戦で勝利なされておられまする」
「…必死に戦った結果であって…」
「長」
急に言われて、翔隆は目を丸くする。
「何故、それ程謙虚に申されるのか……何か、ご不満でも?」
「いや、そんな事は無い」
「では、何か案じておられるのか…?」
その言葉に、翔隆は眉を顰めた。
不安な事――――…。
義成の事を、一族の者達には何と説明したらいい?
尾張で帰りを待ってくれている家臣達ならば、すぐに説明がついても…この者達は何の事情も知らないし、翔隆自身の問題であるのだから………。
「我らでは、言えぬ事にござりまするか?」
「いや……そうでは…無いのだが………」
俯きながら言う翔隆の姿を見て、何か重要な事であるのは分かる。
しかし、それが何か…までは尾坂にはよく分からなかった。
〈確か…長はよくお一人で悩みを抱える、と…竹中殿が申しておったが……何も申されぬ、では長の事が何も分からないままだ…〉
尾坂は問い詰めようとして、ギクリとする。
翔隆の顔が蒼冷めていたからだ。
…口唇を噛み締め、何かに耐えているかのような…。
「長…?」
すると、異変を察知した樟美が寄ってきた。
「父上! 横になられた方が…」
「…いや、大丈夫だ…」
「いかがなされたのだ?!」
尾坂が側に寄って尋ねると、樟美が答える。
「…夏に陽炎や清修と戦い、生死を彷徨いました。まだ、傷が癒えていません」
樟美は敢えて、義成の事を言わないでおいた。
すると尾坂は驚愕して翔隆の肩を支える。
「なっ…! 何故もっと早く言うて下されぬのかっ! 杣! 早く床を!」
「はい!」
答えて腹心の杣が畳と掻巻を持ってくる為に、急いで駆けていった。
すると翔隆は申し訳なさそうに尾坂を見て言う。
「…気を遣わせて済まない……」
「気を遣うも何も…貴方は長であり、私は不知火の一つの枝です! 何故敬語など使ってそのような……傷をお見せ下され、手当てくらいはさせて頂けますね?」
そう強く言われて、翔隆は苦笑して頷いた。
手当てが済んで床に就くと、翔隆の表情が少し和らぐ。
あんなに酷い怪我を負って…どれ程痛みを我慢していたのか…。
いや、それ程までに我慢させてしまった事を、尾坂は悔いた。
「…申し訳ありませぬ……事情も知らず…長を辛い目に……」
「いや……私の不甲斐なさ故の傷だ…」
「…長、陽炎と清修は弓駿よりも強うござりまする。誰も不甲斐ないなどとは思いません」
尾坂が言うと、杣も側にいた他の者も大きく頷いた。
それを見て翔隆は微苦笑を浮かべる。
「…ありがとう。尾坂殿」
「尾坂、で結構」
「…陸奥は……既に敵中…か?」
「はい……。昨年までは、幾つも集落がありましたが…敵将の弓栩羅という者が参りまして」
「弓栩羅…っ!」
その名を聞いて、翔隆は起き上がる。
「…すぐに…申し訳……」
「いや、謝らないでくれ。…弓栩羅をこちらに寄せたのは私だ………私の責任だ。済まん…!」
そう言い、深く頭を下げた。
「長…!」
「弓栩羅は強い…あらゆる意味でな…。苦戦を強いられた。故に、富士に封じようと判断したのだ………許せ」
「いえ、とんでもない! どうか、横になって下され!!」
必死に懇願すると、翔隆は申し訳無さそうにしながらも横になる。
「………山や谷ばかりで苦戦するだろうが………頼む」
「―――はい!」
その返答に頷いて、翔隆は外の雪を眺めた。
〈……もうすぐ十二月…。皆…元気でやっているだろうか……〉
一方、尾張の翔隆の邸。
ここでも、雪が舞っていた。
「今戻ったぞー…はっくしょい!」
矢苑佐馬亮忠長(十四歳)が戻ってきて、くしゃみをして鼻水を啜りながら歩く。
「あー……やけに冷えるな。おい、火鉢ぐらい無いのかっ?」
大声で言って、広間に一成を見付ける。
忠長は火鉢の側にドカッと座って暖を取る。
「…今日も門前払い! 昨日も一昨日もその前も、ず~っとだ! もう飽きた! イヤになるなー、おい?」
「………」
矢月一成は黙って外を見たまま。
どこか一点だけを見ている……夏から、ずっとこの調子だ。
「ケッ……何か言えっての。すましてばっかだよなあ?」
そこに、書物を持った明智四郎衛門光征(十九歳)がやってきた。
「一成に絡むな。それよりも報告を纏めろ」
「報告ぅ~っ?!」
忠長はカッとして怒鳴る。
「何を報告しろってんだよ! ずっと門前払いでしたってか?! 忍び込んだら斬り掛かられましたってか!! そんなの書いて喜ぶかよ!?」
「………喜ぶ喜ばないではなく、事実を書くだけだ」
「桜弥! てめえは島津だからいいよなあっ?! 知らねえ土地で、ただ命令に従ってりゃいいんだからよ! だがな! 俺は知った顔の中で毎日毎日突っ返されてんだよ!」
「怒鳴るな! …鹿奈殿の病に障る」
鹿奈(二十三歳)は秋頃から重い疱瘡に罹り、命も危うい状態になっていた。
移るといけないので裏庭の方に小屋を作り、そこで看病をしているのだ。
そこに、忌那蒼司(二十三歳)が茶を運んできて座る。
「生まれたばかりの稚児もおるのですよ。少しは桜巳殿でも見習っては? 朝からずっと字の練習をしておられまするよ」
桜巳は今年二歳になる、光征と葵の長男だ。
二十日に生まれたばかりの龍巳もいる。
隣りの部屋に、子供達が集まっていた。
九歳の楓の子の錐巴。
蒼司と弓香の子は二歳になる双子。
姉が桂で弟が槐。
椎名雪孝(十六歳)もいつの間にか、〝りつ〟という楽市に来ていた娘との間に一歳の娘、細雪と…今、身籠もっていて来年にはもう一人産まれる予定だ。
そして義成と鹿奈の長男、時乃宮(二歳)もいた。
「…わらわら居るよなー………ん?」
忠長は部屋を見つめていきなり立ち上がって桂に駆け寄った。
「何してんだ!」
そう言い桂が弄っていた火縄銃を取り上げる。
「危ねーなあ……誰だよ、これ持ってきたの」
「俺だ。興味があると言うから」
雪孝がやってきて細雪を抱き上げる。
「興味があるって…こんなモン持たせたら危ねーだろ!」
「かえちて!」
桂が火縄銃を掴んで言ってきた。
「駄目だ! …おい、何で弾丸が入ってるんだ?」
「ああ…一式揃えて説明してやったからな」
「まだガキなのに教えるなよ」
「…狭霧では当たり前の事だった。…何がいけない?」
忠長に言ってから、光征と蒼司を見るが苦笑いをされた。…二人共狭霧だ。
「盒薬などは渡していないのですから、問題無いでしょう?」
蒼司が言い、忠長から火縄銃を取って桂に渡した。
「ありあと」
そう言い桂は重たそうに引き摺りながらも、持っていった。
それに対して忠長はムッとする。
「おまっ…! ああくそっ!」
「何をそんなに苛立っておいでなのです?」
蒼司が言うと、忠長は蒼司を睨み付ける。
「何をって何だか分かるだろうがっ! 何でてめえは涼しげなんだよ!」
「………詮無き事を…」
翔隆の事だとは、誰もが分かっている。
だから、敢えて誰も口に出さないのだ。
蒼司は光征と共に報告を書き始める。
「…っくそ! 食らえ!」
そう言って忠長は突然《炎》を蒼司に向けて放つ。
蒼司はそれを《炎》で消した。
「生憎と、炎では負けませんよ?」
「分からねえだろ!」
怒鳴って忠長は憂さ晴らしにと、幾つも炎を作り出しては投げ付けた。
対して蒼司は笑みすら浮かべて、それらを消していく。
その内に二人は庭に出ていった。
…いつもの喧嘩だ。
それを見ながら、弓香が心配そうに雪孝の側に座る。
「ずっと荒れているけれど…平気なの?」
「惚れた主が留守にして、もう来年で二年。荒れぬ方がおかしいというもの」
「………ねえ、何処かの集落に行く訳には…………いかないわよね…」
考えて言い、弓香は項垂れる。
雪孝は墨を擦りながら苦笑する。
「…翔隆様は………とても変わったお方故に」
「大名達を守る為には〝仕える〟という形を取るしかないのだろう」
そう言って、庭から疾風(二十六歳)が上がってくる。
「お帰りなさいませ。いかがでした?」
「…御子達は元気だが……奇妙丸様が兄者からの返事が来ない事を案じておられる」
疾風は、座って葵の出す茶を飲んだ。
「文の返事どころではありますまい…が、慕われておられますからね」
光征も筆を止めて、外を眺めた。
雪が寂しく見える…。
弓香と葵は、子供達の下に行く。
疾風と光征と雪孝は、ずっと沈み込んでいる一成を見た。
何かあったのは一目瞭然………しかし、本人は翔隆に会って陽炎達と戦いになった、としか言わずに何か一人で悩みを抱え込んでいる…。
「…とにかく、怪我は治ったと言っていたし…。尋常ではないけれど、様子を見るしか…」
光征が言うと、雪孝も頷く。
「何を聞いても答えぬのは、翔隆様の命なのでしょう。気にはなりますが……至仕方ありますまい」
「そうだな。だが……ろくに飲まず食わずでは困る」
そう言い疾風は立ち上がり、一成の側に行く。
「一成」
「………」
「一成?」
「………」
「矢月一成!」
「えっ!? あ…疾風様……何か?」
「……夏から元気が無いが……きちんと食わねば倒れてしまうぞ?」
「―――はい…済みません…」
一成は苦笑して言い、俯いてしまう。
それを見て疾風は眉を顰め、しゃがんで一成の顔を覗き込んだ。
「…その悩みを話せとは言わぬ。ただ……お主が倒れては、兄者が悲しむだろう?」
その言葉に、一成は初めて皆の前で涙を流した。
見ていた光征と雪孝は驚いて近寄ろうとするも、戸惑って止まってしまう。
「一成……」
疾風は戸惑いながら、慰めようと一成の肩を叩く。
一成は皆に申し訳無くて、声も立てずに泣いた。
〈義成様――――!〉
一成は、涙を流しながら師匠と…翔隆の事を想った。
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bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
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この小説はフィクションです。
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この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
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もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
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