鸞翔鬼伝 〜らんしょうきでん〜

紗々置 遼嘉

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六章 決別

二十一.五人目の主君

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 気が付けば、どこをどう走ってきたのか清洲の丘に居た。
ここまで来てしまうと、もう駄目だ。
涙は勝手に溢れ出て、体中が熱くなって震え出す。
総ての事が頭一杯に広がって胸が詰まり、考えても訳が分からなくなってくる。
どうしてだろう………………いつからだろうか?
一体どこでどう、道を踏み違えたのだろうか?
いつから自分は泥沼に足を取られたのであろう――――…?
 …愛している。
そう、これは愛だ。
自分は信長の事を、主君としてではなく…男としてでもなく、一人の人として…信長を愛しているのだ。
どうしようもなく、狂おしい程に愛してやまない。
 …似推里に対する愛とは違う。
似推里は、守ってやりたい、抱き締めたい、側にいたい…。
だが、信長には―――共に歩みたい、声を聞いていたい、その姿をいつまでも見ていたい。
忠誠ではなく、心の底から…なくてはならない存在…。
〈何故…何もかも話してしまわなかったんだ………!〉
信長は話してくれていたのに、自分は色んな物を隠していた…それでは誰でも激怒しよう。
〈…卑怯だ……臆病で…卑怯だったんだ………〉
いつでも誰かが助けてくれると甘えていて……自分が〝特別〟な存在で…長だから、誰もが従い守ってくれて当然だ、と――――思っていたのではないか?
 だからこんな事になってしまった。
いつも、いつでも………あの時も!
いつだって猪突猛進に突っ走り、自分のせいで誰かを傷付けて振り回して…。
 尾張の風を感じながら、翔隆は今までの事を思い出していた。
〈いつも口ばかりで…実際には何も………誰にも何もしてやれていない。こんな事で一族を率いれるのか…? 乱世を静めるなんて…………あの義成相手に…っ!〉
色んな事がごちゃまぜによぎって収拾が付かない。
一番の問題は〝解任〟…。
脱出口はただ一つ、だ。
  ヒヒン  突然後方から、馬のいななきが聞こえた。
ハッと現実に引き戻されて後ろを見る。
と、翔隆はこの世の総てがぐるぐると回っているかのような錯覚に捕らわれた。
 すぐ後ろに、信長が…居た。
葦毛の馬に片足を組んで乗る信長は、翔隆を見て驚いている。
翔隆は硬直し、驚きと悲しみと切なさの交じった表情で信長を見上げた。
…信長の後ろからは、明智光征と知らない小姓が三人程きていた。
〈…信長様……っ!!〉 
ガクガクと体が震えて、まともに立ってもいられない。言葉すら出ない。
何と言っていいのかすら、分からなかったのだ。
 対する信長は、何とも言えない表情で翔隆を見ていた。
翔隆のボロボロの姿に驚いていたのだ。
全身血だらけで酷い傷もあれば、拷問の跡もよく分かる。
恐らく信長にしても、こんな格好の翔隆は見たくなかったであろう。
それは、光征にしても同じ。
久方振りに見た主君がこんな痛々しい姿では、涙が出る。
翔隆は堪らなくなって俯いて言う。
「……十四代将軍・義輝様が………三好・松永らに討たれました…っ!」
それだけ言って深く一礼すると、翔隆は逃げるように走り去った。
〈…申し訳ありません……っ!!〉



  あれから小田原城に戻った翔隆は、再び井戸で水を浴びてから着替え直した。
そして、染め粉で髪の毛を黒く染め直してから氏政の下へ行った。
 出て行った事情は、樟美が誤魔化してくれたようだ。
氏政は、微笑んで手招きする。
翔隆は子供達の前に座り、平伏した。
「…遅くなり、申し訳ござりませぬ」
「ふむ。…助五郎氏規うじのりは多忙故に、私が代わりに相手をして遣わそう」
「有り難き幸せ…」
そう言い翔隆は更に平伏する。
その内に料理が運ばれてくる。
…二つも悲しい事があって今は誰とも話をしたくもなかったが、そんな事を言ってもいられない状況である…。
翔隆は表情を繕って、今だけはただの〝牢人〟であるよう努める事にした。

 夕方。
食事が終えると、樟美と浅葱は庭で柴犬と遊び始める。
それを見ながら、氏政は酒を呑む。
「…あ奴は息災じゃ」
「それは何よりにござりまする」
翔隆は微笑んで、勧められるまま酒を口にした。

  夜になり子供達が寝ると、氏政は酔ってきたのか色々な事を話し始めた。


 二十二歳で父・氏康が隠居したので家督を継いだが、実権は父と共にある…とか。
四年前の上杉と武田の戦いの後、武田と呼応して北関東に侵攻して上杉方に奪われた大半の領土を奪い返した事とか。
前年は里見義弘に苦戦したものの、北条綱成と共に上総の領土を増やし…太田氏を調略して武蔵全土を支配した事、などを次々と話してくれる。
「…それにしても、今川義元の死は手痛い。恐らく武田は同盟が無くなったものと見て駿河・遠江を攻めるであろう。そうなれば、こちらも見逃す訳にはいかん。武田が動くとあらば、その虚を衝くか背後を狙うか…」 
「お待ち下さい!」 
今まで黙ってただ聞いていた翔隆が、突然叫んで平伏した。
「…ん?」
「私は武田家にもお仕えする身にござりまする。そのような大事を漏らされて、私が話したりしては貴方様が危うくなられるやもしれぬのです。故に、例え酔っているからといって、御国の大事をそう簡単に申されませぬようにして下さいませ!」
翔隆が真剣に言うと、氏政は膝を叩いて笑い出した。
「あっはっははははは! …いや、そうか……どうやら真に草では無いようだな」
「! 試されたのですか?!」
「うむ。下がって良いぞ」
そう言うと、ササーッと周りから人の気配が消えた。
「……今のは…?」
てっきり近習かと思っていた翔隆は、少し蒼冷める。
「北条が乱破の風魔一族よ。祖である早雲様の頃より働いておる。…出て参れ」
氏政が言うと、天井から覆面をした少年が舞い降りてきた。
(お屋形さま、この者とは関わり合いにならぬが御為にござる)
何故なにゆえだ?」
(我らがお屋形が申されるに、この者は〔影の一族〕の長。影の一族は不気味な力を持ち、死を招くものにござる。こうして各大名に取り入り、天を支配せんとする不埒な輩…)
小声で言っていたが、しっかりと聞こえた。
「それは狭霧だ! 我らは違う!!」
「どう違うという?」
それを聞いた氏政が問う。
「我らはただ狭霧より諸将を守らんとしているだけです! 一族の力などに頼らず、国の為に尽くして欲しいからこそ、こうして廻って力になりたくて……」
そこまでいらない事をベラベラと喋ってから、翔隆はハッとして口を塞ぐ。
「ほお……力に、な」
「…………」
「面白い。では北条にも力を貸して貰おうか?」
「…ですが……風魔が…」
困惑しながら言うと、少年が無表情で言い返す。
「我らは乱破。気にもしないし、好きにしろ」
「では良かろう。そうそう、こ奴は次の跡目でな。名を…」
と氏政が言い掛けると、少年が首を横に振って代わりに答えた。
「キギスという。よしなに」
忍が名乗る時は、死を覚悟した時か相手を信用した時だ…と知っているので、翔隆はそれに頷く。
〈…北条か……〉
翔隆は息を詰まらせて考える。
あんな事があったばかりで、まともに考える事など出来ない…。
 本音を言えば、今は何も考えたくないし、言葉を交わしたくもない。
一日――――いや、半日でもいいから、独りになりたかった。
 だが、今はそれを許されない。
今は牢人としてではなく、〝不知火一族の長〟として…氏政としっかり向き合い、話さなければならないのだ。
 感傷に浸る暇など無い。
胸に穴が空いたような状態のまま、翔隆はとにかく父の死と信長との出会いを無理やり胸の奥にしまい込んで考える。
〈…ここを守るとなれば、甲斐と繋がる…信濃と三河・尾張にも……。狭霧に変な真似をされるよりはずっといい。………だが…何の位でお仕えするのだ?〉
そこが問題でもある。
もしも万が一にでも武田と北条が戦えば、大変な事になってしまう。
変な誤解や怒りを買う前に、きちんと説明しておかなくてはなるまい。
翔隆は、真面目な顔で氏政を見つめる。
「氏政様、私は…諸大名に不知火の長としてではなく、一己の武士としてお仕えしておりまする」
「…何?」
「…一の主君は、尾張・織田信長様。ですが、晴信様は一の君を取るのを承知で、私を近侍、もしくは戦場での侍として召し抱えられました。次に……輝虎様も、お二方にお仕えしているのを承知で、お伽衆として。…次は九州の島津様で、同じく…奉行としてお仕えさせておりまする。伊達家・長宗我部家には我が配下の者が、お守りさせて戴いておりまする。そして松平家とは、友人として守っておりまする。今でこそ牢人の身なれど、私が一番に従うは尾張の織田家。もしも、武田や上杉と戦になっても、織田の者として敵対至しまする」
翔隆は一気に言ってから、また続ける。
「故に、不知火としてお召しとあらば、近隣の者を置いて守りを固めまする。されどもしも私自身をお召しとあらば、その事を玩味がんみされた上でご決断なされますように…」
「ふ…む……」
氏政はここで初めて唸って真顔になる。
風魔のようなものだと思っていたのだが、違うと分かった以上はあらゆる面から考えなければならない。
〈一の主君は尾張と知りながら…あの上杉や武田までもが…?〉
信じられない言葉だが、嘘を吐いているとは思えない。
(……真か)
(御意)
キギスの返事に、更に氏政は考え込む。
〈解せぬ…何故なにゆえ?〉
仕えさせる方は欲しただけだが、仕える男の身は一つ。
一人で何人も兼帯けんたいするなどと、常人の成す事では無い。
 正気の沙汰とも思えなかった。
不可解に思っていると、横からキギスが氏政に話し掛ける。
「お屋形さま…我らの調べでは、この者は一度主君と仰いだ御家に対して、出世や金、名誉に関わらずに身を投げ出して仕えておりまする。…危険ではありますが、その狭霧とやらと組むよりは宜しいかと存じまする」
「左様か…」
更にキギスは続ける。
「不知火と結ぶのでしたら、我らが長にその事を報告して、更に結束を固められる事でしょう。家臣となされるのであれば、ちょうど台所奉行が足りませぬ故、それになされるが宜しいかと……」
「ふむ、そうだな。ではそなたを台所奉行として月十貫で置こう。…才を認められれば、知行も上げよう」
「はっ。ですが、当分は私ではなく家臣をよこしても宜しいでしょうか? なるべく……いえ、一の主君に解任を解かれれば、必ず参ります故に……」
「…良かろう。しかし、月に一度は必ず参れ。今日は働いて貰うぞ」
「はっ! では、貴方様を五人目の主君と仰ぎ、忠誠を誓いまする」
翔隆は深く一礼して、早速奉行の一人として働いた。
 味噌や塩、薪の節約をしたり、自ら料理をしたり、板間の修繕・補強等までした。
そして、氏政用の食事に微量ながら殺傷能力のある毒を盛った者を捕まえ、氏政の下に連れていき成敗する。
それによって信頼を得たので、翔隆はホッと胸を撫で下ろして氏政の話し相手をした。


 翌日、氏政自らの見送りを受ける。
「また、すぐに参れ。…牢に入れて、済まなかったな」
そう言って氏政は優しく笑う。
翔隆は笑顔で頷いて、子供達の乗る影疾かげときの轡を取って歩き出した。
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